聖書の探求(270) サムエル記第一 3章 サムエルへの主の語りかけ、エリに告げる、主の預言者と認められる

アメリカの画家 John Singleton Copley (1738–1815)による「Samuel to Eli the Judgements of God upon Eli’s House(エリの家に降りかかる神の審判をエリに伝えるサムエル)」(Wadsworth Atheneum Museum of Art蔵、Wikimedia Commonsより)

3章は、本書の中で最も重要な部分です。ここでは、少年サムエルへの、最初の主の語りかけが記されています。ここからサムエルは、エリを通してではなく、直接、主を経験するようになったのです。エリの指導の中で、唯一、最もすぐれていたことがここに記されています。それはサムエルに「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げるように教えたことです。この教えは、その後、今日に至るまで、多くの信者たちに主と交わる奥義を体験させてくださったのです。ですから、エリはやはり主を知っている人だったのです。しかし残念なことにその奥義を自分の息子たちに継承させることができなかったのです。

3章の分解

1~14節、サムエルへの主の語りかけ
15~18節、サムエル、エリに告げる
19~21節、主の預言者と認められる

1~14節、サムエルへの主の語りかけ

主がサムエルに最初に語りかけられたのは、イスラエル人が最悪の状態にあった時でした。その頃、サムエルは多分、10才から12才くらいであったと思われます。主はこの時、エリの堕落した二人の息子たちと、エリの家に間近に迫っていた破滅をエリに告げるために、サムエルに個人的に現われたのです。これがサムエルが最初に主の器として用いられた経験です。

1節、「少年サムエルはエリの前で主に仕えていた。」

Ⅰサム 3:1 少年サムエルはエリの前で【主】に仕えていた。そのころ、【主】のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。

これはサムエルが日常的に主にも、エリにも忠実であったことを示しています。

「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった。」これは当時の人々の堕落した状態のために、主はご自身のみこころを、預言者を通しても、幻を通しても示されることがなかったことを表わしています。神の民であるのに、罪のために神の光を受けられないで、暗い中を歩んでいたのです。

預言者アモスは、次のように警告しています。

「見よ。その日が来る。- 神である主の御告げ。- その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。」(アモス書8:11)

このような時代に、主が少年サムエルに現われて下さり、主のみことばを告げられたことは、新しい時代が始まったことを感じさせられます。現代においても、神のみことばがまっすぐに語られているか、どうかが、主が働かれる新時代が到来したかどうかのしるしとなります。

「幻」と訳されている語は、ヘブル語では「バラツ」です。これは「突発すること」「吹き出すこと」を意味しており、主のみことばを語る預言のことのようです。

2節、「彼の目はかすんできて、見えなくなっていた。」

Ⅰサム 3:2 その日、エリは自分の所で寝ていた。──彼の目はかすんできて、見えなくなっていた──

これはエリが相当の老齢に達していたことを示しています。しかし百二十歳のモーセについて書かれている記録とは対照的です。

「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった。」(申命記34:7)

私たちも、気力が衰え、目がかすむ時があるでしょう。その時、私たちは、新しい力を与え、活気づけてくださる主を内に持つことができるのです。

「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書40:28~31)

3節、「神のともしびは、まだ消えていず、」

Ⅰサム 3:3 神のともしびは、まだ消えていず、サムエルは、神の箱の安置されている【主】の宮で寝ていた。

神のともしびは、神の契約の箱が安置されていた至聖所の前にある聖所に置かれていた七つの枝のある金の燭台のことです(出エジプト記25:31~40、レビ記24:2~4)。このともしびは、日没から夜明けまで、絶やさずにともしておかなければなりませんでした。「まだ消えていず」と言われていることからして、主がサムエルに現われて下さった時刻は、夜明けの直前であったと考えられます。しかしこの表現は非常に象徴的です。イスラエルの民は非常に堕落し、エリの息子たちも、幕屋で奉仕していた女たちも非常に堕落していましたし、主のみことばもほとんど聞かれなくなっていましたが、しかし神の光はまだ完全には消えてしまっていなかったのです。この神の光は少年サムエルによって、再び輝くともしびへと変えられていくことになるのです。

「サムエルは、神の箱の安置されている主の宮で寝ていた。」

サムエルは燭台の火が消えないために、油を注ぐ奉仕をしていたのでしょう。神の火を消さないためには聖霊(油)の油注ぎを受け続ける必要があるのです。聖霊がクリスチャンひとり一人の内に豊かに注がれる時、神の火は明るく輝くのです。

「また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:15,16)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

4節、「はい。ここにおります。」

Ⅰサム 3:4 そのとき、【主】はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい。ここにおります」と言って、

主がサムエルを呼ばれた時、サムエルはエリが呼んだものだと思ったのです。それにしても、まだ十才前半の少年が、夜明け前に呼ばれた時、すぐに、「はい。ここにおります。」と答えることができたのは、サムエルが主のしもべとしてふさわしい忠実で、従順の霊を持っていたことを示しています。これは主からも、人からも愛されて成長してきた証拠です。こういうところに将来のサムエルの、神の器としての芳(かんば)しさが見られます。

主に呼ばれて、すぐに答えることができた人には、アブラハム(創世記22:1)、イザヤ(イザヤ書6:8)、アナニヤ(使徒9:10)がいます。

創 22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。

イザ 6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

使 9:10 さて、ダマスコにアナニヤという弟子がいた。主が彼に幻の中で、「アナニヤよ」と言われたので、「主よ。ここにおります」と答えた。

答えられなかった人には、アダムとエバ(創世記3:9,10)がいます。彼らが主に背いて、罪を犯していたからです。

創 3:9 神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたとあなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ書59:1,2)

5節、サムエルは、すぐに返事をしただけでなく、エリの所に走って行っています。

Ⅰサム 3:5 エリのところに走って行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。帰って、おやすみ」と言った。それでサムエルは戻って、寝た。

昨今、呼ばれても、はっきり返事しない人がいます。それは、呼んでいる人を無視しているか、軽視している思いを持っているからです。そういう人はいろいろな理由付けをして、呼ばれている人のことを後まわしにし、自分のことを優先させるのです。こうして自ら、神の器としてふさわしくないことを表わすのです。

サムエルの忠実さは、言葉だけでなく、行動によっても証明されています。しかも三度も同じことを繰り返しています。

Ⅰサム 3:6 【主】はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。エリは、「私は呼ばない。わが子よ。帰って、おやすみ」と言った。

エリは「私は呼ばない。帰っておやすみ。」と言っています。大抵の人なら、二度目、三度目は、聞き違いかなと自分で判断して、エリの所に行かないかもしれません。しかし、サムエルはそういう自分の知恵による判断をしなかったのです。彼は三回とも、すぐにエリの所に行っています。自分に理解できないことが起きたら、どうしたらいいでしょうか。サムエルは、今まで自分に与えられていた奉仕に忠実であり続けたのです。それがすべての解決の糸口になります。

7節、「サムエルはまだ、主を知らず、主のことばもまだ、彼に示されていなかった。」

ヘブル語の「ヤダ(知る)」は、知識として知ること以上に、人格的な交わりをして経験として知ることを意味しています。

主は少年サムエルをご自身の器とするために備えておられましたが、これまでは忠実さと従順の訓練をされてきました。これに合格した時、主は彼にご自身を現わされ、主と交わる経験へと導き、更にご自身のみこころとみことばを与えて、彼は主の預言者とされていったのです。主のご奉仕をする人は、第一に忠実と従順が求められます。サウル王のように自分の考えを優先し、主のご命令に忠実でなくなると、主に捨てられてしまい、破滅してしまうのです。

「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」(マタイ4:19)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一 5:5,6)

主と深く交わり、真理を味わい知りたいなら、聖書を学び、祈ることとともに、指導者に忠実に、従順に従って下さい。また今、自分に与えられている任務を忠実に果たして下さい。主はこのことに合格した人にだけ、ご自分を現わして、交わって下さるからです。みことばの味わいも深めて下さり、みわざを行なって下さるのです。

主がサムエルを呼ばれたことは、サムエルが神の人になるための第二段階に入ったことを意味しています。

8節、三度目になって、エリはやっと、主がこの少年を呼んでおられることを悟ったのです。

Ⅰサム 3:8 【主】が三度目にサムエルを呼ばれたとき、サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい。ここにおります。私をお呼びになったので」と言った。そこでエリは、【主】がこの少年を呼んでおられるということを悟った。

9節、エリは彼の全生涯の中で最も重要な仕事をここでしたのです。それは、今度呼ばれたら、「『主よ。お話ください。しもべは聞いております。』と申し上げなさい。」とサムエルに教えたことです。

Ⅰサム 3:9 それで、エリはサムエルに言った。「行って、おやすみ。今度呼ばれたら、『【主】よ。お話しください。しもべは聞いております』と申し上げなさい。」サムエルは行って、自分の所で寝た。

このエリの言葉の中に、主と交わることの神髄、主に祈ることの神髄がすべて教えられています。それは「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」です。祈りというと、主に向かって自分の方から何か申し上げることだと思っていないでしょうか。しかし祈りの神髄は、主がお話くださること、主が教えてくださることを聞くことです。自分が話すことではありません。「しもべ」とは、聞いたことをすぐに忠実に、従順に従う心の備えのある人のことです。

パウロは、「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)と言っています。

サムエルはこの最初の教えの大切さを十分体験していたのです。ですから、彼は主に背いたサウル王に対して、
「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル記第一 15:22)と言ったのです。

時々、一日、何時間祈ったと言う人がいますが、あなたが主と深く、親密に交わり、真理を深く味わいたいのなら、「主よ。お話ください。しもべは聞いております。」という態度をとり続けて下さい。聖書を読む時も、説教を聞くときも、本を読まれる時も、主があなたの心に語りかけられることをよく聞いて下さい。聞いたなら、聞いたことを生活の中で使うようにして下さい。そうすれば、主がより親しくあなたの主となってくださいます。

信仰は、いくら理知的に考えても理解することはできません。信じて聞き従うことによってだけ、真理は分かるのです。

10節、「そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、『サムエル。サムエル。』と呼ばれた。」

Ⅰサム 3:10 そのうちに【主】が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております」と申し上げた。

この中の「立つ」はヘブル語の「ヤツァブ」で、象徴的に「自分自身を現わす」ことを意味する言葉です。これまでの三回は、主はサムエルの名前を呼ばれただけでしたが、四回目は、サムエルの目に見える状態の主の顕現があったことが記されています。おそらく夜が明けて、明るくなっていたからでしょう。サムエルはエリが教えてくれた通り、忠実に「主よ。お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げています。サムエルは教えられた通り、非常に簡潔に、余分な飾りの言葉を何も付け加えていません。ここにも彼の徹底した忠実さと従順さがよく表われています。祈りの言葉には、敬虔さを表わす修飾語が付けられやすいのですが、そういう言葉は必要ありません。大事なのは、へりくだった、忠実で、従順な心の態度だけです。主はその人と交わってくださるのです。

1~10節は、「サムエルが主の召命を聞く」ことが主題ですが、ここで示されている召命についての大切な点は、次の通りです。

第一、主のみことばに聞き従う人がいない時は、主は沈黙しておられること(1節)

第二、主の召命は毎日の生活で忠実に、従順に従っている者に与えられること(1節)

第三、主の召命は人に間違われてしまうこと、気づかないこと、悟られないことがあること(7節)

第四、主のみこころと、みことばは、しもべが聞く耳をもって聞いている時に与えられること(8~10節)

これらの点を、私たちも十分心して、主を待ち望みましょう。

11~14節は、イスラエルとエリの家に対する主の審判の告知です。

11節の「わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。」は、文字通りでは、「わたしは……しつつある。」です。

Ⅰサム 3:11 【主】はサムエルに仰せられた。「見よ。わたしは、イスラエルに一つの事をしようとしている。それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。

これは2章27~36節で、神の人が告げた預言が、もうすでに実現されつつあったことを示しています。その時、エリも、二人の息子も、そしてイスラエルの民も、まだ気づいていなかったけれども、悔い改めて、神のみことばに従わなかった者に対する神の審判は、人が気づかないうちに始まっていたのです。

「それを聞く者はみな、二つの耳が鳴るであろう。」人が主の審判が始まっていることに気づく時、その恐るべき出来事について聞く時、恐れおののくようになることの表現です。

「それゆえ、イスラエルの神、主は、こう仰せられる。見よ。わたしはエルサレムとユダにわざわいをもたらす。だれでもそれを聞く者は、二つの耳が鳴るであろう。」(列王記第二 21:12)

「言え。『ユダの王たちと、エルサレムの住民よ。主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。』」(エレミヤ書19:3)

12節、主が語られたことは、祝福についても、さばきについても、その日が来れば、必ず、一つも欠けることなく果たされるのです。

この点について、私たちは甘く、好い加減に考えていてはいけません。

Ⅰサム 3:12 その日には、エリの家についてわたしが語ったことをすべて、初めから終わりまでエリに果たそう。

エリの家については、わざわいの宣告でしたが、すべて神が果たされたことは歴史が証明しています。

13節、エリは自分自身、主を畏れた人でしたが、彼に問われている責任は、エリが主よりも息子たちを重んじて(2:29)、息子たちの自己中心の我侭を放置し、彼らが主を冒瀆する行為を止めさせるために、主から与えられていた権威を働かせなかったことです。

Ⅰサム 3:13 わたしは彼の家を永遠にさばくと彼に告げた。それは自分の息子たちが、みずからのろいを招くようなことをしているのを知りながら、彼らを戒めなかった罪のためだ。

エリの罪は、息子たちが、自らのろいを招くようなことをしている(七十人訳聖書では、「神を冒瀆している」)ことを知っていながら、息子たちを厳しく戒めなかったことです。日本の戦後教育において、懲らしめたり、厳しく叱ることが極めて少なくなり、「ほめて育てる」とか、「好きなことを伸ばす」とか、「欲しい物は与える」「楽しみつつ学ぶ」ということが、盛んに強調されてきました。その結果、人々の心が極めて頽廃してしまったことは、隠れもない事実です。日々に先端技術の発達がほめたたえられている裏で、大人だけでなく、幼い小学生の子どもたちまでが殺人者となったり、被害者になったり、毎日のように巨額の詐欺事件が起きており、麻薬、窃盗、家族殺人など、来るところまで来てしまったという、ソドムとゴモラの状態になってしまっています。「子どもの人権を守るから」罰しない、懲らしめない、厳しく叱らない、と言いながら、子どもが罪を犯す下地を作っておいて、子どもが罪を犯すと、逮捕して、もっと厳しい刑罰を加える結果になってしまっているのです。叱ること、懲らしめることと、いじめることとは、同じではありません。その区別がつかないようでは、子どもたちの将来はありません。また日本の社会はますます悲劇の坂を転げ落ちることになります。エリが問われた責任はまさにここにあります。息子たちが堕落の道に入って行くのを知っていながら、エリは神の権威を持ってそれを止めようともしなかったことが、彼の罪とされ、彼はその悪い息子たちと共に破滅しなければならなかったのです。ほめて育てて、才能を伸ばすだけで、本当にいいのでしょうか。聖書は、そうは言っていません。

「むちを控える者はその子を憎む者である。子を愛する者はつとめてこれを懲らしめる。」(箴言13:24)

「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」(箴言22:6)

「愚かさは子どもの心につながれている。懲らしめの杖がこれを断ち切る。」(箴言22:15)

14節、「エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない。」

これは旧約のいけにえには、本当の贖いの力がなかったことを示しています。

「人は自分の兄弟をも買い戻すことはできない。自分の身のしろ金を神に払うことはできない。- たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。-」(詩篇49:7,8)

贖いは、イエス・キリストの十字架が成就することによって、永遠に完成したのです。

「しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。……ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。」(ヘブル7:24~25,27)

「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:11,12)

13節と14節に二回「永遠に」と繰り返されているのは、主のみわざが確かであることを示しています。

2章27節から36節までの、無名の神の人によるエリに対する警告は、ヘブル語の絶対未来形で書かれています。このまま息子たちの悪行をエリが放置しておくなら、エリと息子たちとエリの家に神の刑罰が下ることは確かであることを宣告したのです。これは、この時点で、エリが息子たちに厳しい態度で叱責するようにと、主は望んでおられたのです。ニネベに対するヨナの警告も、これと同じ絶対未来形で記されています。

「ヨナは初め、その町にはいると、一日中歩き回って叫び、『もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる。』と言った。」(ヨナ書3:4)

しかしニネベは悔い改めたので、滅ぼされなかったのです。

「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」(ヨナ書3:10)

主は、情け深く、あわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かな神であられるからです。しかしエリは神の人を通しての警告を受けても、息子たちを厳しく叱り、悪行を止めようとしなかったのです。悔い改めない反逆には突然のさばきしかありません。

「だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。」(ヨハネ第一 5:16)

「死に至る罪」とは、神と神の警告を拒み続けることです。みことばと聖霊が自分の心に語りかけて下さっているのを拒み続けているなら、聖霊は悲しまれて、やがてその心に働きかけられなくなります。それは滅びのしるしです。エジプトの王パロはモーセを通して語られた主のみことばを拒み続けたことによって、滅んだのです。イスラエルの初代の王サウルも、主のご命令を拒んだことによって、主はサウルを捨ててしまわれたのです。イエス様と御霊とみことばを拒んだら、私たちの救われるべき道はなくなってしまいます。

15~18節、サムエル、エリに告げる

15節、サムエルは、エリの家に対する主の審判の宣告を聞いても、朝まで眠っています。

Ⅰサム3:15 サムエルは朝まで眠り、それから【主】の宮のとびらをあけた。サムエルは、この黙示についてエリに語るのを恐れた。

普通、このような重大なわざわいの宣告を聞けば、一晩中眠れなくなるでしょう。サムエルは事の重大さを知っていたのですが、朝まで数時間眠っています。それから起きて、いつものように主の宮のとびらを開けています。サムエルは主から聞いたことをエリに伝えなければならないと思ったのですが、「この黙示についてエリに語るのを恐れた。」のです。サムエルにとって、預言者としての最初の働きは、主のメッセージをエリに率直に伝えることだったのです。

16~17節、サムエルが恐れてエリに告げないでいると、エリのほうから、サムエルを呼んで主のお告げを語らせています。

Ⅰサム 3:16 ところが、エリはサムエルを呼んで言った。「わが子サムエルよ。」サムエルは、「はい。ここにおります」と答えた。
3:17 エリは言った。「おまえにお告げになったことは、どんなことだったのか。私に隠さないでくれ。もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」

エリはサムエルがどうしても話さなければならないように、「もし、おまえにお告げになったことばの一つでも私に隠すなら、神がおまえを幾重にも罰せられるように。」と促しています。これはエリがサムエルに教えた二つ目のことです。預言者は主がお告げになったことばを一つでも隠さずに語らなければならないことです。

エリは主のお告げがエリ自身にではなく、少年サムエルに語られたことから、二つのことを悟っていたようです。一つは、主がサムエルをご自分の預言者とされることを望んでおられること。もう一つは、エリと息子たちへの主のさばきが語られたことです。

18節、サムエルは主が語られたことを、すべて隠さずにエリに知らせました。

Ⅰサム 3:18 それでサムエルは、すべてのことを話して、何も隠さなかった。エリは言った。「その方は【主】だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」

エリはへりくだって、それを受け入れ、「その方は主だ。主がみこころにかなうことをなさいますように。」と言っています。このことばにはエリの高貴さを感じさせます。エリは主に対する敬虔な信仰を持っていながら、自分の肉親の息子たちへの情愛に負けてしまって息子たちを信仰に導くことが出来なかった人の実例でしょう。これに対して、アブラハムは最後まで主を愛し続けた人です。その結果、その子イサクをも信仰に導くことができたのです。

「あなたの手をその子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ
惜しまないでわたしにささげた。……これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(創世記22:12,16~18)

19~21節、主の預言者と認められる

この区分には、サムエルについて三つのことが記されています。

Ⅰサム 3:19 サムエルは成長した。【主】は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とされなかった。

第一は、サムエルの成長です。サムエルは身体的にも、霊的にも不断に成長と進歩を遂げていました。それはエリに仕えている時から、ずっと続けて来た、忠実さと従順な服従によるものでした。

第二は、「主は彼とともにおられた。」こと(神の臨在の常在)です。主はヤコブにも、モーセにも、ヨシュアにも、主がともに行かれることを約束してくださいました。主の臨在のご同行は、すべての信仰者が主の働きをするために不可欠です。主のご同行によって、サムエルの語る言葉が神のみことばであることが明らかになったのです。

「彼のことばを一つも地に落とされなかった。」は、サムエルの語った言葉が誤りであると立証されたことは一つもなかったという意味です。神のみことばは決して無駄になってしまうことはないのです。

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント第一 15:58)

サムエルは、預言者として、祭司として、士師(さばきつかさ)として、祈りの人として、神と民のために仕えていました。主がともにおられたので、サムエルのなすことは、一つも無駄にならなかったのです。

第三は、全イスラエルの人々が、サムエルが主によって、主の代弁者として預言者に任命されたことを知ったのです(人間の側の高い評価と認識)。

Ⅰサム 3:20 こうして全イスラエルは、ダンからベエル・シェバまで、サムエルが【主】の預言者に任じられたことを知った。

「ダンからベエル・シェバまで」は、ダンがイスラエルの全土の北端であり、ベエル・シェバが南端でしたから、「全イスラエルのすべての人に」という意味です。

「そこで、ダンからベエル・シェバ、およびギルアデの地に至るイスラエル人はみな、出て来て、その会衆は、こぞってミツパの主のところに集まった。」(士師記20:1)

「主の預言者」の「預言」のへブル語は「ナビ」で、「泉のようにこんこんとわく」という意味ですが、サムエルより前にこの言葉が使われている人は、アブラハムと、モーセと、士師記6章8節の無名のひとりの預言者の三人だけです。サムエル以後では、「預言者」は最も栄誉ある称号の一つとなりました。そして預言者は「予め語る」というよりも、「主からみことばを預かって、主のみことばを語る」者と認識されるようになったのです。

使徒の働き3章24節で「また、サムエルをはじめとして、彼に続いて語ったすべての預言者たちも、今の時について宣べました。」と言われていますが、これは、サムエルが預言者の新しい秩序を確立し、士師時代から預言者時代が始まったことを示しています。サムエルは、士師時代から預言者時代への過渡期の橋渡しをした人となったのです。

21節、「主は再びシロで現われた。主のことばによって、主がご自身をシロでサムエルに現わされたからです。」

3章10節では、「主が来られ、そばに立って、」とありますから、主はサムエルの肉眼で見える御姿で現われたと思われます。ここでも主は同じように肉眼で見える御姿で現われたのかもしれませんが、ここでは特に、「主のことばによって」と付け加えられています。これは神の啓示が主のみことばによって与えられたことを示しています。「ことば(ヘブル語のダバル)」は、旧約聖書の鍵の言葉の一つです。「主のことば」は、神の権威と力を持って、神のみこころとご性質を表わす啓示として与えられたのです。それ故、主のことばは、必ず成し遂げられていくのです。

主は、サムエルという一人の神の人をつくるために、親の信仰を祝し、幼子の成長を祝し、主がともにいて、その働きを祝し、彼の語る言葉を祝し、人々の信認を与え、主の啓示のみことば(私たちにとっては聖書)を与えられたのです。

4章1節の「サムエルのことばは全イスラエルに行き渡った」は、文脈からして3章の終わりに来るべき言葉です。

主がサムエルにみことばを与えられたので、サムエルは神のみことばを語る預言者として、イスラエルの国中に知られるようになったことを示しています。このことは、サムエルが神のみことばを語る通りに、主がみわざを成し遂げられ、人々がそれを見て来たことを表わしています。それ故、サムエルの語る預言は力強く、人々の心をとらえたのです。

「あなたが心の中で、『私たちは、主が言われたのでないことばを、どうして見分けることができようか。』と言うような場合は、預言者が主の名によって語っても、そのことが起こらず、実現しないなら、それは主が語られたことばではない。その預言者が不遜にもそれを語ったのである。彼を恐れてはならない。」(申命記18:21,22)

あとがき

昨今の日本や世界の情勢を見ると、今の世は末期症状を示しています。イエス様の再臨は近いのではないかと思わせられます。親子の間にも、愛が見られません。人の命が尊ばれなくなってしまい、自分の欲望だけが優先されています。今ますますイエス様の福音しか人の生きる道がないことを示されます。イエス様の福音を伝えることの緊急性を覚えさせられます。
先ずは、身近な家族や友人たちにイエス様の十字架の愛をあかしさせていただきましょう。イエス様の愛によって生きている姿を見せましょう。家族にお年寄りがいらっしゃれば、愛をもって忍耐強く、毎日主から力をいただいて仕えさせていただきましょう。それが大きなあかしとなるのです。実際のあかしが必要なのです。

(まなべあきら 2006.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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