音声と文書:ヨハネの黙示録(24) 第一から第四のラッパ 8:6~13
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PDF文書:ヨハネの黙示録(24)
ヨハネの黙示録 8:6~13
8:6 すると、七つのラッパを持っていた七人の御使いはラッパを吹く用意をした。
8:7 第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。そして地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。
8:8 第二の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。そして海の三分の一が血となった。
8:9 すると、海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一も打ちこわされた。
8:10 第三の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。
8:11 この星の名は苦よもぎと呼ばれ、川の水の三分の一は苦よもぎのようになった。水が苦くなったので、その水のために多くの人が死んだ。
8:12 第四の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれたので、三分の一は暗くなり、昼の三分の一は光を失い、また夜も同様であった。
8:13 また私は見た。一羽の鷲が中天を飛びながら、大声で言うのを聞いた。「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」【新改訳改訂第3版】
上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「The Opening of the Seventh Seal and the First Four Sounding Trumpets(7番目の封印が解かれ、初めの4本のラッパが鳴り響く)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)
はじめに
いよいよ神様の裁きの第二のシリーズ、七つのラッパに入っていくわけですね。
1、その前に、「七つのラッパ」の幻の構図を、見ておかなければならないと思います。
このヨハネの黙示録では、ただ書かれている文章だけに意味があるのではなくて、その構成の仕方、並び方、これに深い配慮がなされているんですね。それも大きなメッセージを含んでいますので、ただ、書いてあることが何であるか、だけでは不十分なわけなんです。
① まずこの「七つのラッパ」は、最初の四つのラッパと、後の三つのラッパと、二つのグループにわけられているということなんです。
8章13節の終わりのところに、「あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」ということが書いてあります。
はじめの四つまでのラッパが一つのグループで、あとの三つのラッパ、第五、第六、第七のラッパが二つ目のグループということになります。七つあるけれども、四つと三つに分けられる。
② 最初の四つのラッパは非常に短く、次々と吹き鳴らされています。
これをよく見ると、自然界のものに影響を与えていますね。
後で学びますが、草が全部焼けたとか、山がどうなったとか、星がどうなったとか、太陽がどうだったか、と自然界に影響を与えている。勿論その影響として、人や動物も含まれています。けれども最後の三つのラッパは霊的、天界のことが記されているんです。ですから、二つのグループに分けられる。少し内容が違うというわけですね。
③ それから、もう一つ構図上の特徴は何かというと、第六のラッパと第七のラッパの間に、封印の時と同じように、挿入された記事が出てくるわけです。
これは前の所を思い出していただけると、7章を見てみると、第六の封印が解かれた後で十四万四千人の者が現れる。それからそのあとで、数え切れない白い衣を着た群衆が現れておる。これらは小羊の血で救われた聖徒の幻でありましたね。それが第六の封印と第七の封印の間に入れられている。挿入されている。
このラッパのシリーズでもですね、第六と第七の間に挿入の記事が入っている。10章1節から11章13節あたりまでですが、この内容を見ると同じなんですね。
天と地における善と悪の力の大衝突があるんです。その中で神の聖徒が、救われ、守られるという内容ですね。またしても、この挿入の記事が救いのテーマになっている。こういうふうにみますとね、非常に封印のシリーズとラッパのシリーズはよく似ているということがお分かりいただけたと思うんですね。
2、それからもう一つ前置きとしてお話しておかなくてはいけないことは、ヨハネの黙示録に記されている最後の神の審判は、ヨハネがその現象を写実的に書いたものではない、ということですね。
科学的論文ではありません。あくまでも黙示的な幻であるということを心に留めておかなければなりません。ですから、しばしばここには多くの象徴が使われているわけです。必ずしも、書いてあることが行われる、ということではない。これは正しく解釈されなければなりません。
海の三分の一が血となったと書いてありますが、これは本当に血となると言っているのか、象徴的なことを言っているのか、ということになってくる。
なぜヨハネは現実的に写実的に描写しなかったのか、といえば、それは困難だからです。人間の魂の救いとか、小羊の血潮によって聖められた聖徒たちの魂の聖さとか、最後の審判の状況というのを、ありのまま、人間の言葉で記すことは不可能だということですね。天の御国、天国については、私達はこの日本語で、あるいは英語でもどこの言葉でも、不可能ですね。ですから、ヨハネの黙示録は多くの象徴を用いて、その真理を描き出している、ということです。これを念頭において、ヨハネの黙示録を読んでいかないといけないわけですね。
どういう読み方をするかということで、異端にもなりうるわけです。この前もお話しましたが、十四万四千人を数字として読んだり、人数として読んだり、そう読めば聖書から離れてしまうんです。何人と書いてはありますが、「これはうちの教会の人数である」なんて言うと異端になってしまうわけですね。ものみの塔なんてそんな事を言っている。
Ⅰ.さて、最初の四つのラッパに入っていきたいと思います。
この四つラッパの災いをよく見てみますと、モーセの時代にエジプトに下された十の災いに似ているわけです。
たとえば、青草が全部焼けてしまう、血の海、水が苦くなって大勢の人が死ぬ、暗闇、など、これはみんなモーセの時代に、エジプトに下った十の災いの一部になっているわけですね。
これらは、神様の命令に逆らって、神様を礼拝するためにイスラエル人を釈放しなかったパロとエジプトに下された災いであるわけですね。
ですからね、ここに記されているこれらの災いというのは、神を礼拝しようとする者を妨害しようとする者への審判である事が分かる。まず、これらのことに気づいておく必要があります。また、その時その時で見ていきたいと思います。
Ⅱ.まず、第一のラッパについてみてみましょう。
7節を見ると、「第一の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、血の混じった雹と火とが現れ、地上に投げられた。」
1.「血の混じった雹(ひょう)と火」は一体何を意味するのか。
雹(ひょう)と火は今日でもしばしば、自然現象の中で破壊力をもって襲っています。栃木県とか群馬県は大きな雹が降る。そして野菜がみんなやられてしまうことがありますね。あるいは火、山火事、乾燥すると山火事が起きて、全滅してしまう。
しかしここでは、この言葉は、雹と山火事のことだけを意味しているのではなくて、
雹と火といわれた時に、これは神様が自然界を用いて行われる全ての破壊を意味しているというわけなんです。自然界を用いての神の破壊、これも封印の初めは自然界の破壊を用いておられるということが書いてありましたね。
この雹と火は「血が混じっている」と書いてありましたが、それが赤かったかどうか。「血が混じった雹と火」で、血が混じっているというのは、キリストの十字架の血が混じっているという意味ではないんです。
霊的にとらえるよりも、血が混じっているということは、その破壊が電撃的で凄まじいことを示している。血が混じった雹、というのは、神様の審判の電撃的と言いますか、人々が飲み食いし、娶(めと)り嫁(とつ)ぎ、神の審判なんて下らないと騒いでいる時に、突然に見舞われる。これはエジプトでもそうであったわけです。
2.さて、この災いがもたらすものは何か?
「地上の三分の一が焼け、木の三分の一も焼け、青草が全部焼けてしまった。」
この部分を見ますと、三分の一という言葉が出てきますね。三分の一というのはこの破壊が最終的なものではない、部分的なものであるということを示しています。だから、三分の一にこだわっちゃいけない。地球の三分の一が焼けてしまった、と考えないようにしたいですね。これは二分の一とか、三分の一とか算数をやっているんじゃないんですね。
これは最終的な神の審判ではなく、部分的なものであるということを示しているんですね。なぜ青草だけが全部焼けてしまったのか。これは青草は全部焼けても、これは地上の表面だけですから、再び生えてくる、芽生えてくる、ということを言っているんですね。
なぜこのように神の審判が部分的であるのか。
これらの審判は神の怒りではありますが、神様の憐みがあるということですね。ですから、裁きは神の警告的裁きであって、まだ最終的ではありませんから、これらのことが為されている時に悔い改める人は賢い、ということです。
ハバククの3章2節を見てみましょう。終わりのところに大事な事が書いてあるんです。終わりの2行だけ読んでみましょうか。
ハバ3:2 【主】よ。私はあなたのうわさを聞き、【主】よ、あなたのみわざを恐れました。この年のうちに、それをくり返してください。この年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。
これ、ハバククの祈りなんです。
神様に祈っているわけですが、この祈りは応えられるわけです。ですから私達は、神の憐みがある間に神に立ち返らなければならない。最後の審判の時は神の憐みはないんです。神は憐み深いお方ですが、神の憐みがあるうちに神様に立ち返る必要があるでしょうね。これは非常に大事な聖句ですよ。是非覚えておいていただきたい。
三分の一というのは神の憐みを表している。ところが人々は、この神様の憐みに対してどういう態度をとるか。ヨハネの黙示録に帰りますが、9章の20、21節を読んでみましょう。
黙9:20 これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、
9:21 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。
残念ですね。神様は憐み深く、警告的な裁きをなさって、残された者は悔い改めたかと思うと、ますます偶像を拝み、不品行を行い、神の最終的裁きのところに行ってしまう。
人間の愚かさですね。罪深さと言ってもいいかもしれません。
どうか神様の憐みを私達は頂いているわけですから、すぐに立ち返る必要があると思いますね。これが第一のラッパの記事であります。第一のラッパについてもう少しお話したいこともありますが、時間がありません、先に進みましょう。
Ⅲ.第二のラッパ。
A.8節。「火の燃えている大きな山のようなものが、海に投げ込まれた。」
この幻の根底にあるもの、当時ヨハネはエーゲ海のパトモス島にいたわけです。
その頃、有名なベスビアスという火山の爆発があった。おそらくその火山と関係があるだろうと言われているわけですね。ですから、「海に投げ込まれた」というのは、文字通り海の中にジャボンと投げ込んだ、というのではなくて、これは噴火した溶岩が海の中に流れ込んでいく様子を語っているんです。
「そして海の三分の一が血になった」と書いてありますが、これもしばしばですね、火山の溶岩が海に流れ込んで、あるいは海底火山の噴火によって海が赤く染まるというのが、今も観測されているわけです。ですから、海が血となるという言い方は、実際に血に変ったということではなかろう、と思われるわけです。
しかしこの言い方はですね、出エジプト記の7章20、21節を読んでみましょうかね。あっちこっちを開きますけれども、やはり聖書は開けるのが一番いいと思われるんですよね。ここを読むとこのあたりのことがよく分かってくる。
出7:20 モーセとアロンは【主】が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
7:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
ナイル川が血に染まった、という神の審判を表しているんですね。この幻はベスビアス火山と関係があるとしても、この幻の持つ意味は、神の裁きである。
B.さて、この裁きの結果はなんであったか。9節で、「海の中にいた、いのちのあるものの三分の一が死に、舟の三分の一が打ちこわされた。」
この破壊も部分的ですね。第一のラッパの時は、地上に下された裁きですね。地上の穀物、野菜にしろ、果物にしろ、人間に必要な穀物が打たれている。
第二のラッパの方を見ますと、海から獲れるところの生き物、魚とか魚介類が大きな打撃を受けているわけです。
Ⅳ.第三のラッパは10節~11節。
A.「たいまつのように燃えている大きな星が天から落ちて来て、川々の三分の一とその水源に落ちた。」(10節)
「たいまつのように燃えている大きな星」とは何か。これをその通りに見るなら、地上に落下してくる流星のようですね。
何年か前ですけれども、ソ連の人口衛星がカナダの草原に落下したことがあった。つい最近、アメリカの衛星が落下したこともあるんですが、海に落ちたものですから、観測した人、目で見た人がいなかったわけなんですね。
でもカナダの草原に落ちたほうは、肉眼で見た人があるわけです。その時の光景を語っているのがあるんですが、急に真っ赤に燃える大きな星が現れて、大気圏に突入したんでしょうね。みるみるそれが大きくなって、近づいてきて、そして落ちた、というんですね。
現在は、私達の地球をぐるぐる回り、使い捨てられて彷徨っている古い人口衛星がたくさんあるんです。それはもう軌道から離れていますので、少しずつ、少しずつ地球の重力に引っ張られているので、やがていつか、何処に落ちてくるかわからないんですね。
皆さんの家の屋根の上に落ちてくるかもわからない。落ち始めると、危険ですから、予報がでて、立ち退いてください、というふうになると思いますがね。
私達はですね、これを考えると安心して寝ていられなくなりますね。こういうようなことというのは、かつては人口衛星を飛ばさない時代には、そんなことはあり得るだろうかと考えていたわけですが、現実には何個か落ちてきているわけですね。恐ろしいことです。
B.この星の名は、11節、「苦よもぎ」と呼ばれている。
これは、この星が毒素を持っていることを示している。この星は、地上に落下すると水を汚染する。水が汚染されると人間に大きな打撃を与える。その水を飲む者も死ぬ。その水で栽培された野菜や果物、穀物を食べる者も死ぬ。その汚染された飼料で育てられた家畜の肉を食べる者は、毒素のゆえにみな死んでいくわけです。
数年前にですね、ソ連のチェリノブイリの原発事故が起きました。それによってヨーロッパの三分の一が汚染された。ミルクも飲めなければ、野菜も食べれない。肉も汚染されて、日本に輸入された肉も焼き捨てられたというんですが、恐ろしいことですね。
ですからこの第三の災いは、人間の生命維持のために不可欠な水が汚染されていく、及んでいくということです。
あっちこっちに人工衛星が落ちたり、原発事故が起きるようになると、日本ではまだそう騒ぎになっていないようですが、ヨーロッパや西ドイツでは原発の反対が大きな騒ぎになっているのは、ただ主義主張になっているだけではなくて、彼らの生活のために大きく響いてきてしまうわけですね。
チェルノブイリの事故によって出産がすごく減っているんですね。北欧の方では、通常の三分の一しか赤ちゃんが生まれなかった。その生まれてきた赤ちゃんはどうなるか、というのはわからないわけです。ということは、その国が滅んでいくということなんです。数十年後にはその国の人口は三分の一になるということを意味しているんですね。そうするとそれは、いかに衰退していくかがお分かりになると思います。恐ろしいことですね。
Ⅴ.さて、第四のラッパ。12節では「太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一とが打たれた」。
すなわち、この地上に光を送ってきている天体が打たれる、ということですね。これもエジプトの災いの第九番目の、三日間の暗闇と対応してますね。出エジプト記の10章22節から23節を読んでみましょうかね。
出 10:22 モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真っ暗やみとなった。
10:23 三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。
闇が襲った。
光輝く生活というのは、希望があり魅力的ですね。毎日毎日、薄暗い窓から光も入らないような生活は、耐えられなくなってくるかもしれない。暗闇はですね、神の怒りを実感させるところのものです。イエス様が十字架に架かった時も、正午から三時ごろまで、闇が襲っていますね。そして人々の心を震え上がらせているんです。闇は神の審判を実感させるものですね。
おそらく、太陽の三分の一が打たれたとありますが、正確な三分の一ではなく、部分ですから、部分日食のことをいっているのかもわからない。あるいは月の三分の一は部分月食でしょう。そして星は黒い雲で覆われているのかもしれない。
ここでは実害は示されていません。実際にどういう害があったかは記されていませんが、この暗闇の目的は、神の怒りを示すのに十分である、ということですね。
さて、これらの四つの災いはまたたく間に連続して起きている。ヨハネは、これらを人間の罪に対する神の怒りを表す破壊力として描いた、ということですね。ただの自然活動としてではなくて、神の怒りを表すための神の意志的デモンストレーションとして記されている。しかし先ほど学びましたようにどれも三分の一、つまりまだ最終的な審判ではなくて部分的であるということですね。
Ⅵ.13節「一羽の鷲が中天を飛びながら、」
A.この幻は、第四のラッパの幻とは別のものである。
しばしばですね、あと、3人の御使いがラッパを吹き鳴らすと言っていますから、ここで、第一から第四のラッパの一連の災いが終わったことを示している。第一グループが終わりました、ということですね。
封印のところでしばしば出てきたのは「もう一人の御使い」。封印を開けると、また別の御使いが現れてくるというのが書いてありますね。何度も何度も出てきました。8章の3節で、もう一人の御使いが出てきてどうしたとか、こうしたとか。
ここではもう一人の御使いではなくて、「一羽の鷲」が登場している。おそらくこれも御使いの一人であったかもわかりませんが、神様から遣わされたメッセンジャの一人でしょう。ヨハネはそれが「鷲」のように見えたわけですね。ここでは本当に鷲が飛んでいたかどうかわかりません。本当に鷲のことをいっているのか分かりませんが、しかしヨハネには「鷲」に見えたということです。
「中天」というのがあります。鳥が飛ぶところぐらいの空、誰でも見ることができる空、そんなに高い空のことではありません。人間に聞こえるように、人間の社会が分かるところぐらいに、という意味なんでしょうね。
B.この一羽の鷲は、こう叫んでいるんですね。「わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。」
これはですね、もう災いが来ているのに、なぜこう叫んだのか、ということです。
それは、これまでの審判は自然界を通してのものであり、だから神様を信じない人にはただの自然現象にしかすぎなかった。雹が降ったとか、山火事になったとかですね、火山が爆発したとか、人口衛星が落ちたとか、こういうニュースを聞いてもただの自然現象としての災いとでしか受け止めない、ということです。
エジプトの十の災いの場合でも、多分にパロとエジプト人たちもその程度にしか考えていなかったんですね。聖書は何度も「わたしを知るようになる」と語っているのはそこなんです。
人間は神様を信じない限りどんな災いが来ても、それ神の裁きであるということを受け止められない。ですから、時期が過ぎればまた好転する、というような楽観的な思いを持ちやすいですね。しかしこの鷲の言葉をきくと、「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。」と3回言われている。つまり、この災いは決して好転しない、ということです。今までのように苦しみが去れば楽になる、という考え方はあり得ない、ということですね。もっともっとひどい災いになっていくことをここでは語っているわけですね。
一度の災いなら自然現象であると思う人も、何度も何度も度重なると、やがて神による裁きと考えるようになる。
一般の人々は、神様が自然界をもちいて警告を発していても、神を認めようとはしないものだ、ということですね。それらのことが私達にわかるわけですが、彼らが逆らっているうちに人間の心というのは、神様に対して石のように頑なになっていってしまう。
そして鷲は最後に「あと三人の御使いがラッパを吹き鳴らそうとしている。」といっていますが、これはまだ三人の御使いがいて三つの災いがあるという意味ではないんですね。
これは、後の三つの災いの特質を暗示する言い方ですね。これまでの四つの災いは自然界を通して起きたものでありますが、それは部分的であった。そしてそれは逃げることもできました。ですから先ほど読んだ9章20、21節では、これらの神の裁きを受けてもなお神に逆らい続け、悪態をつき続け、偶像を拝み続ける人がいるわけですね。
けれども、最後の三つは、
①、全人類に及んで、もう逃げることができない。
②、しかもそれらは物質的な災いではない。
草が枯れるとかですね、魚が死ぬとかという問題ではなくて、人間の本質に関わる霊的な災いである、ということですね。今日でも既に霊的な災いが来ているように感じますね。
文明国では物は豊かになっている。昔のように食べ物で苦しむことはないかもしれない。しかし人間の本質に関わる人格的な分野においては、災いの状況は深刻になっているわけですね。これらは人間の暗い将来を暗示しているようですね。これからは決して好転することはないでしょう。
このことを、一羽の鷲の特別な出現によって示されているわけですね。この災いは戦争や干ばつで食物を失うこと以上に苛酷なものだということを、この鷲は表そうとしているわけですね。人間は、これから食べ物がなくて餓死するということは、世界のあちこちで現れると思いますけれども、文明社会においても豊かに食べ物があるところでも、苦しみつつ滅んでいく人が増えるということですね。便利な社会の中で、山ほど食べ物が積まれている中で、人々は苦しみつつ死んでいく。この方がもっと悲惨だということですね。
ある社会に住んでいる人達は、食べる物がなくても心豊かにその生涯を閉じるかもわからない。しかし文明社会においては、食べ物がある中で、便利な社会の中で、人々は苦しみながら滅んでいく。これは実に今の社会である、といってよろしい。
どうか私達は、こういうヨハネの黙示録をみながら、今の時代をちゃんと聖書は描き出している、ということですね。私達はこれらのことをよくわきまえて、生涯を送りたいと思いますね。このことは後に、第五のラッパから第七のラッパの幻の中に、少しずつ見ていこうとしているわけです。
今日は第四のラッパの所をお話させていただきました。
私たちはヨハネの黙示録を読みながら、これからますます進んでいこうとしているこの社会を見ることができます。
お祈り
「わざわいが来る。わざわいが、わざわいが来る。地に住む人々に。」
恵みの深い天の神様、私達はこれまで、物の少ない時代もありました。いろいろな不自由な時代もありました。そして今は物に溢れ、全く便利な世の中に変りました。
しかし人間の心の中はどういう状況になっているかといえば、物に乏しかった以上に深刻なほどに人々は、悩みと苦しみと、しかもその中でなおも神を呪いつつ偶像を拝み、悪を行っている姿を見ます。
まさにヨハネの黙示録は現代を物語っている。それがますます悪化していくことを聖書は教えてくれています。
こういう時代に私たちが生かされていることを深く思って、どうかこの世の生き方に惑わされずに、神の道をひたすら歩ませてください。そして私達の生涯にあなたの栄えを表わすことができるように、どうぞ顧みてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明