書籍紹介 「愛の絆によって」 

まなべあきら著 B6判 107頁

幸せは、偶然になれたり、なれなかったり、するものではありません。ルツは、自ら謹んで主を信じる信仰の道を選び続けました。ルツは、現代人が失っているしあわせのための、心の粂件をもっていました。本書は、それを具体的に拾い出して解き明かしています。

目次

1、ヨーイ・ドンで間違うと
2、希望の光は見えないが
3、神にもどる旅
4、野心なしの積極的な求め
5、出会いはいつも不恩義なもの
6、いたせり・尽くせり
7、さらに勝る恵み
8、希望の光が見えてきた。
9、こよなく愛される rはしためj
lO、私があなたを買い戻します。
11、お金があっても、権利があっても、愛がなければ、
12、願いに勝るしあわせ

以下、一部抜粋

はじめに

短い自分の一生をどのように過すべきか、ということは、だれにとっても重要なことです、しかし、現代人はこの重要なことにあまり気にもとめないで、過しているようです。だからといって、私たちの一生が重要でなくなったというわけではありません。

もし砂利道の間に光る宝石を見つけたら、走って行ってそれを拾わないでしょうか。私たちは周囲の人々が自分の人生を浪費していればいるほど、宝石のように光る人生を送らなけれはなりません。そうすることによって、自分がしあわせになるだけでなく、周囲の心ある人々の心の目を開いて、その人々も宝石のような人生を求めるようになるのです。

私はルツ記を学ぶことによって、二つの大切なことを教えられました。その一つは、神はひとりの人の生涯に深くかかわってくださっているお方であるということです。ルツという無名の、そして異教社会に住んでいた人にも深いかかわりを持ってくださったのです。勿論、オルパのほうにも神はかかわりを持っていてくださったのですが、彼女は自分のほうから神とのかかわりを捨ててしまったのです。同じ神は、この私にも読者の皆さんおひとり一人にも、かかわりを持ってくださっています。神のかかわりからもれている人はひとりもありません。このことを私は堅く信じています。

もう一つは、私というひとりの人間の一生は、自分ひとりにとどまらないで、思いもよらない多くの人々の一生涯に大きな影響を与えるということです。特に、ひとりの人がイエス・キリストを信じて真実な生涯を送るということは、無限の価値高い影響を与えることができるのです。ナオミの信仰はルツに影響を与え、ルツの信仰は救い主の誕生に大きく関与したのです。

私たちの人生というものは、自分が知っている範囲だけにとどまらず、無限の影響を及ばすものであることを思えば、決して軽々しく過していいものではありません。この小本をお読みになって、今一度、ご自分の人生をいかに生きるべきか、お考えいただけれは幸いです。神との深いかかわりのある一生を送れば、あなたの一生も愛の絆によって固く結ばれたものとなるでしょう。

一度だけの人生を、確実にあなたのものとしてください。

1982年11月11日
著者  まなべ あきら

一、ヨーイ・ドンで間違うと

ルツ記 1章1~5節

何事においても正しいスタートをすることは大切です。

私が子供の頃の運動会で、一年生がかけっこをしました。その頃は今と違って、子供がもっと幼稚でした。ピストルの音が「ドカン」と鳴ると、こわくて泣き出す子や、坐りこんで走らない子もいました。それでとうとうピストルを止めて旗を振ることになりました。さて、ヨーイ・ドンで、スタートしました。すると一人の子供は真直、お母さんの所に走って行ってしまったのです。これでは出だしから負けてしまっています。

しかし、実際、人生の正しいスタートをするということはなかなかむずかしいことです。よっぽどの指導者でもいなければたいていは誤ってしまいます。

四月に会社に就職しても三ケ月で三分の一はやめ、夏のボーナスをもらうと、もう三分の一がやめてしまいます。冬のボーナスをもらう頃には、会社の寮は閑散としている状態です。

近頃離婚する人がふえているのも、その一つです。相手がどういう人なのか、よく調べもしないで結婚するからです。

どんな場合にも正しいスタートをすることほ非常に大切です。

このルツ記にも間違って踏み出してしまった一つの家族が記されています。幸いなことに聖書は、どんなに間違った道を歩み、どんなに遠くにそれていっている人でもその人が正しい道に帰る気さえあれは、幸福な人生にいれて下さる約束をしているのです。そこでしばらくの間、この間違って踏み出しをした家族について、ご一緒に考えてみたいと思うのです。

この家族は四人で、夫はエリメレク、妻はナオミ、二人の息子は、マフロンとキルヨン。この家族はベツレヘムに住んでいて、女主人ナオミの名前の如く、楽しく暮していました。「ナオミ」というのは、「楽しい」とか、「こころよい」とかいう意味です。

ところが、1節に「この地にききんがあった」とあります。飢饉が、この家族が誤った道に行く切掛となってしまったのです。なにも飢饉がくれば、みんな間違った道に行かなけれはならないことはないのです。

一九八〇年の夏は冷夏で、あるお百姓さんは、自分の作った作物がとれなくて、首をくくつて自殺しました。

こういうように、飢饉、困難、行詰まりを感じる時、人間は早まってしまって、取返しのつかないことをするのです。

ある人の家が火事になり、火につつまれてしまいました。その時、この人は家の中にいて、「静まれ静まれ、冷静に」といいながら、自分の家族をみんな、外に連れ出して助けました。

難しい問題に出会う時こそ、冷静にじっくり考えなけれはなりません。

ある女性は婚期が遅れたからというので、あせって結婚して、わずか一ケ月で離婚してしまいました。どこが間違っていたのでしょうか?

もし私たちが、断崖、絶壁の道を車で走るとするなら、慎重に慎重に運転するではありませんか? 危険性が高くなれはなるほど、カッとしないで、あせらないで、慎重になるべきでしょう。

このエリメレクとナオミの一家もこの飢饉に会ってベツレヘムから、モアブに移住することにしました。この移住はユダヤ人にとっては、私たちが考えている以上に重大なことだったのです。ベツレヘムは神が与えて下さった約束の地でした。飢饉とはいえ、それを捨てて、真の神を信ぜず、偶像を拝んでいる人の地モアブに行くというのですから、よほどの決断がいるでしょう。

この移住の話を夫か妻か、どちらから持ち出したと思いますか? 聖書はハッキリ書いていませんから、わかりませんが、1章20節のナオミの嘆きの言葉からすれは、どうもナオミが言い出したようで、夫に決断をせまったのではないでしょうか?

「お父さん。こう食物がなくなっては台所が苦しいわ。マフロンだって、キルヨンだって食べざかりなのに。なんとかしなくては。ネェ、モアブに行きましょうよ。あそこなら、野菜も十分作れるし・・・・・。」

夫はこう言ったでしょう。

「しかし、神様の約束の地をすてていくのは、どうしたものかなあ?」

多分こんなような会話がなされたに違いありません。たしかに女性は台所をあずかって大変だと思います。それだけに、安易にやろうとする誘惑が多いのではないでしょうか?勿論、それに賛成して出ていった夫にも責任はあります。とにかく困難から逃げ出すために、安易に行動することは取返しのつかない結果をひき起こすものです。

ある時、学校時代の友人が、私の所に来てこう言いました。「今の会社を止めて、水商売しょうと思うんだ。」もうその時は相談ではなく決めていたようです。しかし私は「やめとけよ、必ず失敗するから。君は知らないのかい。喫茶店とかスナックとか、水商売の店は、看板だけは変わらないけれど、経営者はどんどん変わってんだぞ。」といさめました。

すると「なんだと、俺のやる店がつぶれるとでもいうのか?」というので、「そんなにやりたければやってみるがいいよ。」というより返事の仕様がありませんでした。しかし案の上、三ケ月もたたないうちに、やめてしまったのです。しかも彼は、もう前の会社には帰れないし、ブラブラする人間になってしまいました。

安易な出発が、間違いのもとであることがこれでもおわかりいただけたでしょう。堅実な神の約束の道を歩みつづけることが大切なのです。目先の楽しみを追いかける人は、必ず大きな失敗をしてしてしまいます。

この堅実な神の約束の道とは何でしょうか? それはこのルツ記を学んでいくうちにおわかりいただけると思います。しかし、それを一言でいえは、「聖書が示す神の道」です。

神は私たちに、「どの道を歩むべきか?」二つの方法をとおして教えてくださいます。それは良心と聖書です。もし、私たちが、神が心の内に与えてくださった良心の声に従うことを止め、聖書の神を拒絶するならば、ナオミと同じ運命をたどることになるでしょう。

さて、2~5節に幸いてあることは、ナオミたちがこういう道を選んだ後の10年間の結果であります。

彼らは、モアブの地に行ってしばらくの間は、楽しい生活をしていたようです。今まで食べられなかった野菜もお腹一杯食べられ、羊もたくさんいるから、マトンも毎日食べられるし、生活は豊かになったことでしょう。

それに、二人の息子もモアブ人の女性と結婚したし、それはそれは、申し分のない生活をしていたに違いありません。

きっとナオミは天にこういったでしょう。「お父さん、やっぱり、モアブに来てよかったわね。私の言ったとおりだったでしょう。」幾分、夫の前で鼻が高かったかもしれません。

これと同じように、私たちが、神の道からはずれた生活をしていてもすぐに災いがくるとは限りません。むしろ順調に行くことがあるでしょう。だからなおさら、いい気になってしまうのです。しかし、災いがすぐにこないのは、その間に罪を悔い改めて神の道に帰ってくるように神が待っていて下さるからなのです。しかし、神の道から離れていれば、順調な日が永く続くはずがありません。そのような生活は、浮き草のようです。どんなに青々としているようでも、根が土についていません。ですから、すぐに枯れてしまうのです。皆さんは毎日曜日神に礼拝をささげ、聖書の話を聞くために教会に行くより、レジャーに出かける方がもっと楽しいと思いますか。しかし、レジャーは皆さんの心に何を与えてくれるでしょうか。浮き草のようなものではありませんか。

3節に「ナオミの夫エリメレクは死に、彼女とふたりの息子があとに残された。」と。5節に「しかし、マフロンとキルヨンのふたりもまた死んだ。こうしてナオミはふたりの子どもと夫に先立たれてしまった。」と書いてあります。

ここで、ナオミが失ったものは、何と何でしょうか。

第一に、夫のエリメレクと二人の息子の死をあげることができます。

しかし、ナオミが失ったものはそれだけでしょうか? 彼女は、家庭を失いました。自分がひたすら求めて、モアブまで来た、あの楽しい家庭を失ったのです。

今日も、家を建てたが、家庭を失っている人がたくさんいます。

結婚はしましたが、家庭をつくれないでいる人がたくさんいます。人数がそろっても、家庭はできるものではありません。そこには愛の交わりがなけれはならないのです。

今更のようにナオミは、自分が求めていたその楽しい家庭を失った原因が何であるのかと、考えたでしょう。それは自分の欲を満たすための軽はずみな選択から始まったのです。

更に、ナオミは財産を失いました。特に彼女の心の財産である「平安」を失いました。人ほしばしば財産を得るために、心の平安を失っていきます。お金を握った時には、心は空虚になっています。その心のむなしさを満たそうとして、せっかく貯めたお金をみな使ってしまうのです。心の平安を失っている人はみな同じことを繰返しています。

更にナオミほ希望を失いました。生きる希望を失ったのです。生甲斐を失ったというだけではありません。生きる目的を失ったのです。生きていることが無意味に感じたことでしょう。こんな人が今日、どんなに多いことでしょうか? なんとなく生きている人です。これといった目的もなく、学校に行き、会社につとめて、生きています。これでは、生きる喜びはありません。

ナオミのもとに残ったのは何ですか。死の悲しみと、生きる苦しみです。ナオミは未亡人になったモアブの嫁を二人もかかえていましたから、その苦しみは三倍にもなりました。そして、絶望感だけが、ナオミの心を毎日捕らえ続けたのです。

これが間違った踏み出しをした結果だったのです。これらのことが、わずか十年の間に起こったのです。もっと長生きしてくれると思っていた夫は早く死に、自分をしあわせにしてくれると思っていた二人の息子もいなくなりました。私たちが当てにしているものは全部、本当には当てにならないものばかりなのです。人間は十年の間にどんなに変わるでしょうか? 金持が、自殺するほど貧しくなり、健康なものが瀕死の病気となり、多くの者はこの地上から去っていきます。数年前、私が田舎に帰った時には、その前に帰った時に元気だった人々がずいぶんいなくなっていました。池田さん、太田さん、黒沢さん、西梶さん、という人達です。私たちはこれから先の自分の十年間を予想することができるでしょうか? その時、私はまだ元気でいるでしょうか。だれも約束できません。しかし、それを予想できなくても私たちは現在「正しく神の道に沿った歩み出しをすることはできます。十年後、私たちは病気になっているかもしれません。あるいはその間に死に臨まなけれはならないかもしれません。あるいは非常な困難の中で戦わなけれはならないかもしれません。しかし今、正しい歩み出しをしていれば、ナオミのように絶望することほないのです。
ナオミがしなけれはならなかったのは、ただ一つです。それは、神の約束の地に帰ることです。私たちもまだ真の神を心に迎えていないなら、ただちに神に立返らなけれはなりません。そのために、イエス・キリストは十字架にかかってくださったのです。イエス・キリストは、ヨハネの福音書14章6節で

『わたしを通してでなけれはだれひとり父のみもとに来ることはありません。』

とおっしゃいました。心にイエス・キリストを受け入れることが、正しい道への第一歩であります。

さあ、あなたも、ここで、正しい道への第一歩を踏み出す決意をしてください。それが、幸いな人生へのスタートとなるのです。踏み出しがなけれは、目的地に到着する事はできないのです。

以上、一部抜粋