聖書の探求(250,251) 士師記17~18章 ミカの偶像、偶像の略奪、ダン部族のパレスチナ北端の地への移住

〔17~21章について〕

士師記の最後の17~21章は、士師記の記録の付録として記されているようです。

この部分には、二つのことが記されています。

1、17、18章、ダン人の移住とパレスチナ北端の地にダンの町をつくり、神の宮を持っていたこと。

2、19、21章、ベニヤミン族の滅亡の危機

これらの出来事が士師記のいつの時代に行なわれたのかは確定することができませんが、この中で行なわれていることは、法が無視されており、暴虐が満ちています。まさに無政府状態になっており、国民は法的に、また霊的に秩序を失ってしまっています。

この部分には、エフライム出身の「ミカ」と、「モーセの子ゲルショムの子ヨナタン」(18:30)と、「アロンの子エルアザルの子ピネハス」(20:28)の三人の実名だけが記されています。

その他の人々は「ユダ族」とか、「ギルアデの住民」とか、部族とか、その地に属する者たちとして記されているのが特徴です。これは国民全体が、はなはだしい無法の堕落した状態に陥っていたことを表わしています。

この付録の部分に記されていることがいつ起きたのかは分からないとしても、それが書き記された時は、いつだったのか、というなら、この部分には四回、「そのころ、イスラエルには王がなく」(17:6、18:1、19:1、21:25)と言っていますから、この記事が書かれた頃には、ある程度、王国が確立されていたと考えられます。

また18章30節には、「国の捕囚の日まで」という、北王国の捕囚についての言及がなされていますから、北王国の捕囚が行なわれたBC723~722年の後に、あるいは、その頃にこの記事が書かれたものと考えられます。

しかし、19章から21章までのイスラエルの全部族の全軍隊とベニヤミン族の戦いと、ベニヤミンの敗北、そしてベニヤミン族が絶えないようにしようとする策略の記録は、士師記の時代の初期のことであり、20章28節では、「当時、アロンの子エルアザルの子ピネハスが、御前に仕えていた。」と記されています。エルアザルは祭司としてヨシュアと共に働き、彼の死後、その息子ピネハスが祭司として奉仕していたのです(ヨシュア記24:33)。ですから、「ピネハスが、御前に仕えていた。」と言われている時期は、士師記のごく早い時期となります。

それ故、この付録の部分に書かれている内容は、士師記の初期の事件であり、これが記録として書かれた時期は、北王国の捕囚後のBC723~722年の後と考えることが適当と思われます。

17~18章

この二章は、イスラエル十二部族の中で、あまり目立たなかったダン部族が勢力を拡大している記事を記しています。彼らの勢力拡大は実に無謀な暴力によるものでした。

17~18章の分解

1、17:1~6、ミカの神殿
2、17:7~13、ミカ、レビ人を雇う
3、18:1~6、五人のダン人の来訪
4、18:7~10、ライシュ偵察の報告
5、18:11~13、六百人のダン人の移動
6、18:14~20、ミカの神殿の略奪
7、18:21~26、ダン人の逃亡
8、18:27~31、ライシュ襲撃と定住

17:1~6、ミカの神殿

士17:1 エフライムの山地の出で、その名をミカという人がいた。

1節、「エフライムの山地」は、ヌンの子ヨシュアが葬られた地であり、祭司エレアザルもエフライムの山地に葬られています(ヨシュア記24:30,33)。

ヨシ 24:29 これらのことの後、【主】のしもべ、ヌンの子ヨシュアは百十歳で死んだ。
24:30 人々は彼を、エフライムの山地、ガアシュ山の北にある彼の相続の地境ティムナテ・セラフに葬った。

ヨシ 24:33 アロンの子エルアザルは死んだ。人々は彼を、彼の子ピネハスに与えられていたエフライムの山地にあるギブアに葬った。

問題は、この特権ある地のミカという息子から始まっています。「ミカ」という名は「主のようなもの」あるいは「主に似ている人はだれか」という意味です。「ミカ」の名をつけている人は、聖書中、他に四人います。

1、歴代誌第一 5:5、ルベンの子孫

2、歴代誌第二 34:20、アブドンの父ミカ(列王記第二 22:12では、「ミカヤの子ア
クボル」となっており、アブドンはアクボルとも呼ばれていたようです。)

3、歴代誌第一 8:34、サウル王の子ヨナタンの孫に当たる、メリブ・バアルの生んだミカ

4、ミカ書1:1、預言者でモレシェテ人ミカ

2節、ミカは母親の銀千百枚を盗んでおり、母親が盗んだ者をのろっている話が、彼の耳に入ったのです。

士 17:2 彼は母に言った。「あなたが、銀千百枚を盗まれたとき、のろって言われたことが、私の耳に入りました。実は、私がその銀を持っています。私がそれを盗んだのです。」すると、母は言った。「【主】が私の息子を祝福されますように。」

彼は母親ののろいに恐れを感じて、自分から告白して、返したのです。母親はその息子の行ないを喜び、「主が私の息子を祝福されますように。」と言っています。

3節、この母親は息子には甘く、息子が盗んだことに対して叱ることもせず、責任を取らせることもせず、信仰的にも銀細工人に銀二百枚を渡して彫像と鋳像を造らせています。

士 17:3 彼が母にその銀千百枚を返したとき、母は言った。「私の手でその銀を聖別して【主】にささげ、わが子のために、それで彫像と鋳像を造りましょう。今は、それをあなたに返します。」

母親は「私の手でその銀を聖別して主にささげ、」と敬虔な宗教的な言葉を使っていますが、その内容は偶像を造らせることでした。この母親はモーセの十戒の「自分のために、偶像を造ってはならない。」という戒めを犯したのです。

「鋳像」という語は「おおい」という意味がありますから、おそらく木で造った像に銀のおおいをかぶせていたものであると思われます。

「わが子のために」とは、「わが子の盗みの罪が赦されるために」という意味を持っているのでしょうが、すべて真の信仰の意味が伴っていません。
そればかりでなく、盗んだ銀を、もう一度、「今は、それをあなたに返します。」と言っています。

士 17:4 しかし彼は母にその銀を返した。そこで母は銀二百枚を取って、それを銀細工人に与えた。すると、彼はそれで彫像と鋳像を造った。それがミカの家にあった。

このように親がどんなに信仰深い言葉を使っていても、その実体が全く偽り物であれば、その子どもたちに及ぼす悪影響は測り知ることができません。しかし、ここに見られるミカとその母のことは、イスラエル人に蔓延しており、これが「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行なっていた。」(17:6)と言われていることの一例です。神のみことばと、みこころを正しく解き明かし、語り伝える預言者がいなくなると、昔も今も、たちまち世界の人々は、自分勝手な道に走って行ってしまうのです。

「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎(とが)を彼に負わせた。」(イザヤ書53:6)

「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。」(詩篇119:176)

「あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(ペテロの手紙第一 2:25)

5節、ミカは自分の神の宮を持っていました。

士 17:5 このミカという人は神の宮を持っていた。それで彼はエポデとテラフィムを作り、その息子のひとりを任命して、自分の祭司としていた。

彼はその宮を守るために、自分の息子のひとりを自分の祭司に任命していました。ここで「任命した」とは、「自分の管理のもとにおいた」という意味です。これを見ると、ミカには複数の息子がおり、祭司として働くほどの年令に達していました。またこの神の宮は、家の守り神であったと考えられます。

彼は、この宮を守るための、エポデとテラフィムを作っています。エポデは祭司が神の宮でとりなすために着る衣です。テラフィムについては、ラケルがヤコブとともに、兄ラバンのもとから逃げ出す時に、盗み出した記事があります(創世記31:19,34,35)。この時のテラフィムも、ラバンの家で守り神として用いていたものと思われます。

こういうようにイスラエル人の間にも、イスラエルの神、主を礼拝するのではなく、各個人の家の守り神を持つ異教の習慣が侵入してきていたのです。宗教的無秩序も相当深刻になっていたのです。

6節は、これらの有様を語っています。

士 17:6 そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。

イスラエルには民を導くための信仰の指導者も、政治的指導者もなく、みな、自分に都合のいいことを行なうようになっていたのです。

どんな人でも、唯一の真の神と、神の権威ある聖書から離れる時、彼らと同じ状態に落ちていくのです。

17:7~13、ミカ、レビ人を雇う

この箇所には、自分の神の宮を守ろうとしていたミカにとって、都合の好い人物がやって来たことを記しています。
その人物の名は記されていません。この部分の特徴の一つは四人の人の名以外、その名が記されていないことです。それは各々が自分の与えられていた地を離れていたり、無責任な行動をとっていたことを表わしていると思われます。

士 17:7 ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で、そこに滞在していた。

7節の「ユダのベツレヘムの出の、ユダの氏族に属するひとりの若者がいた。彼はレビ人で」とあるのは、ユダの氏族の住む地で生活していたレビ人の若者の一人でしょう。レビ人は各部族の間に分散して生活していたからです。レビ人は主の宮に仕える職務が命じられていましたが、この頃には、その職務も行なわれていませんでした。この若いレビ人も、自分の生活する場を求めて、ベツレヘムを離れて北に向かって旅をして、エフライムの山地のミカの家にやって来たのです。多分、このレビ人はミカに「仕事を求めている」ことを話したのでしょう。

士 17:8 その人がユダのベツレヘムの町を出て、滞在する所を見つけに、旅を続けてエフライムの山地のミカの家まで来たとき、
17:9 ミカは彼に言った。「あなたはどこから来たのですか。」彼は答えた。「私はユダのベツレヘムから来たレビ人です。私は滞在する所を見つけようとして、歩いているのです。」

10節、ミカは自分の宮の祭司に、自分の息子の一人を当てていましたが、レビ人ならもっとふさわしいと思って、自分の所に住んで、自分の家の宮の祭司になってくれるように頼んでいます。

士 17:10 そこでミカは言った。「私といっしょに住んで、私のために父となり、また祭司となってください。あなたに毎年、銀十枚と、衣服ひとそろいと、あなたの生活費をあげます。」それで、このレビ人は同意した。

「私のために父となり」の「父」とは、名誉と尊敬を表わす言葉です。
ミカは、年に銀十枚、報酬を払うことと、祭司としての完全な一着の衣装と、生活費を与えることを約束しました。

11節、このレビ人の若者は、好条件の職を約束されたので、ミカと一緒に住むことにし、ミカの息子たちのひとりのように扱われたのです。彼はミカに気に入られたことを示しています。

士 17:11 このレビ人は心を決めてその人といっしょに住むことにした。この若者は彼の息子のひとりのようになった。

12,13節、ミカは幾分か、イスラエルの歴史を知っていて、レビ人なら祭司の働きをするのにふさわしいと思ったのでしょう。それ故、レビ人の若者が自分の家の宮で祭司となってくれるなら、「主が私をしあわせにしてくださる。」と確信したのです。

士 17:12 ミカがこのレビ人を任命したので、この若者は彼の祭司となり、ミカの家にいた。
17:13 そこで、ミカは言った。「私は【主】が私をしあわせにしてくださることをいま知った。レビ人を私の祭司に得たから。」

ここで、ミカが「主(ヤーウェ)」と言っていることに注意してください。ミカは自分で勝手に自分個人の神の宮を造り、そこにテラフィムの偶像を安置していたにも関わらず、「主(ヤーウェ)が私をしあわせにしてくれる。」と信じたのです。ミカは、主も偶像も区別がつかないほど不信仰な状態になっていたのです。

アロンが金の子牛の偶像を造った時も、人々は、「これがあなたをエジプトの地から連れ上ったあなたの神だ。」と言ったのです(出エジプト記32:4)。これは今日の、神々なら何でも同じだと思っている人々と同じです。これはまた、教会堂があり、教会の組織があり、毎週礼拝式が行なわれていても、ひとり一人の心の中で礼拝されているお方がイエス様でなければ、ミカと同じ不信仰を犯していることになります。それでも「主が私を祝福してくださる。」と確信しているなら、それはもはや異教であり、真の信仰ではありません。

18:1~6、五人のダン人の来訪

1節には、「そのころ」が二回記されています。

士 18:1 そのころ、イスラエルには王がなかった。そのころ、ダン人の部族は、自分たちの住む相続地を求めていた。イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。

初めの「そのころ」は当時のイスラエル全体が無秩序な無政府状態になっていたことを告げています。二番目の「そのころ」はミカとは関係のない所で、やがてミカに関わってくることが起きていたことを告げています。

ヨシュアの時の、カナンの地の相続において、ダン族に割り当てられた相続地は、ヨシュア記19章40~48節に記されており、そこはペリシテ人の住居地と接しており、ペリシテ人からの圧力が絶えずあり、その力は大きくなっていたのです。
そこでダンの人々は、もっと安全に生活できる相続地を求めて偵察隊を送り出そうとしていたのです。

「イスラエルの諸部族の中にあって、相続地はその時まで彼らに割り当てられていなかったからである。」とは、ダン族が彼らに割り当てられた領地を十分に占領していなかったことを指しています。

2節、そこで、五人の勇士たちを偵察員として派遣しています。

士18:2 そこで、ダン族は、彼らの諸氏族全体のうちから五人の者、ツォルアとエシュタオルからの勇士たちを派遣して、土地を偵察し、調べることにした。それで、彼らに言った。「行って、あの地を調べなさい。」彼らはエフライムの山地のミカの家に行って、そこで一夜を明かした。

彼らはツォルアとエシュタオル出身の勇士でした。ツォルアは、サムソンの父マノアの出身地であり、サムソンの出身地でもあります。サムソンもダン人であり、彼もまたペリシテ人の圧力を経験していたし、ペリシテ人と接することには慣れていたのです。

偵察員は、「行って、あの地を調べなさい。」と言われています。「あの地」と言っていますから、ある程度、調べる地を指定されていたものと思われます。そして偵察員はエフライムの山地に行っています。しかしエフライムの山地は通過点でした。

士18:3 彼らはミカの家のそばに来、あのレビ人の若者の声に気づいた。そこで、そこに立ち寄り、彼に言った。「だれがあなたをここに連れて来たのですか。ここで何をしているのですか。ここに何の用事があるのですか。」

彼らは一夜を明かすために、ミカの家に近づいた時、そこで彼らはエフライム人の発音できない南部地方の人の発音するアクセントのある声を聞いたのです(士師記12:5,6)。彼らは、レビ人の若者に「ここに来た経緯や、ここで何をしているのか」を尋ねています。これは南部の人が自分の相続地を離れて生活していることへの疑問があったからです。レビ人はミカに雇われて、ミカの神の宮の祭司をしていることを話しています。

士 18:4 その若者は彼らに言った。「ミカが、かくかくのことを私にしてくれて、私を雇い、私は彼の祭司になったのです。」

偵察員たちは、彼が祭司をしていることを聞いた時、自分たちの偵察の旅が成功するかどうか、神に伺ってくれるように頼んでいます。

士 18:5 彼らはその若者に言った。「どうぞ、神に伺ってください。私たちのしているこの旅が、成功するかどうかを知りたいのです。」

6節、レビ人の祭司は占った後に、「安心して行きなさい。あなた方のしている旅は、主が認めておられます。」と答えています。

士 18:6 その祭司は彼らに言った。「安心して行きなさい。あなたがたのしている旅は、【主】が認めておられます。」

この意味は、「安心して行きなさい。あなたがたが行こうとしている道は、主の前にあります。あなたがたの冒険は、主が好意をもって見ておられる。」で、ダン人には気に入られる答えでした。

ここでレビ人がどのような占いの方法をとったかは記されていませんが、当時の占いは通常、器の中にサイコロのように、いくつかの石を入れて振ってから、その石を取り出すか、投げ出すことによって行なわれていました。この占いがどのようなものであったにしても、これが主の答えであるとするのは、主を冒涜しており、異教と真の唯一の生ける神とを混合した世俗宗教に堕落しています。

後に、ダン人はこの占いの通り成功しましたので、このレビ人の祭司を自分たちの祭司として連れて行くのですが、占いが当たっても、当たらなくても、それは主の示しではありません。こうして真の宗教が衰えてくる時、至る所で、自分の運勢を占う占いが流行してくるのです。占いが流行することは、その時代の人々が真の信仰を失い、不安な心になっており、たえず何かにおびえている状態になっていることを示しています。こういう時こそ、真の信仰の回復が必要なのです。

18:7~10、ライシュ偵察の報告

士 18:7 五人の者は進んで行って、ライシュに着き、そこの住民を見ると、彼らは安らかに住んでおり、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきっていた。この地には足りないものは何もなく、押さえつける者もなかった。彼らはシドン人から遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかった。

ダンの偵察隊の目的地は、ライシュでした。ライシュはエフライムの山地から更に160Kmほど北の町でした。今のテル・エルクヮディです。

ライシュの住民はフェニキヤ生まれで、シドン人のならわしに従って、平穏で安心しきった生活をしていたと記されています。土地は肥沃で、豊かな自給自足の生活をしており、シドンからも遠く離れており、元の仲間との交渉もなく、豊かであるが、孤立した町でした。これは侵略者たちにとっては格好の獲物となったのです。

8~10節、五人の偵察員はすぐにツォルアとエシュタオルに引き返し、報告しています。

18:8 五人の者がツォルアとエシュタオルの身内の者たちのところに帰って来たとき、身内の者たちは彼らに、どうだったかと尋ねた。
18:9 そこで、彼らは言った。「さあ、彼らのところへ攻め上ろう。私たちはその土地を見たが、実に、すばらしい。あなたがたはためらっている。ぐずぐずせずに進んで行って、あの地を占領しよう。
18:10 あなたがたが行くときは、安心しきっている民のところに行けるのだ。しかもその地は広々としている。神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。その場所には、地にあるもので足りないものは何もない。」

彼らはすぐに攻め上って行って、占領することを勧めています。
「安心しきっている民」とは、無防備で、何の危機も感じていない民。そしてどこからも援軍を受けることができない民。その地はダン人が居住するには十分に広く、産物が豊かであり、その上、「神はそれをあなたがたの手に渡しておられる。」と、ミカの家の祭司が言った言葉を確かめるかのように報告しています。

18:11~13、六百人のダン人の移動

士 18:11 そこで、ダン人の氏族の者六百人は武具を身に着けて、そこ、ツォルアとエシュタオルから旅立ち、

五人の偵察員の報告を受けて、すぐに応じたのは、ダンの部族のほんの一部の人々で、六百人のダン人が戦いのための武具を身につけて、彼らの住んでいたツォルアとエシュタオルの家から旅立ったのです。彼らはペリシテ人の圧迫のない新地を求めて出発したのです。

12節、彼らの最初の宿営地は、ユダのキルヤテ・エアリムです。

士 18:12 上って行って、ユダのキルヤテ・エアリムに宿営した。それで、その所はマハネ・ダンと呼ばれた。今日もそうである。それはキルヤテ・エアリムの西にある。

ここは、ヨシュアの所に訪れたギブオン人の町の一つ(ヨシュア記9:17)で、エルサレムから北西13Kmの所です。この地はキルヤテ・バアルとも呼ばれ、ユダとベニヤミンの領域との間の西の境界近くにありますが、ユダに属していました(ヨシュア記15:60)。この地が「ユダのキルヤテ・エアリム」と記されているのは、士師記の記録が正確であったことを示しています。

このユダのキルヤテ・エアリムを「マハネダン(「ダンの宿営」という意味です。)」と呼んでいます。13章25節でも、主の霊がサムソンを揺り動かし始めた所を「マハネ・ダン」と呼んでいます。これは地名というよりも、ダンの宿営を表わす言葉だと思われます。

「今日もそうである。それはキルヤテ・エアリムの西にある。」は、士師記が書かれた時代にもダンの宿営があり、それはキルヤテ・エアリムより西に移っていたことを示しています。これは恐らく残りのダン人の宿営が移動していたのでしょう。

13節、六百人のダン人は、そこから更に北に進んで、エフライムの山地のミカの家にやって来ています。これには目的があったのです。

士 18:13 彼らはさらにそこからエフライムの山地へと進み、ミカの家に着いた。

18:14~20、ミカの神殿の略奪

14節、一行がミカの家に近づいた時、偵察員だった五人の者は、仲間の身内に、ミカの神殿を指して、「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。」と言っています。それらの偶像を奪って、ライシュに持って行くように暗示したのです。

士 18:14 そのとき、あのライシュの地を偵察に行った五人の者は、その身内の者たちに告げて言った。「これらの建物の中にエポデやテラフィム、彫像や鋳像があるのを知っているか。今あなたがたは何をなすべきかを知りなさい。」

15節の「レビ人の若者の家」とは、ミカの神の家のことでしょう。

士 18:15 そこで、彼らは、そちらのほうに行き、あのレビ人の若者の家ミカの家に来て、彼の安否を尋ねた。
18:16 武具を身に着けた六百人のダンの人々は、門の入口のところに立っていた。
18:17 あの地を偵察に行った五人の者は上って行き、そこに入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。祭司は武具を身に着けた六百人の者と、門の入口のところに立っていた。
18:18 五人の者がミカの家に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を取った。そのとき祭司は彼らに言った。「あなたがたは何をしているのか。」

五人はレビ人の祭司に挨拶し、六百人の武装したダン人たちは威圧的に門の入口の所に立っていました。レビ人の祭司は驚いて外に出て来て、六百人の武装したダン人と一緒に門の所に立っている間に、五人の者は家の中に入り、彫像とエポデとテラフィムと鋳像を奪い取っています。

祭司はあわてて「あなたがたは何をしているのか。」と、とがめていますが、
19節、ダン人は、祭司に静かにするように命じています。

士 18:19 彼らは祭司に言った。「黙っていてください。あなたの手を口に当てて、私たちといっしょに来て、私たちのために父となり、また祭司となってください。あなたはひとりの家の祭司になるのと、イスラエルで部族または氏族の祭司になるのと、どちらがよいですか。」

そして祭司に取り引きを持ちかけています。すなわち「ダン族の一部ではあるけれども、ダン人の祭司になるのと、ミカという一人の家の祭司になるのとでは、どちらがよいか。」と持ちかけたのです。

20節、「祭司の心ははずんだ。」と記しています。彼はすぐに計算ができたのでしょう。彼は自ら、エポデとテラフィムと彫像を取って、ダン人たちの中に入って、出かけています。

士 18:20 祭司の心ははずんだ。彼はエポデとテラフィムと彫像を取り、この人々の中に入って行った。

18:21~26、ダン人の逃亡

士 18:21 そこで、彼らは子どもや家畜や貴重品を先にして引き返して行った。

21節、ダン人たちが、「子どもや家畜や貴重品(財産を運ぶ台)を先にして引き返して行った」ことは、必ず、ミカが人々を集めて追って来ることを予想していたからです。武装した者を後方に配置して、子どもや家畜や財産を先に行かせて守ろうとしたのです。かつてヤコブも、兄エサウと出会う時、同じような配慮をしています(創世記32:3~23)。ヤコブは使用人と家畜を二つの宿営に分け、その後に、二人の妻と二人の女奴隷と十一人の子どもを連れて、ヤボクの渡しを渡らせ、自分ひとりだけ、あとに残っています。

22~23節、ダン人がミカの家からかなり離れた時、ミカは気づいたのでしょう。ミカは近所の人々や自分の家の者たちを集めて、追跡して追いつき、ダン人を呼び止めましたが、ダン人は少しも動揺していません。

士 18:22 彼らがミカの家からかなり離れると、ミカは家の近くの家にいた人々を集め、ダン族に追いついた。
18:23 彼らがダン族に呼びかけたとき、彼らは振り向いて、ミカに言った。「あなたは、どうしたのだ。人を集めたりして。」
18:24 すると、ミカは言った。「あなたがたは私の造った神々と、それに祭司とを取って行った。私のところには何が残っていますか。私に向かって『どうしたのだ』と言うのは、いったい何事です。」
18:25 そこで、ダン族はミカに言った。「あなたの声が私たちの中で聞こえないようにせよ。でなければ、気の荒い連中があなたがたに撃ちかかろう。あなたは、自分のいのちも、家族のいのちも失おう。」
18:26 こうして、ダン族は去って行った。ミカは、彼らが自分よりも強いのを見てとり、向きを変えて、自分の家に帰った。

数の上でも武力の上でも圧倒的にダンのほうが強いことが分かっていたからです。ミカは追跡して来たものの、襲撃して盗まれた物を取り返すことをしないで、引き返すことしか出来なかったのです。

ここにも、イスラエル人の間にすら、偶像を略奪したことだとは言え、平気で他人の物を奪い取る暴虐が行なわれていたことが示されています。

18:27~31、ライシュ襲撃と定住

27節、ダン人はそのままミカが造った偶像とミカの祭司だったレビ人を取ってライシュに行き、容易にライシュを占領してしまいました。

士 18:27 彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。

長い間、平穏な生活を続けていて、外敵の侵入など一度も経験したことがなく、安心しきっていた人々を襲うのは簡単なことだったでしょう。彼らは自分たちを守るための何の武器も備えていなかったのです。ダン人は剣でライシュの住民を殺し、町を火で焼いたのです。これは何も残らないまでに徹底的に滅ぼしてしまったことを意味しています。

28節、ライシュの住民はフェニキヤ地方から移住して来て町を開いた人々でしたが、同族が住んでいるシドンの町から遠く離れており、助けを求めることもできず、また平穏で豊かな自給自足の生活ができていたために、まわりの民族との商業や仕事上の関係や婚姻関係もなく、孤立していたので、だれも救い出す者がいなかったのです。

士 18:28 その町はシドンから遠く離れており、そのうえ、だれとも交渉がなかったので、救い出す者がいなかった。その町はベテ・レホブの近くの谷にあった。彼らは町を建てて、そこに住んだ。

信仰は自分ひとりで、孤立して守ることができるものではありません。仕事も健康も順調な時には、他人と関わることが面倒に思うかも知れませんし、自分ひとりのほうが自分の好きなことができるので好いと思って、ひとりでいる人がいますが、このような人はライシュの人々と同じような悲劇に会う危険があります。キリストの家族はいつも互いに交わり、助け合って生活をしていくことが不可欠なのです。

ダン人が攻め取った町は、ベテ・レホブの近くの谷にあり、民数記13章21節では、モーセがカデシュから十二人の偵察員に、カナンの地を探らせた北端の地として「レボ・ハマテのレホブ」として記されています。そこはフーレ湖に注ぐ上流の渓谷の低地にありました。こうしてイスラエルの領地の長さと広さを表わす言葉として「ダン(北端)からベエル・シェバ(南端)まで」が生まれたのです(士師記20:1、サムエル記第一 3:20、サムエル記第二 3:10、同24:2)。

29節、ダン人はそこに自分たちの町を再建して、自分たちの先祖の部族の名をとってダンと名づけています。

士 18:29 そして、彼らはイスラエルに生まれた自分たちの先祖ダンの名にちなんで、その町にダンという名をつけた。その町のもとの名はライシュであった。

こうしてダンは南のダンと北のダンの二つの町が存在することになったのです。

30~31節、ダン人はここに自分たちの神の宮を建て、ミカの家から奪い取って来た偶像を安置したのです。

士 18:30 さて、ダン族は自分たちのために彫像を立てた。モーセの子ゲルショムの子ヨナタンとその子孫が、国の捕囚の日まで、ダン部族の祭司であった。
18:31 こうして、神の宮がシロにあった間中、彼らはミカの造った彫像を自分たちのために立てた。

ここで初めて、ミカの家の祭司となったレビ人を指すと思われる名が記されています。それは「モ―セの子ゲルショムの子ヨナタン」です。このヨナタンとは、おそらくミカの祭司となり、後にダンの祭司になった若いレビ人のことであると思われます。

彼の家系は「モーセの子ゲルショム」となっています。ユダヤのラビ(宗教の教師)たちは、このゲルショムをモーセの子と解釈していました(出エジプト記2:22)。しかしヘブル語聖書では「マナセの子ゲルショム」となっています。なぜ、この違いが生じたのかと言うなら、ラビたちはモーセの子孫から、このような偶像に仕えた祭司が出たことはモーセの名を傷つけることになると考え、ヘブル語のマソラ本文の中でモーセのMとSの間に訂正するという形で線を引き、その線の上にNを挿入するように記したからです。このような祭司が出るのは、モーセよりマナセのほうがふさわしいという理由によるのです。しかしラビたちは、この祭司がモーセの子孫に当たるヨナタンという人物であったことを知っていたのです。

もし、ゲルショムとヨナタンとの間に省略されている系図がないなら、ヨナタンはモーセの孫となり、ダンがライシュに移住した出来事は士師の時代の非常に早い時期に行なわれたことになります。

ヨナタンという名の意味は、「主がその人を与えてくださった」です。ヨナタンの名を付けた人は旧約聖書中、何人もいます。

①サウル王の子ヨナタン(サムエル記第一 14:39)

②エブヤタルの子ヨナタン(サムエル記第二 15:27,36)

③ダビデの兄弟シムアの子ヨナタン(サムエル記第二 21:21)

④シャマイの兄弟ヤダの子ヨナタン(歴代誌第一 2:32)

⑤ハラル人の子シャゲの子ヨナタン(歴代誌第一 11:34)

⑥ウジヤの子ヨナタン(歴代誌第一 27:25)

⑦ダビデのおじヨナタン(歴代誌第一 27:32)

⑧アディン族のエベデの父ヨナタン(エズラ8:6)

⑨アサエルの子ヨナタン(エズラ10:15)

⑩エホヤダの子ヨナタン(ネヘミヤ12:11)

⑪メリク族のヨナタン(ネヘミヤ12:14)

⑫祭司ゼカリヤの父ヨナタン(ネヘミヤ12:35)

⑬エレミヤが入れられた牢屋のあった書記ヨナタン(エレミヤ37:15)

ダン族の中に、モーセの子孫である祭司がいたとなると、ダンの町に大きな威信を与えることになります。後にヤロブアム一世が、北王国の二大国定神殿の一つにダンの神殿を選んだのも、モーセの子孫が祭司を続けていたことにあります(列王記第一 12:29)。
しかし、いかにモーセの子孫が祭司を司る神殿であると言っても、ダンの神殿は偶像を礼拝しており、主を礼拝しているシロの神殿とは区別されており、罪とされています(列王記第一 12:30)。

Ⅰ列王 12:28 そこで、王は相談して、金の子牛を二つ造り、彼らに言った。「もう、エルサレムに上る必要はない。イスラエルよ。ここに、あなたをエジプトから連れ上ったあなたの神々がおられる。」
12:29 それから、彼は一つをベテルに据え、一つをダンに安置した。
12:30 このことは罪となった。民はこの一つを礼拝するためダンにまで行った。

このダンの神殿礼拝は「国の捕囚の日まで」続きました。この「国の捕囚の日」をBC723年から722年頃のアッシリヤによる捕囚と考える人もいますが、これは恐らくBC733年~732年に、アッシリヤの王テグラテ・ピレセル三世がガリラヤ人たちを捕囚した初期の攻撃の時(列王記第二 15:29)に、ダン人の神の宮は破壊され、ダンの祭司制度と礼拝は終わりを告げたことを言っていると思われます。

またシロに神の宮があったことを記しているのも、ダンの移住とダンの祭司がシロでの礼拝が行なわれていたことと同じくらい古い時代のことであることを告げているのです。

因みに、シロの破壊はサムエル記第一には記されていませんが、アフェクの戦いの後、ペリシテ人によって破壊されたと考えられます(サムエル記第一 4:10)。その証拠はエレミヤ書7:12~15、同26:6,9、詩篇78:60~64です。それ故、シロは遅くともBC1050年頃までには破滅していたことになります。

イスラエル北部にあるテル・ダン(古代ダンの遺丘)にて。北イスラエル、ヤロブアム王の時代に建てられた神殿の遺跡。金属の枠に囲まれたところに、牛が焼かれる石造りの「犠牲の祭壇」があり、後方の人が立っている高台が「高き所」で「金の子牛」が安置されていた。
(ご参考:「たけさんのイスラエル紀行」のテル・ダン)

あとがき

すぐに心に励ましとなる聖書のことばを追い求める人は多くいますが、旧約聖書のイスラエルの歴史の中から、神が語りかけている御声を聞こうとする人は、少ないように思います。旧約の儀式や規定や歴史は難しく感じて、敬遠されがちですが、旧約はむしろ、こういうものを用いて、多く神のみこころを語っているのです。そして本当に聖書が分かってきたと実感できるのは、これらの分野が分かり始めた時です。歴史的出来事の第一義的意味やその関係を解き明かすことをしないで、何でも、すぐに霊的に解釈して、説教したり、本に書いたりする人がいますが、これは危険で、道をはずしています。健全性を欠いているのです。堅い食物も食べることのできる人になってください(ヘブル5:13,14)。

(まなべあきら 2005.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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