聖書の探求(268_269) サムエル記第一 2章11~36節 サムエルの奉仕とハンナの訪問、祭司エリの子らの堕落

「Biblical illustration of First Book of Samuel Chapter 2(サムエル記第一2章の挿絵、祭司エリの息子たち)」Biblical illustrations by Jim Padgett, courtesy of Sweet Publishing (Wikimedia Commonsより)

11~36節、サムエルの成長

11節、「その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。」

Ⅰサム 2:11 その後、エルカナはラマの自分の家に帰った。幼子は、祭司エリのもとで【主】に仕えていた。

エルカナは妻ハンナの誓願に同意していたので、幼子サムエルを主にささげ、祭司エリのもとに残して自分の家に帰ったのです。

「幼子は、祭司エリのもとで主に仕えていた。」 3章1節にも、「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。」とあります。サムエルは幼子の時から成人するまで祭司エリの指導を受けて、主に仕えていたのです。サムエルが主に用いられる預言者になるためには、その前に、エリに仕えることを通して、主に仕えることを学ぶ必要があったのです。

ダビデはサムエルの指導を受けることによって、主に用いられる王となったのです。サウルはサムエルに忠実に従うことをしなかったために、主に不忠実な態度をとってしまったのです。預言者エリシャはエリヤに仕えることを通して、主に仕える預言者となったのです。

主イエス様も、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)と言われました。

ペテロも、「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」(ペテロ第一 5:5)と言っています。

パウロも次のように教えています。

「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:22~24)

主は、私たちが主に仕えるために、私たちの前に様々な人を置いて下さるのです。それは時として、私の最も苦手とする、仕えたくない性格の人であったりします。しかし主は、その人に仕えることを通して主に仕えることを訓練されるのです。ダビデは自分の命を狙っていたサウル王に仕えることを通して、忍耐して主に仕えることを身につけたのです。

あなたの前に主が置いてくださっている仕え難い人を主から遣わされた人と信じて、主に仕えることを忍耐強く、ご訓練を受けてください。耐え難い時もあるでしょう。失敗して、爆発してしまうこともあるでしょう。その時でも、謝って、何度でも、ご訓練を受けてください。そうすれば、必ず、あなたは主に用いられる人になります。

「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一 5:6)

サムエルが仕えていた「エリのもと」とは、決して良い環境ではありませんでした。それは次に進んでいくと、すぐに分かってきます。しかしサムエルは、エリや、エリの息子たちを批判していません。今は自分が訓練を受ける立場にあることを自覚して、忘れなかったからです。しかしサムエルは、決して堕落したエリの息子たちの仲間にはならなかったのです。これが、彼が主に仕えていたという証拠なのです。

12節、エリの息子たち「ホフニとピネハス」(2:34)は、「よこしまな者で、主を知らず、」

Ⅰサム 2:12 さて、エリの息子たちは、よこしまな者で、【主】を知らず、

「よこしまな者」は、直訳では「ベリヤアルの子」です。1章16節で、先にハンナは祭司エリから「よこしまな女」と誤解されていました。ヘブル語の「ベリヤアル」は、無価値で、邪悪という意味です。霊的に力強い指導者がいなかった士師記の時代(サムエルの時代は、士師の時代から預言者の時代への移行期に当たります。)、相当、深刻になっており、祭司エリの息子たちにまでこの堕落が及んでいたのです。

その最大の原因は、「主を知らなかった」ことです。ヘブル人が「主を知る」ということは、単に知識として知ることではなく、礼拝において主と全人格的に交わり、服従することによって、主なる神を人格的に知ることです。

祭司エリの二人の息子は旧約の儀式や祭式については訓練を受けており、律法が命じている要求についても、よく知っていたでしょう。しかし彼らは肉欲的で堕落しており、霊的、人格的には、はなはだ悪く、神を怒らせていたのです。祭司エリは父親でありながら、二人の息子を厳しく叱ることをしなかったのです(2:29)。

13~17節、ホフニとピネハスは、民がささげるいけにえについての祭司の定めを破っていたのです。

Ⅰサム 2:13 民にかかわる祭司の定めについてもそうであった。だれかが、いけにえをささげていると、まだ肉を煮ている間に、祭司の子が三又の肉刺しを手にしてやって来て、 2:14 これを、大なべや、かまや、大がまや、なべに突き入れ、肉刺しで取り上げたものをみな、祭司が自分のものとして取っていた。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルに、このようにしていた。2:15 それどころか、人々が脂肪を焼いて煙にしないうちに祭司の子はやって来て、いけにえをささげる人に、「祭司に、その焼く肉を渡しなさい。祭司は煮た肉は受け取りません。生の肉だけです」と言うので、 2:16 人が、「まず、脂肪をすっかり焼いて煙にし、好きなだけお取りなさい」と言うと、祭司の子は、「いや、いま渡さなければならない。でなければ、私は力ずくで取る」と言った。2:17 このように、子たちの罪は、【主】の前で非常に大きかった。【主】へのささげ物を、この人たちが侮ったからである。

律法では、祭壇の上で焼いて煙にする主への火によるささげ物と、祭司たちが食べることができる奉献物の胸と奉納物のもものささげ物とが規定されていました(レビ記7:28~34)。

レビ 7:28 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。 7:29 「イスラエル人に告げて言え。和解のいけにえを【主】にささげる者は、その和解のいけにえのうちから、そのささげ物を【主】のところに持って来なければならない。 7:30 その者は、【主】への火によるささげ物を、自分で持って来なければならない。すなわち彼は、その脂肪を胸に添えて持って来なければならない。そしてその胸を奉献物として【主】に向かって揺り動かしなさい。 7:31 祭司はその脂肪を祭壇の上で焼いて煙にしなさい。その胸はアロンとその子らのものとなる。 7:32 あなたがたは、あなたがたの和解のいけにえのうちから右のももを、奉納物として祭司に与えなければならない。 7:33 その右のももは、アロンの子らのうち、和解のいけにえの血と脂肪をささげる者の受ける分として、その人のものとなる。 7:34 それは、わたしが、奉献物の胸と奉納物のももをイスラエル人から、その和解のいけにえのうちから取って、それを祭司アロンとその子らに、イスラエル人から受け取る永遠の分け前として与えたからである。」

ところがホフニとピネハスは、民がいけにえをささげている途中に三又の肉刺しを、肉を煮ている大がまやなべに突き入れて取っていたのです。また焼いて煙にして主にささげる脂肪も、ささげる人の制止を振り切って、生の肉を力ずくで取っていたのです。彼らの悪は、民がいけにえを主にささげようとする時に、ささげる前に自分たちの分を力ずくで、無理矢理に奪い取っていたのです。彼らは高慢の故に、礼拝者がいけにえをささげた後に食べるべきものを、主の分が祭壇で焼かれる前に、自分たちの分を力ずくで取って、「主へのささげ物を侮った」のです。

2章から4章までは、エリの二人の息子ホフニとピネハスの堕落ぶりと、エリのもとで主に仕えていた少年サムエルが主にも、人にも愛されて、恵みの中で霊的に成長していく姿が対比して記されています。

ホフニとピネハスは士師記の終わりの堕落した時代であったとはいえ、祭司の子として生まれた特権を活かすことができず、却ってその霊的価値と重要さを悟ることをせず(それは主を体験的に知らなかったことが、最大の原因ですが)、堕落してしまったのです。

これに比べて、サムエルは、幼く、信仰の篤い母ハンナのもとを離れており、祭司エリもどれくらい霊的指導力があったのかは頼りない存在だし、エリの二人の息子は最悪の状態でした。母ハンナはエリの息子たちの醜聞を知っていたと思いますが、よく幼いサムエルをエリのもとにあずけたものだと思います。ハンナは取り巻く環境や状況よりも、主とお約束したことを果たすことを大切にしたのです。確かに、子どもが育つ幼少期の環境はその子の人格性や霊的経験に影響を与えるでしょうが、それ以上に大事なのは、個人個人の心の向け方、選び方です。ハンナはサムエルが乳離れするまでの間に、サムエルの心の中に主を畏れることを植えつけたと確信したのでしょう。それが見事に実っています。

18~21節、サムエルの奉仕とハンナの訪問

サムエルの両親、エルカナとハンナは、毎年、祭りの時にシロに、その年のいけにえをささげるために上って行きましたが、その時には、主を礼拝する喜びとともに、主にささげ、主の前に奉仕している幼い息子のサムエルと再会できる喜びがありました。

18節、「亜麻布のエポデ」は主に仕える者が着用していた儀式用の衣で、エプロンのように身体の前の部分だけに布があり、腰で帯をしめた衣のようです。

Ⅰサム 2:18 サムエルはまだ幼く、亜麻布のエポデを身にまとい、【主】の前に仕えていた。

ダビデも亜麻布のエポデをまとって、主の前で、力の限り踊っていました(サムエル記第二 6:14)。

19節、ハンナは幼い息子のために、自分の手で作った小さな上着を持って来ました。

Ⅰサム 2:19 サムエルの母は、彼のために小さな上着を作り、毎年、夫とともに、その年のいけにえをささげに上って行くとき、その上着を持って行くのだった。

このことの中にハンナの深い愛情と、主への敬虔さが見られます。幼いサムエルをひとりエリのもとに残したことの中にハンナの心の厳しさを感じる人もいるかも知れませんが、ハンナは心の冷たい人ではありませんでした。主を愛し、サムエルをも愛していました。愛しているが故に、サムエルを神の人として主にささげたのです。

ハンナの作った小さい上着は、祭司、王、王子、預言者が着た衣で、縫い目なしに織られた、床にとどくほど長いものでした(サムエル記第一 15:27)。

20,21節、祭司エリは幼子サムエルを主にささげたエルカナとハンナの夫婦を新たに祝福しました。

Ⅰサム 2:20 エリは、エルカナとその妻を祝福して、「【主】がお求めになった者の代わりに、【主】がこの女により、あなたに子どもを賜りますように」と言い、彼らは、自分の家に帰るのであった。2:21 事実、【主】はハンナを顧み、彼女はみごもって、三人の息子と、ふたりの娘を産んだ。少年サムエルは、主のみもとで成長した。

そして主は、ハンナを顧みられて、ハンナはその後に、三人の息子と二人の娘を産んでいます。しかしその子どもたちの名前は記されていません。またその五人の子どもたちがサムエルのように主を愛し、主の前に仕えるようになったのか、どうかも全く記されていません。ただ聖書はサムエルにだけ焦点を当てて、「少年サムエルは、主のみもとで成長した。」と記しています。

ここでは「幼子」(2:11)が「少年」に変わっていますから、数年が過ぎたことが表わされています。「主のみもとで成長した」は、26節の「少年サムエルはますます成長し、主にも、人にも愛された。」によって、更に強調されています。少年時代のサムエルが霊的に、人格的に秀でて成長していたことを表わしています。それはサムエルが幼いころから祭司エリのもとで従い、仕えることを身につけてきたからです。

「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」(マタイ20:26~28)

「若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一 5:5,6)

だれでも、主に仕える動機で人に仕え、従うなら、霊的に、人格的に成長することができます。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」(コロサイ3:23,24)

22~26節、力ないエリの叱責

22節、「エリは非常に年をとっていた。」

Ⅰサム 2:22 エリは非常に年をとっていた。彼は自分の息子たちがイスラエル全体に行なっていることの一部始終、それに彼らが会見の天幕の入口で仕えている女たちと寝ているということを聞いた。

モーセのような特別な例は除いて、通常、人間の指導者が非常な高齢になると、若い者たちは、高齢の指導者に聞き従わなくなることがあります。それにしてもエリの指導力はあまりにも無力になってしまっていました。彼は自分の息子たちの悪行を一部始終聞いて知っていたにも関わらず、息子たちの悪行を止めることができず、神に立ち帰らせることができなかったのです。

23~25節の、息子たちに対するエリの叱責の言葉には、厳しさが見られません。

Ⅰサム 2:23 それでエリは息子たちに言った。「なぜ、おまえたちはこんなことをするのだ。私はこの民全部から、おまえたちのした悪いことについて聞いている。 2:24 子たちよ。そういうことをしてはいけない。私が【主】の民の言いふらしているのを聞くそのうわさは良いものではない。

また息子たちを神に立ち帰らせようとする愛も熱意も感じられません。諦めさえ感じさせる叱責です。エリが非常に高齢であったために、それだけの気力がなかったのかも知れませんので、エリを過度に非難することはできませんが、少なくとも息子たちがここまで堕落する前に、息子たちの信仰を育てることはできなかったのでしょうか。

22節の「会見の天幕の入口で仕えている女たち」出エジプト記38章8節では、「会見の天幕の入口で務めをした女たち」がいたことが記されています。彼女たちは幕屋の運営の働きをしていましたが、彼女たちも堕落していたのです。こうしてイスラエルの堕落は幕屋の中にまで侵入していたのです。こうした彼らの堕落は、更に主の民に罪を犯させ、イスラエルの民の堕落を増進させてしまっていたのです。

25節、エリは二つのさばきについて警告しています。

Ⅰサム 2:25 人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。だが、人が【主】に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」しかし、彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが【主】のみこころであったからである。

「人がもし、ほかの人に対して罪を犯すと、神がその仲裁をしてくださる。」人が他人に対して犯した倫理的な違法行為は、神が裁きをしてくださり、仲裁してくださいます。
「だが、人が主に対して罪を犯したら、だれが、その者のために仲裁に立とうか。」エリが言っているのは、息子たちホフニとピネハスが聖所のある神の幕屋を汚し、神にささげるいけにえを奪い取っていたことだと思われます。新約聖書では、心を尽くして神を愛することと、隣人を自分と同じように愛することとは、同じ戒めであると言われていますが、エリにはまだこの理解はなく、別々に取り扱っています。

それにしても、エリの息子たちの罪は、更に悪化し、横暴になっており、それは明らかに主なる神ご自身を無視する反逆の罪となっていました。これに対して旧約聖書の中には解決策はなかったのです。

「仲裁」と訳されているヘブル語は「ハ・エロヒム」で、この語は「神」をも意味しております。それ故、神に対する信仰的な罪は、主なる神ご自身によって報復されることを意味しています。いかなる罪に対しても、新約に至って、イエス・キリストの身代わりの十字架の贖罪(あがない)だけが解決するのです。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。」(テモテ第一 2:5.6)

25節、「彼らは父の言うことを聞こうとしなかった。彼らを殺すことが主のみこころであったからである。」

「……であったから」はヘブル語の古い接続詞の「ケニー」が使われています。これは、因果関係を表わす時に用いられます。ここでは、ホフニとピネハスは、神が殺そうと願っておられたから、よこしまになったのではなく、彼らがよこしまで、悪から離れようとしなかったので、神は彼らを死をもって早く取り去られたのです。心を頑なにして罪を犯し続け、自ら神に反逆し続けて、止めようとしなかったために、神から捨てられてしまったのです。

26節のサムエルの成長についての記述は、明らかにエリの息子たちの堕落振りと対比して記されています。

Ⅰサム 2:26 一方、少年サムエルはますます成長し、【主】にも、人にも愛された。

サムエルは、幼子から少年になっていますから、数年が経っていました。サムエルは霊的にも、実際的にも最悪の環境の中で、「ますます成長し、主にも、人にも愛され」ています。その秘訣は何でしょうか。それは神との交わりの関係が途絶えることがなかったことです。第一に、母ハンナの祈りの支えがあったこと、第二に、ハンナの祈りによって生まれた子であること、第三に、彼自身、祭司エリに仕えることを通して主に仕えることを身につけていったことです。特に、この点はエリの息子たちと異なります。エリの息子たちは「父の言うことを聞こうとはしなかった。」(25節)のです。

「主にも、人にも愛された。」ということは大切なことです。主に愛されることは、へりくだった忠実な信仰があったからです。人にも愛されたことは、礼拝に来られる人々に対して少年サムエルが心を尽くした、謙遜な心で奉仕していたからです。聖書は、心を尽くして主を愛するだけでなく、隣人をも自分と同じように愛すべきことを教えていることと一致しています。時に、神にだけ熱心になっているという告白を聞きますが、人に対する愛がなければ、それは不健全です。

イエス様についても、少年サムエルについて言われていることと全く同じことが言われています。

「イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。」(ルカ2:52)

こうしてサムエルは徐々に、霊的にも、信仰の行ないにおいても、両面において、人々の間で愛され、神の人として認められていったことを示しています。

27~36節、エリの家に下った神の宣告

27節、「そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。」

Ⅰサム 2:27 そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられる。あなたの父の家がエジプトでパロの家に属していたとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。

この「神の人」は名前の知られていない人です。まだ預言者時代は始まっていませんが、すでに主はご自身のみこころをはっきりと語らせる預言者(神のみことばを預かった者)を遣わされていたのです。主はいつの時代にも、神のみことばを真直ぐに語る神の人を必要としておられるのです。こういう神の人は人の顔を恐れず、率直に罪を指摘したので、多くの苦難に会い、迫害に会ったのです。

神の人の話は、「主はこう仰せられる。」という言葉から始まることが多いのです。これは人の考えや道徳の話をしているのではなくて、神の権威あるみことばを伝えているということを表わしています。これによって、へりくだって、信仰をもって聞く人は、聞き従うし、高慢で神を認めようともしない人は神の人を殺そうとします。

27,28節、「あなたの父の家」はレビの部族のことです。

Ⅰサム 2:27 そのころ、神の人がエリのところに来て、彼に言った。「【主】はこう仰せられる。あなたの父の家がエジプトでパロの家に属していたとき、わたしは、この身を明らかに彼らに示したではないか。2:28 また、イスラエルの全部族から、その家を選び、わたしの祭司とし、わたしの祭壇に上り、香をたき、わたしの前でエポデを着るようにした。こうして、イスラエル人のすべての火によるささげ物を、あなたの父の家に与えた。

モーセもアロンもレビ族の出身であり、祭司エリもレビ族に属していました。このレビ族は、出エジプトの時、イスラエル人の男子の初子の代わりに主の奉仕をするためにささげられていたのです。

「あなたは、わたしのために、わたし自身、主のために、イスラエル人のうちのすべての初子の代わりにレビ人を取り、またイスラエルの家畜のうちのすべての初子の代わりにレビ人の家畜を取りなさい。……レビ人をイスラエル人のうちのすべての初子の代わりに、またレビ人の家畜を彼らの家畜の代わりに取れ。レビ人はわたしのものでなければならない。わたしは主である。」(民数記3:41,45)

特に、主はアロンの家系の者たちを祭司として用いられ、神の祭壇に上り、香をたき、主の前でエポデを着て、礼拝を司式する大いなる特権を主から与えられていたのです。

そればかりでなく、主はレビ人たちと祭司たちを養うために、イスラエル人のささげるすべての火によるささげ物を豊かに与えておられたのです。

「そこで、モーセは、アロンとその生き残っている子のエルアザルとイタマルに言った。『主への火によるささげ物のうちから残った穀物のささげ物を取り、パン種を入れずに祭壇のそばで、食べなさい。これは最も聖なるものであるから。それを聖なる所で食べなさい。それは、主への火によるささげ物のうちから、あなたの受け取る分け前であり、あなたの子らの受け取る分け前である。そのように、私は命じられている。しかし、奉献物の胸と、奉献物のももとは、あなたと、あなたとともにいるあなたの息子、娘たちが、きよい所で食べることができる。それは、イスラエル人の和解のいけにえから、あなたの受け取る分け前、またあなたの子らの受け取る分け前として与えられている。人々は、奉納物のももと奉献物の胸とを、火によるささげ物の脂肪に添えて持って来て、奉献物として主に向かって揺り動かさなければならない。それは主が命じられたとおり、あなたと、またあなたとともにいるあなたの子らが永遠に受け取る分である。』」(レビ記10:12~15)

29節、このように大いなる特権と、豊かな物が与えられていたにも関わらず、エリの息子たちは、主のいけにえをないがしろにし、「わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。」と言われています。

Ⅰサム 2:29 なぜ、あなたがたは、わたしが命じたわたしへのいけにえ、わたしへのささげ物を、わたしの住む所で軽くあしらい、またあなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて、わたしの民イスラエルのすべてのささげ物のうち最上の部分で自分たちを肥やそうとするのか。

しかし特に、注目しなければならない言葉は、「あなたは、わたしよりも自分の息子たちを重んじて」です。エリは自分の息子たちを深く思うあまりに、それが自己中心の思いやりであったために、神を軽んじてしまって、息子たちを正しく信仰に導くことができず、幼い頃から、息子たちの好き放題にさせて、厳しく叱ることをしてこなかったのです。この点は、最も重要なことです。主はアブラハムにも、この点を試みておられます。アブラハムのひとり子イサクをモリヤの山で全焼のいけにえにするように命じて、アブラハムの心が神よりも、「わが子イサク」を愛する方向に傾いていないかを試めされたのです。

「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さ
え惜しまないでわたしにささげた。」(創世記22:12)

主はペテロにも、同じように試みておられます。

「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」(ヨハネ21:15)

ここでも、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」と「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」(マタイ22:37,39)が唯一、大切なことであることが分かります。

30節、ここでは聖書の中で重要な事実が明らかにされています。

すなわち、神が一度選ばれたら、どんなことがあっても、それを取り消されないという絶対的選びではないことです。

Ⅰサム 2:30 それゆえ、──イスラエルの神、【主】の御告げだ──あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む、と確かに言ったが、今や、──【主】の御告げだ──絶対にそんなことはない。わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。

一度、イエス様に救われたら、その後はどんなに罪を犯し続けて離れなくても、愛のない生活をしていても、天の御国に入ることができるという絶対的選びではないことを明確に、ここに示しています。

イスラエルの神、主が、レビ人を選び、アロンの子孫を祭司とすると約束されたことは確かです。しかしそれは無条件で続けられることではありません。主は、「あなたの家と、あなたの父の家とは、永遠にわたしの前を歩む」と言われたではないか、と反論する人も出て来るかもしれませんが、それは、主によって召された人が誠実に、忠実に、愛と信仰を持って、神と人とに仕えるという条件のもとに約束されているのです。それは言葉に表わされていなくても、当然の前提として含まれているのです。もし、それも分からないようなら、その人の心は主に対して心頑なであり、主の奉仕者として相応しくありません。旧約聖書においても、無条件の絶対的選びはありません。神の選びは、自己中心な人にとって都合のいい特権への選びではなく、神に対して愛と信仰によって忠実に責任を果たしていく、責任への選びなのです。それは反抗したり、不信仰によって、再び失ってしまう可能性のあるものなのです。

「わたしは、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。わたしをさげすむ者は軽んじられる。」これはヤーウェの神のご性質です。主は、私が主に対してとる態度にふさわしく、私に対してお取り扱いをしてくださるのです。主は私たち人間の前に、栄光と滅亡、栄誉と屈辱を置かれ、私たちひとり一人が自分の責任において選択するようにされたのです。主を信じて愛し、主を尊び、信頼し、従順に従う時、恵みと栄光を受けるようにされ、主を軽んじ、自分中心の高慢になり、心を頑なにして不信仰、不服従になる時、屈辱と滅亡を受けるようにされたのです。そのどちらを選ぶかは、私たちひとり一人の責任ある意志の選択によるのです。

「軽んじられる」のへブル語は「クァラル」で、「卑しめられる」「下劣にされる」「見捨てられる」という意味です。

31節、「あなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし」は、エリの家系にアロンの時代から与えられていた、神に仕える祭司としての力、名誉ある地位、指導力を取り去られてしまうことです。

Ⅰサム 2:31 見よ。わたしがあなたの腕と、あなたの父の家の腕とを切り落とし、あなたの家には年寄りがいなくなる日が近づいている。

「年寄りがいなくなる日が近づいている。」円熟したお年寄りがおられることは、主の特別な恵みと祝福のしるしです。そのお年寄りが少なくなってきて、いなくなることは、主の恵みと祝福が取り去られていることを表わしています。

「わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」(詩篇91:16)

32節は、具体的に何を指しているのかは不明ですが、明らかなことは、エリの家系から恵みも、すべての特権も、祝福も取り去られたけれども、神の民イスラエル全体を捨てられたのではありません。

Ⅰサム 2:32 イスラエルはしあわせにされるのに、あなたはわたしの住む所で敵を見るようになろう。あなたの家には、いつまでも、年寄りがいなくなる。

イスラエルはしあわせにされます。それはやがてサムエルの働きを用いてイスラエルが回復してくることなのか、ダビデによる王国が繁栄してくることを言っているのか、更に後に、イエス・キリストの救いが与えられることを言っているのかは分かりません。しかし、主に対して不信仰になった者たちは、各々の絶望の中から、神が神の民に与えられた豊かな祝福と繁栄を嫉妬の目をもって見るようになるのです。主に忠実に従っていれば、よかったと。

33節、「ひとりの人」とは、エブヤタルのことです。

Ⅰサム 2:33 わたしは、ひとりの人をあなたのために、わたしの祭壇から断ち切らない。その人はあなたの目を衰えさせ、あなたの心をやつれさせよう。あなたの家の多くの者はみな、壮年のうちに死ななければならない。

彼はノブにおいて、エドム人ドエグが祭司八十五人を虐殺した時、ひとりダビデの所に逃れて来た人です。この祭司大虐殺はサウルの命令によって、行なわれたのですが、この祭司大虐殺によって、エリの家に対する預言が部分的に成就したのです(サムエル記第一 22:18~23、列王記第一 2:26,27)。

「こうして、ソロモンはエブヤタルを主の祭司の職から罷免した。シロでエリの家族について語られた主のことばはこうして成就した。」(列王記第一 2:27)

34節、エリの二人の息子ホフニとピネハスが、二人とも一日のうちに死ぬことは、エリの家の祭司職が奪われてしまうことのしるしとされています。

事の重大さは、二人の息子が死ぬことに止まらず、将来の子孫にわたって、主から与えられていた祭司としての栄誉ある特権が奪われてしまうことにまで及んだのです。

35節、「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行なう忠実な祭司を、わたしのために起こそう。」

Ⅰサム 2:35 わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。

これはサムエルにおいて部分的に成就しました。主が求めておられる奉仕者は、自分で正しいと思うことを行なう祭司ではなく、主のみこころを忠実に行なう祭司なのです。

「わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40:8、ヘブル10:7)

これを忠実に成就されたお方は、私たちの大祭司イエス様です。愛を込めて、こう申し上げることができます。

「さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。」(ヘブル4:14)

「わたしに油そそがれた者」とは、目先の直接的なことでは王のことを言っていると思われますが、究極的にはメシヤであられるイエス様のことです。

「前を歩むであろう。」アブラハムも、「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」と命じられました。どんな奉仕にも、どんな働きにも、主に対してする信仰が求められているのです。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」(コロサイ3:23)

36節、「あなたの家の生き残った者はみな、」

エリの家の残されたわずかの子孫は、自分たちの命のために、サムエルや後の時代の大祭司のところに行って物乞いをし、祭司の奉仕の一つでもあてがってくださいと、言うようになると、その零落ぶりを示しています。

Ⅰサム 2:36 あなたの家の生き残った者はみな、賃金とパン一個を求めて彼のところに来ておじぎをし、『どうか、祭司の務めの一つでも私にあてがって、一切れのパンを食べさせてください』と言おう。」

あとがき

人はなぜ、平和に暮らすことができないかが、毎日、問われている昨今です。ミサイルを打っても「制裁してはいけない」という国々もあり、スポーツの世界でも民族的侮辱があり、テロに拉致に空爆、家族の殺害。これは人類の滅亡のしるしでしかありません。

こういう時代に生きている私たちは何をなすべきでしょうか。第一に、主に祈りの手を挙げることです。今や人間は霊魂の中から神を失い、自分が何をしているのか分からないほど、滅びに近づいています。ですから、聖霊が働いて下さるように祈りましょう。第二に、家族や教会の中で自己主張を止め、争うことを止め、みことばの信仰経験をしましょう。互いに赦し合い、助け合うことです。

(まなべあきら 2006.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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