聖書の探求(267) サムエル記第一 2章1~10節 ハンナの賛美、神こそ勝利をもたらす唯一のお方

ポーランドのBreslauで、Wilhelm Jacobsohnにより1908年に出版されたユダヤ人のための祈祷書「HANNA: GEBET- UND ANDACHTSBUCH FUR ISRAELITISCHE FRAUEN UND MADCHEN(ハンナ:イスラエルの女性と少女のための祈りと信仰の本)」のブックカバー(Wikimedia Commonsより)

2章は、ハンナの賛美とサムエルの成長を描いています。

2章の分解

1~10節、ハンナの賛美
11~36節、サムエルの成長

1~10節、ハンナの賛美

ハンナの賛美は、感謝の祈りの形で歌われています。これは旧約のミリヤム(出エジプト記15:20~21)やデボラ(士師記5章)の賛美と肩をならべ、新約のマリヤの賛歌(マグニフィカート、ルカ1:46~55)の予型となっています。この賛歌は世々にわたって多くのイスラエルの敬虔な人々に深く愛され、影響を与えていたのです。

ハンナの賛美は、ハンナの勝利と感謝を表わしていますが、それはキリストの王国と神の摂理の働きの預言を含んでいます。

ハンナの賛美の主題は、預言者的です。ハンナは自分の経験によって、神の経綸(国を治め整えること)に関する一般の法則を歌っています。彼女は自らひれ伏し、圧倒されて、知るに至った聖なる契約の神が栄光をもって統治される神の経綸は、国家そのものが神によって導かれるという法則です。それを彼女は自らの祈りの経験によって体験し、約束されたのです。神がどのようにして、神を信じる貧しい者、みじめな者を、その貧困と窮乏の中より常に救い出し、立たせてくださるのか、そればかりでなく、当時、敵の圧力のもとで深く身をかがめて圧迫されていた神の全国民を、いかにして立たせて、栄光を与えられるかを、ハンナは知ったのです。しかし、この詩は、いかなる国家的勝利も述べられてはいません。ただ一つ、戦争を暗示している箇所は4節ですが、これもその目的は敵の勇士の敗北を暗示するよりも、勇士と弱い者とを対比するところにあるようです。

1,2節、神こそ、勝利をもたらす唯一のお方です。

Ⅰサム 2:1 ハンナは祈って言った。「私の心は【主】を誇り、私の角は【主】によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私はあなたの救いを喜ぶからです。

「私の心は主を誇り、」祈りによる勝利を経験したハンナは大いに主を誇っています。

「誇る者は主にあって誇れ。」(コリント第一 1:31)

これはハンナが喜びに満たされて、力強く確信に満ちている姿を描いています。

「私の角は主によって高く上がります。」この「角」は、口語訳では「力」と記しています。それは意味を汲んで訳したものです。

2:1ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。(口語訳)

ここでは、力強い獣が頭をグッと振り上げるように、主はハンナの心に力を与えて上げさせて下さったということです。かつてはペニンナのいやがらせや嘲(あざけ)りのために頭はうなだれ、声も出なかったのに、今は敵の前でハンナの口は大きく開いて、主を賛美しているのです。

「救い」はヘブル語でイエシェアで、その意味は、安全、安静、救いです。これは聖書中、軍事的救出、政治的勝利、苦しみや病いからの解放に使われていますが、究極的には罪からの救いを指しています。

この言葉は、人物の名前にも使われています。ヨシュア、ホセア、そしてイエスです。

2節、「【主】のように聖なる方はありません。あなたに並ぶ者はないからです。私たちの神のような岩はありません。」

「私たちの神のような岩はありません。」神を、避け所と土台の両方の意味で、しばしば「岩」と言われています。

「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、わが身を避けるわが岩なる神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。私を暴虐から救う私の救い主、私の逃げ場。」(サムエル記第二 22:2,3)

「主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。」(詩篇18:2)

「私の岩よ。」(詩篇28:1)

「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。……神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」(詩篇62:2,6)

「あなたはペテロ(岩という意味)です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)

これはペテロを「岩なる神」だと言ったのではありません。ペテロを信仰の対象にするように言われたのではありません。16節でペテロが信仰告白したその内容、「あなたは、生ける神の御子キリストです。」が信仰の土台であることをイエス様は語られたのです。それ故、「岩」とは「生ける神の御子キリスト」です。

3節、「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。まことに【主】は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。」

「高ぶって、多くを語ってはなりません。横柄なことばを口から出してはなりません。」この言葉は、直接的にはハンナを憎み、ひどくいらだたせていたペニンナに対して語られたものです。ペニンナは自分に息子や娘たちがいたために、子どものいなかったハンナに対して高ぶった態度をとり、ハンナを傷つける横柄な言葉を多く口から出していたのです。

ヤコブは、舌には「死の毒が満ちています。……同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。……兄弟たち。このようなことがあってはなりません。」(ヤコブの手紙3:8~10)と警告しています。怒りや憤りの勢いに乗って他人を激しくののしるようなことを、決してしてはなりません。ハンナはそのような言葉を長い間、ペニンナから受け続けて来たのです。しかし、ハンナはこう言っています。

「まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは確かです。」ハンナが受け続けた屈辱を主はすべて知っていてくださったのです。そして主はハンナの祈りに答えてくださったのです。主のみわざは確かだったのです。

4~10節は、主のみわざの確かさを歌っています。

4,5節、「勇士の弓が砕かれ、弱い者が力を帯び、食べ飽いた者がパンのために雇われ、飢えていた者が働きをやめ、不妊の女が七人の子を産み、多くの子を持つ女が、しおれてしまいます。」

主を畏れない勇士の弓は砕かれ、物の豊かな社会でいつも食べ飽いて満腹していた者がパンのために職を求めるようになり、ペニンナのように多くの子を持って自分を誇っていた女がしおれてしまい、反対に、主を畏れていながらも、この世から見下されていた弱い者が力を帯び、日々のパンにも飢えていた者が、安息日には働きを止めて主を礼拝するようになり、子どもが与えられずに悩み苦しんでいたハンナのような女が七人(多くのという意味)の子を産むようになるのです。こうして、主を畏れる者に必ず主の恵みと祝福が伴うことによって、主のみわざが確かであることが、だれの目にも明らかにされるのです。

「不妊の女が七人の子を産み」は、おそらく、やがて産まれてくるであろうハンナの子どもたちを預言的に歌っているのかも知れません。しかし21節を見ると、ハンナの産んだ子どもは三人の息子と、二人の娘と、サムエルの六人であったようですから、この「七人」は子どもの人数を表わしているというよりも、ヘブル人のよく用いる完全数の第二義的な意味での十全さを表わしていると思われます。すなわち「多くの子」という意味です。

6節は、神には、殺生与奪の権があること、

Ⅰサム 2:6 【主】は殺し、また生かし、よみに下し、また上げる。

7,8節、神には、社会的に富ませたり、貧しくさせたり、地位を高くしたり、低くされたりする権威があります。

2:7 【主】は、貧しくし、また富ませ、低くし、また高くするのです。2:8 主は、弱い者をちりから起こし、貧しい人を、あくたから引き上げ、高貴な者とともに、すわらせ、彼らに栄光の位を継がせます。・・・

それ故、富む者も、地位ある者も、自分を誇ることはできないのです。明日、自分がそこからひきずり下ろされ、貧しい、ちりの中にいた者が高貴な者とともに栄光の位に着くかも知れないからです。事実、ダビデは一介の羊飼いであったところから、王の座に引き上げられたのです。そればかりでなく、永遠の滅びに行くはずの罪人であった私が、キリストとともに天の所に座らせていただける者となったのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、-あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。- キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(エペソ2:4~6)

8節後半では、天地創造のみわざを取り上げています。

2:8 ・・・ まことに、地の柱は【主】のもの、その上に主は世界を据えられました。

9節、「主は聖徒たちの足を守られます。」

Ⅰサム 2:9 主は聖徒たちの足を守られます。悪者どもは、やみの中に滅びうせます。まことに人は、おのれの力によっては勝てません。

「足」は、毎日の歩み、試練や苦難を乗り越えていく生活、信仰の戦いのことです。主はご自身に身を避けて、信頼して従って来る者たちを確かにお守りくださるのです。ハンナはこのことを自分の身をもって体験していたのです。

しかし悪者ども、すなわち、自分中心で、自分を誇っている者は、ペニンナのように子どもが大勢いて、優勢を誇っていても、瞬く間にやみの中に滅び失せてしまいます。ハンナは、人は自分の力を頼りとし、誇りやすいけれども、「まことに人は、おのれの力によっては勝てません。」と言ったのです。自分の力でも、他人の力でも、人間の力に頼っている者は、必ず、滅びに向かうのです。

「鼻で息をする人間をたよりにするな。そんな者に、何の値うちがあろうか。」(イザヤ書2:22)

「軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにはならない。」(詩篇33:17)

「主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」(詩篇118:8,9)

「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。」(ピリピ3:3)

「主に信頼し、主を頼みとする者に祝福があるように。」(エレミヤ書17:7)

ハンナはいかなる問題も、人の力、自分の力では勝てないことを経験として知ったのです。パウロも自分の信仰経験の告白として次のように言っています。

「しかし主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(コリント第二 12:9~10)

10節の前半は、主の支配とさばきの権威が地の果て果てにまで及んでいることを言っています。

Ⅰサム 2:10 【主】は、はむかう者を打ち砕き、その者に、天から雷鳴を響かせられます。・・・

ハンナには、主がただ一つのイスラエル民族の神ではなく、天地宇宙を創造され、全人類を支配し、主にはむかう者を打ち砕かれる全地の主であることが分かっていたのです。

10節後半の「ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」は、特別な預言的意味を持っています。

Ⅰサム 2:10  ・・・ 【主】は地の果て果てまでさばき、ご自分の王に力を授け、主に油そそがれた者の角を高く上げられます。」

ハンナがこの歌を祈りとしてささげた後も、長い間、イスラエルには王は起きませんでした。しかしギデオンがミデヤン人からイスラエルを救った時、イスラエル人はギデオンに、「あなたも、あなたの子息も、あなたの孫も、私たちを治めてください。」(士師記8:22)と言って、ギデオンの家系が王となるように要請しています。それ故、ハンナでさえ、これまでの多くの士師のもとではイスラエルの国が堅立できなかったことと、当時の祭司エリの息子たちの堕落ぶりを見た時、もっと強力な王による中央集権政府が必要であると感じていたのです。

しかしハンナの、この預言的なことばは、サウル王やダビデ王によって実現したことにとどまらず、それをはるかに越えたイエス・キリストの王国を求めていたことを表わしています。聖書の中でハンナが初めて「主に油そそがれた者」という言葉を使っています。この言葉のヘブル語はMashiah(マシアク)で、この語から派生した語が「メシヤ」です。「キリスト」はヘブル語のマシアクをギリシャ語で表わした語です。この語からすると、ハンナにはメシヤへの信仰があったと思われます。このハンナの賛歌以後、イスラエルの預言者時代に入り、メシヤヘの期待が非常に強くなっていったのです。そして、イエス・キリストの初臨(人となってご降誕されたこと)と再臨の両方において、ハンナが預言したキリストの王国は成就するのです。

あとがき

ハンナの祈りは国を救ったと言えるでしょう。ひとりの母の苦しみの中からの祈りによってサムエルが生まれ、サムエルは最悪の環境の中で成長しましたが、母の祈りに支えられて、不信仰な悪に染まらず、神の人として育ちました。サムエルの息子たちは残念ですが、サムエルの信仰を受け継がず、堕落の道に歩みましたが、神はダビデを備え、主の王国の実現に導かれています。主はご自分のご計画を必ず実現されます。その中に、ひとりの母ハンナの祈りを用いられたのです。今も主は、あなたの祈りを用いられ、あなたの息子や娘を用いて、国の民を救おうとされています。どんな教育よりも、両親の真剣な祈りが娘、息子の霊魂を育てるのです。これは稀れなことではありません。あなたもハンナに。

(まなべあきら 2006.6.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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