聖書の探求(232) 士師記6章1~10節 キデオンとその働き、民の背教とミデヤン人の攻撃
上の絵は、FreeBibleimagesにより提供された士師記6章の挿絵「At harvest time for the next seven years the Midianites attacked them to steal or destroy their crops. (続く7年間、収穫時期になると、いつもミデヤン人が襲って来て作物を盗んだり破壊したりした。)」(Contributed by Child Evangelism Fellowship (Europe))
6~8章は、ミデヤンの圧制下での、ギデオンの救出の活躍が記されています。
(6章~10章5節の構造)
1、主はその民の悪のために、イスラエル人をミデヤン人の手に渡され、ひとりの預言者を通して警告された(6:1~10)。
2、ヤーウェご自身の警告のみことば。その内容は、イスラエル人がエジプトの奴隷の状態から救い出してくださった主のご命令を捨てて、異教の偶像に仕えたことに対する刑罰です(6:8~10)。
3、ミデアン人の抑圧は七年間続きました(6:1)。
その後、ギデオンの下で四〇年間の平和が与えられ(8:28)、トラとヤイルの下で45年間の平和が与えられました(10:2,3)。
この時期は重大な内乱が起き、神の民の社会が急激に崩壊していっているのが特徴です。
また、エフライム部族が、ギデオンと彼の戦いに加わって勝った部族を非常にねたむようになっています。
スコテの人々とぺヌエルの人々は、ギデオンを助けることを拒んでいます(8:4~9,14~17)。
この戦いでは、単に全イスラエル人が戦わなかっただけでなく、主は、ギデオンの下に集まった全軍さえも戦いに加わることを許されませんでした。
主は、わずか三百人の主を畏れた兵士の手で、勝利を与えてくださったのです。それは彼ら自身が主に対して誇らないためです。
「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:29)
「だれも誇ることのないためです。」 (エペソ二・九)
6~8章(ギデオンの章)の分解
6章 キデオンの選び(召命)
・1~10節、民の背教とミデヤンの圧迫
・11~24節、ギデオンに対する主の使いの顕現と命令
・25~32節、ギデオン、偶像を倒す
・33~35節、ギデオン、民を招集す
・36~40節、ギデオン、しるしを求む
7章 ギデオンの戦闘
・1~8節、 ギデオン、兵士を減少す
・9~14節、ギデオン、敵の夢で励まされる
・15~25節、ギデオンの攻撃と勝利
8章 ギデオンの迫撃(晩年)
・1~21節、ギデオンの追撃と勝利(エフライム人の詰問、スコテとペヌエルの住民の 不誠実)
・22~23節、ギデオン、王となることを拒む
・24~27節、ギデオン、エポデをつくる
・28~32節、ギデオンの統治、家族、死
・33~35節、イスラエルの背教と忘恩
ギデオンとその働き
ギデオンの歴史的資料は、相当多く記されています。それは、その記録が神の民を救うに当たって、信仰に富んだものであり、契約の神の恵みある働きを極めて明瞭に示しているからです。
この記録には、文学的に特異性があるので、いろいろな受け止め方がされています。
ある人々の考えでは、この記録には、二つ、あるいは三つの資料が用いられており、またギデオンについては二つの記事がある、としています。こういう考え方をするのは、ギデオンの名前が、時として、エルバアルの名前で呼ばれていることに原因しています。しかし、この記錬は完全な一つのまとまりをなしており、それをいくつもの文書に分ける試みをしているのは、明確な根拠のないことで、誤っています。
(ギデオンについて)
ギデオンは、神の召命に対して何度か、その証拠を求めましたが、それは彼が不信仰であったからではありません。彼がすぐに実行に取りかかるのに躊躇したのは、彼の生まれながらの慎重さによるものでした。ギデオンは不確実なことに対して苦しみを持って、確証に確証を求めました。その後、神の召命の確証を受けると彼は力強く前進しました。これこそ、偉大な霊魂の常道です。
マルチン・ルターも、神が彼にさせようとしておられた働きの前に畏縮しました。ノックスも逃げ隠れしました。カルビンも、ファレルが言明を持って彼を拘束するまで、逃れようとしました。ギデオンも、神の決定的な奉仕のために、躊躇したのです。そしてギデオンが戦いのために選んだ三百人の兵士たちもみな、彼と同じ慎重な神を畏れる同じ信仰の人たちでした。そして彼らはみな、信仰の確信を持った時、恐れを知らない大胆不敵な神の兵士となったのです。
慎重な良心と信仰の確信を持つ兵士は、最も勇敢です。クロムウェルは、このような人以外の者を求めなかったのです。彼は神を畏れる人を愛し、祈りと賛美を持って戦場に出て行く者たちを愛して指揮をとったのです。
ギデオンは、自分を無に等しい者であると自覚した人でした(士師記6:15)。
「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚か者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」(コリント第一 1:27~28)
主は、そのようなギデオンを顧みられて、ご自身の全能について、様々な証拠を与えて、ギデオンの信仰を励まされました(6:17~21)。この恵みとご命令のみことばが無力なギデオンを勇者に変えたのです。
彼はまず、主のご命令に従って、自分の父の家の偶像バアルの祭壇を打ち壊して、これを働きの手始めとしました(6:25~27)。ギデオンは町の人々を恐れて、夜中にこれを実行しましたが、とにかく、これを成し遂げたことは、神から受けた勇気を示すものでした。
次に、神はギデオンの軍隊の人数を減らされました。これは敵に勝つのは、人によるものではなく、神によるものであることを明らかに示すためでした。
主は、水ぎわで兵士たちの水を飲む姿勢をもって選んで区別するように命じました。ほとんどの兵士は、水ぎわに両手をついて、犬が水をなめるような格好で一気に水を飲みました。
しかし、その中には、武器を片手から離さず、片手で水をすくって飲んだ者もいました。その数はわずか三百人でしたが、主はこの慎重な三百人を神の兵士として用いて、イスラエルを救ったのです(7章)
。
ギデオンの生涯は、教訓に満ちています。彼は、敵の一人が、今見た夢を友人に語り、その友人が夢の解き明かしをするのを聞いて、信仰を強められています(7:13~15)。
この夢の中に出てきた大麦のパンは、あらゆる食物の中で一番粗末なものですが、その日、勝利を得た秘訣は、全く弱い人間が全能の神に全くより頼んだからであることを示しています。
ギデオンの戦術は、「霊感の戦術」と言うことができるでしょう。「たいまつとつぼと角笛」は、どれも武器としては役に立たないものばかりです。しかし神はこの三百人と共に戦われた故に勝利を得たのです。実に神は信仰のある少数の者と共によく働かれるのです。信仰こそ、無敵の力があるのです。
「たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(サムエル第一 14:6)
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
6章の分解
1~10節、ミデヤン人の攻撃
11~24節、ギデオンの召命
25~32節、バアルの祭壇の破壊
33~40節、召命の確証(羊の毛の試み)
1~10節、ミデヤン人の攻撃
1,2節、
士 6:1 イスラエル人はまた、【主】の目の前に悪を行った。そこで、【主】は七年の間、彼らをミデヤン人の手に渡した。
6:2 こうして、ミデヤン人の勢力はイスラエルを押さえたので、イスラエル人はミデヤン人を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や、要害を自分たちのものにした。
①、イスラエル人は、主の目の前に悪を行なった。
②、主は七年間、彼らをミデヤン人に渡した。
③、ミデヤン人はイスラエル人を押さえた。
④、イスラエル人は、敵を避けて、山々にある洞窟や、ほら穴や要害に隠れた。
この堕落、刑罰、解放という基本的なサイクルのパターンは、士師記の特徴であり、形式的な信仰者の陥る特徴です。
ミデヤン人は、モアブとエドムの南にあるアラビアの砂漠地帯に住む遊牧民でした。
ミデヤン人は、アブラハムとケトラの子孫であり(創世記25:2,4)、
ミデヤンの商人は、ヤコブの息子ヨセフを兄たちから買い、エジプトに連れて行って、ポティファルに奴隷として売った(創世記37:28,36)。
モーセのしゅうとイテロは、ミデヤンの祭司であった(出エジプト記3:1)。
ミデヤン人の長老たちは、モアブの王バラクの提案を受け入れて、イスラエルをのろうために、ユーフラテス河畔のペトルにいたペオルの子バラムを招く集団に加わっています(民数記22:4~7)。
バラムの手引きによって、イスラエルは偶像のバアル・ペオルを慕うようになり、モアブの娘たちやミデヤンの族長の娘コズビとのみだらな事件を引き起こしていました(民数記25章)。これに対して主はモーセに対して、ミデヤン人を襲って、主の復讐をするように命じています。それで、イスラエル人はミデヤン人の男子をすべて殺し、ミデヤンの五人の王を殺し、ペオルの子バラムも剣で殺し、ミデヤン人の女、子どもをとりこにし、その獣、家畜、財産をことごとく奪い、ミデヤン人の住んでいた町々や陣営を全部火で焼いています(民教記31:1~10)。
しかしモーセは更に、子どものうち男の子をみな殺させています。彼らが成長して逆襲させないためでしょう。男と寝て、男を知っている女もみな殺させています。彼らが妊娠していて、男の子を生む可能性があったからです。ただ、男と寝ることを知らない若い娘たちだけが、イスラエル人のために生かしておかれたのです。それ故、士師記に出てくるミデヤン人とは、最後に生き残されていた若い娘たちの子どもや孫たちでした。
彼らがどのようにして、再びミデヤン人を形成していったのかは分かりませんが、恐らく、他に生き残っていたミデヤンの男や女たちがいたのでしょう。あるいはイスラエル人や他民族との間に生まれた者たちも加わっていたでしょう。彼らはいくらか勢力を持ち始めてくると、いつかはイスラエルに復讐しようと機会を狙っていたことは確かでしょう。そして主は、イスラエルが主の目の前に悪を行なった時、ミデヤンの復讐心を利用してイスラエルを罰せられたのです。ですから、この時のミデヤン人の侵略は、ただ物を略奪することだけが目的ではなく、復讐心に燃えていたのです。
その残虐さは、イスラエル人が山々の洞窟や、はら穴や、要害に身を隠したことでも分かります。イスラエル人は、七年間、恐怖のどん底にいたのです。
3節、イスラエル人が種を蒔いて、収穫時期になると、いつもミデヤン人が襲って来ました。
士 6:3 イスラエル人が種を蒔くと、いつでもミデヤン人や、アマレク人や、東の人々が上って来て、イスラエル人を襲った。
イスラエルに食料を与えないことによって滅亡させようとしていたのです。これを見た周辺のアマレク人や、東の人々も、弱っているイスラエル人に禿鷹のように、次から次へと襲いかかっていったのです。今でも、この世は同じです。弱い者を見つけると、「次から次へと攻撃を加えるのです。しかしパウロは、
「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるぺきではありません。」(ローマ15:1)
と勧めています。
4節、その攻撃ぶりは、徹底していました。
士 6:4 そしてイスラエル人に対して陣を敷き、その地の産物を荒らして、ガザに至るまで、イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。
1、「イスラエル人に対して陣を敷き」、単発的な、一時的な略奪ではなくて、収穫物が完全になくなるまで、監視していて、継続的に略奪を繰り返したのです。
2、その範囲は「ガザに至るまで」 当時、ガザはパレスチナの南西部にあるイスラエルの開拓の町だったのです。
3、「イスラエルに羊や牛やろばのためのえささえも残さなかった。」これは、あわれみのかけらもなく、イスラエルの全滅を望んでいる徹底した残酷さを示しています。
4、5節、「彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。」
士 6:5 彼らが自分たちの家畜と天幕を持って上って来たからである。彼らはいなごの大群のようにしてやって来た。彼らとそのらくだは数えきれないほどであった。しかも、彼らは国を荒らすために入って来たのであった。
彼らは、イスラエルの国を全滅させて、自分たちがそこに住むために侵入して来ています。数え切れないほどのらくだを連れて来ていたのは、そこで戦闘と貿易を行なうためです。らくだは、戦いの時に勇士を乗せて走り、商業のためには荷物を運ぶ手段として使われるからです。
彼らは、もはやそこから引き上げる考えはなかったのです。彼らは、組織化された侵略軍であり、占領軍として居座ったのです。
6節、こうして、イスラエルは、ミデヤン人によって、急速に、非常に弱くなっていったのです。
士 6:6 それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。すると、イスラエル人は【主】に叫び求めた。
ヨシュアの時にカナン全土を攻撃していたあの強力な力は、あっという間に失われてしまったのです。
この日本においても、先の戦争によって、あっという間に国力を失い、悲しみのどん底に落ちたのでしたが、そこから半世紀かけて再び、物質的、経済的力は回復したかと思えば、人の心は、互いに愛することも、耐え忍ぶことも、自制することもできない、非常に弱いものになってしまっています。今度は国土が焦土と化しただけでなく、人の心が荒れ果てて、人が安心して住むことができない国になってしまっているのです。
これを、どうすればよいのか。
イスラエル人は主に叫び求めたのです。ここから、すべての回復が始まるのです。
7~10節、イスラエル人の悔い改めと神の介入
7,8節、主はイスラエルが真剣に主に叫び求めた時、主はイスラエルを捨てなかったのです。
士 6:7 イスラエル人がミデヤン人のために【主】に叫び求めたとき、
6:8 【主】はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。
主は真剣に主に立ち帰って来る者を見捨てないのです。これは放蕩息子のたとえにもある通りです。いかに主に反逆した者であっても、真実に、真剣に悔い改めて主に立ち帰るなら、主はあわれみ深く受け入れて、助けてくださるのです。
しかしここに、一寸気になることがあります。それはイスラエル人が「主(ご自身)を叫び求めた」のではなく、「主に(助けを)求めた」ことです。「主ご自身を求めること」と「主に助けを求めること」とは、同じではありません。「主ご自身を求める」人なら、再び主を捨てて、偶像礼拝に陥ることはしないでしょう。しかし「主に助けを求める」人なら、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」で、助けられた感謝も時とともに薄れて、再び、神の目の前に悪を行なうようになる危険があります。このことは、士師記において、イスラエル人が主に対して背教を繰り返していることで証明されます。私たちの信仰も、「主に助けを求める信仰」から、「主ご自身を求める信仰」に変えられていなければなりません。
8節、主はイスラエル人の叫びに答えて、すぐに、主のみことばを取り次ぐ一人の預言者を遣わされました。
士 6:8 【主】はイスラエル人にひとりの預言者を遣わした。預言者は彼らに言った。「イスラエルの神、【主】はこう仰せられる。わたしはあなたがたをエジプトから上らせ、あなたがたを奴隷の家から連れ出した。
彼の名前はここには記されていませんが、彼の語ることばは、「イスラエルの神、主」によるものであるという、主の権威を明らかにしています。主に用いられる人の名誉よりも、主の権威を表わすことが大事なのです。
しかし、このメッセージの最初のことばは、「イスラエルの神」です。主は背教から悔い改めて、立ち帰ってきた者に、「あなたたちの神」と言ってくださったのです。主はイスラエルを捨てないと言われたのです。何というあわれみでしょうか。主は、ペテロが三度、主を「知らない」と否定した時も、ペテロを見捨てませんでした。それは、人がいかに熱心に主に従っていても、弱い者であることを知っておられるからです。
その次に「主(ヤーウェ)」と言われました。「ヤーウェ」には、二つの意味があります。一つは、契約を必ず守られるお方であることです。もう一つは、相手の性質や相手のとる態度にふさわしくなられるお方であることです。私たちが主に忠実に従順に、愛して信頼して従って行くなら、主もまた私たちと親しく交わってくださるお方です。しかし私たちが心頑なにして、不従順、不服従の態度を取るなら、主も私たちに対して沈黙されてしまうお方です。昔、アブラハムが、主の約束に反して、ハガルからイシュマエルを生んでしまった時、主はアブラハムに対して、十三年間も沈黙されたのです。ですから、心を頑なにしないで、いつも心をやわらかにして主に近づいてください。そうすれば主もあなたに近づいてくださいます。
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。」(ヤコブ4:8)
次に、神のメッセージの内容は、イスラエル人が神の刑罰を受けるようになった原因についてです。
士 6:9 わたしはあなたがたをエジプト人の手と、すべてあなたがたを圧迫する者の手から助け出し、あなたがたの前から彼らを追い出して、その国をあなたがたに与えた。
6:10 それでわたしはあなたがたに言った。『わたしはあなたがたの神、【主】である。あなたがたが住んでいる国のエモリ人の神々を恐れてはならない。』ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」
その第一は、彼らが主によって、エジプトの奴隷状態から助け出していただいたことを忘れてしまったことです。
このことから、第二の原因となる、エモリ人の偶像礼拝へと陥ったことです。
私たちは、
「義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。」(イザヤ書51:1)
を、いつも心に留めて、主の救いを感謝しようではありませんか。これらのことを忘れ始めると、この世と調子を合わせるようになり、神の刑罰を受けることになるのです。
第三の原因は、「ところが、あなたがたはわたしの声に聞き従わなかった。」です。
神の救いの恵みを忘れ、神から与えられた産業の祝福に感謝することも忘れ、まわりのこの世の偶像(楽しみ)に心を向けるようになると、神のみことばなど、心に響かなくなってしまうのです。聖書のことばを沢山覚えていても、多くの教理的知識を持っていても、それらは心の内で何も働かなくなり、いのちも、力も生み出さないのです。こうして神の刑罰を受けるに至るのです。
この、一人の預言者のメッセージは、イスラエル人に、罪の自覚を深めさせ、真実な悔い改めの実を結ばせ、もう一度、主を礼拝することを回復させようとする希望を持たせようとしています。
あとがき
6月5日に、士師記7章の原稿を書き終えて、再度、日本宣教への使命を新にさせられました。日本は、日本人の心にイエス様が宿るようになるまで、荒れ果てていくでしょう。東京都も、川崎市も、横浜市も、公営のギャンブルの集中する町を作ろうとしています。それはパチンコ店が地域に広がっていくのを防ぐためとか言っているのですが、もし大都会がギヤンブル化していけば、若者はその中に吸い込まれていくでしょう。そこは麻薬と犯罪の温床となるのです。ソドム、ゴモラは目の前に見えているのです。この世の為政者らがこのような企てをする時、私たちは主のみことばを誇る証人、キリストの精兵士三百人を必要とするのです。みことばと聖霊によってあかしするなら、日本は福音化されます。
(まなべあきら 2002.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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