音声:信仰の列伝(30) 七日間回る へブル人への手紙11章30節

2017年3月5日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章30節
11:30 信仰によって、人々が七日の間エリコの城の周囲を回ると、その城壁はくずれ落ちました。

<インフォメーション>

イスラエルの民は、六日間、一言も声を出してはいけなかったのです。

イスラエルの民は民数記26章51節では、60万1730人と記されています。これは成人男子だけの人数です。これに女性と子どもを加えると、約200万人いたことになります。

この巨大な群衆は、角笛だけを鳴らして、民衆が無言で城壁の周りを回られて、エリコの住民は、どんな気持ちがしたでしょうか。

しかし、二百万人もの大群衆が、一言も、無駄話せず、黙って六日間、エリコの城壁の周りを行進させることは、神の奇蹟が起きないとできません。大群衆の口を封じることは、人の力で警告してもできません。

ある小学校の校長先生が、生徒の保護者たちにお話した時、保護者たちは最初から最後まで私語を続けて、校長の話が聞き取れないくらいざわついていたと、ある学校の先生が話しておられました。

教会で、説教中、ざわついた私語があるようなら、主の礼拝は行なわれていません。主を礼拝する霊を持っていません。神の前に、全員が沈黙して、神の御声を聞く性質を各々のたましいの内に持っていないと、神の民ではありません。

第一の試みは、イスラエルの大群衆が、一人もしゃべらず、黙って行軍できるかどうかです。「こんなことで勝てるかしら。」と言うような無駄口が出ないか、です。

まさに、エリコの戦いは、イスラエルの民の一人一人の信仰の自覚にかかっていたのです。これを六日も続けるのですから、至難の業です。信仰の戦いは、敵との戦いではなく、自分との戦いです。

主はいつでも、私に困難の中で最後まで神のみことばに信頼し、信じて忠実に従い切ることを求めておられるのです。

恐らく、エリコの住民はただ黙って見ていたのではないでしょう。六日目頃には、城壁の上から、無言で行進しているイスラエル人をののしり、なじったに違いありません。それでも、イスラエル人は気を緩めず、黙っていたのです。

どうすれば、このことができるのでしょうか。それは、信仰者一人一人の内に、聖霊の満たしと臨在が濃密に与えられること以外にありません。私たちが聖霊の満たしを受ける時、人間の表現できることばを失ってしまうのです。それで、神の前で沈黙してしまうのです。

やがてこの沈黙から解かれると、賛美と勝利の証しが溢れて来ます。いつも呟(つぶや)いている人に、このような経験はありません。

次に、七日目です。七日目は、朝早く、夜明け前から回り始め、七回回りました。「七回」は、神の完全数です。信仰が主に受け入れられたことを意味します。七日目に、祭司が角笛を吹いた時、神の民は勝利の鬨(とき)の声を上げるように命じられました。

信仰者には、沈黙を守るべき時があり、声を上げるべき時があります。沈黙すべき時に、不信仰な呟(つぶや)きを言う者は、声を上げて証しすべき時に口を開かないのです。これは、必ず、敗北をもたらします。

モーセの時代に、カデシュでイスラエルの民が泣いて、不信仰を呟(つぶや)いた時、カレブとヨシュアだけは堅い信仰の告白の声を上げました。主はこのことを覚えて下さって、約束の地に入れて下さり、更にカレプは果敢な信仰を表わしています。

私たちも、周りの人々に惑わされずに、神の前に沈黙と、証しの声を上げましょう。

一人で声を上げることも大事ですが、みんなで一致して声を上げることも、証しのために大切です。と言っても、騒ぐだけではいけません。鮮明に証しをする生活をすることです。


古代エリコがあったと言われる「テル・アッスルターン」の古代城壁の跡です。

<今週の活用聖句>
テサロニケ人への手紙第一、1章3節
「絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。」

写真は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1901年に出版されたBible cardのイラスト「The Fall of Jericho(エリコの陥落)」 (Wikimedia Commonsより)