聖書の探求(318) サムエル記第二 11章 ダビデの誘惑と罪、罪を隠す策略、ヨアブの報告、罪の結果

フランスの画家セザンヌ(Paul Cézanne、1839–1906)による「Bethsabée(バテシェバ)」(Wikimedia Commonsより)


11~19章は、ダビデの衰退期となります。このダビデの衰退は、ダビデとバテ・シェバの罪によって始まっています。どんな繁栄も、罪によって崩壊していくのです。しかしダビデはすぐに悔い改めて、主に立ち帰ったために、罪赦され、再び恵みを受け、ダビデ王国は続くことになるのです。このことは、罪に陥ったなら、すぐに悔い改めて、主に立ち帰ることの大切さを証明しています。

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)

11章の分解

1~5節、ダビデの誘惑と罪
6~13節、罪を隠そうとする第一の策略
14~17節、第二の策略
18~25節、ヨアブの報告とダビデの反応
26~27節、罪の結果

1~5節、ダビデの誘惑と罪

1節は、ダビデが罪を犯すに至った背景として記されています。

Ⅱサム 11:1 年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデは、ヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかしダビデはエルサレムにとどまっていた。

聖書の驚くべき事実は、ダビデのように神に用いられた、すぐれた人物についても、彼の堕落した罪をそのままに記していることです。これは、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセにおいても同じです。非常にすぐれた聖徒たちの欠点、弱点、罪までも記していることは、聖書が真実を語っており、信じるに値することを証拠立てています。

「年が改まり」は、10章でのアモン人との戦いの後、秋の雨の時期が来て、戦いは中断され、冬も過ぎ去って、また戦いを始めることができる季節が来たことを言っています。

先に、アモン人は自分たちの要塞の町に逃げ込んでいたので、ヨアブたちは、それ以上追撃していなかったのです。そこで冬が過ぎた時、ダビデは再びアモン人を攻撃するためにヨアブを先頭に、ダビデの家来とイスラエルの全軍を派遣し、アモン人の首都ラバを包囲したのです。しかし今回の戦いはそれほど大きな戦いにならないと見たのか、ダビデは出向かず、エルサレムにとどまっていたのです。

もし、この時、ダビデがイスラエル軍と共に戦場に出て行っていたら、その後の罪に陥ることはなかったでしょう。しばしば誘惑は怠惰になっている時に忍び寄って来ます。

2節、ダビデは、家来たちと、兵士たちが、命がけで戦っている時に、昼寝をしていたのです。

Ⅱサム 11:2 ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、ひとりの女が、からだを洗っているのが屋上から見えた。その女は非常に美しかった。

昼寝が悪いのではありません。誤解しないで下さい。怠惰に問題があるのです。怠惰はあらゆる誘惑に対して門を開いてしまうのです。この戦いには、ダビデは主に祈ったことが記されていません。あれほど毎回毎回主に祈っていたダビデが、祈らなくなっています。そして今回のアモン人との戦いを軽く見ています。一度、逃げ帰ったアモン人だから、と思ったのでしょう。明らかにダビデは気がゆるみ、油断をし、怠惰に陥っていたのです。休みを取ることは大切です。しかし休息は怠惰とは異なります。怠惰は高慢や、気のゆるみから始まります。

2節の光景を見ると、この日は夕暮れでも相当暑かったことが分かります。女の人がからだを洗っていたのですから。ダビデもその暑さのために昼寝をして、夕暮れになって夕涼みをするために王宮の屋上を歩いていたのです。

ダビデの王宮はシオンの山の高い所にあり、その屋上にいた時、その周囲には家来たちの家が並んでおり、それが一望できたのです。その家の一つの中庭で、一人の女の人がからだを洗っているのが見えたのです。この時、彼女がからだを洗っていたのは、4節に「その女は月のものの汚れをきよめていた。」とありますから、女性の月のさわりの後のきよめの儀式(レビ記15:19~22)を行なっていたものと思われます。「その女は非常に美しかった。」とありますから、王宮に近い家であったと思われます。

「夕暮れ」とは、今の午後三時頃から暗くなるまでの頃です。この時は女の人がはっきり見えていますから、まだ明るい時刻でした。

エルサレムのダビデの町の想像図(エルサレムの歴史博物館にて)。ダビデの王宮は城壁で囲まれた一番高いところにあった。


3節、ダビデは人をやって、その女の人を調べさせています。もうこの時、ダビデの心には誘惑が忍び寄っています。

Ⅱサム 11:3 ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバではありませんか」との報告を受けた。

彼女は、ヘテ人ウリヤの妻で、エリアムの娘バテ・シェバであることが分かりました。彼女は結婚しており、その夫はヘテ人で、ダビデの精鋭の勇士で、三十人の中の一人でした(23:39)。

また、ヘテ人はカナンの地からイスラエル人によって追放されるように命じられていたカナン人の一部族でしたが、ウリヤはヘテ人であっても、イスラエルの神、主に忠実に従うことを誓っていた人であったと思われます。聖書は、なぜ、ヘテ人ウリヤがダビデの三十人の勇士の中に加えられていたのかを記していませんが、主の追放のご命令に反するものは何もない状態だったのでしょう。

4節、王は使いをやって、バテ・シェバを召し入れています。

Ⅱサム 11:4 ダビデは使いの者をやって、その女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。──その女は月のものの汚れをきよめていた──それから女は自分の家へ帰った。

彼女は王を恐れたためか、ダビデの願いを受け入れて、従っています。そして恐らく遅くなって、暗くなってから自分の家に帰っています。

5節、やがて彼女はみごもったことを知り、ダビデに人をやって「私はみごもりました。」と告げています。

Ⅱサム 11:5 女はみごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私はみごもりました。」

こうして隠された罪は結果を現わし始めたのです。

6~13節、罪を隠そうとする第一の策略

6節、ダビデは三つの道を選ぶ可能性がありました。第一は、王の権力で押し通してしまうこと。第二は、良心に罪の責めを感じて、その罪を隠そうとすること。第三は、すぐに悔い改めて、神の前に出ることです。

ダビデは第一の道を選びませんでした。さすがにダビデは主を知っていた人ですから、すぐに良心が責められました。しかし、悔い改めて、神の前に出ようとはせず、自分の罪を覆い隠すために自分の知恵で考えて、必死の努力を始めたのです。

Ⅱサム 11:6 ダビデはヨアブのところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。

彼が考えたことは、ウリヤを呼び返して、バテ・シェバのもとに送り、ウリヤとバテ・シェバの間に子どもが生まれたことにしようと考えた策略です。これが成功して、人の目をごまかすことができても、神の御目をごまかすことはできません。罪はどんなものでも、心を神に向け、神に立ち帰るまでは本当の解決はありません。どんなに自分の罪を嘆いても、他人を恨んでも、またいかに償いをしようと努力しても、心に罪の赦しの平安を持つことができません。ダビデも主のもとに帰った時に罪の赦しと潔めの確信を受けたのです。そのことは、詩篇32篇と51篇にダビデ自身があかしの詩を記しています。

ダビデはヨアブに命じて、ウリヤを戦場からダビデの所に送り帰らせています。

7節、ウリヤがダビデの所に着くと、「ヨアブは無事でいるか、戦いはうまくいっているか。」と尋ねて、戦況報告を求めています。

Ⅱサム 11:7 ウリヤが彼のところに入って来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか、兵士たちも変わりないか、戦いもうまくいっているか、と尋ねた。

あたかも戦況報告のために帰らせたように振舞っています。ウリヤが戦況報告を求められたのは、彼がイスラエル軍の中で、責任ある地位にあったからと思われます。

8節、ダビデはウリヤを妻の待っている家に帰るように言っています。ウリヤがダビデの王宮から出ると、王からの贈り物があとに続いています。

Ⅱサム 11:8 それからダビデはウリヤに言った。「家に帰って、あなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王からの贈り物が彼のあとに続いた。

9~11節、ウリヤは王宮から出ると、自分の家に帰らず、王宮の門の近くの、家来たちの詰所で一緒に眠っています。

Ⅱサム 11:9 しかしウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちみなといっしょに眠り、自分の家には帰らなかった。
11:10 ダビデは、ウリヤが自分の家には帰らなかった、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征して来たのではないか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」
11:11 ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

ダビデはウリヤが自分の家に帰らなかったことを聞いて、「あなたは遠征して来たのではないのか。なぜ、自分の家に帰らなかったのか。」と尋ねています。ウリヤの信仰はダビデよりもはるかにすぐれていたのです。

「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来も戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」

ダビデも、この心を知らなかったわけではないでしょう。しかし怠惰になっていたダビデはこの時、この心を失っていたのです。忠実な信仰を失う時、誘惑は忍び寄って来ます。

この言葉を見ると、ウリヤはヘテ人でしたが、非常に深い敬虔な信仰を持っていたことが分かります。ですから、ダビデもウリヤを三十人の勇士の中に選んでいたのでしょう。しかし愚かにも、ダビデは自分の罪を隠すために、最も忠実で信頼のおける家臣のウリヤを殺してしまったのです。一つの罪を犯してしまったら、すぐに主の前に出て、イエス様の十字架を仰ぎ、心に罪の赦しの解決をすることが大切です。そうしないと、次々とエスカレートして行って恐ろしい罪を重ねてしまうことになります。だれかといさかいを起こしていたり、仲違いしているなら、その状態を引きずっていてはいけません。そのような心の状態でいれば、ダビデがウリヤのような敬虔な家臣を失ったように、主の道が見えなくなり、自分の思いや考えを押し通そうとするようになり、更に恐ろしい事態へと入り込んで行くことになります。一刻も早く仲直りすることです。

「…もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。あなたを告訴する者とは、あなたが彼といっしょに途中にある間に早く仲良くなりなさい。」(マタイ5:23~25)

12,13節、ダビデは自分の罪を隠すことの策略が失敗したことを知ると、その日と翌日エルサレムにとどまらせ、自分の食卓に招いて、酒を飲ませて酔わせています。

Ⅱサム 11:12 ダビデはウリヤに言った。「では、きょうもここにとどまるがよい。あすになったらあなたを送り出そう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまることになった。
11:13 ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君の家来たちといっしょに自分の寝床で寝た。そして自分の家には行かなかった。

酒に酔えば、ウリヤの決心も弱くなって、妻のもとに帰るだろうと考えたのです。しかしウリヤの心は変わりませんでした。ウリヤには全き献身の姿が見られます。ウリヤが自分の妻のもとに帰っても、だれも咎めなかったでしょう。しかし彼は戦いの最中という非常事態の中で、自分だけ家に帰ることを拒み続けたのです。しかしこのウリヤのすぐれた献身と信仰が、彼の命が奪われることへと仕組まれて行ったのです。ウリヤには何の罪も落度もなかったのに、彼は命を失うことになるのです。彼は殉教者の一人となったのです。これはダビデが犯した最悪の罪です。しかし主は、このような罪でさえ赦してくださったのです。ダビデはこの罪が赦された喜びを詩篇32編で語っています。

「幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、罪をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。」(詩篇32:1~5)

14~17節、第二の策略

ダビデは罪を隠す第一の策略で失敗すると、次にウリヤの命を戦場の敵の手によって奪うという非常に卑劣な策略を取りました。

Ⅱサム 11:14 朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。

14節、ダビデは自分の最も忠実な、そして敬虔な勇士ウリヤに、こともあろうにウリヤ自身を殺害することをヨアブに命じた手紙を持たせたのです。これまで神に祈り、神の導きと力を得て、全戦全勝して来たダビデに、こんなあくどい、卑劣なことが出来るのかと思われるのですが、怠惰から誘惑に陥り、罪を隠し、それをすぐに悔い改めて、主に帰らず、逆に隠そうとしたダビデは次々と罪の深みへと落ちて行ったのです。神の恵みを失うと、どんなに恵みを受けていた人も、このような卑劣な心の持ち主になってしまうのです。これによっても、私たちが日々に、平安に、幸せに生活していくためには、神の恵みが必要であり、神から離れないことがどんなに大切かを教えられます。万一、神から離れたなら、間をおかず、すぐに主に立ち帰ることが大切なのです。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。」(イザヤ55:6,7)

15節、ウリヤに持たせたその手紙の中には、「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」と、将軍ヨアブに命じてあったのです。

Ⅱサム 11:15 その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」

敵の攻撃が集中している最前線にウリヤを一人残して味方が退けば、当然ウリヤは敵の手に打たれるでしょう。人の目には、ウリヤは敵の手に倒されたと見えるでしょう。しかし神の御目をごまかすことはできません。

Ⅱサム 11:16 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちがいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。

16節、ヨアブはダビデのその策略を戒め、とどめようとせず、それに従ったのです。ヨアブはそのような心を持っていなかったのです。ヨアブは最も強敵がいると知っていた場所にウリヤを配置しました。

17節、その町の強敵とヨアブの兵士たちと戦った時、何人かのダビデの家来たちとともに、ヘテ人ウリヤも戦死してしまったのです。

Ⅱサム 11:17 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。

こうしてダビデは自分の肉欲の罪のために、最も忠実な勇士ウリヤを殺してしまったのです。

18~25節、ヨアブの報告とダビデの反応

18,19節、ヨアブはすぐにあたかも戦況の報告のように、ウリヤの死を報告するために使いを送っています。

Ⅱサム 11:18 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、
11:19 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、
11:20 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。

20節、もしダビデ王が、ヨアブの軍事的指揮のしくじりに対して怒って「なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。」と言うなら、これは戦いに長けている将軍には分かり切っている危険なので、なぜそんなことをしたのかと、ダビデの叱責があると思ったのです。

21節、城壁に近づき過ぎて、ひとりの女にひき臼の上石を投げつけられて殺されたアビメレクの例を挙げて、𠮟られることまで、ヨアブは想定しています。

Ⅱサム 11:21 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。」

ヨアブはこういう戦略まで十分に心得ていた将軍だったことを表わしています。万一、ダビデ王がそのように叱ることがあれば、すぐに「あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」と言うように使いの者にヨアブは指示しています。使いの者には分からなくても、ダビデ王にはすぐにヨアブの取った敗北の意味が分かるように仕組んだのです。

ここに、「エルベシェテの子アビメレク」がテベツで殺されたことが事実として記録されていますが(士師記9:50~54)、このことは当時イスラエルでは士師記の出来事が広く知れ渡っていたことを示しています。これは士師記の史実性を証明しています。

22~24節、ヨアブの使者は、ヨアブの命令通りにダビデ王に報告しました。彼は忘れずに、ヘテ人ウリヤの死も報告しました。

Ⅱサム 11:22 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。
11:23 使者はダビデに言った。「敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。
11:24 すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。」
11:25 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」

25節、ダビデからは何の疑問も、叱責の言葉も出ませんでした。ダビデにとっては、自分の罪を隠すための隠蔽工作が成功したと思ったのでしょう。しかし彼は全てを知っておられる神を忘れていたのです。この状態では、ダビデの心の中には主はおられなかったのです。ダビデは使者にヨアブを激励する言葉を与えて返しています。

26,27節、罪の結果

Ⅱサム 11:26 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。

26節、ウリヤの妻バテ・シェバは、夫ウリヤの死を聞いて「夫のためにいたみ悲しんだ。」とありますが、この悲しみがどのような意味を持っているのか、聖書は明らかにしていません。単純に愛する夫の死に対して、深い悲しみを表わしていたのか。もし彼女が夫ウリヤをそれほどに愛していたのなら、喪が明けたら、すぐにダビデの妻となっていることがうなずけません。そこで学者たちの中には、バテ・シェバの悲しみは形式的で、イスラエルの慣例として七日間の喪の期間を守ったのではないかと、示唆する人もいます。

Ⅱサム 11:27 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは【主】のみこころをそこなった。

彼女はダビデの妻となった後に、男の子を産んでいます。こうして彼女の産んだ息子はダビデとの結婚生活で妊娠して生まれたように見せることができたのです。ここまで、すべてが策略であったとすれば、この策略にはバテ・シェバも協力していたと考えられるでしょう。多分、彼女はダビデの一連の罪の行為とその罪を隠す策略に積極的に加わっていたのでしょう。なぜなら、バテ・シェバの協力がなければ、このように策略がスムーズに進むことはないからです。罪責行為は、うまくいけばいくほど、最悪になってしまうのです。

聖書はバテ・シェバの影響力について、多くを語っていませんが、列王記第一 1章1~31節を見ると、わが子ソロモンが王権に着くために、預言者ナタンの助言もあったからですが、バテ・シェバは精力的に、野心的に動いているのが見られます。おそらく、彼女はダビデの生涯の終わりまで、ダビデの心に大きな影響を与えたものと思われます。またソロモンの時代にも母として大きな影響力を示したものと思われます。

聖書はダビデの罪だけを強調して取り上げていますが、それはバテ・シェバに責任がなかったことを意味していません。聖書は罪の恐ろしさを示すためにダビデの罪を強調しているだけなのです。

こうしてダビデとバテ・シェバの罪は、二人の結婚によって合法化され、ウリヤの死も名誉の戦死として片付けられ、人の目には、すべての罪が隠されてしまいました。

しかし聖書は27節の終わりに「しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。」と宣言しています。この罪は、主の罪の赦しと潔めが与えられるまで、何一つ解決していなかったのです。少なくとも詩篇32篇を見ると、ダビデの心は、「一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」(詩篇32:3,4)と記されている通りです。彼は「そのそむきを赦され、罪をおおわれた」とき、本当の「幸い」を経験したのです。おそらく、バテ・シェバもこの経験をしたのでしょう。聖書はバテ・シェバについては何も記していませんが、主は二人とも、取り扱われたに違いありません。そして二人とも神の王国のために働いたと思います。そうでなければ、彼女の息子のソロモンが王となることも導かれなかったはずですから。

ダビデはこの事件の後、ますます神を畏れる王となり、国は栄えていきますが、罪の後遺症であるわざわいが続くようになり、彼は悩まされ続けるようになります。

こうして怠惰から始まった誘惑が、次々と罪を生み、神の審判にまで至るのです。私たちも怠惰を十分戒めて、主に仕えて生活させていただきましょう。

「人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。」(ヤコブ1:14,15)

あとがき

今夏は猛暑で、閉口しています。雨傘をさし日除けにして、ペット・ボトルに麦茶を入れて、トラクト伝道をしています。これで熱中症からは守られています。先日、お電話くださった方は、ご自分の無力さに失望して、仕事を投げ出しそうになっていましたが、答えが見つからないと言っておられました。私は率直にお話しました。主を信じない心の状態になっていること、仕事を投げ出しそうになっていることなどです。ここで投げ出せばますます自分に失望してしまいます。主は「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」(コリント第二 12:9)と言われました。先日、私の健康を気づかうお手紙をいただきました。

(まなべあきら 2010.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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