聖書の探求(234) 士師記7章 ギデオンの戦い、選兵、大麦パンの夢、戦闘準備、主による勝利
上の絵は、1907年にアメリカのthe Providence Lithograph Companyから出版されたバイブルカードより「Gideon and His Three Hundred(ギデオンと300人)」(Wikimedia Commonsより)
7章は、いよいよギデオンの戦いです。
1~8節、選兵
9~14節、大麦のパンの夢による主の激励
15~18節、戦闘準備
19~25節、主による勝利
1~8節 選兵
1節で、ギデオンは初めて「エルバアル」と呼ばれています。
士 7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
彼がこう呼ばれたのは、6章で父の持っていたバアルの祭壇を取り壊し、アシェラ像を切り倒していたので、人々が、エルバアル(バアルと争う者、という意味)と呼んだのです。しかし彼が死んで後、カナンの偶像の名前である「バアル」という言葉が忌み嫌われるようになると、「エルバアル」から「エルベシェテ」に置き換えられて呼ばれています。「ベシェテ」とは「恥ずべきもの」という意味です(サムエル第ニ 11:21)。
ギデオンのもとには三万二千人の志願兵が集まり、彼はその軍隊をハロデの泉のそばに集めて陣を敷きました。「ハロデ」は「身震い」を意味します。その場所はギルポア山の北西にある井戸のある所で、今のアイン・ヤルドです。
ミデヤンの陣営は、ギテオンの陣営の北に当たるモレの谷、今のネビ・ダヒにありました。モレという地は、シェケムの近くの小さい森にもありますが(創世記12:6)、ここのモレはそこではありません。
2節、主はギデオンに、「あなたといっしょにいる民は多過ぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った。』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。」と言われています。
士 7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。
主は徹底的に、人が誇ることをお嫌いになるのです。もし大軍に勝利を与えるなら、彼らは自信過剰になり、自分たちに力があり、強かったから勝ったのだと思うようになってしまいます。これでは主の栄光を人が奪ってしまうことになります。
「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」(コリント第一 1:19)
「行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:9)。
3節、そこで主はギデオンに、「今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい。』と言え。」と命じました。
士 7:3 今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。
すると、二万二千人が帰って行き、一万人が残ったのです。
「恐れ、おののく者」は味方の戦いの士気をくじき、敗北の原因になりますから、神の戦いから除かれています。
主はモーセを失ったヨシュアにも、「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。」(ヨシュア記1:9)と言われました。
「人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。」(箴言29:25)
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ 16:33)
「愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。」(ヨハネ第一 4:18)
ペテロは、水の上を歩いていた時、風を見て、こわくなり、沈みかけています(マタイ14:30)。
さらに、ペテロはイエス様が捕えられた時、人を恐れて、三度も主を否定しています(マタイ26:69~75)。
3節の「ギルアデ山から」は、この時のイスラエル人の陣営が「ギルボア山」のそばにあったので、マソラ写本は筆写者が誤って、「ギルボア」のへブル語のニ字を変えてしまって「ギルアデ」になってしまったのだという人もいます。
他の人は、「ギルアデ山から」と、「‥‥から」が付いているのは、帰った二万二千人のイスラエル人が、ヨルダン川の東のギルアデを通過して帰って行った道筋を示していると考えています。
さらに、改訂標準訳の翻訳者たちは、もっと徹底的に改訂し、この部分を「さらにギデオンは彼らを試みた」としています。
これらのうちどれが正しいかは判定することができませんが、「恐れ、おののいた者」が神の戦いに加えられなかったことは明白です。
4節、ギデオンのもとには一万人の兵士が残っていましたが、主の目にはこれでも「まだ多すぎる」のです。
士 7:4 すると、【主】はギデオンに仰せられた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水のところに下って行け。わたしはそこで、あなたのために彼らをためそう。わたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行かなければならない』と言うなら、その者は、あなたといっしょに行かなければならない。またわたしがあなたに、『この者はあなたといっしょに行ってはならない』と言う者はだれも、行ってはならない。」
次のテストは、水飲み場で行なわれました。
上の絵は、1873年にCharles Fosterにより出版された「The story of the Bible from Genesis to Revelation told in simple language for the young」の挿絵「Las tropas de Gedeón(ギデオンの軍隊)」(スペイン・マドリッドのプラド美術館蔵、Wikimedia Commonsより)
このようにして、実は私たちも毎日の普段の生活の中でテストされていることに気がつかなければなりません。教会で奉仕している時に立派そうに見えていても、それで合格しているのではありません。パウロは、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」(コリント第一 10:31)と教えているではありませんか。
7:6 そのとき、口に手を当てて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみな、ひざをついて水を飲んだ。
「ためそう」という語は、「鉱石から金属を精練する」ことを意味する言葉です。
この最終段階におけるテストは、「犬がなめるように、舌で水をなめる者」と「ひざをついて飲む者」は取り除かれ、「口に手を当てて水をなめた者」だけが主の御用にかなって、神の戦いに加えられたのです。
「ひざをついて、犬がなめるように、舌で水をなめる」ことは、異教の人々がよく行なっている姿でした。その上、敵と戦う戦士としては、敵に対する警戒を全く見せていないし、「犬がなめるように」と表現されていることの中には、主の働きをする者としての敬虔さや慎重さが欠けていることが暗示されています。
一万人のうち九千七百人は、異教の風俗に慣れており、神の戦いのために来ていることを忘れており、主の働きに加わることが許可されなかったのです。
残ったのはわずか三百人です。主はこの三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。」(7節)と言われました。
士 7:7 そこで【主】はギデオンに仰せられた。「手で水をなめた三百人で、わたしはあなたがたを救い、ミデヤン人をあなたの手に渡す。残りの民はみな、それぞれ自分の家に帰らせよ。」
7:8 そこで彼らは民の糧食と角笛を手に取った。こうして、ギデオンはイスラエル人をみな、それぞれ自分の天幕に送り返し、三百人の者だけを引き止めた。ミデヤン人の陣営は、彼から見て下の谷にあった。
主はご自分のために働くのにふさわしい実質を持っている者を知っておられるのです。主イエスはパンを食べに来た五千人の群衆も四千人の群衆も喜ばれず、金持ちの青年も喜ばれず、迫害者サウロをご自分の器として選ばれたのです。主は各人の実質を知って、選ばれています。それは人の評価とは異なっています。
私たちは「日本のクリスチャンは少数だから、福音宣教がなかなか進まない」と思っていないでしょうか。なかなか進まないのは人数が少ないからではありません。信仰の実質がないからなのです。大事なことは、神の働きのために、心に聖霊の火を燃やし続けている人がいることです。
ギデオンが使いを遣わして集めた大部分の人々はみんな帰って行ってしまいました。ギデオンは再び、不安にならなかったでしょうか。
主はご自分の働きのために、わずかな忠実な者がいることを重要視しておられるのです。エリヤの時代にも、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった七千人が残っていたのを知っておられたのです。主は不忠実で、不信仰で、不注意な大勢の人々よりも、主に忠実な少数の人々で戦われるのです。
「主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(サムエル第一 14:6)
ここで主の選び方に注目しなければなりません。主は集まって来た三万二千人の中から、主が人の意志を無視して選ばれたのではなく、第一回目は、心に恐れを抱いている者たちに自分で判断させ、自発的に帰らせています。第二回目は、各々、自分の思いと意志で行動させています。すなわち、主の選び方は、主がみこころのうちに定めておられる条件に、ひとり一人の人が、どのように応答していくかによって行なわれています。
この主の方法は、イエス様の救いにおいても、聖潔においても、召命においても同じです。キリストの福音を受け入れるすべての人を主は救ってくださり、全き献身と信仰に立って、主に従って行く人を、主は潔めて下さり、主の十字架の使命を負って従っていく人を、主はご自分の器として用いてくださるのです。私たちが、主に用いられるかどうかは、主のみこころにかなうように信仰の応答をしていくか、どうかによるのです。それは主が選ばれることであるとともに、私たちの自発的な信仰の服従によって成立するのです。
9~14節、大麦のパンの夢による主の激励
9節、「その夜、主はギデオンに仰せられた。『立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。』」
主は働き人の人選が終わると、すぐ、その日の夜に「攻め下る」ように命じられました。
主の臨在のご命令は、勝利の確信をも与えるものでした。
しかし主は、10節で、「しかし、もし下って行くことを恐れるなら、」と言っておられますから、兵士が三万ニ千人からわずか三百人に減らされたギデオンが恐れを感じていたことを表わしています。
士 7:10 しかし、もし下って行くことを恐れるなら、あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、
7:11 彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは、勇気を出して、陣営に攻め下らなければならない。」そこで、ギデオンと若い者プラとは、陣営の中の編隊の端に下って行った。
通常なら、恐れるはずです。「せっかく三万二千人集めたのに、わずか三百人に減らしておいて、『さあ、今夜攻め下れ。』と命じられても‥‥」と不信仰な思いになる危険もないではありません。
そんなことになる心配もあったので、今度は、ギデオンが求めないのに、主のほうから特別に、もう一つの直前の勝利の確信のしるしを与えて下さいました。それは、「あなたに仕える若い者プラといっしょに陣営に下って行き、彼らが何と言っているかを聞け。そのあとで、あなたは勇気を出して陣営に改め下らなければならない。」
先にギデオンが求めたしるしは、羊の毛と夜露を用いたものでしたが、主が与えてくださる勝利のしるしは、敵の口を開いて語らせるしるしです。これは人の知恵で求めるしるしより、ずっと高度です。ですから、自分の知恵を働かせて、しるしを求めないで、恐れつつでも、主を信じて忠実に従っていくことが大切です。主は、私たちが恐れつつ、不安な心で、それでも主を信じて従っているのを、すべて知っておられるのですから、時に応じて、ずっと高度なしるしを与えてくださるのです。
そこで、ギデオンとプラは、敵の連合軍の陣営の中に忍び込み、一つのテントに近づいて行ったのです。
「プラ」とは、ヘブル語で「緑の大きな枝」とか、「分家」という意味があります。おそらくギデオンが最も信頼していたしもべでしょう。
士 7:12 そこには、ミデヤン人や、アマレク人や、東の人々がみな、いなごのように大ぜい、谷に伏していた。そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。
12節の敵の軍隊の様子を表現している「いなごのように大ぜい、」とか「そのらくだは、海辺の砂のように多くて数えきれなかった。」は、旧約聖書の中でしばしば使われている生き生きとした誇張法の表現です。
アブラハムの子孫に対しては、
「わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫なも数えることができよう。」(創世記13:16)
「『さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。』さらに仰せられた。『あなたの子孫はこのようになる。』」(創世記15:5)
と言われました。この表現もへブル的誇張法が用いられていますが、アブラハムの血筋の子孫だけでなく、信仰の子孫を考えると、これらの表現は単なる誇張ではないと思われます。(ガラテヤ3:7)
13節、そこで主は、恐れ、不安になっていたギデオンに、敵の一人の兵士が仲間の者に話している夢の話を聞かせたのです。
士 7:13 ギデオンがそこに行ってみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていた。ひとりが言うには、「私は今、夢を見た。見ると、大麦のパンのかたまりが一つ、ミデヤン人の陣営にころがって来て、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」
7:14 すると、その仲間は答えて言った。「それはイスラエル人ヨアシュの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと、陣営全部を渡されたのだ。」
彼の話はおそらく炉端で焼いていたパンだと思われますが、大麦のパンのかたまりがミデヤン人の陣営に転がって来て、天幕の中にまで入り、天幕を打って倒したのです。「ひっくり返って、天幕は倒れてしまった。」という表現は、ミデヤンの徹底した敗北ぶりを示しています。この大麦のパンのかたまりは、イスラエルの農夫たちを表わしており、天幕は遊牧民の侵略者を表わしていたのです。
主がギデオンに聞かせた話は、これで終わっていません。ギデオンが自分で、聞いた話を悟ったのではなく、主は、敵の仲間の者に、その的確な解釈を語らせています。ギデオンは紛れもない話を聞いたのです。その解釈は、「それはイスラエル人ヨアシェの子ギデオンの剣にほかならない。神が彼の手にミデヤンと陣営全部を渡されたのだ。」でした。
15~18節、戦闘準備
15節、この話と解釈を聞いて、「主を礼拝した。」主への深い信頼と、ここまで悟らせてくださった主への畏れ多い思いを持って礼拝したのです。おそらく、このような気持ちで主を礼拝したことは、ギデオンにとって初めてだったでしょう。
士 7:15 ギデオンはこの夢の話とその解釈を聞いたとき、主を礼拝した。そして、イスラエルの陣営に戻って言った。「立て。【主】はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」
ギデオンはここに至って、やっと揺れることのない戦いの勝利の確信をもって立ち上がったのです。主の「至れり、尽くせり」のお取り扱いに感謝せずにはいられませんでした。そして彼はイスラエルの陣営に戻ると、三百人の精兵に向かって、確信をもって、「立て。主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」と命じることができたのです。
ここで、私たちは、主イエス様が「わたしは、天から下って来た生けるパンです。」(ヨハネ6:51)と言われたのを忘れてはいけません。私たちはこの「天から下って来た生けるパン」をもって全世界に福音の戦いをしていくのです。それは必ず大いなる勝利をもたらすのです。その確信をいつも新たにさせられるのです。
ギデオンは、「主はミデヤン人の陣営をあなたがたの手に下さった。」と、ヘブル語の現在時制で語っています。戦いはこれからだけど、預言的信仰によって、すでに勝利を受け取っているような言い方になっています。それは主によって約束されたことが、あまりにも確実だったからです。
16~18節には、戦いのための武具と手法が述べられています。
士 7:16 そして、彼は三百人を三隊に分け、全員の手に角笛とからつぼとを持たせ、そのつぼの中にたいまつを入れさせた。 7:17 それから、彼らに言った。「私を見て、あなたがたも同じようにしなければならない。見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。 7:18 私と、私といっしょにいる者がみな、角笛を吹いたなら、あなたがたもまた、全陣営の回りで角笛を吹き鳴らし、『【主】のためだ。ギデオンのためだ』と言わなければならない。」
ギデオンがこれほどはっきりと、しかも確信をもって、戦いにはふさわしくない道具を用いるように指示しているところを見ると、これはギデオンが考え出した戦略ではなく、主が予め、ギデオンに教えておられたものであることは、間違いありません。
16,19節、ギデオンは三百人の兵士たちを、百人ずつ三隊に分けています。次々と攻め込んでいくように見せるためでしょう。福音宣教も、一回だけ大金を使って、花火を打ち上げるような集会を開いても、効果はありません。継続して働いていく計画を立てなければなりません。
そして全員の手に三つのものを持たせました。まず、角笛です。この角笛は戦闘のしるしです。夜中に角笛の音がこだまする時、どんなに大軍が攻め寄せて来たかと、敵は恐れて混乱するでしょう。その時、「主のためだ。ギデオンのためだ。」と叫ぶように命じられています。これは私たちにとっては福音を告げ知らせることと、あかしの叫びを上げることです。クリスチャンは少人数でも、この暗い世の中にあって、あかしの叫び声をもっと積極的に上げなければなりません。
次に、土器製のからのつぼです。これは何も誇るところのない、また誇らない私たち自身です。パウロは、「私たちは、この宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかにされるためです。」(コリント第二 4:7)と言っています。パウロはこの奥義をギデオンの「からのつぼの中に、たいまつを入れていた」ことから悟ったのでしょう。
19節を見ると、からのつぼは「打ちこわされる」ためにあるのです。
士 7:19 ギデオンと、彼といっしょにいた百人の者が、真夜中の夜番の始まる時、陣営の端に着いた。ちょうどその時、番兵の交替をしたばかりであった。それで、彼らは角笛を吹き鳴らし、その手に持っていたつぼを打ちこわした。
しかしこの「からのつぼ」は、その中にたいまつを持っていてこそ、働きの意味があるのです。からのつぼが、たこつぼの山のように積み上げられていても、その中にたいまつがなければ、主の用にはなりません。
第三のたいまつは、勿論、聖霊の火がついているみことばです。パウロは「御霊の与える剣である、神のみことば」(エペソ6:17)と言いました。
これらはみな、私たちの福音宣教にピッタリ当てはまっているではありませんか。主のみわざは旧約の昔も、新約の今も、本質的には何も変わっていないのです。
ここで、もう一つの大事なことを見落としてはいけません。三百人の兵士たちは、話は聞いたけれども、実際に、いつ、どのような場面で、何をするのか、はっきり分からなかったでしょう。練習する時間もありませんでした。そこで、ギデオンは、「見よ。私が陣営の端に着いたら、私がするように、あなたがたもそうしなければならない。」(17節)と教えています。
これは良い模範が必要であることと、その模範を注意深く見て、それにならうことが、勝利においては欠かせないことを示しています。パウロも、「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(コリント第一 11:1)と言っています。指導性とは、自ら模範を示すことにあります。これは指導する立場にある者にとっては、大きな、重い責任となってきます。
19~25節、主による勝利
ギデオンの攻撃は、真夜中の夜番の番兵が交替したばかりの時を狙って始めています。それは、敵が最も油断している時、最もあわてさせるのに都合のいい時だったのです。
彼らは三隊に分かれて、つぼを打ち砕いて、左手にたいまつをかざし、右手で角笛を吹き鳴らし、「主の剣、ギデオンの剣だ。」と叫んだのです。
士 7:20 三隊の者が角笛を吹き鳴らして、つぼを打ち砕き、それから左手にたいまつを堅く握り、右手に吹き鳴らす角笛を堅く握って、「【主】の剣、ギデオンの剣だ」と叫び、
7:21 それぞれ陣営の周囲の持ち場に着いたので、陣営の者はみな走り出し、大声をあげて逃げた。
この突然の騒ぎに、敵の軍隊は目を覚まし、まわりを見回すと、暗闇の中で燃えるたいまつが自分たちを取り囲んでいるのを見たのです。闇夜の三百本のたいまつは、その百倍の大軍にも見えて、敵軍の中に混乱を起こし、相手かまわず武器を取って同士打ちが始まったのです。
角笛(ヘブル語の、ショファロテ)は、進軍の合図であり、イスラエルの軍隊では百人に一人が持っており、これで計算すると、敵軍は三万人の軍隊が、攻撃してきたと思ったに違いありません。少なくとも相当数の兵士が改めて来たと思ったでしょう。
こうして神は選ばれた精兵は、一人一人が神の知恵と力を受けて戦ったのです。恐れと不安におののいている三万人の兵士が加わっていれば、こういう信仰の戦いをすることができなかったでしょう。却って、戦いの士気を乱し、弱めて敗北したでしょう。主の恵みに満たされた一人の人は、霊的に不信仰になりがちな大勢の軍隊にできないことを成し遂げるのです。
21節、敵の兵士たちは狼狽し、みな走り出し、大声をあげて逃げ出したのです。
22節、しかし、三百人が角笛を鳴らしている間に、主は陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされたのです。
士 7:22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、【主】は、陣営の全面にわたって、同士打ちが起こるようにされた。それで陣営はツェレラのほうのベテ・ハシタや、タバテの近くのアベル・メホラの端まで逃げた。
主は敵の中にも働かれて、大混乱と同士打ちを行なわせて、大勝利を与えられたのです。信仰は戦わずして勝利を得るのです。信仰の戦いは真剣にするのですが。
彼らは、ギデオンの軍隊から逃れるために、できるだけ遠くにまで逃げようとしています。
「ツェレラのほうのベテ・ハシタ」の「ベテ・ハシタ」は「アカシアの家」という意味です。それはツェレラとイズレエルの谷の間の、ヨルダン渓谷にある町ですが、その位置は知られていません。
ツェレラは、ツェレラテ、あるいはツェレサン(ツァレタン、ヨシュア記3:16、列王記第一 4:12、7:46)と同じであると思われていますが、その場所は確かではありません。この呼び方は、ツァルタナとか、ツァルタンとか呼ばれることもあります。
「アベル・メホラ」は、ヘブル語で「ダンス・草原」「ダンスをする草原」という意味でエリシャの出身地でもあります(列王記第一 19:16)。
「タバテ」については、他のどこにも記されていないので、その場所は知られていません。しかし、ここに記されているすべての地名の場所は、ミデヤン人が侵略してきた砂漠に向かっているイズレエルの東にあったことは間連いありません。
23節、混乱した敵軍が逃げ始めるのを見た時、先に帰っていたナフタリと、アシェルと、全マナセの軍隊が再び召集され、ミデヤン人を迫撃しています。
士 7:23 イスラエル人はナフタリと、アシェルと、全マナセから呼び集められ、彼らはミデヤン人を追撃した。
ギデオンの軍隊が圧倒的勝利をしているのが明白になった時、もはや誰も恐れる者はいなかったのです。何事も、働きの成功が明らかになってくる時、周りに人が集まってくるものです。教会の働きも同じです。ですからクリスチャンと教会はこの世に妥協して負けていないで、信仰によって勝利を獲得していかなければなりません。最初はわずかの人数でも、真実に、真剣に主を信じて、どんな戦いでも乗り越えていく人たちによって、戦っていかなければなりません。周りの人々は、その勝利を見て、集まってくるのです、信仰の内容を問わず、人数だけを追い求めることは、敗北のしるしです。
24節、「ベテ・バラ」は「浅瀬の所」とか、「渡し場」という意味があります。
士 7:24 ついで、ギデオンはエフライムの山地全域に使者を送って言った。「降りて来て、ミデヤン人を攻めなさい。ベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取りなさい。」そこでエフライム人はみな呼び集められ、彼らはベテ・バラまでの流れと、ヨルダン川を攻め取った。
マソラ本文では「ベテ・バラまでと、ヨルダン川も」となっています。それ故、この箇所を「ヨルダン川の渡し場」と読もうとする人もいます。もし、そうだとすると、イズレエルの谷がヨルダン川とぶつかって合流する地点より南にあり、エスドラエロン平原の入口に向かう所にあるヨルダン川の渡し場だった可能性もあります。
ベテ・バラは、ベタバラと読むこともできるので、ヨハネの福音書1章28節の「ヨルダ
ンの向こう岸のべタニヤ」(ヨハネ11:1、12:1のエルサレムの近くのベタニヤとは別の場所)と同一の所と言う人もいます。ここは浅瀬で、バプテスマのヨハネがバプテスマを授けていた所です。
また士師記3章28節の「モアブへのヨルダン川の渡し場」と同じ所と言う人もいます。ここに挙げられている所が、みな同一の場所という可能性は十分はありますが、「ベテ・バラ」については、ここにしか記されていませんので、それを決定することができません。
士 7:25 また彼らはミデヤン人のふたりの首長オレブとゼエブを捕らえ、オレブをオレブの岩で、ゼエブをゼエブの酒ぶねで殺し、こうしてミデヤン人を追撃した。彼らはヨルダン川の向こう側にいたギデオンのところに、オレブとゼエブの首を持って行った。
(まなべあきら 2003.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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