音声:信仰の列伝(25) 信仰による霊的覚醒(1)へブル人への手紙11章24~26節

2017年1月29日 (日) 午前10時半
礼拝メッセージ  眞部 明牧師

へブル人への手紙11章24~26節
11:24 信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、
11:25 はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
11:26 彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。

<インフォメーション>
モーセは、パロの娘の子として生活している間に、自分の力に自己過信する人間になっていたのです。モーセは本当に強い精神力を持っている青年になっていたのかというと、それは表面だけで、彼は、エジプト人を殺したことが、パロに知られていることが分かると、パロを恐れて、ミデヤンの荒野に逃げています。

彼は、エジプト生活で、王子としての最高の学問を身につけ、誇りと高慢を身につけ、自己過信を身につけていたのです。それらは、神の働きをするのに妨げになるものばかりです。

神は、この性質を取り除いて、きよめるために、ミデヤンの荒野で40年間、取り扱われ、徹底的にモーセの自己過信と誇りと高慢を打ち砕かれ、その後、主は、神の山ホレブで燃える柴の中にご自身の臨在を現わされ、モーセをきよめられたのです。

この燃えても燃え尽きない柴の木は、神の火によってきよめられたモーセ自身です。柴は、何の誇るものもない、無力なモーセ自身です。その柴に、神の火、聖霊が満ちて下さると、人が近づくことができない神の栄光を現わすのです。
モーセは最初、これを見た時、聖霊に満たされた自分を表わしているとは思えなかったでしょう。

しかし神は、自分の知恵と力に頼ることが、徹底的に取り除かれ、きよめられるまでは、どんなに才能がある人でも、用いることをしません。

「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:17)

「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時にあなたがたを高くしてくださるためです。」(ペテロ第一、5:5~6)

このモーセの姿は、今日、繁栄した社会で、自分を目だ立たせて、自己満足しようとする姿と同じです。その姿は、富を得ようとする、肉の欲の奴隷と、権力に引きずられて、苦しめられている、才能のある現代人の姿と同じです。こういう時代の、神を見い出せない人は、一見、スマートで、頑張っているようですが、行き詰っている人が多いのです。彼らは神を知ったら、全く違った人生を歩み、幸福な燃える柴の経験をするでしょう。

自分の知恵と力に頼った高慢と自己過信は、必ず、無力感、自己卑下、逃げ出すこと、自己破壊を起こします。これは、全ての人の内にある、自分中心の罪の性質が働いているからです。この事実は、聖書と聖霊によらなければ、悟ることができません。

へブル11:24~26のみことばは、モーセが成人した時に、神の側に立つ堅い信仰の決意をしたことを表わしています。そしてその後も、生涯、変わらずに取り続けた信仰の態度を言っています。

しかし、モーセが本当に自分できよめられた信仰の自覚を持って主に従い始めたのは、出エジプト記3章の燃える柴の経験からです。

<今週の活用聖句>
ビリピ人への手紙3:13~14
「‥・私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。即ち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」

写真は、ドイツの画家Gebhard Fugel (1863–1939) による「Moses vor dem brennenden Dornbusch(燃える柴の前のモーゼ)」(Wikimedia Commonsより)

地の塩港南キリスト教会
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