音声と文書:ヨハネの黙示録(27) 開かれた小さな巻物 10:1~11

 

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PDF文書:ヨハネの黙示録(27)

ヨハネの黙示録 10:1~11
10:1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。
10:2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、
10:3 獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。
10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。
10:5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、
10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。
10:7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」
10:8 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」
10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」
10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」
【新改訳改訂第3版】


上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532頃に描かれた「Johannes verschlingt das Buch(ヨハネはその書物をむさぼり食べる)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)

はじめに

1.今日は、「開かれた小さな巻物」が中心になっているところをお読みしたわけですね。

ヨハネという人は旧約聖書をよく知っていた人ですので、多くの幻の中に旧約聖書が出てくるわけですね。
ですから、旧約聖書をよく知らない者にとっては、ヨハネの黙示録を難しく感じる原因ともなっているわけです。
この10章も前半の1節から7節は、ダニエル書の12章がその基礎になっているんです。後半の8節から11節は、エゼキエル書の2章8節から3章2節当たりが、その背景になっているわけですね。
こういうふうにヨハネは非常に旧約聖書に長けていましたので、読む者がですね、これらのことを十分に、自然にキャッチできないと分からなくなってしまう。そういうところに難しさがあるんです。

もう一つ、ヨハネの黙示録を難しく感じさせるのは、幻と幻の関連性についてなんですね。
10章1節から11章13節の幻は、第六のラッパから第七のラッパの間に挿入された幻なんですね。これは丁度、7章が第六の封印と第七の封印の間に挿入された幻であったのと同じ扱いなんです。非常によく似ている。
これだけのことなら、そう難しいわけではないんですけれども、さらにもっと混み入ってですね、幻が、他の幻と非常に深く関連して発展していることが分かるんです。ですから読んでいる者が、同じことを意味しているのか、別々のことを言っているのか、だんだん読めば読むほど分からなくなって、混乱してくる。

なぜこうなっちゃたかと思うんですけれども、ヨハネが終末における幻を語りながら、一方では真実な信徒たち、迫害の中にある信仰者たちに、希望と慰めを与えるメッセージを各所に挿入したわけなんです。
これがないとですね、読んでいる者は、熾烈な神の裁きを見て絶望するに違いない、ということですね。ですから、絶望しないために、神様の救いと恵みの挿入部分を入れていったわけですね。それで読む者にとっては非常に難しく感じる。
裁きの幻は裁きの幻でまとめておいてくれた方が良さそうなものですが、しかし、読む者にとって、次から次へと裁きばっかりでてくるとね、もうゲッソリ痩せこけて、これじゃあ信仰が続かない、ってなってしまいますからね。
しばらく行くと救いとか慰めとか、似たようなものがでてきますのでね。信仰的には希望と慰めを与えるのですが、理解しようとすると困難さを覚える、と、こうなってしまうんですね。

ヨハネは、実際に自分が見たり聞いたりしているわけですので、こういうふうに書くことは一つも困難ではないんです。自分で見た事を言う時は、支離滅裂でも分かっているんですね。聞いている者は、あまり支離滅裂だと分からなくなってしまう。
ヨハネは目で見て、耳で聞いて、肌で感じて理解していたわけですから、なんでもなかったんですが、私達はわずかな知性をもって、しかもこれを理路整然と理解しようとするので、困難を感じるわけなんです。

2.ですから、少しずつ解きほぐしながらこの箇所を考えていかなきゃいけないんですね。

私もこの場所を読みましてね、何処から解していったらよいかわからない。
毛糸がもつれてね、何処から解いたらよいかわからない、という思いがしないわけではないんですね。けれども、どこか一本糸を引っ張ってみますとね、切れたところが出てくるのと同じように、まず中心になる言葉を探してみますとね、2節に「開かれた小さな巻物」というのが出てきます。これがだんだんとヨハネの手に渡ってくるということが、その流れの中にあるなあ、というのが見えてくる。

つまり糸がもつれているようには見えますけれども、中心になっている糸はこれだと、これを引っ張ると全体が解けていくんだなあ、ということが分かります。
巻き紐なんか買ってきて、最初に取り出すところって決まっているでしょ。反対の最後の縛ってあるところを取り始めるととても大変になるんですね。大体、中からくるくるっととれるようになっているんですけれども、最後の締めてあるところを引っ張ると、全部が崩れて大変になっちゃうんですね。それと同じなんです。
ここにもそういうものがある。ですから、それは御使いの手にあった「小さな巻物」、これが中心になっていることだなあ、と分かってくるんです。

Ⅰ.

1.10章2節で、もう一人の強い御使いが「手には開かれた小さな巻き物を持ち」とあります。ここから関連性が出てくる。

10:2 その手には開かれた小さな巻き物を持ち、右足は海の上に、左足は地の上に置き、

ちょっと5章に帰りますが、5章の初めにこういう言葉がでてきますでしょ。

黙5:1 また、私は、御座にすわっておられる方の右の手に巻き物があるのを見た。それは内側にも外側にも文字が書きしるされ、七つの封印で封じられていた。

ですから、この巻物は5章では「御座にすわっておられる方の右の手」にあったわけです。そしてずっと見ていきますと、巻物を解くに相応しい方を探している、と学びましたね。そこに、ユダ族から出たダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて七つの封印を解くことができます、ってなことが5章に書いてあるわけです。
5章7節では

黙5:7 小羊は近づいて、御座にすわる方の右の手から、巻き物を受け取った。

とある。この巻物が5章では御座にすわっておられる方から小羊に渡っている。
そしてこの10章の終わりの所では、ヨハネがその小さな巻物を受け取って食べておると。

黙 10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。

巻物がだんだんと移って行っている、ということがお分かりいただけたと思います。
ですからこの10章の幻は、5章の幻の記事と関連性があるということが、これで分かって来たわけですね。
これだけ気づくだけでも中々大変なわけですが、10章の終わりで、なぜここでヨハネの手に渡ったのか。
それは、この世の終わりに当たってもう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて、ヨハネ、あなたはもう一度預言しなければならない、最終の終わりの時が来る前に、もう一度この預言をするために渡されたんだ、と。
ですから封印の幻とラッパの幻は非常に深い関連性を持っている、ということがこれでお分かりいただけたと思います。ちょっと内容としては違うように見えるところもありますが、ほとんど実は同じ裁きといいますか、同じところが別の幻であった、ということがお分かりいただけたと思います。

ヨセフの時もですね、パロの夢なんか見ますと、太った牛と痩せた牛、太った麦と痩せた麦、牛と麦の違いはありますけれども、ほぼ同じ意味の幻であった。同じことが言えるんです。あるいはヨセフの夢ですね、月と日と星と、麦束が拝んだとありますね。見た幻は違いますが意味は同じであるわけですね。
ですから私達は、しばしば挿入部分でこういうことが起きているということを、知っておく必要があると思うんですね。.

2.それから、幻のシリーズで働いている御使い、シリーズの中に出てくる第1から第7までの、ラッパを吹いたり封印を解いたりする御使いが現れていますね。それ以外に特別な御使いが、第三の御使いっていうんですかね、実際は三番目ではありませんけれども、登場しているんですね。

10章の1節でも、実はラッパを吹くために使わされた御使いではなくて、もう一人の強い御使いが現れていますね。7章の2節を見ても、そこにも出てくるんです。

黙10:1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。

黙7:2 また私は見た。もうひとりの御使いが、生ける神の印を持って、日の出るほうから上って来た。

非常に似ていますね。こういうように、他の別の、特別な御使いが現れている、ということがこれで分かるんですね。

さて神様の働きがですね、10章1節を見ますと、天からこの御使いが下りてきていますが、この記事を見ますと、ここで神様の働きの場面が天から地上に移っているっていうのが分かるんです。
しかもこの御使いは、今まで出てこなかった「強い御使い」だ、と書いてある。
その姿があとで詳しく記されているんですけれども、なぜここでわざわざ「強い御使い」であるといったのか。強そうに見えたんでしょうね。
ヨハネの時代はかなりローマの迫害が始まっていたわけなんです。ですから迫害の中にあるクリスチャンにとって、この「強い御使い」は大きな慰めを与えられたんですね。
ヨハネの黙示録を見ますと、不信者な悪い者に対する災いの審判が下されるとともに、常に真実な神の民と教会への慰めが、保証として与えられているんです。そのメッセージが語られているんですね。

けれども実際には、聖徒たちはすべての苦難から解放されたわけではないんです。やっぱり苦しみの中にあったわけですね。迫害を受けていたわけです。聖徒たちはその迫害のゆえに、地上生活では殺されたこともあった。神様は地上における苦しみの中にいる聖徒たちに心を留めて、彼らが神さまご自身のものであることの保証を与えようとしているんですね。
ですから、詩篇116:15の中では、「聖徒の死はその御前に尊い」と書いてあるんですね。
神の民にとってはですね、強い御使いが現れているのは、非常に大きな希望と慰めを与え、そして殉教死というのは些細なことなんだと。これは復活の恵みが与えられますからね。

ヨハネの時代は、だんだんとローマの迫害が激しくなっていく時代で、この迫害がヨハネの時代から200年続くわけです。気が遠くなるような迫害が200年続く。
お互いの時代に比べると、おおよそ見当が違うわけですが、ヨハネはこういうような迫害の中で、どうやってクリスチャンが生き残るのか、これはもう見通しがつかなくなっていたんですね。そういうような時に、ヨハネは強い御使いの幻を見せられている。

私達は現代の時代からヨハネの時代を見ますと、教会がどういう道筋を通ってクリスチャンが生き残ってきたかが分かりますけれども、ヨハネの側から見れば、迫害の真っただ中にあってですね、将来が見えなかったんです。だから、強い御使いを遣わしたのは意味があるわけですねえ。

これからも、神とサタンとの戦い、教会とこの世の勢力との対立、善と悪との対立、抗争は続くと思うんですが、しかし、教会自身の信仰が低下していって堕落していき、神の裁きを受ける、ということはこれまでもあったし、これからもあるかもしれない。そういう状況の中で、神様は、御目を神の印を持つ者にそそがれて、守りと恵みを与え続ける。
ですから、ここで強い御使いが現わされているわけですね。非常に希望を与える。迫害の中にいる聖徒たちのために。

いままでいろんな御使いが出てきましたが、この御使いは人の姿をしている、というのが特徴ですね。ここに、いろいろなことが詳細にどんなふうだったか、珍しいんですけれども、書いてある。

まず、「頭上には虹があった」
みなさんもよく聖画なんか見ますと、頭の上にドーナツみたいな光るものがありますね。あれはおそらく、このような言葉から描いているんだろうと思うんですがね。周囲に輪のような虹が描かれている。

10:1 また私は、もうひとりの強い御使いが、雲に包まれて、天から降りて来るのを見た。その頭上には虹があって、その顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。

「顔は太陽のようであり、その足は火の柱のようであった。」
これはみんな幻なんです。強い御使いの崇高さを表しているんです。

2節で彼は「右足は海の上に、左足は地の上に置き、」とありますがこれは一体何を意味しているんだろうか。
これはこの御使いのメッセージが、全地をあまねく支配している、普遍的である、あまねくこれは伝わる、ということですね。海の上と地の上に置かれているというのは、そういうことを言っているわけです。

そしてこの御使いの手には、「開かれた小さな巻物があった。」ヨハネはこの巻物を特別な目で見ているわけですね。開かれているんです。ヨハネはね、わざわざその封印が開かれているところに注目していると思いますね。
なぜヨハネがそのことを気にしたかというと、ダニエル書の12章4節で、ちょっとここを読んでみましょうか。ヨハネはこのことを知っていたわけです。ですから「開かれた」という所に意味があったんですね。

ダニ 12:4 ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探り回ろう。」

ダニエルに幻が与えられた。1節から、苦難の時にあの書に記されている者は救われますよ、とずうっと書いてあるわけですが、ダニエルはそれらのことを聞いて、「そしてこの書は封じておけ」と封じられていますね。
人間はこの書が開かれるまでは、この世の終わりがどうなるか心配になり、いろんなことを考える。ですから、この世には多くの終末論が現れてきたわけですね。しかしこの巻物が開かれる時、全てが明らかになる。ですからこの幻で最も重要なものは、この「開かれた小さな巻物」です。

ですから、ヨハネは、開かれた巻物が手にあった、という時に、何を念頭においていたかというと、ダニエルの時に閉じられた巻物ですね。これが今開かれたんだと、そういう意味を持って彼は注目している。ですからこれは特別な意味を持った巻物であった。
やがて開かれるといったあれが、ダニエルの時の巻物が、今開かれるんだ。
これはヨハネにとっては非常に緊張した出来事であったと思います。

3節で、その御使いが、「獅子がほえるときのように大声で叫んだ。」と書いてありますね。

10:3 獅子がほえるときのように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がおのおの声を出した。

そして続いて「七つの雷がおのおの声を出した。」
ヨハネはこの7つの雷が語った時に、これを書き留めようとしたわけです。ところが天から声があって、これは「書き記すな」「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と伏せられてしまったわけですね。秘密にされた。すぐに禁じられているんです。

10:4 七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天から声があって、「七つの雷が言ったことは封じて、書きしるすな」と言うのを聞いた。

今皆さんお気づきになったと思いますが、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢が出てくるんですが、その前に「七つの雷」があったわけなんです。
おそらくこの時、書いてもよろしい、と言われたら、ヨハネは七つの封印、七つのラッパの後に書いたはずです。ところが書かなかったわけですね。その時、七つの一連の「七つの雷」の幻を見たんですけれども、神様にある理由があって、それは書き記されなかったわけです。おそらく七つの封印、七つのラッパと同様に一連の幻をそこに見たんだと思うんですね。しかし神様はそれを書き記してですね、人に知らせることを禁じられたんです。ですからヨハネは私達が知りえないもう一つの幻、一連の七つのシリーズの幻を見た、ということですね。

しかしこれは禁じられましたので、どういうものか分からない。何故そうなったかはですね。不信仰な悪しき者達に知らせたくなかったのか、あるいは終末に向かって福音宣教の妨げになるからなのか、あるいは聖徒たちに余計な恐怖を与えない為であったのか、その理由は私達はわからないんですね。
しかし一連の幻がここにあったことは事実ですね。こういうのを読むと興味が湧いてきますね。どうなったんだろう、何だったのだろうと思うんですけれども、これは私達が逆立ちしても分からない。
ヨハネは知っているでしょう。知りたければ、天の御国に行って、『ヨハネさん、あの時どんな幻を見たんですか?』と聞けばわかりますね。
これは何で封じられたのかなあ、と感じるんです。いくつかの意味があると思います。

Ⅱ.5節~7節では、強い御使いの動作とメッセージを描いています。

A.5節を見ますと、御使いは右手を天にあげている。

10:5 それから、私の見た海と地との上に立つ御使いは、右手を天に上げて、

1.これもダニエル書の12章7節と関わりがあると思うんですよ。

ダニ12:7 すると私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人が語るのを聞いた。彼は、その右手と左手を天に向けて上げ、永遠に生きる方をさして誓って言った。「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」

ここも、終末の時のことを言っているわけですけれども、「右手と左手を天にあげて」というのは、これは誓いを立てている姿なんです。
ヨハネの方の幻では「右手を天にあげている」ですから、このこともヨハネはダニエル書のことをよく知ってその印象を持っていた、ということが分かります。

2.ダニエルの方では、「永遠に生きる方をさして誓った」と書いてありますが、ヨハネの黙示録10章6節を見ると、永遠に生きておられる神、このお方による有限な被造物である人間には理解しがたいお方、に対して、この御使いが誓っておる。

彼が語ろうとしていることはなにか、というと、永遠者である神がこれからのメッセージを保証されているんだ、ということなんですね。
ですから私達が聖書を読むときに、それが、永遠の神の保証付きの約束であることを確信して読むならば、疑いを挟むことは一つもなくなってくるんです。
永遠に生きておられる方に向かって、これを使っておる。保証されているわけですね。

それから、ヨハネの黙示録の方では、さらにもう一つの保証するべきところの神様の項目について記されている。それは、創造された方、しかもヨハネは「天とその中にあるもの」「地とその中にあるもの」「海とその中にあるもの」と言って、細かくここに表現していますね。非常に忠実に表現している。それは先ほどの御使いがですね、「右足を海の上に左足を地の上に」と言ったことと同じことですね。
これは、神が創造者であるとともに、支配者であることを感じさせていますね。ですから、これから語る御使いの言葉は、永遠者であり、万物の創造者である神によって保障されている、間違うことのないところのものであるとね、保証付きでこれから語ろうとしているわけです。素晴らしい誓いであると思います。

B.さて、御使いは何を誓ったのか。
1.6節の終わりに「もはや時が延ばされることはない。」とあります。

10:6 永遠に生き、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを創造された方をさして、誓った。「もはや時が延ばされることはない。

実はこれは、今までの預言者とか聖徒たちの質問に対する答えなんです。
いくつかの質問を見てみましょう。
ダニエルがこういうふうに質問しています。

ダニ12:6 それで私は、川の水の上にいる、あの亜麻布の衣を着た人に言った。「この不思議なことは、いつになって終わるのですか。」

このダニエルの質問に対して「もはや時が延ばされることはない」とこういったわけですね。

8節にもありますね。

ダニ12:8 私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。「わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう。」

こういう質問に対する答えであります。

それからイエス様のお弟子さんも聞いているわけですね。

マタ24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

殉教者の魂も叫んでいますね。

黙 6:10 彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行わず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」

これが聖徒たちの叫びですね。
聖徒たちは最後の勝利の時を痺(しび)れを切らして待っているわけなんです。
しかしイエス様は無意味にその時を延ばしてきたんではなかった。
ペテロはこう言っていますね。

Ⅱペテ3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

確かにヨハネが、「もはや時が延ばされることはない」と聞いたこの日から現代まで、約2000年近くの時が経っているわけです。
ずいぶん延びているではないかと思う人があるかもしれませんが、永遠の神にとって延びたわけではないんですね。わずか、2,3日しか経っていないわけなんでね。
ヨハネはもう間もなくイエス様がおいでになるだろうと、こういうふうに考えていたのかもわからない。しかし、ペテロはこれを注釈しているわけですね。滅びる者が少ないように。

2.その日がいつであるのか、興味深いことでありますけれども、聖書を見ますと、もっと大事なことがあるんです。

7節の終わりですね。ラッパの鳴る日ですよ、と言っていますが、

10:7 第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。」

すなわち、聖書に記されている福音の通りに成就する、っていうことなんです。
これが最も大事な事。いつそれが来るか、というよりも必ず成就するということですね。神の奥義はこうでありますよ、ということを言ったんですね。ですからこの真理は、永遠の神であり、創造者なる神によって保証されていて、必ず成就すると、言ったんです。間違いなくね。
ですからお互いは、待ちくたびれるということじゃなくて、確実に成就する、この真理をしっかりと自分のものにさせて頂きたいと思います。そうすればこの恵みに預かることができる。

Ⅲ.さて最後に、8節~11節ですがね、今まではこの巻物に書かれていることが実際に成就する時はいつか。

もはや時が延ばされることはない、必ず成就するんだといったわけですが、その日までの間のことについて言われているわけです。

その日までの間に何をしなければならないのか。
8節~11節は開かれた小さな巻物がヨハネの手に渡されていく成り行き、経緯が記されているんです。なぜこの巻物がヨハネの手に渡される必要があったのか。
先ほどお話しましたが、それは、なおも、キリストの福音が、残された人々に宣べ伝えられる必要があるからなんですね。これはイエス様も仰いました。全世界の、全ての造られた者に福音が宣べ伝えられなければならないと書いてあります。

1.ですから、ヨハネの時代にもまだ残された者が大勢いたんです。

ヨハネは再び天からの声を聞いています。それが8節ですね。

10:8 それから、前に私が天から聞いた声が、また私に話しかけて言った。「さあ行って、海と地との上に立っている御使いの手にある、開かれた巻き物を受け取りなさい。」

この記事はエゼキエルの2章8節~3章4節に基づいています。このあたりのことがその背景にあるわけです。

エゼ 2:8 人の子よ。わたしがあなたに語ることを聞け。反逆の家のようにあなたは逆らってはならない。あなたの口を大きく開いて、わたしがあなたに与えるものを食べよ。」
2:9 そこで私が見ると、なんと、私のほうに手が伸ばされていて、その中に一つの巻き物があった。
2:10 それが私の前で広げられると、その表にも裏にも字が書いてあって、哀歌と、嘆きと、悲しみとがそれに書いてあった。
3:1 その方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたの前にあるものを食べよ。この巻き物を食べ、行って、イスラエルの家に告げよ。」
3:2 そこで、私が口をあけると、その方は私にその巻き物を食べさせ、
3:3 そして仰せられた。「人の子よ。わたしがあなたに与えるこの巻き物で腹ごしらえをし、あなたの腹を満たせ。」そこで、私はそれを食べた。すると、それは私の口の中で蜜のように甘かった。
3:4 その方はまた、私に仰せられた。「人の子よ。さあ、イスラエルの家に行き、わたしのことばのとおりに彼らに語れ。

これは神様が、エゼキエルに委ねられたイスラエルの人々への警告のメッセージ、回復のメッセージであったわけですね。エゼキエルは、イスラエルの人々に対するメッセージであった、これはバビロン捕囚からの回復です。

ヨハネもまた神様から、一つの巻物を頂きました。これは全人類への最後のメッセージが委ねられているわけですね。
そして今日、私達もまた、重要なメッセージを人に伝えるべく、委ねられているわけであります。この「委ねられる」ということはパウロも語っていますね。第一コリントの9章17節で、

Ⅰコリ9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。

あるいは第一テサロニケの2章4節でも

Ⅰテサ2:4 私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。

と彼は言って言っているんです。

ですから私達クリスチャンは、神様から福音が委ねられている。エゼキエルも委ねられたんですね。だから頑なに逆らう者になってはいけない、と言われていますね。ヨハネもそうです。委ねられて、これを宣べ伝えなければならない。
ですからね、クリスチャンはね、教会のお手伝いをさせてもらっているのではなく、牧師のお手伝いをさせてもらっているのでもなくてね、みんな神さまからキリストの福音を伝えるべく、委ねられている。この意識と使命感が回復されないと、クリスチャンはその仕事を全うできないわけですね。

2.さてエゼキエルもヨハネも、その巻物を食べなさい、と言われているんですね。

9節で、「それを取って食べなさい。」と命じられている。

10:9 それで、私は御使いのところに行って、「その小さな巻き物を下さい」と言った。すると、彼は言った。「それを取って食べなさい。それはあなたの腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」

ああ、これは本当に素晴らしいことですね。
ヨハネとエゼキエルとちょっと違いがあるわけなんですが、ヨハネの方はそれを食べると、「腹には苦いが、あなたの口には蜜のように甘い。」と書いてありますね。これはヨハネの幻の内に経験したことでしょうけれども、象徴的な行動ですね。
エゼキエルの方は「口の中で蜜のように甘かった」とだけ記されています。そして「腹は苦かった」とは記されていないんです。エゼキエルの方は「苦い」というのが記されていない、ということがお気づきだと思うんです。

これは、エゼキエルのメッセージはイスラエルの回復を預言したから、彼は希望の預言者ですね、「苦い」方の預言がなかったわけです。
「腹が苦くなった」、苦いというのはエレミヤが預言している内容なんです。
ですから、エゼキエルとエレミヤで、ヨハネと同じになるわけです。
ヨハネは一人で両方を経験した。ヨハネにとって「甘い」というのは、エゼキエルが預言したバビロンの捕囚からの回復以上の、キリストによる回復の預言ですから、これは「甘かった」
「苦かった」というのは、厳しい神の審判を伴う、ということです。そういうメッセージが含まれているからなんですね。

3.ここで大事なことは、ヨハネがこの巻物を食べて、甘いも苦いも経験した後で、これを宣べ伝えるように命じられていることです。

10:10 そこで、私は御使いの手からその小さな巻き物を取って食べた。すると、それは口には蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。
10:11 そのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

クリスチャンは、み言葉を知識として学ぶだけじゃない。
味わって後、聖書の中には恵み深いところもあるし、罪に対して厳しい面もある。神様は恵み深く憐み深いけれども厳しさもある。
ローマ人への手紙にも書かれてありますが、罪に対する厳しい裁きも十分に経験する必要がある。神の恵み深さと、そしてこの両方の経験があってこそ、お互いは真実な神のメッセージを伝えることができる。決して神のみ言葉を曲げたり、薄めたり、割り引いたりしては語れなくなってくるわけですね。
ですからこの神の恵み深さ、味わい、蜜のように甘かった。

今日も週報にみことばを生活の中に、と、ちょっと書かせて頂きましたが、みことばは蜜のように甘い。
甘さと苦さと両方ある。このことをクリスチャンはよく味わわせて頂いて、そして仕えたいですね。これを味わわないで伝えると、知識だけになって終わる。割り引いたりいろんなことをしてしまう。
福音を委ねられている人は、自らそれを食べていないといけない、ということですね。

さて、小さな巻物、これは私達にとって聖書ですね。これが分かりました。
そして神様から委ねられた聖書を私達は食べて、その使命を果たさせていただきたい。私達の時代はわずか、もう夕暮れではありますけれども、福音を宣べ伝えるチャンスが与えられておりますので、このみことばを伝えさせていただきたい。
そしてもはや時が延ばされることはないと、仰っていますからね、決して長い期間許されるとは思いませんけれども、終わりのラッパがなる日まで、神の奥義を伝えさせていただく使命を与えられているわけですね。

この10章はそういうことを教えている。現代の私達の大きなチャレンジであると思います。蜜は甘く、腹には苦い。この両面、ちょうど両刃の剣のようですね、ここに記されておる。
私達はこの小さな巻物をしっかり食べさせて頂いて、世に伝える者、使命を果たす者とならせて頂きたいと思います。

お祈り

「それは蜜のように甘かった。それを食べてしまうと、私の腹は苦くなった。」

天の神様、今日もダニエルの閉じられたところの巻物が、ヨハネの手に、開いてこの福音が語られるようにとしてくださることを感謝いたします。
すでに、私達はイエス様の恵みの中にいる、こういうお恵みを頂いております。
開かれた巻物を手渡されたヨハネのごとく、そこには非常に恵み深い神の約束も記されています。また、非常に厳しい神の裁きも記されております。その両面を私達はしっかりと経験して、この世に伝える使命を全うさせてください。
イエス様のおいでの日、最後のラッパが鳴る日はそう遠くないと約束されました。
日が遠くないだけでなく、神の奥義は必ず成就すると、この強い御使いがメッセージを語っております。これは永遠の神、創造者なる神に保証されているんだと、言われました。
ヨハネがこれを聞いた時、どんなに恐れおののいたか分かりません。そして残された生涯では、非常にその使命を全うされました。
それらの意識が持てるようにどうぞ顧みてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明