音声と文書:ヨハネの黙示録(28) 地上の教会の運命 11:1~6
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PDF文書:ヨハネの黙示録(28)
ヨハネの黙示録 11:1~6
11:1 それから、私に杖のような測りざおが与えられた。すると、こう言う者があった。「立って、神の聖所と祭壇と、また、そこで礼拝している人を測れ。
11:2 聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい。測ってはいけない。彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。
11:3 それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」
11:4 彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。
11:5 彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。
11:6 この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。【新改訳改訂第3版】
上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「Die Vermessung des Tempels und das Zeugnis der beiden Propheten(神殿の測定と二人の預言者の証)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)
はじめに
今日は、このお話に入る前に、この11章は、13節までが一つのまとまった話になっています。そこで今日は、その途中までしか読まなかったわけですが、なかなか黙示録はややこしいので、ここで少し区切らせていただきました。
この前にもお話させて頂きましたが、この11章1節から13節までが置かれている位置、これについてもう一度考えておきたい。
今まで9章、10章と続いてきましたけれども、9章の13節では第六の御使いがラッパを吹き鳴らましたね。
そして11章の15節で、第七の御使いがラッパを鳴らします。
するとこの箇所は、9章13節の第六のラッパと11章15節の第七のラッパの間に置かれている、ということが分かります。
このことは、封印の時もあったわけです。それは、第7章の記事が、第六の封印と第七の封印の間に置かれていたのと同じです。
もう一度読み比べてみるといいんですがね、どちらも一言でいえば、メシヤ、救い主によって救われた教会の民を記している。このことに注目したいわけです。ですから同じような内容が書かれているということですね。違った幻ですけれども同じような内容のことが書かれている。まずそのことを心に留めておきたいんです。
Ⅰ.さてこの11章は、10章の終わりでヨハネは巻物を食べさせられていますね。その後で、礼拝する聖所と祭壇を測るように命じられているわけです。
非常にこれは大事なことですね。
まず初めに、神の言葉が与えられた。その次に、礼拝が真実に保たれていたかを点検するように命じられている。これは、まあ、当然といえば当然命じられるべきものであるな、ということがお分かりになると思います。
もう一つ、杖のような「測りざお」をあたえられて、神殿を測量するという幻は、エゼキエル書の40章以降にもあるわけなんです。今日はエゼキエル書の方を開くことは出来ませんけれども。
1.ここでヨハネが測量を命じられた聖所というのは、一体何のことなのか。これは実は、教会のことなんです。
これを測量する、測る、ということは、これは丁度7章でですね、神の聖徒たちに神の印が押されていますね。神様の印を押された者は保護される、守られる、ということが書いてあるんです。つまり、真実な聖徒たちの保護を意味しているんです。
だから、「測りざお」で測る、ということも同じことを意味している。7章では、聖徒たちに神の印が押されていた。11章の方では「測りざお」で測る。どちらも、真実な聖徒たちの保護を意味しているということが分かります。
ところが2節をご覧いただけると「聖所の外の庭は、異邦人に与えられているゆえ、そのままに差し置きなさい」と書かれている。
「そのままに差し置く」というのは、「投げ出しておきなさい」、というのがもともとの意味だそうで、放っておきなさい、ということですね。
この「外庭」というのは何のことを言っているのか。
これは異教の人々の住む社会のことを言っているわけなんですね。そこは神の保護から切り離されているということです。
ルカの福音書を見てみましょうかね。イエス様の預言のところですね。
ルカ21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
エルサレムというのは神の都であったわけですね。イエス様はエルサレムが崩壊していく預言をここで示しているわけですが、神の都のエルサレムに異教の人が侵入してきてふみ荒らすと、書かれている。
ここでは、外庭っていうのは、教会の中にも世俗的な者が侵入してきて、教会を踏み荒らすことを預言しているわけです。つまり、教会の世俗化に対する警告、この「測りざお」で測って、世俗化していく教会の中で、それに染まらない真実な神の聖徒たちを見つけて保護する、という意味が含まれているわけですね。
現代を見ましても、教会は踏みにじられていると思うんです。
教会は20世紀までの間、外側の迫害に対して崩れたことは一度もないんです。全部いつも教会の内側が腐っていった。世俗化して崩れていってしまった。
現代もそういうことが言えると思うんですね。
だから、この「測りざお」で本当に真実な聖徒だけが神の保護を受けることができるが、教会はひどく荒らされていく、ということなんです。その時に真の聖徒と、ただ聖徒らしく装っている者とが、はっきりと区別される、つまり、測られてしまう。
外庭にいる者が測られず、そのままに放っておかれるということは、神の保護が受けられない、ということなんですね。この聖所の外庭にいる異邦人に価する。ですから、教会の中なんですね。ちょっと分かりにくい。聖所の外庭なんて外のように思いますけれども、教会の中に異教の生き方が入ってくる、世俗化ということですね。
2.1節、そのためにヨハネは、「杖のような測りざおが与えられた」。
この杖というのは、神様の保護を意味しますし、また、神の裁きも意味する。
モーセも神の杖を貰っていますね。これは神の保護を意味するし、裁きも意味する。つまり神の主権を表わすわけです。
もしこの杖で現代の教会が測られたら、何人の真実な聖徒を見つけ出すことができるだろうか。そのように思われるほど、不信仰と世俗化は教会の中に蔓延している、と言っていいと思うんです。
人間はね、いつも外しか見えませんから。華やかな教会、それは本当に栄えているように見えます。しかし、本当に測られたら、一体どうなるんだろうか。本当に真実な信仰者であろうか。なかなかそうはいかない。それは守られない、ということですね。
3.そして2節の終わりを見ますと、「彼らは聖なる都を四十二か月の間踏みにじる。」と書いてあります。
つまり四十二か月、教会が迫害を受ける期間のことなんですね。四十二か月、というと、1260日になるわけですね。1か月を30日と計算すればですね。
ダニエル書の12章11節をみますとね、ちょっと見てみましょうかね。聖書がありますから、見たほうがよく分かりますから、
ダニ12:11 常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。
ここは、アンティオコス・エピファネスの汚れた期間、迫害の期間のことを言っているんですが、そこには1290日であると、ダニエルは預言しているわけです。
ヨハネが言った時は、後の日のことでありますから、アンティオコスのことはとっくに終わっているわけです。ダニエルもこのアンテイオコスのことを言ったとともに、後の迫害のことを話していたのかもわからない。
ヨハネの黙示録の方に帰りますけれども、この日数というのは12章の6節にも出てくるんですね。
黙12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。
つまり迫害のために、異邦人の汚れた民のために、教会の内部の反乱ですね、そういう教会が踏みにじられている時に、女は荒野に逃げて、その間神様によって守られた、っていうことが書いてあるんですね。
1260日を年に直すと3年半になるわけです。「3年半」というのはユダヤ文学では、悪の勝利の期間として伝統的に使われているんです。ですから、この1260日というのは、正確な日数の期間を表わすよりも、つまりこういう教会の中に起きる、内部的腐敗から起きる迫害が続く、ということですね。しかしそれは限られた期間であって、永遠に続くものではない、ということを意味すると、悪が支配する期間がある、ということですね。
いつの時代にも迫害に終わりがなかった、ということはなかった。ですから、このことが記されているのは、真実な聖徒たちは、神の「測りざお」に測られた者は保護されますから、12章の6節にあったようにですね、神によって養われますので、忍耐が必要である、忍耐が求められる、ということがこれでお分かりいただけるわけです。
Ⅱ.次に3節に入りますが、
A.教会が踏み荒らされている間、ふたりの証人が預言することが記されています。
荒布を着て預言をする。実はこのふたりの証人がだれであるか、様々な意見が出されてきたわけです。これは中々難しい問題ですけれどもね、
① ある人は12節をみますと、このふたりの証人は死を経験しないで天に上ったエノクとエリヤではないか、という人もあるんですね。
② しかし他の人は、エリヤとエリシャだとか、
③ モーセとエリヤだとか
④ あるいはヨハネの黙示録2章から3章の中の七つの教会の中で、一度も叱られたことのないスミルナとフィラデルフィアの教会ではないかと、
いろいろなことをいう人がでてきたんですがね。
何とかみんなヨハネの黙示の中に特別な解釈法を見つけようと、自分の論理を打ち立ててきたわけですが、どうもこれといった確信に到達していないわけです。
このふたりの証人は、人物でもなく、二つの教会でもなくて、一つのキリストの教会の代表を意味するのではないか、と思われます。
これはね、もう一度、ヨハネの黙示録の4章の4節を見たいんですがね、そこを見ますと、ずうっと前のことだからもうお忘れになったかもしれませんが、御座の周りに金の冠をかぶった二十四人の長老が座っている、ということが書かれていた。この二十四人の長老はどういう者かというと、十二人ずつの旧約の時代のクリスチャンの代表と、新約の時代のクリスチャンの代表を意味している。この二つのグループから出た律法と福音が、神の前で一つになっている。
旧約の時代では律法の歴史、新約時代では福音の歴史、この律法と福音の両時代に集められた神の民を示しておる。
ですから、全時代における神の民だ、と言ってよろしいと思いますね。
B. このふたりの証人は、11章の10節では二人の預言者と呼ばれています。
ですからこのふたりの人というのは、律法と福音の下に召された神の民の代表である、とこういうふうに考える方がどうも正しいようである。こじつけではなく、すんなりと理解できるように思うんです。
ですから、これは教会を意味していると言ってもいいですね。特定の教会のことではありません。平たく言えば、神の言葉をまっすぐに語る教会のこと、クリスチャンのことをさしておる。ふたりの証人とはそう考えて間違いない。
この二人は3節で「荒布を着て」いる。
荒布を着て預言するのは旧約の時代では、エリヤ。新約の時代ではバプテスマのヨハネ。
ヨハネの黙示録を書いたヨハネという人は、もとはといえば、バプテスマのヨハネの弟子だったわけです。ですからこの幻はヨハネにとっては、思い出深いですね。かつての恩師の姿を反映している、といってよろしいと思います。
「荒布」というのはいくつかの意味を表しますね。
一つは悲しみをあらわす。旧約聖書では悲しい時に荒布を着る。ヨナ書では、ニネベの王様が荒布を着て悔い改めている。悔い改めを表わすのも荒布です。
もう一つこの荒布は、異教がはびこる時代の教会の姿でもあるわけですね。あるいは地上における聖徒たちの信仰の戦いの姿でもある、といってよろしいと思います。
この荒布はいろんなことを意味していると思うんです。
C.4節を見ると、彼らが二つのものに象徴されている。「全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。」と言われている。
この言い方はおそらくゼカリヤ4章1節~14節からとられていると思うんですね。ちょっとそこを見てみましょうか。
ゼカ4:1 私と話していた御使いが戻って来て、私を呼びさましたので、私は眠りからさまされた人のようであった。
4:2 彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。
4:3 また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」
4:4 さらに私は、私と話していた御使いにこう言った。「主よ。これらは何ですか。」
4:5 私と話していた御使いが答えて言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。
4:7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」
4:8 ついで私に次のような【主】のことばがあった。
4:9 「ゼルバベルの手が、この宮の礎を据えた。彼の手が、それを完成する。このとき、あなたは、万軍の【主】が私をあなたがたに遣わされたことを知ろう。
4:10 だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る【主】の目である。」
4:11 私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」
4:12 私は再び尋ねて言った。「二本の金の管によって油をそそぎ出すこのオリーブの二本の枝は何ですか。」
4:13 すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」
4:14 彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油そそがれた者だ。」
ここでは、二本のオリーブの木は聖霊と教会に関するところの預言であるが、その当時の意味としては、政治的指導者のゼルバベルと、宗教的指導者の大祭司ヨシュアが二本のオリーブをさしている。
そして燭台というのは、イスラエルのことである。
イスラエルは二人の指導者が国を治めている限り、その光を放ち輝き続けることができる、という意味なんですね、ここは。これは後に教会のことになっていくわけですが、当時としてそういうことを言っているわけです。
ヨハネはこの幻を用いて、真理を告げ知らせようとしているんですね。
なかなかこれは大変ですね。この幻は3段階になっているわけですね。
当時のゼルバベルとヨシュアの時代、今日の教会の聖霊時代、そして終末の時代とですね。預言を解き明かす、なんて簡単な事ではないわけなんです。
ヨハネの黙示録の方では、ちょっと見てみますとゼカリヤ書とちょっと違うんですね。オリーブの木も燭台も同じものとして語られているわけです。
彼らはオリーブの木であり、また燭台である。
黙示録では、既に燭台は教会を示すことが語られていますね。1章20節で、「七つの燭台は七つの教会である」と。「七つの教会」というのは教会全体のことをさしているんですね。そしてそのうち、今ここに二つの燭台が取り出されていますから、これは教会の代表を意味している。オリーブの木もまた教会ですね。
ゼカリヤ書では、オリーブの木は燭台に油を注ぐものとしての関連で描かれていましたが、黙示録では、オリーブの木は神との関連において描かれている。
「全地の主の御前にある二本のオリーブの木」、これは明らかに教会を表している。このオリーブは全地をキリストの福音で照らす光である。これで、教会だということが分かります。
しかし今の教会とクリスチャンは、この世に対して、積極的にキリストを証していませんね。世の光、地の塩として役目を果たしていない。だから、「測りざお」で測る必要があるんですね。
D, さて、この二人の証人は、証をするために迫害を受けていることが記されている。
彼らに迫害を加えようとする者がいる。
クリスチャンはキリストを証しなければ迫害に会うことはありません。逆に教会は、迫害なしにキリストを伝えることは出来ません。これまでも出来なかったし、これからも出来ないと思われる。クリスチャンと教会には、迫害が付きまとうのです。本当に証をしようと思えばね。
ところが、神の証人を傷つけ害を加えようとする者には、自らその愚かさによって自分自身を滅ぼすことになる。これが5節。
ですから、迫害に対しては議論においても行動においても、攻撃を仕返ししてはいけないんです。神様に任せなさい、ということですね。丁度ダビデの命を狙ったサウル王がですね、ダビデはサウルのことを神にゆだねました。結局サウル王は自らの愚かさ故に倒れてしまう。
教会は迫害に対してね、攻撃開始をしてはならない。
E.6節で、神さまはこの二人の証人に不思議な力を与えている。
この人たちは、預言している期間は
・雨が降らないように天を閉じる力
・水を血にかえる力
・あらゆる災害を起こす力
をもっている。
この雨が降らないというのは、エリヤの経験にもありますね。3年半、天を閉じた。
水を血に変えるというのは、イスラエルがエジプトを脱出するときにあった。そういう経験に似ていますね。
これらの力は教会に対する迫害の復讐として、行われたのではありません。これは神の怒りの審判なんですね。これ、間違えてはいけないと思いますよ。
1.エリヤが雨を止めたのも、エリヤが火を下した時もありましたね。
それはエリヤがやったんじゃなくて、神の怒りの審判である。神はエリヤを用いただけであります。
ですから、この審判が、証人である教会が預言をしている期間に行われていることに、注目したい。6節で大事なことは、預言をしている間はこういう力を持っている。
このことが実は現在も行われている。もし教会が真実なキリストの証人であり続けるならば、教会が行う福音の説教というのは、聞く者を救われる者と滅びる者とに分けていくわけです。
パウロがこういっていますね。
Ⅱコリ 2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。
2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。
恐ろしいことですね。神様のメッセージというのは、そういうものです。
クリスチャンの証というのはいつも真実でければなりません。
クリスチャンには、聞くものを救いか滅びかに分ける大きな役目が与えられている。ですから、クリスチャンの証は無意味に終わることはない。
5節を見ますと、「火が彼らの口から出」た。証人の口からでる火。
「雨が降らない」。
これらは証人の証そのものです。証そのものが真理であれば、それは神の力を帯びるものなんですね。
「火」というのは、偽りに対する最も効果的な武器を表す。火は聖霊であったり、裁きであったりいろいろするわけですけれども。
そしてこの火はですね、まず、教会の中から試されはじまる、というんですね。
ペテロがこのことを、もっとはっきりと言っていますね。
聖書をみますとね、書いている人は違いますが、書いてある真理は同じであることが分かります。統一性がある。
Ⅰペテ4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
神の家、つまり、聖所で礼拝をしていて、本当に真実な礼拝をしているか探られるとしたら、まして礼拝もしないで偽りの民であるなら、その裁きはどんなに恐ろしいことか、と言っているんですね。これはヨハネの黙示録11章と一致しています。
それほど教会は、偽りに満ちているということなんです。まず教会から裁きが始まる。
教会には装われた敬虔、不敬虔が潜んでいることがある。守られたことのない神との約束。あるいは言葉だけの偽りだけの祈りが捧げられる。あるいは従われたことのない献身がいつも表明される。
だから教会は真理の火で吹きさらされる必要がある、ということなんですね。偽りは真理によってのみ取り除くことができる。この火は真理であるわけですね。真理は火によって試される。
パウロもコリントのところでそう言っていますね。真理の火は真実な者には恵みの火に変るわけです。偽りの者には滅びの火に変る。真理の火はある人には光となり、ある人には滅びとなりますよね。
しばしば、キリストの福音の説教や証が、豚に真珠を投げるようなもののように終わってしまうことがあるんです。それは聞く者の心の態度によるわけですね。真理が投げられても、無意味に闇としかならない人がある。
もう一つ御言葉を読んでみたいんですがね。イエス様はこうおっしゃいました。
マタ10:14 もしだれも、あなたがたを受け入れず、あなたがたのことばに耳を傾けないなら、その家またはその町を出て行くときに、あなたがたの足のちりを払い落としなさい。
10:15 まことに、あなたがたに告げます。さばきの日には、ソドムとゴモラの地でも、その町よりはまだ罰が軽いのです。
これは、キリストの福音を受け入れようとしない者への神の裁きの厳しさを、主が預言されたものです。この裁きというのは、各々が自ら招くものだということを教えている。
これがこの「火」である。水と雨は祝福を与えますけれども、その祝福は取り去られてしまう。
2.もう一つ、二人の証人が示す力は、エジプトの十のわざわいの時に似ていますね。
更にその上に「思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力」。
ここで大切なことは、「思うままに」とは誰が思うのか。
二人の証人ですね。先ほど、この証人とは教会のことでありましたから、証をする教会の祈り、堅い信仰の意志が、結果として、不真実なものの上に滅びとなって臨んだ、ということを言っているんですね。
このわざわいとか滅びとかは、本質的には肉体的なものではない。霊的なものですね。
聖徒たちに対する保護が肉体的なものではなくて、霊的なものでありました。彼らは殉教しつつ守られていっていますね。ですから不真実な者に対する裁きも霊的なものです。
ヨハネは、この霊的な保護と霊的な滅亡が最も重要なものであると、よく知っていたわけです。だから霊的なことを書いているわけですね。
肉体的に見るならば、聖徒たちは霊的に守られても、殉教していくものが多かった。逆に神様に不真実でも、物質的に繁栄している者も、肉体的に健康な者も多かった。だから信仰が定まらない者はしばしば、不真実な者へ堕落していったわけです。
当時も今日も同じです。霊的な価値、霊的な意味というのが分からない。
人はいかに目先の安楽なものに流れやすいか、その危険を示している。
今の時代もそうですが、さらに終末の時代は、神に対して不真実な態度をとり、異教の人と同じになる者が、教会では大勢教会の中に混ざってくるという危険を表わしている。このような人は神の印を受けることもないし、「測りざお」で保護を受けることもない。彼らは教会の証を聞くが、決してそれに従おうとはしない。
そして、ついには決定的な滅びが来るわけです。この時にはもはや遅いわけです。
この地上における神の警告というのは、全て霊的なものです。霊的なものを見逃すならば、私たちは永遠という決定的な滅びに行くということですね。
これを聞き分けて神に立ち返らないと、救われないということです。
さてこの二人の証人とは、今日、キリストの福音の真理を明らかに宣証する教会のことである、ということはお分かりいただけたと思います。
① まず私たちは、キリストの福音の真理を、割り引かないで語らなければならない。
この世と妥協したり、割り引いたり、水増してはならない。
② 教会の中にも、敬虔を装う不真実な者が混じってくる危険がある。見かけだけ真面目そうだとか、熱心そうというのは良くない。
この世の生き方、そういう者が私たちの教会の中にも存在しているわけです。そういう者を見つけたら、全部取り除かなくてはならないですね。
こういう人にはっきりとキリストを証しなくてはならない。そのままにしておくと教会全体が腐っていってしまう。
③ 真実な証人には、神の偉大な力が与えられていますから、迫害を恐れません。
証をすれば嫌われる。言わないで黙っていれば、いつまでも友達でいられるのに、言えば嫌われるかもしれません。
嫌われても嫌われても、言わなければ教会全体が滅んでしまう。
真実な証人は、好き嫌いでしたりやめたりできないわけです。証人っていうのは、神様からさせられる、神の故にこれをしないとダメなわけです。クリスチャンはやはり、自分の好みや都合で証したりしなかったりを、しないようにしたい。
これは神の働きである。これが終末の時代の運命であり、使命である。私たちが住んでいる時代の教会は、こういう時に置かれている、ということです。
私たちの語る言葉が真実であれば、決して虚しくならない。
お祈り
「わたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間、預言をする。
この人達は預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っている。
あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。」
恵みの深い天の神さま、ヨハネの時代にもまっすぐキリストを証する教会が必要であったように、今の私たちの時代にも、イエス様、あなたをまっすぐに証する教会が必要です。
教会の中には、不真実で不敬虔なところの者が入り混じってきて、教会を踏み荒らし、踏みにじられることを預言されておりました。まさにそのとおりでございます。
しかし神様は二人の証人を遣わして、勇敢に、神の言葉をまっすぐに説き明かして、教会を浄化することを教えておられます。
私たちの教会も御多分に漏れず、様々なこの世の波が来ることであります。一つ一つ取り除かれなければなりません。
目を覚まして、まっすぐに歩ませていただける道と証と、あなたのみ言葉をまっすぐに語り続ける教会に成長できますように、顧みてください。
この時を心から感謝して、尊いキリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明