聖書の探求(260) ルツ記4章 ボアズによる買い戻し(贖い)、オベデの誕生(主の祝福と女たちの賛美)

イギリスのReligious Tract Societyから1850年に出版された「The Picture Scrap Book」の一枚「Boaz at the Gate of Bethlehem(ベツレヘムの門にいるボアズ)」(University of Florida Digital Collectionsより)

4章は、ボアズがエリメレクの相続地を贖(あがな)うことと、ルツへの思ってもみなかった偉大な祝福が描かれています。

1~6節、ボアズより近い贖(あがな)い人の問題

 1節、「門のところへ上って行って、」

ルツ 4:1 一方、ボアズは門のところへ上って行って、そこにすわった。すると、ちょうど、ボアズが言ったあの買い戻しの権利のある親類の人が通りかかった。ボアズは、彼にことばをかけた。「ああ、もしもし、こちらに立ち寄って、おすわりになってください。」彼は立ち寄ってすわった。【新改訳改訂第3版】

ベツレヘムは丘の上にあり、門はその町の入口の城壁の部分にあり、日影や涼風が吹いてくる短いトンネルのようになっていました。そこに町の人々は集まり、長老たちによって民事や刑事に関する司法や行政を行なったのです。

ボアズは、翌朝早く、そこに上って行ったのです。その時、ちょうど、ボアズが言っていた、あの最も近い近親者の買い戻しのある人が通りかかったのです。主の摂理の導きは、何と奇しいことでしょうか。

新改訳聖書では、「ああ、もしもし」となっていますが、これは何とも現代的言いまわしですが、翻訳しているとは言い難い文です。改訂標準訳では、「友よ」となっています。ヘブル語の直訳では、「なにがし(某)」となっています。つまり名前を知らない人を呼び止める言い方になっています。勿論、この時、ボアズはその人の名前も、顔も知っていたでしょう。知っていたので、その人が通りかかったのが分かったのですから。しかしルツ記を書いた記者は最も近い贖い人の名前を知らなかったので、こういう書き方になったのだと思われます。こういう背景を考慮しないで、「ああ、もしもし」と訳してしまうと、その背景的手がかりを失ってしまうことになります。

【口語訳】ルツ4:1 ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。

2節、更に、ボアズは町の長老十人を招いて、門のところに座ってもらっています。

ルツ 4:2 それから、ボアズは、町の長老十人を招いて、「ここにおすわりください」と言ったので、彼らもすわった。【新改訳改訂第3版】

この「長老十人」というのは、公的決定を成立させるための立会人(証人)として必要な定数でした。

3,4節、ボアズはその親類の者に、「ナオミが私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。」と、事の次第を説明しています。

ルツ 4:3 そこで、ボアズは、その買い戻しの権利のある親類の人に言った。「モアブの野から帰って来たナオミは、私たちの身内のエリメレクの畑を売ることにしています。
4:4 私はそれをあなたの耳に入れ、ここにすわっている人々と私の民の長老たちとの前で、それを買いなさいと、言おうと思ったのです。もし、あなたがそれを買い戻すつもりなら、それを買い戻してください。しかし、もしそれを買い戻さないのなら、私にそう言って知らせてください。あなたをさしおいて、それを買い戻す人はいないのです。私はあなたの次なのですから。」すると彼は言った。「私が買い戻しましょう。」

この「売ることにしている。」は、正確には「売った。」です。エリメレクは、モアブに旅立つ前に自分の土地を売っていたのです。その間にレビ記25章8~16節に記されているヨベルの年が来て、再び、その土地がナオミの手にもどっていたのか、それとも、エリメレクの友人か、だれかの管理に託されていたのを、ナオミがモアブから帰って来て、貧困の故に、その土地を売らざるを得ない状態になっていたのでしょう。しかしその土地を売るにしても、旧約聖書の時代の土地は固有財産であっても、主から相続したものですから、主の規定に従い、同じ家族や同じ部族の間で保存されなければなりませんでした。ですから、土地の売却は近い親類の間で行なわなければならなかったのです。これは十二部族のうち、力のある部族だけが繁栄していって、他の部族が消滅していかないための、神の配慮なのです。

4節の「言おうと思ったのです。」は、直訳では「私は言った。」です。「自分に向かって言った。」という意味です。すなわち、この問題は、まず最も近い親類であり、買い戻しの権利のあるあなたに、証人たちの前で、「それを買いなさい。」と、決断したのです、となります。

「ここにすわっている人々」とは、取引の証人として座っている十人の町の長老たちのことです。

その人は、「私が買い戻しましょう。」と言いました。彼はエリメレクの土地を買い戻す意志はありました。しかしエリメレクの息子マフロンの妻であったルツをも買って、その土地にマフロンの名を残すことまでは考えが及んでいなかったのです。5節で、ボアズはそのことを指摘しています。

ルツ 4:5 そこで、ボアズは言った。「あなたがナオミの手からその畑を買うときには、死んだ者の名をその相続地に起こすために、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買わなければなりません。」

ユダヤ人の歴史家ヨセフスと、旧約聖書のアラム語訳の一つ「タルグム」には、この最も近い贖い人は、既婚者だったかもしれないと推測しています。断定されているわけではありませんが、彼らがなぜ、そういう推測をしたかというと、たとい彼が既婚者であっても、土地を贖えば、その土地に死んだ人の名を残し、その土地は自分の所有とはならないと理解されていたからです。

6節の「私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。」

ルツ 4:6 その買い戻しの権利のある親類の人は言った。「私には自分のために、その土地を買い戻すことはできません。私自身の相続地をそこなうことになるといけませんから。あなたが私に代わって買い戻してください。私は買い戻すことができませんから。」

これは律法によると、マフロンの妻だったモアブの女ルツが産む長子に与えられることになっていたからです。そのためにエリメレクの土地を買い戻すことはできないと考えたのです。それで彼は、買い戻しの権利をボアズに渡したのです。

7~12節、ボアズによる買い戻し(贖い)

ルツ 4:7 昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、すべての取り引きを有効にするために、一方が自分のはきものを脱いで、それを相手に渡す習慣があった。これがイスラエルにおける証明の方法であった。

7節、「昔、イスラエルでは、買い戻しや権利の譲渡をする場合、」とあるのは、申命記25章5~10節の規定が定められてから、相当年代が経っており、一般の人には詳しいことが忘れられているほどになっていたことを示しています。ですから、ここでこの規定の説明を正確にしておく必要があったのです。

しかも、この場合、ナオミか、ルツが直接、交渉に当たっているのではなくて、二番目に買い戻す権利のあるボアズが代理人となって交渉に当たっていたので、後で問題が起きないために、正確に規定を説明して、本人も、証人の十人の長老たちも十分納得の上で、この交渉を成立させなければならなかったのです。

第一の買い戻しの権利のある者がその権利を第二の者に譲渡する場合、本人が自分のはきものを脱いで、相手に渡すことによって、証人たちの前で、それを証明することになっていたのです。

8節では、その人は自分のはきものを脱いで、ボアズに「あなたが買いなさい。」と言っています。

ルツ 4:8 それで、この買い戻しの権利のある親類の人はボアズに、「あなたがお買いなさい」と言って、自分のはきものを脱いだ。

この時代になると、買い戻しの権利のある者が、その義務を果たさず、はきものを脱いで他の人に、その権利を譲渡しても、律法に違反したとして社会的制裁を受けなくなっており、はきものをボアズに渡すことは、土地を渡すことと同じくらいにしか考えられておらず、少しも侮辱を感じさせるものとなっていなかったのです。はきものは、所有者が自分のものとなった土地を踏む権利を象徴していました。

「あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」(ヨシュア記1:3、申命記11:24)

ルカの福音書15章22節で、放蕩息子の足にくつをはかせたのも、一度は彼が捨てた産業を再び受け継ぐ者となったことのしるしでしょう。

9節で、ボアズは念を押して、証人として座っていた長老たちと、その場にいたすべての人に向かって、「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキリヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。」と宣言しています。

ルツ 4:9 そこでボアズは、長老たちとすべての民に言った。「あなたがたは、きょう、私がナオミの手から、エリメレクのすべてのもの、それからキルヨンとマフロンのすべてのものを買い取ったことの証人です。

さらに10節では、特別事項として、ルツのことを取り上げています。

ルツ 4:10 さらに、死んだ者の名をその相続地に起こすために、私はマフロンの妻であったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その町の門から絶えさせないためです。きょう、あなたがたはその証人です。」

ボアズは「マフロンの妻だったモアブの女ルツを買って、私の妻としました。」と言っています。このことは、霊的信仰の価値が分からないと、大きな損失だけが目につくでしょう。しかしボアズは、「死んだ者の名を、その身内の者たちの間から、また、その門の内から絶えさせないためです。」と言って、買い戻したのです。

11節、門にいた人々と長老たちは、「私たちは証人です。」と言っただけでなく、ルツを祝福しています。

ルツ 4:11 すると、門にいた人々と長老たちはみな、言った。「私たちは証人です。どうか、【主】が、あなたの家に入る女を、イスラエルの家を建てたラケルとレアのふたりのようにされますように。あなたはエフラテで力ある働きをし、ベツレヘムで名をあげなさい。

「ラケルとレア」この二人の女性は姉妹で、ヤコブの妻となり、イスラエル民族の母となった人たちです。しかしラケルは死んでベツレヘムの道に葬られていたので(創世記35.19)、ラケルの名前を先に挙げています。

「イスラエルの家を建てた」の「建てた」のへブル語は「バナ(bana)」で「息子をもうける」と同じ意味です。

「名をあげなさい。」は、3章11節の「しっかりした」と同じヘブル語の「ハイル(hayil)」で、ここでは富を得て、名をあげることを言っているようです。

12節、「タマルがユダに産んだペレツの家」は、段々とダビデの家系へと進んでいくのが分かります。

ルツ 4:12 また、【主】がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって、あなたの家が、タマルがユダに産んだペレツの家のようになりますように。」

ペレツの誕生については創世記38章に記されており、ユダが長子エルの妻だったタマルに産んだ子どもでした。それは不名誉な出来事ではありましたが、主はそれをも恵みに変えてくださって、タマルも救い主イエス様の家系に加えられているのです。

「主がこの若い女を通してあなたに授ける子孫によって」とは、贖い人の責任が十分に果たされ、エリメレクの一族が繁栄するようにとの祈りですが、これは実に救い主イエス様にまでつながる永遠の栄光を現わすことになったのです。

13~17節、オベデの誕生(主の祝福と女たちの賛美)

13節には、ボアズがルツをめとり、ルツがひとりの男の子を産んだことを記していますが、14~17節は、ルツ記の最初の部分に帰って、ナオミとルツの愛のことだけが記されています。

ルツ 4:13 こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、【主】は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。
4:14 女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった【主】が、ほめたたえられますように。
4:15 その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」
4:16 ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。
4:17 近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。

小さいナオミとルツの家庭に、主の祝福がもたらされ、二人の信仰が応えられて、オベデが与えられたのです。16節を見ると、「ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。」とあります。
ナオミがどんなにオベデを愛して育てたかが分かります。彼女は自分の腕の中に、主の真実と約束の確かさを毎日見ていたのです。ナオミは神の家の永遠性を、自分の腕に抱かれている幼児の中に見ていたのです。

オベデとは、「しもべ」とか、「礼拝者」という意味です。

最後の家系の部分に入る前に、私たちは、ルツ記に教えられていることを、もう一度、深く考察しておくことは有意義なことでしょう。

この記事は、この書の名前が示す通り、ルツが中心人物です。この、私欲を捨てて、神と人とのために命を捨てる献身と信仰を持って仕え尽くしたルツが、至上の幸福な報賞を受けたことを示しています。

これに比べて、オルパは、表面的に、人情的には愛を現わしたけれども、実際には自分の益のために自分の民と自分の偶像とに帰って行って、神の民としてのイスラエルの民族を捨ててしまったのです(1:14,15)。

更に、最も近かった贖い人は、その特権を有していたにも拘らず、自分の利益のために、神から与えられていた義務を果たさなかったために、その名前さえ、聖書に記されていません。

これに対して、ルツは自分の生涯の一切を捨てて、ナオミと、ナオミの神と、ボアズとに従いました。

ボアズは躊躇せず、大胆に贖い人の義務を果たしました。それ故、代々にわたって称賛され、彼らはダビデ王の先祖となったばかりでなく、ダビデの大いなる子孫である、救い主イエス・キリストの先祖となったのです(マタイ1:1~5)。

マタ 1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。
1:2 アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ、
1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
1:4 アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
1:5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。 ・・・

18~22節、ダビデ王の系図

アイスフェルトやゼリンなどは、18~22節を、歴代誌第一 2:4~15から後代に追加されたものであると考えています。しかし、これには十分な根拠がありません。彼らが言うようにルツ記が歴代誌の系図を取ったと主張するなら、同じ理由で、なぜ歴代誌の記者が、ルツ記から系図を取り込んだと考えられないのでしょうか。

ルツ 4:18 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、
4:19 ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、
4:20 アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、
4:21 サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、
4:22 オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。

Ⅰ歴代 2:4 彼の嫁タマルは彼にペレツとゼラフとを産んだ。ユダの子は全部で五人。
2:5 ペレツの子は、ヘツロン、ハムル。
2:6 ゼラフの子は、ジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、全部で五人。
2:7 カルミの子は、聖絶のもののことで罪を犯し、イスラエルにわざわいをもたらす者となったアカル。
2:8 エタンの子は、アザルヤ。
2:9 ヘツロンの子として生まれた者は、エラフメエル、ラム、カレブ。
2:10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダ族の長ナフションを生み、
2:11 ナフションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
2:12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。
2:13 エッサイは、長子エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、
2:14 四男ネタヌエル、五男ラダイ、
2:15 六男オツェム、七男ダビデを生んだ。

この最後の区分に至って、私たちはルツ記の出来事の背後にある重大な意味に直面させられるのです。それはペレツからダビデ王に至るまでの系図です。この系図は明らかにメシヤを暗示する系図です。イスラエル人なら、だれでもメシヤはダビデの家系に生まれることを知っていたからです。

もう一つこの系図が重要である点は、三人の異邦人の女性が特筆されていることです。
ペレツはカナン人タマルから生まれています(12節)。タマルは自分の夫エルが死んでも贖い人の律法に訴えたのではありませんが、メシヤの先祖の一人となったのです。
エリコの人ラハブは、神がイスラエルと共におられることを悟って、ヨシュアが派遣した偵察員たちを受け入れ、同じくメシヤの先祖となる栄誉を受けたのです。そしてラハブはボアズの母となり、ルツの登場に備えたのです。

モアブの女ルツは、単に勇気があってベツレヘムに来たのではなくて、ナオミの信じる神を信じ、ナオミと共にこの神に仕えて、自分の生涯をささげたために、メシヤの系図に加えられたのです。

ひとり一人の出来事については、単独にその時、その時の事件として起きているように人の目には見えますが、タマルも、ラハブも、ルツも、一直線上につながっていることが、この系図によって、よく分かります。そしてマタイはこれをさらに詳しく解き明かすために、イエス・キリストの系図(マタイ1:1~16)の中に取り入れたのです。

そして最後に取り入れられた女性の名前がマリヤです。マリヤはガリラヤ地方のナザレに住んでいましたが、生まれはダビデの町ベツレヘムです。そして救い主もこのベツレヘムにご降誕くださったのです。ベツレヘムがその舞台となっているのです。

ダビデの系図に出てくる、これらの三人の異邦人の女性には、みな汚点があります。

カナン人タマルは、自分の夫の父ユダと関係を結んでペレツを出産しています。

ラハブは遊女(売春婦)であったか、売春宿の女主人であったか、どちらかです。

ルツはモアブ人であり、ルツの祖先のモアブは、ロトの姉娘が父ロトに酒を飲ませて産んだ男の子でした(創世記19:34~37)。親子相姦の子でした。

イエス・キリストは、こういう人々の系図を経て、その人性(人としての性質)を受けておられるのです。このことは、主が罪のない義の民の中にご自身を置かれず、罪深い人間の中に下られたことを啓示しています。こうして、主イエス・キリストは、最も貧しい者、最も汚れた者、最も醜悪な者の近親者であることを明らかにされ、主を信じて、より頼む者を救われるのです。

ナオミは「快い」「楽しい」という意味でしたが、彼女は自ら「マラ」(苦しむ)と呼びました。そのナオミが最もすばらしいメシヤの先祖の一人となったのです。ベツレヘムの女たちからも、最も幸せな人として祝われたのです(14~15節)。

ルツ記の記者は18節で、ペレツまでさかのぼって系図を始めています。

ルツ 4:18 ペレツの家系は次のとおりである。ペレツの子はヘツロン、
4:19 ヘツロンの子はラム、ラムの子はアミナダブ、
4:20 アミナダブの子はナフション、ナフションの子はサルモン、
4:21 サルモンの子はボアズ、ボアズの子はオベデ、
4:22 オベデの子はエッサイ、エッサイの子はダビデである。

それは彼の母タマルという女性を強調するためでしょう。その子ヘツロンは「包まれた」とか、「壁に囲まれた」という意味で、神の保護を示しています。その子ラムは「高い」という意味で、主の至高さを示しています。その子アミナダブは「王子の一族」という意味で、真の王の家族であることを示しています。これはダビデ王を暗示し、王の王なるお方を暗示する名前です。その子ナフションは「魅了する者」という意味で、主の魅了するほどのすばらしさを示しています。

その子サルモンは「おおわれた」という意味で、これはルツ記のテーマでもある贖いを示しています。ルツはボアズに「私はあなたのはしためのルツです。あなたのおおいを広げて、このはしためをおおってください。」(3:9)と言っています。旧約の至聖所にある神の契約の箱の上の蓋に小羊の血を注ぐ時、人の罪は神の目からおおわれ、贖いが成立したのです。主イエス様は私たちの罪をおおうために、自ら十字架にかかり、私たちの罪を負って、贖いを成し遂げてくださったのです。

その子ボアズの意味は定かではありませんが、おそらく「主の御力」という意味でしょう。その子オベデは「しもべ」「礼拝者」、エッサイとダビデのヘブル語の意味は明らかではありませんが、古代バビロニヤ語の「ダビトウム」という語は、司令官や将軍という称号を表わしていますので、これをダビデの名前の由来としようとする学者もいますが、これは推測の域を出ていません。

こうして神抜きの生き方をしていた偶像礼拝の社会に生まれ、貧しい卑しい生活の中から献身的に神と神に従うナオミに仕えたモアブの女ルツに対して、イスラエルの偉大な王ダビデ、そしてダビデよりも偉大な救い主イエス・キリストの家系(マタイ1:5)の中に誉れ高い位置が与えられました。ルツがしばらくは幸せな生活を続けたことはルツ記の最後の部分から想像できますが、その後のことは記されていません。

しかし、ルツ記は、恵みに満ち、敬虔な生活をすることの美学を記しているのではありません。また、神に忠実に従って行けば、すべての人がルツのようになることを保証しているのでもありません。ルツは自分が求めなかったものを与えられ、神の家族に加えられるだけのことを求めたことに対する神の報酬を受けたのです。

敬虔な生活をしていながら、ルツのようにならずに、ずっと失望させられる状態が続くかも知れません。貧しい生活が続くかも知れません。しかし神なしのオルパが選んだ生活よりも、はるかに限りなく、豊かで満足すべきものとなります。神と神の家族を選び取って、自分もその一人となる人は、自分が選んだことに必ず十分な喜びを味わって生きているのです。オルパのように、目先の幸せと安全を選んで、再び神なき生活に帰って行く人は、必ず自分が選んだ道に絶望するようになるのです。

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12、16:25)

「義人の道は、あけぼのの光のようだ。いよいよ輝きを増して真昼となる。」(箴言4:18)

最後に、タマル、ラハブ、そしてルツが異邦人でありながらキリストの先祖となったという事実は、ユダヤ人に対してだけでなく、異邦人世界、また全世界に対するキリストの福音の使命の重要さを強調しています。

(ルツ記 掲載完了 2024/03/04)

あとがき

ルツ記を完了しました。私たちは聖書を読むことによって、ルツの生涯が後々イエス様の家系にまでつながっていくことを知っています。ルツはその生涯中、この大いなる奥義を知らずに、毎日毎日、主に仕え、またナオミに仕えて生きていたのです。しかしその日日の一歩一歩の忠実な生活こそ、大いなる栄誉へと到達させたのです。
ある人が未信者の家族から、「キリストを信じていて、何のいいことがあるのか」と言われました。その人は私に「いいことありますよね。」と言われました。
「あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなた方が神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル10:35,36)

(まなべあきら 2005.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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