聖書の探求(312) サムエル記第二 4章 イシュ・ボシェテの弱体化、レカブとバアナの犯行と審判

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Rechab and Baanah Bring the Head of Ish-Bosheth(レカブとバアナはイシュ・ボシェテの首を持って来た)」(New YorkのJewish Museum蔵)
アブネルの死後、イシュ・ボシェテは力を失い、ついに彼は暗殺されてしまうのですが、この章は彼の死を記録するとともに、後にダビデが世話をすることになるヨナタンの子で、足が不自由だったメフィボシェテを紹介する目的があります。
4章の分解
1~3節、イシュ・ボシェテの弱体化
4節、メフィボシェテの紹介
5~12節、レカブとバアナの犯行と審判
1~3節、イシュ・ボシェテの弱体化
1節、アブネルがヘブロンで殺されたことを聞いたイシュ・ボシェテとイスラエル人は狼狽し、混乱しています。
Ⅱサム4:1 サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。イスラエル人もみな、うろたえた。
イシュ・ボシェテはリツパのことでアブネルを叱責したけれども、本当はアブネルに頼っていたことが明らかになっています。彼の行動は矛盾しているように見えますが、一方は彼の高慢の現われであり、後者は他人に頼る無力さの現われです。「神様に信頼して、神様に従って行きます。」と大言壮語しても、結局は親を当てにしていたり、自分を助けてくれる人たちを当てにしていることがあります。預言者イザヤは神のことばを語りつつ、本心ではウジヤ王の保護を当てにして頼っていたのです。そのウジヤ王が死んだ時、彼は本当に栄光の主にお会いしたのです(イザヤ書6章)。
「イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。」(ヨハネ12:41)
「主に頼っている」というのは建前だけで、本音は、人や富や地位に頼っていることがあるのです。主は、そのように人が支えとしているものを折られる時が、必ず来るのです。その時、信仰が本物になるか、それとも狼狽するかです。
2節、王と国民の中に狼狽と混乱のすき間ができると、それを見逃さずに、悪事を企てる者が出て来るのです。
Ⅱサム 4:2 サウルの子イシュ・ボシェテのもとに、ふたりの略奪隊の隊長がいた。ひとりの名はバアナ、もうひとりの名はレカブといって、ふたりともベニヤミン族のベエロテ人リモンの子であった。というのは、ベエロテもベニヤミンに属するとみなされていたからである。
4:3 ベエロテ人はギタイムに逃げて、寄留者となった。今日もそうである。
為政者が指導力を失い、政府や国民の間に不安や混乱が広がっていくと、必ず、そのすき間を悪用して悪事を働く者たちが出て来るのです。イシュ・ボシェテの軍の二人の略奪隊の隊長で、ベニヤミン族のベエロテ人リモンの子バアナとレカブが王のイシュ・ボシェテを殺害したのです。二人は自分たちが国の実権を握る時が来たと思って、王の殺害を決行したのです。
3節の「ベエロテ人はギタイムに逃げて、寄留者となった。今日もそうである。」とは、この記事が書かれた時のことを言っています。ベエロテ人は、バアナとレカブがダビデによって、イシュ・ボシェテ殺害の罪で処罰されたことを知って、そのわざわいが自分たちにも及ぶのではないかと恐れて、ベニヤミン族の領地の中にあるギタイムに逃げていたのです。「今日もそうである。」とは、ベエロテ人がギタイムに住んでいたことを示していますから、このサムエル記の記事はイスラエルのバビロン捕囚前の時代であったことを示しています。
4節、メフィボシェテの紹介
Ⅱサム 4:4 さて、サウルの子ヨナタンに、足の不自由な子がひとりいた。その子は、サウルとヨナタンの悲報がイズレエルからもたらされたとき五歳であった。うばがこの子を抱いて逃げるとき、あまり急いで逃げたので、この子を落とし、そのために足のなえた者になった。この子の名はメフィボシェテといった。
4節は、やがてダビデが世話をすることになるヨナタンの息子メフィボシェテを紹介するために挿入されています。彼は五才の時、祖父サウルと父ヨナタンがペリシテ人との戦いに敗れて死んだ時、うばがあわてて彼を抱いて逃げる時、彼を落としてしまい、そのために彼は足が不自由になってしまったのです。ここに彼が足が不自由であったことを記しているのは、サウルの家にはメフィボシェテ以外に王位を継がせるべき他の子孫がいなかったことを言おうとしているのだと思われます。
5~12節、レカブとバアナの犯行と審判
5~7節は、レカブとバアナのイシュ・ボシェテ殺害の状況をかなり詳細に記しています。二人は昼の日盛りに犯行に及んでいます。おそらくその日は暑かったのでしょう。イシュ・ボシェテは昼寝をしていました。
Ⅱサム 4:5 ベエロテ人リモンの子のレカブとバアナが、日盛りに、イシュ・ボシェテの家にやって来たが、ちょうどその時、イシュ・ボシェテは昼寝をしていた。
6節、二人は略奪隊の隊長だったので、奪って来た小麦も管理していたのでしょう。二人は部下たちに配給するための小麦を取りに来たという口実で、王の家の中に入り込んだのです。
Ⅱサム 4:6 彼らは、小麦を取りに家の中まで入り込み、そこで、彼の下腹を突いて殺した。レカブとその兄弟バアナはのがれた。
4:7 彼らが家に入ったとき、イシュ・ボシェテは寝室の寝床で寝ていたので、彼らは彼を突き殺して首をはね、その首を持って、一晩中、アラバへの道を歩いた。
彼らは寝床で寝ていたイシュ・ボシェテを見つけ、下腹を突いて殺し、首をはね、その首を持って、一晩中、アラバへの道を歩いたのです。二人は自分たちがダビデの敵であるはずのイシュ・ボシェテを殺したのだから、きっとダビデから報酬を受けると思い込んで、ヘブロンにいたダビデのもとにイシュ・ボシェテの首を持って夜通し歩き続けたのです。これは、1章2~16節のアマレク人の若者と同じで、他人に害を与えて、自分に報酬を受けようとする愚かな人間の考えを行なった人です。このように自分の肉の欲で考えて行動する人は、神を畏れている信仰者ダビデの心を察することはできなかったのです。自分中心の思いを持っている人は、主を畏れている人の心を理解することはできません。そして自らにわざわいを招くのです。
8節、彼らは得意気にイシュ・ボシェテの首をダビデの前に差し出しています。
Ⅱサム 4:8 彼らはイシュ・ボシェテの首をヘブロンのダビデのもとに持って来て、王に言った。「ご覧ください。これは、あなたのいのちをねらっていたあなたの敵、サウルの子イシュ・ボシェテの首です。【主】は、きょう、わが主、王のために、サウルとその子孫に復讐されたのです。」
9~12節、しかしダビデは、先のサウルを殺したと知らせてきたアマレクの若者に対するよりも、部下が主君を殺害したレカブとバアナの兄弟には、更に激しい怒りを表わしています。
Ⅱサム 4:9 すると、ダビデは、ベエロテ人リモンの子レカブとその兄弟バアナに答えて言った。「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった【主】は生きておられる。
4:10 かつて私に、『ご覧ください。サウルは死にました』と告げて、自分自身では、良い知らせをもたらしたつもりでいた者を、私は捕らえて、ツィケラグで殺した。それが、その良い知らせの報いであった。
4:11 まして、この悪者どもが、ひとりの正しい人を、その家の中の、しかも寝床の上で殺したときはなおのこと、今、私は彼の血の責任をおまえたちに問い、この地からおまえたちを除き去らないでおられようか。」
ダビデは「私のいのちをあらゆる苦難から救い出してくださった主は生きておられる。」(9節)と言って、主のみこころは「救い出してくださる」ことであって、人の考えと行ないによって、刑罰を加えることでないことを強調しています。いかなる人も「救い出される」ことこそ、神のみこころであるのに、人が自分勝手な考えで、他人に害を加えたり、殺害したりすることは、許可されていないことを強調しています。
ましてイシュ・ボシェテは犯罪者ではなく、ひとりの正しい人であり、彼らにとって王であり、指導者であり、仕えるべき人であり、更に彼は寝床の上で昼寝しており、何の抵抗もできない状況にあったのです。これは、戦場で死にかけていたサウル王を殺害したと言ったアマレクの若者より、はるかに卑劣なことをしたのです。ダビデの王国の中に、無実の者を殺害する者を残しておくことができなかったのです。彼らは血の責任を問われたのです。
Ⅱサム 4:12 ダビデが命じたので、若者たちは彼らを殺し、手、足を切り離した。そして、ヘブロンの池のほとりで木につるした。しかし、イシュ・ボシェテの首は、ヘブロンにあるアブネルの墓に持って行き、そこに葬った。
レカブとバアナの兄弟はその場で処罰されていますが、二人は手足を切り離され、ヘブロンの池のほとりで木につるされて、見せしめにされています。こうして無実の人を殺害する者は、必ず処罰されることを国民に徹底的に知らせたのです。そして自分に報酬を受けるためなどと、思い違いをした愚かな考えを起こさないように戒めたのです。
「自分は神のためにやっている」とか、「神のみこころだ」と言って、他人をわざわいに陥れ、苦しみに会わせようとする人がいますが、これほど愚かで、自分勝手で、自分にわざわいを招く考えはありません。自分の考えで他人にわざわいを与えれば、必ず、そのわざわいは自分に帰って来ます。主のみこころは、全ての人が悔い改めて、救われることなのです。
「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」(ペテロ第二 3:9)
ダビデはイシュ・ボシェテの首を、同じように不遇の死を遂げた、ヘブロンにあるアブネルの墓に葬っています。
あとがき
先日、八九才の方から、アブラムがアブラハムに変えられたのには、どんな意味があるのかと質問されました。
変わった点は、アブラムの間にハが入っただけで、意味の違いはアブラムは「高き父」で、これは恐らく父親のテラが付けた名前でしょう。これは生まれながらの性質を持っている人を指しています。
アブラハムは「多くの人の父」という意味です。これは「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」(ガラテヤ3:7)とある通りです。彼が「アブラハム」と呼ば
れるようになったのは創世記17章5節からです。「ハ」は「ヤハ(主なる神)」のことで、主のご性質を内に持つ者、私たちで言えば、内住のキリスト、聖霊を受けた者のことです。とても大切な質問でした。
(まなべあきら 2010.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)