音声:信仰の列伝(24) 王の命令を恐れない信仰 へブル人への手紙11章23節

プロイセンの版画家 Bernhard Rode (1725–1797)による「Moses Set Out on the Nile in a Reed Basket(葦のかごに入れられてナイル川に流されるモーゼ)」(Wikimedia Commonsより)
2017年1月22日(日) 午前10時半
礼拝メッセージ 眞部 明牧師
へブル人への手紙11章23節
11:23 信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。
はじめの祈り
「信仰によって、モーセは生まれてから、両親によって三か月の間隠されていました。彼らはその子の美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」
恵みの深い天のお父様、こうして私たちを日ごとに助けて下さり、この聖日の朝、主の前にぬかづき、礼拝をささげて主とお会いして、主のみことばをいただいて、新しいいのちと力をいただいて歩めますことを感謝いたします。
どうぞ内なる霊を新たにして下さり、人を愛した恵みを深く心に経験させていただき、この一週間の歩みをも導いてください。
様々な課題の中で過ごすわけでありますけれども、イエス様が日ごとに導いてくださリ、いろいろな困難や課題の中にあっても、主の御手が隠されていることを、心から信じることができて、それを体験させていただけますように、みことばを祝してください。真理を探り当てることができますように。
尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
23節のこの節には、いくつかの重要な要素が含まれています。王、パロの命令を恐れない、信仰の中の重要な要素が含まれております。それを今日は取り上げたいと思います。
第一は、モーセの両親の信仰であります。
モーセという神のしもべを思う時に、モーセの両親の信仰をはずすことができません。モーセの両親のアムラムとヨケベデについては、聖書は多くを語っていませんが、その両親の信仰がモーセに与えた影響力は、重大で無視できません。神のしもべは、その両親の内に育まれているからです。預言者サムエルも、幼い頃、母ハンナの信仰の中で育まれていました。
モーセの場合も、「この親にしてこの子あり」という感じがします。神を畏れ、信頼し、王のパロも恐れないで、神に従う献身と信仰のもとに、神のしもべモーセが育っていったわけです。
全ての親には、子どもが神を畏れ、敬い、信頼して、礼拝する、そういう心を持つように育てる強い念願があるはずです。しかし、優れた神のしもべは、教育によっては育ちません。信仰が分からない人にとっては、神学校を出れば、教育すれば、そういう教育が人の心を育てられるかのように思ってしまいがちでありますけれども、そうではない。
モーセの誕生の時代は、イスラエル人にとって、アムラムとヨケベデにとっても最も暗黒な時代であり、苦難の時代でした。そういう時代にこそ、神様はご自分のしもべを必要とされています。
それは今も同じであります。ご存知のように世界の情勢は、急に黒雲が立ち込めるような状況に傾いてきています。そういう時に神は何を必要としているでしょうか。
モーセのような神の人だけではなくて、アムラムやヨケベデのような、富も権力もない、なんの飾りもない、堅実な信仰生活の中で神のしもべを育てる、そういう両親たちであります。地道で、堅実で、実際的な信仰を貫き通す両親のもとでは、堅実な信仰者が育ちます。
この節の中には、第一にそういう信仰が記されています。私たちが住んでいる世界は、華やかなようでありますし、何もかもが着飾っているようでもありますけれども、そういう時代に何が必要なのかを教えてくれます。
第二には、この世の王の権力や勢力を恐れないで、従わず妥協しない信仰で、困難な中で固い信仰の態度を取るという信仰が見られます。
堅固な態度を取ると、一面では偏狭な人間だと間違われてしまいますが、これは、普段から神の愛と謙遜と憐み深い親切をすることを通して、信頼されるようになります。
この世の中は、多数決社会という、長いものに巻かれろという社会に慣れてしまっています。そういう中で、信仰の態度をはっきりさせず、隠れたところでぶつぶついう始末であります。社会の中には、不平不満が満ちています。特にクリスチャンは、自分の信仰を鮮明に現わさない傾向があるのではないでしょうか。
モーセの両親のアムラムとヨケベデは、少数派であっただけではなくて、エジプト人の奴隷という立場に置かされており、非常に危険な立場にありました。彼らは、団体行動でパロに抗議したのではなくて、行列を作ってデモ行進したのではなくて、個人で、信仰で戦ったのであります。イスラエル人が民族行動を起こしたのは、モーセに率いられてエジプトを脱出した時だけであります。
クリスチャン一人ひとりが堅実な信仰で、自分が置かれたところで戦っている、アブラムとヨケベデはそういう状態であります。
クリスチャンの信仰行動は、教会に行った時だけ、元気に集団行動するだけでは力になりません。教会に何百人集まったところで、影響力はありません。未信者の人に囲まれた家庭や職場や社会において、キリストの愛の真実さを現わすことによって、光を輝かすことができます。
集団になると、個人個人の信仰の意志は鮮明でなくなります。集団の陰に隠れて振る舞っていたり、集団の熱気や雰囲気に呑まれて、あたかも自分が力あるものになったかのように錯覚してしまうのです。
皆さんもニュースを見ると、大群衆のデモ行進が世界のあちこちで行われて、そこにはテロ行為も含まれています。彼らは錯覚してしまっているんです。一人ひとりを見ると無力な孤独な人ばかりです。
クリスチャンも集会が終わって、自分ひとり未信者ばかりの社会に取り残されると、手も足も出ない、愛の証しもできない人間になってしまうのです。
アムラムとヨケベデは、奴隷という危険と孤独の中で、パロの王の命令に逆らう行動を取りました。その中に、彼らの不屈の精神と信仰と勇気とが見られます。
王に逆らう行動とはどういうものだったのでしょうか。出エジプト記の1章15節~22節を、ちょっと長いですけれども、読んでみましょう。
出1:15 また、エジプトの王は、ヘブル人の助産婦たちに言った。そのひとりの名はシフラ、もうひとりの名はプアであった。
1:16 彼は言った。「ヘブル人の女に分娩させるとき、産み台の上を見て、もしも男の子なら、それを殺さなければならない。女の子なら、生かしておくのだ。」
1:17 しかし、助産婦たちは神を恐れ、エジプトの王が命じたとおりにはせず、男の子を生かしておいた。
1:18 そこで、エジプトの王はその助産婦たちを呼び寄せて言った。「なぜこのようなことをして、男の子を生かしておいたのか。」
1:19 助産婦たちはパロに答えた。「ヘブル人の女はエジプト人の女と違って活力があるので、助産婦が行く前に産んでしまうのです。」
1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。
1:21 助産婦たちは神を恐れたので、神は彼女たちの家を栄えさせた。
1:22 また、パロは自分のすべての民に命じて言った。「生まれた男の子はみな、ナイルに投げ込まなければならない。女の子はみな、生かしておかなければならない。」
ここには私たちが、この世の権力や勢力に打ち勝つ方法が記されています。それは、この世の権力を、恐れないことですね。
ペテロはこの世を恐れたために、三度も「主を知らない」と言って主を否定してしまいました。
箴言の29章25節にあるように、「人を恐れると罠にかかる。しかし主に信頼する者は、守られる。」とありますが、「罠にかかる」とは、主を否定したり、この世と妥協したり、この世と調子を合わせたり、逃げてしまうことを指しています。しかし、主を信頼する者は守られます。
ヨハネの16章33節も読んでみましょう。有名なことばです。
ヨハネ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
有名なことばですね。患難がなくなるとは言ってはいませんけれども、世に打ち勝ってくださった勝利者であるイエス様が共にいてくださる。
第一ヨハネの5章4節~5節も読んでみましょう。
Ⅰヨハネ5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
5:5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
クリスチャンはいつも戦いが待っている、ということが分かります。恐れを持てば、その瞬間から敗北者になってしまいます。とはいうものの、恐れを抱かない人はいないでしょう。恐れるから、注意したり、警戒したりして危険を避けるのです。
恐れが不信仰につながると、ペテロのようにイエス様を3回も否定してしまいます。
しかし、恐れの内にイエス様を迎え入れるなら、世に打ち勝つ信仰の力を受けます。
イエス様は、何度も弟子たちに「恐れてはならない」と命じられました。
ガリラヤ湖の嵐の時も「わたしだ。恐れるな」と言われました。
主が十字架にかかられる直前にも、「心を騒がすな」と言われています。
恐れると、私たちの信仰は動揺します。意気消沈し、意欲や勇気を失わせてしまいます。神の光も、塩気も失わせてしまいます。
主を内に持って、恐れを追い出していただき、忍耐して、勇敢に信仰を活用していくと、必ず、主がすべてのことを益に変えて下さり、祝して下さり、勝利を与えて下さる。そういうことを体験するようになります。
恐れない人はいない。しかし、その恐れの中に、不信仰が入るか、主イエス様が入られるか、によって、結果は全く反対になってしまいます。
他人のことばにも、怒ったり、恨んだり、失望しないようにしましょう。他人の批判に過剰に反応しないことです。一緒になって怒り狂ったり、恨んだり、憎んだり、歯ぎしりしたりしないことです。主に信頼して、勝利を確信しましょう。
病気や困難にも、失望せずに、落胆せずに、主は憐み深い善なるお方で、良きことしかなさらないお方であることを確信します。ヨセフのように、苦難しか起きないように見えていても、神様はくすしいことをご計画しておられました。パウロも病の中で、弱さの内に神の力を経験しています。私たちも同じ経験をするわけです。ただ、恐れて不信仰になることだけが、私を敗北させてしまいます。
そこで、モーセの両親アムラムとヨケベデは、この困難に対して、どのように乗り越えたかをお話ししたいと思います。
第一に、その出来事は出エジプト記2章に記されています。出エジプト記の1章8節で、「さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。」と書いてあります。つまり、エジプトの王朝が変わったわけであります。ヨセフの功績を知らない別の王が、支配を始めました。王朝が変わる、ということは、王様が変わるというだけではなくて、全部が変わってしまった、ということであります。この新しい王は、ヘブル人に好意的ではありませんでした。舞台が変わったということであります。
第二に、エジプトでイスラエル人の人口が、急速に増えてきたことであります。新しいパロは、このことがイスラエルの反乱の脅威に感じられたのです。
新約の時代の、ローマ帝国の皇帝ネロの時代にも、急速に奴隷たちの間でイエス・キリストを信じる回心者が増えて、彼らがキリストの王国を築いている、という話が、ネロの耳に入りました。クリスチャンの増加があまりにも急速だったので、ネロはローマ帝国がキリストの王国に飲み込まれてしまうことを恐れて、クリスチャンの弾圧と迫害を始めたのです。その後、ローマ政府の迫害は約三百年続きますが、クリスチャンになる人の増加を止めることができませんでした。
AD313年、ローマ皇帝コンスタンチヌスは、母親の影響もあって、ミラノ勅令を出しました。それは、キリスト教を迫害することをやめて、自分の政策にキリスト教を利用することによって、ローマの繁栄を拡大しようと、方向転換をしたのです。コンスタンチヌスは自らキリスト教に改宗し、キリスト教を国の宗教、つまり国教にして、皇帝の命令によって国民全体を教会員にしてしまいました。これによって迫害は止みましたけれども、キリスト教会は、信仰のない人々をかかえ込んで、たちまちローマ教会の堕落が始まりました。迫害が止むことは幸いなことですけれども、その代償は教会のいのちを失うことでありました。
エジプトのパロも、ローマ帝国のネロも、神と、神の王国と、神の民を恐れたために、弾圧と迫害を加え続けたのです。これが現実です。
もしクリスチャンが、未信者の家族や、職場や、社会の中で、信仰の影響力を全く現わしていなかったら、反対は起きてまいりません。しかし、クリスチャンの数が増えてきて、たとえ愛の行いであっても、この世の中に影響が現れてくると、彼らは反対します。讃美歌がうるさいとか、車が危険だとか、理由にならないことでも理由にして、迫害が起きてきます。サタンが騒ぎ始めるからです。ですから私たちが、証しをしたり、伝道すると、そういうことが起きてくることを覚悟しておかなければなりません。迫害や妨害が起きてくることは、影響が出始めていることを意味しています。
エジプトの王パロは、イスラエル人の反乱や、逃亡によって奴隷としての労働力が失われてしまうことを恐れております。それで弾圧して、イスラエルの戦力になる男の子が生まれると、殺すように命じました。
こうして歴史を見ていると、本当に恐れていたのは、神の民ではなくて、エジプトのパロであることが分かります。
この世の人が信仰の邪魔をしたり、迫害したりするのは、クリスチャンの信仰の力を恐れているからであります。
近年の中国の民主化運動も、クリスチャンの力が相当含まれていると言われています。中国政府の共産党は、武力で弾圧しましたが、それは政府のリーダーたちが、民衆の力を恐れたからだ、と言われています。恐れを持ったものが咬みつくのは、動物的本能だと言われます。
しかし、クリスチャンは、反対や迫害に会うと、相手側がこちらを恐れて迫害しているのを忘れてしまって、この世の人を恐れてしまいます。このように恐れるクリスチャンは、敗北します。
ここに勝敗のカギがあります。恐れたほうが必ず、無残に敗北するということです。
恐れても、忍耐強く信仰を働かせ続ける人は、必ず勝利を見ます。
ヨシュア記の1章9節を読んでみたいと思います。
ヨシ1:9 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」
もう一つ、ヨハネ14章27節も読んでみましょう。
ヨハネ14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。
私たちも毎日、この世からの圧力の中で暮らしています。そこで、平安な心で主を証しするためには、いつも内にイエス様を持っていることが大事です。
ローマの8章31節では、こう言っています。
「これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」
これらのことが、エジプトでのモーセの両親アムラムとヨケベデの信仰の苦難の背景です。
次に、出エジプト記2章1節で、「さて、レビの家のひとりの人がレビ人の娘をめとった。」とあります。
モーセの両親、アムラムとヨケベデは、イスラエル人の中のレビ人でした。
後にこのレビ人は、神の幕屋や聖所の器具を整えたり、運んだりする仕事をするために、あるいは、賛美を歌う人や祭司に任命されるために、聖別される部族であります。このことについては、またのちほど、初子やレビ人のことについて詳しくお話する時があると思いますので、その時にお話しさせていただきます。
彼らは、神に仕える意識が高かったようであります。それが、モーセにも受け継がれています。彼らは、二人が神の民であり、この苦難の中で神のみこころに従って、結婚する意志をはっきりと表しています。この神のみこころにかなった結婚は、パロの厳しい迫害の中でも守られて、少しの隙間もなく神の摂理の御手で守られています。
アムラムとヨケベデの信仰は歩調が合っていましたが、出エジプト記2章の、パロの娘との交渉では、モーセの姉のミリヤムと母のヨケベデが、賢く、積極的に働いていることが分かります。このような危険な状態では、神の知恵によって、機敏に適切に動くことが必要です。
パロの娘が、赤子のモーセが泣いているのを哀れに思っている間に、すかさず、
「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んでまいりましょうか。」とミリヤムに言わせたのは、神様です。ここにはきわどいことが、たくさん記されていますね。
そういうように神の導き、摂理が働いていることが分かります。おそらく、アムラムとヨケベデは、パロの娘が水浴びに来る場所を選んで、パロの娘に見つけさせようと、そこに隠したことが分かります。ですから、姉のミリヤムに神の摂理の御手が、どう働くか見張らせていたわけです。これは大変大事なことであります。
私たちは祈る時、祈りっ放しにしてしまいやすい。信仰の本をあげれば、あげっぱなしにしてしまいやすい。証しも、証しのしっぱなしにしてしまいやすい。
しかしエリヤは、カルメル山上で祈った時、しもべに7回も、神のみわざが始まっていないか見に行かせています。少しでもしるしが見えたら、賢く、機敏に、適切に、次のことをしなければなりません。そのためには注意深く観察する必要があります。私たちの信仰の祈りも、証しも、様々な伝道の活動も、注意深くする必要があります。
出エジプト記の2章2節では、「・・・そのかわいいのを見て、三カ月の間その子を隠しておいた。」
ヘブルの11章23節では、「・・・彼らはその子の美しいのを見たからです。」
になっています。
出エジプト記では「・・かわいいのを見て」となっていますが、ヘブルのほうでは「・・・美しいのを見たから」となっています。
親は、自分に与えられた子供をかわいく思うものですけれども、アムラムとヨケベデが感じたのはそれだけではないようです。
第一サムエル記の16章12節でも、ダビデについて、こう書かれています。
Ⅰサム16:12 エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。「さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。」
この時、ダビデはほんの少年で、父親のエッサイの羊を飼う羊飼いの少年でした。それほど見ばえのする少年ではなかったはずです。
しかし聖書はこう言っています。「血色の良い、目が美しく、姿もりっぱだった。」
おそらく、モーセの両親も、幼子を見た時、「この子は、神に仕える者になる。」と予感したのです。ダビデの父エッサイも、サムエルの母ハンナも、同じ経験をしたに違いありません。ただの、かわいい、というだけではありません。
そこで、モーセの両親は、パロの命令を恐れず、三か月間幼子を隠しておいたのです。しかし、幼子は大きくなり、泣き声も大きくなり、隠しきれなくなり、そこで自分たちで守ることから、神の御手にゆだねることにしたのです。
出エジプト記2章3節では、アムラムとヨケベデは自分たちにできる最大のことをしています。
出2:3 しかしもう隠しきれなくなったので、パピルス製のかごを手に入れ、それに瀝青と樹脂とを塗って、その子を中に入れ、ナイルの岸の葦の茂みの中に置いた。
「瀝青と樹脂とを塗った」というのは防水加工をしているんですね。神の御手にゆだねることは、自分で何もしないことではありません。主は、私たちが自分でできることは代わりにしてくれませんから、神の知恵を頂いて、愛と信仰を使って小さなことをなすべきです。パピルスのかごを作り、そこに樹脂を塗って防水加工をしています。愛と信仰を使ってなすべきことを全部しています。そのうえで、神にゆだねると、あたかも何もしなかったかのように、主の御手にゆだねています。
私たちは通常、これらのちょっとしたことをしたくらいで何の役に立つのか、と思ってしまいやすいのです。しかし、葦で作ったかごが神様に用いられるということを信じなければなりません。
イエス様が、五千人の群衆にパンを食べさせようと言われた時に、一人の少年が、持っていた五つのパンと二匹の魚をささげました。しかし弟子たちは、それくらいで何の役に立つだろう、と言ったのと同じです。
大切なことは、主が求めておられることは、大きなことをすることではありません。信仰を働かせて、自分にできる最善のことを、惜しみなく行うことであります。主の奇跡は、その上に起きてきます。
二つ、聖書を読んでみましょう。
ゼカリヤ書4章10節
ゼカ4:10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。・・・・」
これを小さな事としてさげすみやすい。我が子をかごの中に入れて、ナイル川の岸辺に置くということが、どんなに神にとって重要なことであるか、気付かない。
マタイ25章21節も読んでみたいと思います。
マタイ25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
私たちは、大きなことには関心を持ちやすいけれども、小さなことは軽んじてしまいやすい。しかし、主はそうではないということが分かりますね。「あなたは、わずかな物に忠実だった」と言っています。このことに注意したいと思います。重大な行事や事業や儀式には大勢が参加するけれども、小さなことは無視してしまいやすい。
主は、アムラムとヨケベデの信仰の働きに答えてくださいました。
確かに、モーセの両親は、ただ幼子のモーセを葦の茂みに隠しただけではなくて、神の御手にゆだねた、ということであります。なぜならば、すぐそのあとに、神の摂理の御手が次々に働いているからです。
それは、彼らの信仰に神様が、答えてくださっていることを示しています。この世の権力を恐れない、勇気のある信仰の働きは、山をも動かす神の御手を動かしたのです。
私たちも、日常生活で信仰を活用しているならば、この信仰を経験してきているはずです。この事実を証しさせていただきたいと思います。
出エジプト記2章5節で、主は、憐み深いパロの娘を送って、葦の茂みの中の赤子のモーセを見つけさせました。もし他の者が見つけていたら、ヘブル人の男の子を見つけた、と言ってすぐに殺し、手柄にしたでしょう。
しかし神の摂理は、万が一にもそういう間違いを起こさせません。なぜなら、モーセは、イスラエルの民がエジプトを脱出し、神の民となる契約を結ぶために必要な唯一の神のしもべですから、間違いの入り込むはずがありません。
モーセの両親は、見つからないように、パピルスのかごにモーセを入れたのですが、一方では、見つけられた後のことも気になって、姉のミリヤムを見張りにつけています。つまり、見つからないようにも隠し、見つかるようにも隠したのです。とても難しい事ですね。
信仰による神の摂理の道は、右にも転ばず、左にもそれず、かみそりの刃の上を歩くような歩みをする、ということです。
申命記の5章32節~33節を読んでみたいと思います。
申5:32 あなたがたは、あなたがたの神、主が命じられたとおりに守り行いなさい。右にも左にもそれてはならない。
5:33 あなたがたの神、主が命じられたすべての道を歩まなければならない。あなたがたが生き、しあわせになり、あなたがたが所有する地で、長く生きるためである。
「右にも左にもそれてはならない。」
また、いつもお話しているように、箴言3章5節~6節では、こう言っています。
箴3:5 心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。
3:6 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。
私たちは、自分で自分の道をまっすぐにすることができません。主が、「あなたの道をまっすぐにされる」からです。私は自分で、神の摂理の道を歩むことができません。主が歩ませてくださるからです。
この神の摂理の御手は、アムラムとヨケベデが仕組んだものではありません。けれども神は、アムラムとヨケベデの信仰を祝しました。
私は、ただ全面的に主に信頼して、従うだけです。そうすることによってだけ、神の摂理の道を歩むことができます。全ての摂理は、神の御手の中で行われています。
出エジプト記2章7節で、パロの娘が水浴びに来るタイミングがあります。幼子モーセが泣くタイミングがあります。ミリヤムが、パロの娘に話しかけるタイミングがあります。すべては、人間が計算して練習したタイミングではありません。
かごを開けた時、侍女が、「これはきっと、ヘブル人の子どもです」と言った時、王の命令に従って殺さなければならない、という意味を暗示していたでしょう。
しかし神様は、幼子モーセの泣き声を用いて、パロの娘にあわれみを起こさせました。そのパロの娘の心を鋭く読み取った姉のミリヤムは、すぐさま、「あなたに代わって、その子に乳を飲ませるため、私が行って、ヘブル女のうばを呼んできましょうか。」と、パロの娘を促しています。
これらの一連の出来事は、すべて神の摂理の御手によって成し遂げられています。
こうして、一旦神の御手にゆだねられた幼子モーセを、アムラムとヨケベデは、再びその手に抱いたのです。しかも今度は、神様から預けられた子として、しかもパロの娘の養育費付きで、抱いたのです。ここに、神にゆだねることの意味が解明されています。
アブラハムも、愛子イサクを神の御手にささげました。
ハンナも乳離れしたサムエルを、祭司エリのもとに置きました。
みんな自分の最も愛している大事なものを、神の御手に渡しています。その行く末を心配せず、神を信じたのです。その結果、どの場合も神の栄光が現わされています。
神様は、失敗したことはありません。ですから、私たちも神の御手にゆだねるべきです。
最後にモーセの両親の信仰の特徴を、まとめてお話ししておきます。
四つほどお話したいと思います。
第一は、アムラムとヨケベデの信仰の歩調が合っており、苦難に耐える家庭を築いていたことです。
ここがずれていて、別れ争っていると、破滅してしまいます。アムラムとヨケベデが、モーセをどうするかについて、もっと引きとめておくか、それともナイル川に隠すか、これでもめていたなら、神は祝福することができなかったでしょう。苦難に耐える信仰は、歩調が合っている必要があります。互いに祈りあっている必要があります。
別れ争う国は立ちゆかない、とイエス様は仰いました。どんなに大勢が集まっていても、別れ争っているところに神はいません。そういう面で、アムラムとヨケベデの信仰は一致しております。そのことが、苦難を乗り越えさせた第一の大きな要素になっています。
第二には、神だけを恐れて、パロの権力を恐れなかったことです。
これは何度もみことばを開いてお話ししていますけれども、この世のものを恐れると、その奴隷にされてしまいます。神様が私たちに与えたのは、恐れの霊ではありません。
若いテモテは、恐れの霊に支配されそうになっていました。恐れの霊を与えられたのではありません。慎(つつし)みの霊を与えられたのです。神の子となる霊を与えられています。このことを間違えてはなりません。この世のものを恐れると、支配され、奴隷とされてしまいます。
神の愛と、神の御霊に満たされている者だけが、恐れから解放されているんです。
二つほど聖書を読みたいと思います。
ローマ8章15節
あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。
御霊を受けた人だけが、神様を、「父なる神様」と心から呼ぶことができる。滅びに陥れられることを恐れている奴隷の霊を受けているのではない、と言っています。
私たちが心から神の子として、喜んで感謝をささげることができるのは、子としてくださる御霊を受けているからです。私たちは、地獄に行くことが恐ろしくて、仕方なくイエス様を信じているわけではありません。愛される子どもが、父を愛するのはそのような愛ではありません。
第一ヨハネ4章18節も読んでみましょう。
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。
「きよい」ということと、「全き愛」とは同じ意味であります。恐れは、不信仰を伴ってくるわけですね。全き愛は恐れを締め出します。恐れる者の愛は全き愛になっていない、と言いました。
イエス様が私たちの内に満ちてくださるとき、神のアガペが満ちています。
パウロがローマの5章5節で言ったように、聖霊によって、神の愛が、毎瞬、私たちの心に注がれているならば、恐れの霊は消え去ってしまいます。全き愛は、恐れを締め出すからですね。
第三に、モーセの両親は、小さなことでも自分にできることを、最大限信仰を活用してやり遂げました。
彼らが、パピリスのかごを防水加工している姿を思い出してください。どんな一つの網目も残さないように、防水加工していると思います。パピルスで編んだかごを防水加工するのは、並大抵のことではないんです。その一つ一つの網目を塞ぐように、防水加工をしているんです。
小さなことではありますが、自分たちでできることを、面倒くさいことでも、最大限、信仰を活用してやり遂げました。
私たちの毎日の生活の中で、これをやり遂げることは、その信仰に対するお答えとして、神のみわざが行われることを経験するようになります。
神様は、不信仰で怠惰な者たちのためにみわざを行われることはありません。ですから、毎日コツコツ信仰を活用している人は、必ず主のみわざが行われることを体験するようになります。
いつも話していることですけれども、信仰を、知っているだけではなくて、納得しているだけではなくて、私たちの毎日の生活の中で活用してください、と申し上げているのは、信仰はそれによって神の御手を動かすからであります。
信仰を活用する、そして、完結するわけですね。必ず主はみわざを行なってくださいます。私たちにできない大きなことではなくて、小さなことに信仰を活用してやりとげていただきたい、と思います。
第四に、幼子モーセを神の御手にゆだねることによって、再び、モーセを神の者として取り戻しています。
先にお話しました通り、アブラハムもイサクを神にささげました。ハンナもサムエルをささげました。
この四つの信仰が、モーセを取り戻しただけではなくて、アムラムもヨケベデも考えてもいなかったかもしれませんが、イスラエル民族の歴史を、神の歴史として築いただけではなくて、全人類の救いの源を築いていくことになります。
私たちがしている小さなことが、神にとってどんなに重要なことに繋がっているかを、私たちは測り知ることができません。ですから私たちは今日も、小さくても、この信仰を日々に活用させていただきたいと切に願うことです。
神の命令に従って、王の命令を恐れない信仰は、偉大なことを成し遂げる準備を整えたわけです。
私たちもまた、同じ信仰を活用させていただきたいと思います。
今日は、ここで閉じさせていただきたいと思いますけれども、この一週間、私たちにも信仰の歩みを祝していただきたいと思います。
お祈り
「彼らはその美しいのを見たからです。彼らは王の命令をも恐れませんでした。」
恵みの深い天のお父様、アムラムとヨケベデの信仰の中に、私たちは無限の神のみわざを見ることができます。
神様は、私たちの小さな手のわざ、小さな働きをも祝して、その信仰の働きを見て、偉大なことを成し遂げてくださるお方であることを、心から感謝をいたします。
この一週間も、私たちのすることは小さな事かもしれません。パピルスのかごにピッチを塗ることかもしれませんけれども、そのことを通して神は偉大なみわざを成し遂げてくださいます。
そのことに私たちも気づいて、していることの小ささに価値を見失うのではなくて、そのことの中に神の偉大な恵みを経験することができますように顧みを与えて下さい。
そして、その祝福を私のこととして体験させてくださいますよう、心からお願いいたします。
この時を感謝して、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。
アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明
音声と文書:信仰の列伝(全51回)へブル人への手紙11章 目次
<今週の活用聖句>
ヨハネの手紙第一、4章18節
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。」
地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421