週報No.2507 放縦から聖徒へ(69)「愛の特性(2)自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」 コリント人への手紙第一 13章4~5節

2025年7月20日(日) 午前10時半
奏 楽
頌 栄 すべてのものみな 1番
讃 美 イエス様の愛は 19番
使徒信条
讃 美 十字架の愛に心満たされ 21番
聖書交読 イザヤ書33章1~9節
祈 祷
主の祈り
讃 美 主イエスはわれに 320番
聖書朗読 コリント人への手紙第一13章4~5節
メッセージ 放縦から聖徒へ(68) 眞部明牧師
(CD) 第4回「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」
讃 美 私の知恵、私のわざではなく 965番
献金・感謝
頌 栄 みたまの交わり 4番
祝 祷
コリント人への手紙第一 13章4節
13:4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。
13:5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、
【新改訳改訂第3版】
<礼拝メッセージ>(一部分)
(CDメッセージは下記のページから聞くことができます。)
第4回 「愛の特性(2) 自慢せず、礼儀、自分の利益を求めず」
第三に、「自分の利益を求めず」について、お話しします。
先ず、ローマ15:1~3を読んでみましょう。……
ローマ 15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
15:2 私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。
15:3 キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかったのです。むしろ、「あなたをそしる人々のそしりは、わたしの上にふりかかった」と書いてあるとおりです。
ここに「キリストでさえ、ご自身を喜ばせることはなさらなかった。」と、キリストの模範を示しています。
主は、ご自分が十字架にかかられる時にも、自己弁護、自己主張をなさらなかったのです。どうしてですか。私たちの受ける利益、恵みを考えて下さったからです。
しかし、私たちはどうでしょうか。一寸非難されると、自己弁護、自己主張して、自分の利益を守ろうとしませんか。
これだけ考えても、イエス様がいかに偉大な神であるかが分かります。イエス様は、愛が満ち、愛そのもののお方であられるからです。
自分中心な人間にとって、自分の利益を求めないということは大変困難なことです。
この箇所を英訳聖書で見ると、「愛は、自分自身のものを求めない。」となっています。即ち「自分自身のことすら求めない。」ということになります。また詳訳聖書を見ると、「愛<私たちのうちにある神の愛>は、自分の利益<自分の道>に固執しません。<利己的ではありません>」となっています。
これらの文章を、もし神の愛に満たされていない自分中心なクリスチャンが、律法的に読むならば、必ずこう言うでしょう。
「聖書は、とうてい人間にはできない理想的なことを教えている。だれ一人、そんなことをした人はいないだろう。」と、言うに違いありません。
しかし、これはとんだ間違いを犯しています。聖書は、信仰者が、自分の権利を要求することを禁じていません。普通の場合、信仰者は自分に与えられている正当な権利を使って生活することができます。
しかし、神の愛に満たされているクリスチャンは、神のみこころを行なうために、神に従うために、神の栄光を現わすために、自分の権利を放棄したほうがいい時は、喜んで放棄することができる、と言っているのです。
パウロは、自分のことを証しして、こう言っています。
コリント第一 9:4 いったい私たちには飲み食いする権利がないのでしょうか。
9:5 私たちには、ほかの使徒、主の兄弟たち、ケパなどと違って、信者である妻を連れて歩く権利がないのでしょうか。
9:6 それともまた、私とバルナバだけには、生活のための働きをやめる権利がないのでしょうか。
パウロは、自分にはこれらの権利が全て与えられていることを主張しているのです。しかし、パウロは、「これらの権利を一つも用いませんでした。」(15節)と言っています。なぜですか?「もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。」(17節)「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(18節)
彼は、自由に自分に与えられている権利を使用することができるのだけれども、主を愛する故に、また、霊魂の救いのために、自ら進んで、自発的に、喜んで、自分の権利を放棄したと、言っているのです。
どうぞ、このみことば「愛は自分の利益を求めず」を、低いこの世の基準で、律法的に考えないでいただきたい。この世的で、自己中心的な人には、とても、考えることも、行なうことも、できないことです。……
どうぞ、私たちの行ないの全てが、律法的でなく、喜んで、自発的にするものとなりたいものです。
この世には、自分の権利、自分の生き方を主張している人と、愛の故に、喜んで、自分の権利を放棄して、自分のために何も求めないのに、真の富を与えられながら生きている人と、二通りあります。(蔵言11:24)‥‥‥
箴 11:24 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。
私たちは自分の利益と権利を主張することによって、最大の損失をするのです。真の富を得ることができないのです。……
私たちがこの地上で求めている、金銭にしても、物にしても、地位にしても、それらの中には高貴なものは何一つないのです。唯一の高貴なものは、愛だけです。……
自分にできるかどうかを、考えてはいけません。「自分の霊魂に神の愛を持つ」ことだけを求めて下さい。そうすれば、全ての疑問や議論は消えてしまいます。
神の愛を持たない人の議論ほど、無意味で、むなしいものはありません。……
キリスト信仰は、それを持たない人がいくら議論しても結論はありません。
先ず、神の愛を持つことです。
あなたの心を、神に明け渡しなさい。
そして、キリストを全面的に信頼するのです。
その時、あなたは神の愛を経験するのです。
<今週の活用聖句>
ヨハネの手紙第一 4章16節
「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」
<お知らせ>
眞部明牧師は、体力の回復とケガの癒しのために、入院中です。(月末頃に退院予定です)続けてお祈り下さい。
地の塩港南キリスト教会
〒233-0022 横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421
牧師 眞部 明
メール:chinosiokonan@gmail.com