聖書の探求(233) 士師記6章11~40節 ギデオンの召命、バアルの祭壇の破壊、民の召集、召命の確証

上の絵は、オランダの画家 Gerbrand van den Eeckhout (1621–1674) により1640年頃に描かれた「The Angel and Gideon(天使とギデオン)」(スウェーデン国立美術館蔵、Wikimedia Commonsより)

11~24節、ギデオンの召命(第一回目)

主の使いは、どのような時に現われましたか。
まず、その場所が明確に記されています。

士 6:11 さて【主】の使いが来て、アビエゼル人ヨアシュに属するオフラにある樫の木の下にすわった。このとき、ヨアシュの子ギデオンはミデヤン人からのがれて、酒ぶねの中で小麦を打っていた。

「オフラにある樫の木の下にすわった。」 この木は、アビエゼル人ヨアシュに属するものでした。ヨアシュはギデオンの父で、ギデオンはミデヤン人の襲撃を恐れて、酒ぶねの中に隠れて、小麦の脱穀をしていたのです。

オフラの場所がどこだったか、現在知ることはできませんが、ヨルダン川の西側にある村でした。

オフラは、「ベテ・レアフラ(ミカ書1:10)」とも呼ばれ、「アフラの家」という意味です。
また、オフラという町は、ベニヤミンの氏族の町の一つにもあります(ヨシュア記18:23)。

ギデオンの父の名「ヨアシュ」は、「主が授けてくださった」という意味の「イェホアシュ」の短縮形の名前です。この名を名乗る人は、ギデオンの父以外に旧約聖書中、五人います。
ユダの子シェラの子孫(歴代誌第一1 4:22)
ツィケラグにいたダビデのもとに来たベニヤミン人の一人(歴代誌第一 12:3)
アハブの子のヨアシュ(列王記第一 22:26)
アハズヤの子ヨアシュ(列王記第二 11:2)
エホアハズの子でイスラエルの王ヨアシュ(歴代誌第二 25:17)

「アビエゼル人」とは、ヨセフの子孫のマナセ族から出たギルアデの子孫のイエゼル族のことです(民数記26:30)。「イエゼル」はギリシャ語訳の七十人訳では「アビエゼル」と訳されています。

ギデオンは、酒ぶねの中で小麦の脱穀をしていたのです。小麦の収穫の時は、ぶどうも収穫する時だと思われますが、おそらくぷどうは敵の集団に奪われてしまって、なかったのでしょう。

11,12節の「主の使い」は、旧約聖書では、特別なお方として描かれています。ある時は、イスラエルの契約の神であるヤーウェとは別のお方として、ヤーウェのメッセージを伝えるお方として記されており、また別の時にはヤーウェご自身として記されています。

士 6:12 【主】の使いが彼に現れて言った。「勇士よ。【主】があなたといっしょにおられる。」

12節では、主の使いとして現われて、「ヤーウェ」を別のお方として語っており、14節と16節では、突然、主ご自身として語っておられます。そして21節では再び「主の使い」に変わっており、23節ではまた「主」になっています。それ故、この「主の使い」として現われてくださったお方は、三位一体の神様の、受肉前の第二位のお方(受肉前のイエス様)だと受け止めることができます。

さて、主は、深い失意とくやしさの中で、ひそかに隠れて小麦を打っていたギデオンを「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」と呼ばれたのです。

小麦を脱穀することは、別段、大きな仕事ではありません。恐らく、家族が食べるパンのための粉を作っていたのでしょう。しかしどのような状態の中でも、失意の故に自暴自棄にならないことは大切なことです。何もしない状態になってしまわないことが大切です。主を待ち望んで、日毎の働きを勤勉に行なうことが大切です。

主は、忙しく、勤勉に働いている人を用いられるのです。エリシャも12くびきの牛を使って畑を耕している時に召されたのです。

12節、主の使いがギデオンを呼ばれたみことばは、ギデオンの実態とは逆でした。主の使いは、ミデヤン人を恐れて、勇気なく、酒ぶねの中で隠れて仕事をしていたギデオンに、「勇士よ(勇敢な力強い人)」と声をかけられたのです。これは預言的意味でしょう。「主があなたといっしょにおられる」から、あなたは勇士となって、主の働きを成し遂げ、イスラエルを救うという預言的意味です。

主の使いはマリヤにも、
「おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。」(ルカ1:18)
パウロにも、
「恐れてはいけません。パウロ。あなたは必ずカイザルの前に立ちます。そして、神はあなたと同船している人々をみな、あなたにお与えになったのです。」(使徒27:24)
と言われました。

そして、主は私たちに、
「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。

そしてパウロは、
「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。」(ローマ8:37)
「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)
と、あかししています。

どんなに弱い人でも、強くなれる秘訣は、「主が私とともにいてくださる」ことです。この奥義によって、主の働きをなし遂げることができるのです。

13節、ギデオンは「勇士よ」と呼ばれても、喜びませんでした。

士 6:13 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし【主】が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『【主】は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、【主】は私たちを捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」

ギデオンの心は不満で満ちていたので、主のみことばも信仰で受けとめることができず、イスラエルがミデヤン人の攻撃を受けていた原因も、正しくとらえていなかったのです。それで彼の返事は主に不満をぶっつける格好になってしまいました。

ギデオンは、主の使いを、「ああ、主(アドナイ)よ。」と呼びました。彼はヘブル語の「主」を表わす最大の尊敬語を使いました。

「もし主(ヤーウェ)が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。」ギデオンは、まだ12節のみことばを自分への召命と受けとることができていません。

イスラエルがこのように荒廃した状況になっているのは、彼らが主に背を向けて、偶像礼拝をしたからで、ヤーウェがいっしょにいてくださらなくなったからです。ギデオンは失意と不満の故に、現状を正しく受け止められなくなってしまっています。

ギデオンは先祖たちから聞いていた、エジプトから救出された主の驚くべきあのみわざが今、どこにも見られないと、不満をもらしています。先祖たちのあかしとは反対に、今、主(ヤーウェ)は私たちを捨てて、ミデヤン人の暴虐の手のなすがままに渡されていると、訴えています。

14節、主は、ギデオンのそういう訴えには何も答えないで、「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」と命じられています。

士 6:14 すると、【主】は彼に向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミデヤン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

「あなたのその力で」とは、直接的には、ギデオンがすでに持っている活力、人間としての体力を意味していますが、ここでは、「だれか強い人が現われて救い出してくれる」でもなく、「もっと強くなったら」でもなく、「今持っている力を用いることだ」と命じられています。その弱い力でも、主が用いられると、大いなる力を発揮するのです。

主はかつて、モーセの手にあった羊飼いの杖を用いられました。モーセは召命を受けた時、「私は口が重く、舌が重いのです。」(出エジプト記4:10)と言いましたが、主はその口を用いて、イスラエルに神の戒めを与えられたのです。

主はまた、サムソンの手にあった「ろばのあご骨」をもって、イスラエルに勝利を与えられたのです。主は、この世の取るに足りない者、見下されている者、無に等しい者を用いてご自身の栄光を現わされるのです。それは、神の御前でだれも誇らせないためです(コリン卜第一 1:28,29)。

大事なのは、自分に力があるか、どうか、自分で判断して決めることではありません。主が「行きなさい」と言って、主によって遣わされたかどうか、主が一緒に行って、戦ってくださるかどうかです。

15節、ギデオンはあくまでも自分の知恵で考えて計算し、主の召命に対して、自分は不適格だと言って、反抗しました。

士 6:15 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」

ギデオンは、自分が属する分団はマナセの部族の中でも弱く、ギデオン自身も父の家で一番若いと、しきりに自分の弱さ、無力さを見つめて主張し、主の任命を逃れようとしています。

16節、しかし主は、「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」と約束されました。

士 6:16 【主】はギデオンに仰せられた。「わたしはあなたといっしょにいる。だからあなたはひとりを打ち殺すようにミデヤン人を打ち殺そう。」

ギデオンは出エジプトのみわざのあかしを聞いていても、目先の状況と自分の無力さを見て、容易に主の約束を信じませんでした。

17節は、「私と話しておられるあなたが本当に主(ヤーウエ)であるしるし(証拠)を見せてください。」と言っているのです。

士 6:17 すると、ギデオンは言った。「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるというしるしを、私に見せてください。
6:18 どうか、私が贈り物を持って来て、あなたのところに戻り、御前にそれを供えるまで、ここを離れないでください。」それで、主は、「あなたが戻って来るまで待とう」と仰せられた。

慎重さも、ここまで来ると、「ギデオンよ。好い加減にしないか。」と言われそうですが主は忍耐深く聞き入れてくださったのです。
ギデオンは供え物をささげることによって、このお方が本当に神の勝利を与えてくださるお方なら、必ずそのしるしを見せてくれると考えたのです。

19~24節は、ギデオンの贈り物を記しています。

士 6:19 ギデオンはうちに入り、一匹のやぎの子を料理し、一エパの粉で種を入れないパンを作り、その肉をかごに入れ、また吸い物をなべに入れ、樫の木の下にいる方のところに持って来て、供えた。

ギデオンは、一人の不思議な旅人のために食事の準備をしようと思ったのか、一匹のやぎの子を料理し、一エパ(約23リットル)の粉で種を入れないパンを作っています。これは一人の人の食事としては多過ぎますが、ギデオンがどう考えたのかは分かりません。更に吸い物をなべに入れて、樫の木の下で待っておられたお方の前に供えました。

士 6:20 すると、神の使いはギデオンに言った。「肉と種を入れないパンを取って、この岩の上に置き、その吸い物を注げ。」それで彼はそのようにした。

そのお方は、ギデオンの持って来た肉と種なしパンを岩の上に置くように命じ、その上に吸い物を注ぐように命じました。ギデオンは、そのお方が食べないで、変なことを命じましたが、黙って従いました。すると、主の使いは手にしていた杖の先を伸ばして供え物に触れると、たちまち岩から火が燃え上がって、供え物を焼き尽くしてしまったのです。

6:21 すると【主】の使いは、その手にしていた杖の先を伸ばして、肉と種を入れないパンに触れた。すると、たちまち火が岩から燃え上がって、肉と種を入れないパンを焼き尽くしてしまった。【主】の使いは去って見えなくなった。

しかし本当に焼き尽くされる必要があったのは、ギデオン自身の不満や不信仰だったのです。

22節、これによって、ギデオンは同行と勝利を約束してくださったお方が主であることを知ったのです。

士 6:22 これで、この方が【主】の使いであったことがわかった。それで、ギデオンは言った。「ああ、神、主よ。私は面と向かって【主】の使いを見てしまいました。」

彼は、「私は面と向かって主の使いを見てしまいました。」と言っています。通常、人が聖なる神を見たなら、たちまち滅ぼされてしまいます。ですから、ギデオンは恐れて叫んだのです。イザヤ書6章でイエス様の栄光を見たイザヤも、「ああ。私は、もうだめだ。」(わざわいが来るとか、滅びてしまう、という意味です。)と叫びました。

23節、主はここでも、あわれみ深く言ってくださっています。

士 6:23 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」

「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない。」と言われました。主が反逆する者に現われて滅ぼされる時と、主が召されたしもべに現われる時とは、同じではないのです。しかし、どんな聖徒でも、主の現われに触れる時、恐れて倒れ、ひれ伏してしまうのです。

今日、クリスチャンたちは、神の召命や臨在を経験することが希薄になってしまっているために、神に対するこのような深い畏敬を持たなくなってしまっています。これはクリスチャンが自分の知恵を優先して生活するようになってしまったからです。

しかし、ギデオンがそのしるしを見て、主を悟った瞬間、主の御使いは彼の目には見えなくなってしまいました。目に見えるしるしを当てにするよりも、信仰によって主に従うことのほうが大切だからです。トマスも、主の御手の傷と脇腹の槍の跡に手を入れて確かめるまでは、決して信じないと、言いましたが、主はトマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20;25~29)と言われました。

パウロも、「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(コリント第二 5;7)と言っています。

ノアは、「まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り」(ヘブル11;7)ました。

アブラハムも、主から召しを受けたとき、「これに従い、どこへ行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)

ペテロも、「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(ペテロ第一 1:8)と言っています。

23節の「安心しなさい。恐れるな。」という御声は、おそらくギデオンの耳にではなく、彼の内なる霊魂に聞き取れるように強い印象として語られたのだと思います。私たちも信仰を働かせる時、聖霊がみことばを用いて、私たちの内に「心を騒がすな。雄々しくあれ、勇敢であれ、強くあれ。」と強い御声をかけてくださいます。これによって、どんなに力づけられ、勝利を得て来たことでしょうか。

24節、ギデオンは、すぐにそこに主のために祭壇を築いて、あかしをしました。

士 6:24 そこで、ギデオンはそこに【主】のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロムと名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている。

その名を「アドナイ・シャロム(主の平安)」とつけました。これはこの時のギデオンの霊的経験の特長を示しています。

主もまた、
「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。」(ヨハネ14:27)
と約束してくださいました。

ギデオンは、ミデヤン人の襲撃によって、不安と恐れと、不満に満ちた心を持っていたのですが、主に出会った経験をした時、彼は深い平安を味わったのです。彼は恵みを味わうと、「あとで」と思わないで、すぐにあかしの祭壇を築いたのです。私たちも、すぐにあかしをしましょう。あかしをするのを、明日に延ばしているから、恵みを失ってしまうのです。

この士師記が書かれた時、その祭壇はオフラに残っていたのです。この記述は、士師記が書かれた年代を定めるのに大変役に立つ証拠になります。

25~32節、バアルの祭壇の破壊

25節、同じ日の夜、主は再びギデオンに語られました。

士 6:25 その夜、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたの父の雄牛、七歳の第二の雄牛を取り、あなたの父が持っているバアルの祭壇を取りこわし、そのそばのアシェラ像を切り倒せ。
6:26 そのとりでの頂上に、あなたの神、【主】のために石を積んで祭壇を築け。あの第二の雄牛を取り、切り倒したアシェラ像の木で全焼のいけにえをささげよ。」

主の召命を受けたギデオンは早速、なすぺきことを命じられたのです。
それは、ギデオンの父の七歳の第二の雄牛に引かせて、父が持っていたバアルの祭壇を取り壊し、そのそばのアシェラの像も切り倒すことでした。

彼の父ヨアシュは「主が授けてくださった」という意味のすばらしい名前をつけていただいたにも関わらず、バアルとアシェラの偶像礼拝者になっていたのです。この二つはフェニキヤ地方から入って来た偶像で、どちらも木で作られており、アシェラはバアルと対になっており、カナンの女神の名前とされており、多産を意味していました。

ギデオンはイスラエルをミデヤン人の手から救い出すために、まず、自分の家族の家の中から偶像を取り除くことが命じられたのです。自分の内に偶像を温存したまま、イスラエルから偶像を取り除いて、救い出すことはできません。このことは、すべて主に仕える人は、自分の内から自己中心の偶像を取り除いておかなければならないことを教えています。

バアルとアシェラは小高い丘のように土を盛った所にありました。主は、偶像を取り除いたその丘の上に石を積んで主の祭壇を築き、その上で、アシェラ像の木をたき木とし、偶像を引き倒すのに使った父の第二の雄牛をほふって全焼のいけにえとするように命じられています。

27節、ギデオンは、自分のしもべの中から、十人を引き連れて(おそらくギデオンに忠実なしもべを選んだのでしょう。)、主のご命令通り実行しました。

士 6:27 そこで、ギデオンは、自分のしもべの中から十人を引き連れて、【主】が言われたとおりにした。彼は父の家の者や、町の人々を恐れたので、昼間それをせず、夜それを行った。

先に彼は「私の分団は、マナセのうちで最も弱い」と言いましたが、自分のしもべの中から、すぐに忠実なしもべを十人選ぶことができたのですから、彼の家族は、かなりの力をもっていたと思われます。

しかし彼は、父の家の者や、町の人々の反対を恐れて、昼間を避け、夜中に偶像撤去を行なったのです。
これを夜、実行したことは、彼に勇気がなく、人を恐れていたこともあったと思いますがそれでも賢明であったと思います。イスラエルの改革の最初に、味方となるべき人々を敵にまわしてしまわないために。

28節、しかし翌朝、早く起きた町の人々は驚いたことでしょう。昨日まであったバアルの祭壇は壊され、アシェラの木は切り倒され、その代わりに、ヨアシュの第二の牛がささげられていたのですから。

士 6:28 町の人々が翌朝早く起きて見ると、バアルの祭壇は取りこわされ、そのそばにあったアシェラ像は切り倒され、新しく築かれた祭壇の上には、第二の雄牛がささげられていた。

この第二の牛が全焼のいけにえにされていたことから、これを行なった者がだれか、大体見当ついたでしょう。そういうことができる者は、ヨアシュ自身か、彼の息子かだけだからです。

士 6:29 そこで、彼らは互いに言った。「だれがこういうことをしたのだろう。」それから、彼らは調べて、尋ね回り、「ヨアシュの子ギデオンがこれをしたのだ」と言った。

30節、町の人々はヨアシュに、「あなたの息子を引張り出して殺しなさい。」と要求しました。

士 6:30 ついで、町の人々はヨアシュに言った。「あなたの息子を引っ張り出して殺しなさい。あれはバアルの祭壇を取りこわし、そばにあったアシェラ像も切り倒したのだ。」

ギデオンが、彼らの偶像礼拝の場所を壊し、バアルとアシェラを汚したと考えたからです。これを見ると、イスラエル人の心の中に相当深く偶像礼拝が根をおろしていたことが分かります。

これに対するヨアシュの返事からすると、ヨアシュは、バアルとアシェラの祭壇を持ってはいたものの、心の底まで偶像礼拝に染まっていたのではなかったことが分かります。彼は息子のギデオンがしたことを正しいと言い切っています。

士 6:31 すると、ヨアシュは自分に向かって立っているすべての者に言った。「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もしバアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」

ヨアシュの論理は町の人々の反対を封じ込めてしまいました。
「あなたがたは、バアルのために争っているのか。それとも、彼を救おうとするのか。バアルのために争う者は、朝までに殺されてしまう。もし、バアルが神であるなら、自分の祭壇が取りこわされたのだから、自分で争えばよいのだ。」

この論争があったのは、夜明け頃だったのでしょう。ですから「朝までに殺されてしまう」とは、あと数時間のうちに殺されることを言っているのです。ここではだれが審判を下して殺すのかは、言われていません。聞く町の人々各々に悟らせたのでしょう。ある人は、ヤーウェの審判が下ると思ったでしょう。他の者は、ヨアシュか、ギデオンが殺すと、思ったかも知れません。

今も、偶像を助けようとして、主と主のしもべと争う者は、復活の朝までに、みな滅ぼされてしまうのです。

その日から、ギデオンを人々は「エルバアル(バアルは自分で争えばよい)」と呼ぶようになったのです。

士 6:32 こうして、その日、ギデオンはエルバアルと呼ばれた。自分の祭壇が取りこわされたのだから「バアルは自分で争えばよい」という意味である。

しかし、忌まわしい「バアル」の名称を使うのを嫌って、エルバアルは「エルベシェテ」(サムエル記第二 11:21)と改名されました。「ボシェテ」は「恥」と言う意味です。このような使い方は、ほかにも、「エシュ・バアル」(歴代誌第一 9:39)が「イシュ・ボシェテ」(サムエル記第二 2:8)に、「メリブ・バアル」(歴代誌第一 8:34)が「メフィボシェテ」(サムエル記第二 4:4)に改名されています。

33~40節、召命の確証(羊の毛の試み)

33節、ギデオンに敵対しては巨大な連合軍が組織されていました。それは長年イスラエルに敵対を続けていたミデヤン人とアマレク人と東の人々の連合軍です。

士 6:33 ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな連合して、ヨルダン川を渡り、イズレエルの谷に陣を敷いた。

彼らはイズレエルの谷に陣を敷いていました。イズレエルはイッサカルの領地のギルボア山の近くの要塞の町でした。ニムシの子ヨシャパテの子エフーが、イスラエルの王アハブの子ヨラムを打ち、ヨラムの母イゼベルが犬に食われたのも、このイズレエルにおいてです。(列王記第二、9章)イズレエルの谷は、イズレエルからヨルダン川まで下りになっている広大な深い谷間です。そこは、パレスチナを略奪する格好の基地となっていたのです。

イズレエルは「神は植えた」という意味で、南のユダの山地にも同名の町があります。 また、エスドラエロンは、イズレエルのギリシャ語の読み方ですが、この平原は、カルメル山の北側を、パレスチナを横断するように西から東に下っているメギドの平原ですが、これは、ここで言っているイズレエルではありません。

34節、「主の霊がギデオンをおおった」はへブル語としては、非常に特長のある表現です。

士 6:34 【主】の霊がギデオンをおおったので、彼が角笛を吹き鳴らすと、アビエゼル人が集まって来て、彼に従った。

この「おおう」は、もともとはいけにえのあがないの血で罪を「おおう」ことを意味しており、それはいけにえの血で、至聖所の契約の箱の上にある「あがないの蓋」をおおってしまうことから出ています。ここでは、「主の霊がおおって」いますから、主の御霊がギデオンを用いるために、力を着せられたことを言っていると思われます。これはギデオンの性質まで潔められる聖化のみわざまでは意味していません。なぜなら、ギデオンの彼の生涯は聖潔の生涯を歩んでいないからです。すなわち、人が衣服を着るように、主はギデオンをご自分の働きのために用いるのに、主の霊がギデオンを覆い包んで力を与えたのです。

この、「主の霊がギデオンをおおった」という経験を使徒の働き2章4節の聖霊に満たされた経験と同一視する人もいますが、それは少し行き過ぎています。

ギデオンは主の御霊の力を着せられて、召集のラッパを吹き鳴らしています。すると、ギデオンの属する一族のアビエゼル人がギデオンのもとに集まって来て戦いに備えたのです。

35節、ギデオンはまた、自分に近い地域の他の部族、すなわち、マナセの全域、アシェル、ゼブルン、ナフタリに使者を遣わし、彼らも、巨大な連合軍と戦うために集まって来ました。

士 6:35 ギデオンはマナセの全域に使者を遣わした。それで彼らもまた呼び集められ、彼に従った。彼はまた、アシェル、ゼブルン、そしてナフタリに使者を遣わしたので、彼らは合流して上って来た。

36~40節、これからギデオンは、戦いを始めるのですが、それは熾烈な戦いになることは間違いないと思われます。そこで、ギデオンは戦いを始める前に、主が自分を召して、勝利を確かに与えてくださるのか、どうか、自分の召命を確かめています。

これはギデオンの不信仰というより、彼の慎重さと受け止めるほうが正しいでしょう。彼は、主が自分(ギデオン)の手を用いてイスラエルを救われることを確かめたかったのです。彼は主の霊におおわれていながらも、なお、心に不安があったのです。信仰経験には、確かに、不安が全く取り除かれ、確信に満ちて困難を乗り越えて行く時もありますが、心配や不安を抱きつつ、信仰の戦いをしなければならない時もあります。大事なことは、心配や不安を抱いていることではなくて、その心配や不安に心が捕えられてしまって、不信仰に陥らないことです。

ギデオンは羊の毛と露を使って、面白い方法で、彼が主によって確かに勝利することを確かめています。

士 6:36 ギデオンは神に申し上げた。「もしあなたが仰せられたように、私の手でイスラエルを救おうとされるなら、
6:37 今、私は打ち場に刈り取った一頭分の羊の毛を置きます。もしその羊の毛の上にだけ露が降りていて、土全体がかわいていたら、あなたがおことばのとおりに私の手でイスラエルを救われることが、私にわかります。」

これは主のみこころと、主の御力を試すことになるのですが、主はお怒りにならずに、多少、信仰の幼いギデオンの申し出を受け入れてくださっています。ギデオンは、このようにすることは、主を試みることになるので、主の御怒りを引き起こすかも知れないと思って、「私に向かって御怒りを燃やさないでください。」(39節)と言っています。

ギデオンの信仰は、主のみことばの約束だけでは信じ切れす、安心できず、しるしを見て信じる信仰だったのです。主イエス様は、トマスに、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言っています。

パウロも 「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(コリント第二 5:7)と言っています。

ギデオンの求めたしるしは、主のみことばの約束が確かであると言う証拠として、まず、羊一頭分の毛を打ち場に広げて一晩置きます。その一晩の間に、ギデオンはその羊の毛の上にだけ露が降りていて、その他の部分の土全体が乾いてるなら、主のみことば通り、ギデオンの手によって、イスラエルを救われると確信することができる、と言ったのです。これは通常の自然界で起きることに比べると、あり得ない異常なことです。夜露は打ち場に広げられた羊の毛にも、他の土の上にも降るのが通例です。

士 6:38 すると、そのようになった。ギデオンが翌日、朝早く、その羊の毛を押しつけて、その羊の毛から露を絞ると、鉢いっぱいになるほど水が出た。

翌朝、ギデオンが羊の毛を絞ってみると、一寸、しめっている状態ではなく、鉢いっぱいの水が出ており、土の上は乾いていたのです。主のみわざはギデオンが判断を誤るようなものではありませんでした。

上の絵は、1873年にCharles Fosterにより出版された「The story of the Bible from Genesis to Revelation told in simple language for the young」の挿絵「Gideon wringing the fleece(羊の毛を絞っているギデオン)」(作者不明、Wikimedia Commonsより)

しかし、ギデオンはそれで十分な証拠だとは思えなかったのです。何かの拍子でこういうことが起きたのかも知れない。本当に主が働いてくださって、こうなったのなら、主はその反対のこともできると思ったのです。それでギデオンは、「もう一回だけ試みさせてください。」と言って、今度は、夜露が土全体の上に降りて、羊の毛の上だけが乾いているようにというしるしでした。

士 6:39 ギデオンは神に言った。「私に向かって御怒りを燃やさないでください。私にもう一回言わせてください。どうぞ、この羊の毛でもう一回だけ試みさせてください。今度はこの羊の毛だけがかわいていて、土全体には露が降りるようにしてください。」

主は忍耐強くギデオンの願いを聞いてくださり、その通りにしてくださいました。

士 6:40 それで、神はその夜、そのようにされた。すなわち、その羊の毛の上だけがかわいていて、土全体には露が降りていた。

ギデオンは、草の毛と夜霧という、日常生活のことを用いて、主のみわざの確信を求めたのです。なぜギデオンは、このようなことをしなければならなかったのでしょうか。それは、それまで、日頃、彼の生活の中で主の御手のみわざをしっかり見ていなかったからです。ですから、主の働きをしようとする時、あわてて、主のしるしを求めなければならなくなったのです。

私たちの日々の生活の中で主の栄光を心に受けながら働く経験をしていくことが大切です(コリント第二 3:18)。これが、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」(ローマ12:1)であり、「自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一 6:20)なのです。

主のみわざは正確でした。そして、それに続く、敵の連合軍との戦いにおける神のみわざも正確でした。

こうして、ギデオンの心は主に対する確信を与えられたのですから、今度はギデオンが試みられることになるのです。それは集まって来た仲間の軍隊が減らされ、わずか三百人で戦うことになるのです。主に対する確信が与えられたなら、これもあり得ることです。

あとがき

なかなか梅雨が明けないと思っていたら、猛暑と台風です。世の中では景気が徐々によくなると言う人と、よくならないと言う人とがいます。日本の福音宣教は困難だと言う人が大半ですが、私はできると信じて奉仕しています。古今東西を問わず、評論家が何か難事を成し遂げたことはありません。足元の福音のあかしを真剣にしないで、調査だけをしている評論家は、いつも「困難」を連発するのです。イエス様の時代にイエス様の働きを妨害したのは、口先で律法を教えた律法学者やパリサイ人でした。パウロの異邦人宣教を妨害したのは、エルサレムから出て行こうとしなかったユダヤ主義者たちでした。今日では、偽りを教える教師とあかしをしない信者が福音宣教の妨害者となるのです。

(まなべあきら 2002.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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