聖書の探求(282) サムエル記第一 12章 サムエルの告別のための証し

フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「Samuel at Ramah(ラマでのサムエル)」(New YorkのJewish Museum蔵)


12章はサムエルの告別のための証しともとれる記事です。モーセも(申命記31章以後)、ヨシュアも(ヨシュア記24章)、告別説教をしたように、サムエルもイスラエルの全部族が集まった機会に、告別のための証しをしています。

12章の分解

1~5節、サムエル自身の奉仕のあかし
6~18節、イスラエルの歴史における神のあわれみと助けのあかし
19~25節、サムエルの祈りの約束

1~5節、サムエル自身の奉仕のあかし

1節でサムエルは、民が王を求めた要求を聞き入れて、王を立てたことを述べています。

Ⅰサム 12:1 サムエルはすべてのイスラエル人に言った。「見よ。あなたがたが私に言ったことを、私はことごとく聞き入れ、あなたがたの上にひとりの王を立てた。

これは民の要求を認めた形になっていますが、サムエルにはどこまでも不本意であって、心にひっかかっていた問題だったので、この点を真っ先に取り上げています。

2節、サムエルは若い時から老年になった今日まで、イスラエルの民の指導者となって先頭に立って奉仕して来ました。

Ⅰサム 12:2 今、見なさい。王はあなたがたの先に立って歩んでいる。この私は年をとり、髪も白くなった。それに私の息子たちは、あなたがたとともにいるようになった。私は若い時から今日まで、あなたがたの先に立って歩んだ。

しかし民はサムエルが年をとったことと、サムエルの息子たちがサムエルの道に歩まず、堕落していたために、神による直接のご支配より、異教の国々のような王制国家を求めたのです。そしてそれは今や実現し、今はサムエルの代わりに王のサウルがイスラエルの指導者となって民の先頭に立って歩んでいたのです。サムエルはこのことに幾分か危惧する思いを持って語っています。

3節、民がサムエルを退けて、王を求めたので、サムエルは民に、サムエルのこれまでの行動にどんな不正があったのかを指摘して訴えるように挑戦しています。

Ⅰサム 12:3 さあ、今、主の前、油そそがれた者の前で、私を訴えなさい。私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。もしそうなら、私はあなたがたにお返しする。」

サムエルは「主の前、油そそがれた者の前で、」と言って、主ご自身と主が油そそがれた王サウルを証人に立てています。

サムエルはここで民が不満に思っているであろう具体的な項目を挙げています。集団で反抗する時は、みんな口々に勝手な理由を口走って訴えるのですが、一つ一つを冷静に、丁寧に調べてみると、どれもサムエルの世話になっているものばかりだったのです。しかし、他の国々のような王が欲しいという熱気に包まれた騒ぎが起きると、どれもが不満の材料にされてしまうのです。それほどに人間は自分中心で、身勝手な者なのです。そこでサムエルは、「私はだれかの牛を取っただろうか。だれかのろばを取っただろうか。だれかを苦しめ、だれかを迫害しただろうか。だれかの手からわいろを取って自分の目をくらましただろうか。」と。一つ一つ具体的に取り上げることによって、人々の熱を冷まし、健全な判断ができるようにしていったのです。

その結果、4節で、民はサムエルに「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」と告白するに至っています。

Ⅰサム 12:4 彼らは言った。「あなたは私たちを苦しめたことも、迫害したことも、人の手から何かを取ったこともありません。」

それならサムエルを退け、神を退けた理由は何だったのかということになります。それは民が世俗化を求めたことです。それが不満の最大の理由であり、王を求めた唯一の理由です。他のものは、それをおおい隠すための取って付けたものでしかなかったのです。それ故、イスラエルの王制国家の将来は大いに危ぶまれるのです。

5節、サムエルが神と人とに対して誠実であったと民が告白したことについての証人として、サムエルは主ご自身と王のサウルを再び立てています。

Ⅰサム 12:5 そこでサムエルは彼らに言った。「あなたがたが私の手に何も見いださなかったことについては、きょう、あなたがたの間で主が証人であり、主に油そそがれた者が証人である。」すると彼らは言った。「その方が証人です。」

民もこれに同意しています。サムエルはその生涯の奉仕において、神の前に何一つ保留するところがなく、人には恵みとなる奉仕を続けて来たのです。しかしただ年老いたというだけで、民はサムエルを退けたのです。それほどにイスラエルの民の霊魂はすでに世俗化していたのです。

新約聖書の告別説教としては、イエス様の告別説教(ヨハネ13:31~17:26)とパウロの告別説教(使徒20:18~35)が非常に重要です。

6~18節、イスラエルの歴史における神の憐みと助けのあかし

この部分は、イスラエルの歴史からの証言をしていますが、これを区分しますと、次のようになります。

6~8節、エジプトからの救出による建国
9~15節、士師記の時代
16~18節、サムエルの時代の当時

サムエルは三つの時代に区分して、どの時代においても神の憐みと助けが真実であったことを証ししています。真実な信仰のある奉仕には、主は必ず神の御力を注がれ、結実を与えて下さることを証言したのです。

6節、サムエルは神を証しするために、エジプト救出のみわざから話し始めています。

Ⅰサム 12:6 サムエルは民に言った。「モーセとアロンを立てて、あなたがたの先祖をエジプトの地から上らせたのは主である。

神は迷いやすく、弱くて、恐れているエジプトの奴隷状態からイスラエルを救い出すために、その働きを成し遂げる指導者として、モーセとアロンを任命して用いておられます。
「立てて」は、神の主権による任命を示す言葉です。私たちを罪と滅びの中から救い出すために立てて下さったお方は、救い主イエス様ですから、私たちの証しはイエス様の救いから始めるべきなのです。主はイスラエルをエジプトから救い出された時、モーセとアロンを用いて主の良善さを現わされましたが、私たちの救いに対しては、モーセやアロンよりももっとすぐれた主イエス様の良善を行なって下さったのです。

7節、「さあ、立ちなさい。」サムエルは民を主の前に立たせています。

Ⅰサム 12:7 さあ、立ちなさい。私は、主があなたがたと、あなたがたの先祖とに行われたすべての正義のみわざを、主の前であなたがたに説き明かそう。

主の前に出る者は、主を畏れかしこんだので、みな立ったのです。

「すべて正義のみわざ」主がイスラエルの先祖たちに対して行なわれたみわざは、すべて、神の民のためになされた恵みと大いなる力のみわざでした。それはアブラハムと結ばれた契約に基づいています。またモーセを通してイスラエルの民に与えられた戒めの契約に基づいています。

「説き明かそう」は、ヘブル語で「シャパット」で、判事の前での訴訟や裁判の時に使う法的用語です。サムエルはイスラエルの民を主の前に立たせて、訴える気持ちで話しています。

8節、イスラエル人が神の民として特別な保護を受けるようになったのは、出エジプトの時からです。

Ⅰサム 12:8 ヤコブがエジプトに行ったとき、あなたがたの先祖は主に叫んだ。主はモーセとアロンを遣わされ、この人々はあなたがたの先祖をエジプトから連れ出し、この地に住まわせた。

彼らがエジプトの奴隷の苦しみの中から主に叫んだ時、主は彼らの救出のためにモーセとアロンを派遣し、主の力強い御腕によって、イスラエルをエジプトから救い出されたのです。これが神の民としてのイスラエルの始まりです。ここに神の民イスラエルの歴史が始まったのです。ここに、契約に対する義なる神の完全な誠実さが明らかに表わされています。

現代の私たちにとってみるなら、イエス様の十字架の救いに与かったこと、それが私たちの神の家族としての始まりです。義なる神の誠実さは、特に贖罪のみわざにおいて現わされており、その誠実さは完全で、今日まで変わった時はありません。

9節、この神の誠実さに対して、イスラエルの民は「彼らの神、主を忘れたのです。」

Ⅰサム 12:9 ところが、彼らは彼らの神、主を忘れたので、主は彼らをハツォルの将軍シセラの手、ペリシテ人の手、モアブの王の手に売り渡された。それで彼らが戦いをいどまれたのである。

「忘れた」は、記憶を失ったことではなく、受けた恵みとあわれみに感謝せず、主に誠実に答えることをせず、反逆したことです。

「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病いをいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さはわしのように、新しくされる。」(詩篇103:2~5)

これを忘れることは、不信仰であり、高慢で、神に敵対することになるのです。その結果、主はイスラエルをハツォルの王ヤビンの将軍シセラの手に、ペリシテ人の手に、モアブの王の手にと、次々と渡されていったのです。イスラエルは周囲の敵対国から、ひどい攻撃を受け、国は極度に力を失っていったのです。神に逆らって、力を増すことはあり得ないのです。

サムエルの時代にイスラエルは王を求めましたが、それは決してイスラエルの繁栄を持続させなかったのです。ダビデが主に従っていた間は繁栄していましたが、その後、ソロモンの時代には、周辺諸国から次々と偶像を取り入れ、レハブアムの時には王国が北と南に分裂し、段々と北も南も、王が主に逆らい、偶像礼拝を行なうことによって、アッシリヤとバビロンの捕囚になってしまい、エジプトでの奴隷の時以来、再び異教の支配下に置かれてしまったのです。このことを十分に悟って、どんな状態の中でも、主に忠実に応えていくことだけが、永遠の祝福の保証となるのです。

10節は、イスラエルが「主を忘れた」ことの実現面が語られています。

Ⅰサム 12:10 彼らが、『私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。私たちを敵の手から救い出してください。私たちはあなたに仕えます』と言って、主に叫び求めたとき、

「私たちは主を捨て、バアルやアシュタロテなどに仕えて罪を犯しました。」バアルやアシュタロテについては、7章3,4節のところを読み直してください。

人は私たちの出来が悪いと、私たちを捨てることがあるでしょう。しかし主は私たちに多くの欠点や弱点があり、出来が悪くても、私たちを捨てることはありません。ただ、私たちが主を捨てる時、私たちは主の恵みを受けられなくなり、主の怒りを受けるようになるのです。

「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」(ヨハネ14:18)

主は反逆していた者たちが苦しみの中から罪を告白し、救いを求めて叫んだ時、神の人を遣わして、民を助け出されました。「私たちはあなたに仕えます。」苦しみの中では、この言葉は真実な思いで叫んだのでしょうが、偶像礼拝はその後も、長く続けられたのです。それでも主はご自分の民を見捨てず、悔い改めて主に立ち返る度に、敵の手から救い出されておられます。ここにあわれみ深く、忍耐深く、希望を捨てられない義なる神のご誠実さを見るのです。ですから、私たちは何度、失敗しても決して諦めてはなりません。「もう、主は私を見捨てられてしまった。決して御国に入れてくださらないだろう。」と考えてはいけません。その考えこそ不信仰で、反逆を生み出してしまうのです。

11節、エルバアルはギデオンの別名です(士師記6:28~32)。

Ⅰサム 12:11 主はエルバアルとベダンとエフタとサムエルを遣わし、あなたがたを周囲の敵の手から救い出してくださった。それであなたがたは安らかに暮らしてきた。

バアルの偶像を切り倒したので、エルバアルと呼ばれるようになったのです。ベダンは七十人訳聖書では、バラクとなっています。ベダンという名前はこの他に歴代誌第一 7章17節にだけ記されています。ここでは、彼がマナセの子孫であったこと以外は何も記されていません。ベダンはアブドン(士師記12:13)の別名かも知れないと考える人もいます。あるいは士師記の中には記されていない士師(さばきつかさ)の一人だったかも知れません。しかしヘブル人への手紙11章32節には「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル」と記されていますから、この記録を参考にすると、七十人訳の「バラク」が有力になってくるでしょう。

11節の人物の最後に、サムエルは自分の名前を何の誇示も、躊躇もなく、加えています。これはサムエルが、王国になる前の士師の時代の最後の士師であったことを表わしています。

こうしてイスラエルの民は何度も、神が遣わされた神の人の働きを通して、周囲の敵の手から救出され、平和な暮らしを回復して来たのです。もしイスラエルが王の支配権によってではなく、神の人による神制政治を続けていたら、神の民の歴史は大きく変わっていたはずです。

私たちの生涯も、主に従う生活を続けて行くなら、困難に出会うことがあっても、必ず主の愛とあわれみと助けは絶えることがありません。

「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。主は私たちが卑しめられたとき、私たちを御心に留められた。その恵みはとこしえまで。主は私たちを敵から救い出した。その恵みはとこしえまで。」(詩篇136:1,23,24)

12節、11章1節でアモン人の王ナハシュがヤベシュ・ギルアデを脅かした時、イスラエル人は、神である主が王であり、勝利を与えてくださるお方であるのに、主を退けて、「いや、王が私たちを治めなければならない。」とサムエルに言っています。

Ⅰサム 12:12 あなたがたは、アモン人の王ナハシュがあなたがたに向かって来るのを見たとき、あなたがたの神、主があなたがたの王であるのに、『いや、王が私たちを治めなければならない』と私に言った。

こうして王の要求を強く繰り返していることは、サウルが王に選ばれた時と、アモン人の王ナハシュの侵入との間の期間がそう離れていなかったことを示しています。私たちは困難に出会ったり、他人の攻撃を受けたりする時、主ご自身を求めていくか、他人の助けを求めていくかによって、信仰が本物であるか、どうか、試されるのです。

13節、今、イスラエルは自分たちが選び、自分たちが求めた王を持つに至っていました。

Ⅰサム 12:13 今、見なさい。あなたがたが選び、あなたがたが求めた王を。見なさい。主はあなたがたの上に王を置かれた。

しかしその王も、王国も、主が任命されて置かれたことを王自身も、民もよくよく自覚すべきだったのです。

14,15節には、「もし」という条件を表わす言葉が二つ並んで記されています。このことは、王も王制国家も、人の権力の上に成り立っているのではなく、なおも神の主権によって立てられているのであって、その存在は王と民が主に忠誠であることが条件となっています。サムエルはこの大切なことを繰り返し、イスラエル人に強調しています。

このことはモーセも、ヨシュアも強調して教えて来たことですが、イスラエルの民は、教えられたその時は、主に対する忠誠を誓いましたが、時が経ち、信仰の指導者を失うと、たちまち偶像礼拝に陥ったのです。今回のサムエルの警告も、ソロモンの時代には、ソロモン自身が偶像礼拝に傾いていってしまっています。このことは、人がみな、生まれながらにして神に逆らい、自分中心の願いを押し通そうとする罪の性質を持っていることを示しています。

14節、民と王が主に忠実である場合です。

Ⅰサム 12:14 もし、あなたがたが主を恐れ、主に仕え、主の御声に聞き従い、主の命令に逆らわず、また、あなたがたも、あなたがたを治める王も、あなたがたの神、主のあとに従うなら、それで良い。

主に忠実であることは、五つの点で求められています。

1、「主を恐れ」心の中のこと。主を畏れかしこみ、愛し、信頼し、感謝することです。
2、「主に仕え」主だけを礼拝し、生活を通して主のみこころを行なうことです。

3、「主の御声に聞き従い」今日で言うなら、聖霊の示しに従順に従うことです。主の道を歩むのに最も必要なことは、心が砕かれて、へりくだっていることと、従順に従うことです。

4、「主の命令に逆らわず」自分中心の自己主張をしないこと、心を頑なにしないこと、神とこの世とに、二心にならないことです。主のみことばと主のみこころに忠実であることです。

5、「主のあとに従う」「あとに」ということが大切です。ダビデは「いつも、私の前に主を置いた。」(詩篇16:8)のです。またイエス様は次のように言っておられます。

「彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。」(ヨハネ10:4)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

主のみこころよりも、自分の思いや考えを優先させる時、私たちは主に逆らっているのです。

これが高慢なのです。高慢は滅びに先立つしるしです。

「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。」(箴言16:18)

「謙遜は栄誉に先立つ。」(箴言15:33)

サムエルは王国の存続のために、これらの五条件を王と民に命じました。人の世界は、どこまで繁栄しても神のご支配の中にいるのです。このことを忘れると破滅に陥ります。

15節は、王と民が主に背いて逆らった時の警告です。

Ⅰサム 12:15 もし、あなたがたが主の御声に聞き従わず、主の命令に逆らうなら、主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。

その時は、「主の手があなたがたの先祖たちに下ったように、あなたがたの上にも下る。」のです。

この主の審判は士師の時代に、民が主に背いた時、繰り返し審判を受けていたので、よく知っていたはずです。それなのに彼らは、再び偶像礼拝の道へと落ちて行ったのです。そして主の審判はイスラエル民族全体がアッシリヤとバビロンに捕囚されるという大惨事を招いてしまったのです。
神の祝福も真実ですが、神の審判も必ず来ます。神の警告を侮って聞いていてはいけないのです。

「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」(ガラテヤ6:7,8)

主の裁きを受けて後に悟る人は愚かです。警告を聞いているうちに悟って、主に従い続ける人は必ず恵みを受けます。

16~18節、サムエルは、この警告的条件がおおげさなものではなく、ただの教育的な効果をねらったものでもなく、現実に来るものだと分からせるために、一つの大きなみわざを見せています。

Ⅰサム 12:16 今一度立って、主があなたがたの目の前で行われるこの大きなみわざを見なさい。 12:17 今は小麦の刈り入れ時ではないか。だが私が主に呼び求めると、主は雷と雨とを下される。あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」 12:18 それからサムエルは主に呼び求めた。すると、主はその日、雷と雨とを下された。民はみな、主とサムエルを非常に恐れた。

それは小麦の刈り入れ時(五月中旬から六月中旬)で乾燥期なのに(通常、パレスチナでは四月から十月までは雨がほとんど降りません。)サムエルが主に呼び求めると、主は雷と雨を下されたのです。これは普通のことではなく、主の超自然的なみわざであることを民は知ったのです。

そしてサムエルは、王を得て、安心して、好い気になっている民に対して、「あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい。」と言っています。サムエルは最後まで、イスラエルの民が王を求めたことは、神に対する不信仰不忠実である証拠として取り扱っています。それは「主のみこころを大いにそこなったこと」だったのです。民がここでサムエルの警告を心から受け入れたのなら、彼らは直ちに王制国家を廃止して、神制国家に立ち返っていたでしょう。結局、イスラエルの民は、自分たちの罪を認めたけれども、明確に態度を変えようとはしなかったのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

19~25節、サムエルの祈りの約束

その日、サムエルの祈りに対して、主はサムエルの言葉通りに雷と雨とを下されました。これによって、主はイスラエルの民を喜んでおられないことを明らかに示されたのです。

Ⅰサム 12:19 民はみな、サムエルに言った。「あなたのしもべどものために、あなたの神、主に祈り、私たちが死なないようにしてください。私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」

こうして神の怒りのしるしが見せられないと、民は自分たちの罪を認めなかったのです。「私たちのあらゆる罪の上に、王を求めるという悪を加えたからです。」そして、サムエルに、自分たちが刑罰を受けて死なないように、「あなたの神、主に祈」ってくれるように求めています。民は「私たちの神、主に」と言うことができなかったのです。なんという自分にとって都合のいい祈りの要求でしょうか。

20~25節、この民の求めに対するサムエルの答えです。
20節、イスラエル人が主を捨てて、王を求め、悪を行なったことは事実だけれども、サムエルは「恐れてはならない。」と励ましています。

Ⅰサム 12:20 サムエルは民に言った。「恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。

これらのすべての罪の故に、失望、落胆して、自暴自棄になってはいけない。

「もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)

サムエルは「主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。」と命じました。イスラエル人は、まわりの異教の国々の王たちを見て、わきにそれたため、この罪に陥ったのです。「わきにそれる」ことは、二心になることです。

「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。。」(ヤコブ4:8)

21節の「むなしいもの」は、偶像と偶像礼拝に対して使われる言葉です。

Ⅰサム 12:21 役にも立たず、救い出すこともできないむなしいものに従って、わきへそれてはならない。それはむなしいものだ。

「偶像を造る者は、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。」(イザヤ書44:9)

22節、イスラエルの民は、主が自分たちを捨てて滅ぼされてしまうと恐れたのです。

Ⅰサム 12:22 まことに主は、ご自分の偉大な御名のために、ご自分の民を捨て去らない。主はあえて、あなたがたをご自分の民とされるからだ。

しかし「主はご自分の民を捨てない。主はあえて(別訳では「引き続き」)、あなたがたをご自分の民とされるからだ。」主がご自分の民を捨て去らないのは、民に功績があるからではなく、「ご自身の偉大な御名のために」です。主は私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかられたのですから、簡単に私たちを捨てたりはしません。私たちが主に立ち帰るなら、七回を七十倍するまで(すなわち何度でも)赦して、受け入れて下さいます。

主の約束の真実さは確かです。唯一の不確かなことは、私たち人間の側の信仰と忠実さと従順な服従がいつまで続くか、どれだけ真実で確かなものであるかだけです。

「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」(テモテ第二 2:13)

23節、サムエルは、祈るのを止めることを「主に罪を犯すこと」だと自覚していました。

Ⅰサム 12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。私はあなたがたに、よい正しい道を教えよう。

主と交わらない信仰は、あり得ないからです。祈りは霊的いのちを保つために不可欠なのです。祈らないことなど、「とてもできない。」と言っています。

さらに、「よい正しい道を教えよう。」と、神の道を教えることも約束しています。パウロも「また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。」(コリント第一 12:31)と言っています。それは「愛の道」でした。

25節、サムエルは、自分が祈っても、またさらに教え続けても、イスラエルの民が主に逆らい、悪を重ねる危険性があると思っています。

Ⅰサム 12:25 あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。」

その時は、民も、王も「滅ぼし尽くされる。」この語のヘブル語の文字通りの意味は「削り取られる」とか、「掃き捨てられて荒廃する」です。

24節、そこで再度、サムエルは「主を恐れ、心を尽くし、誠意を持って主に仕えなさい。」と強調しています。

Ⅰサム 12:24 ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。

サムエルもまた、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(マタイ22:37)が最も大切であること、これこそ主を喜ばせる信仰の中心であることを強調していたのです。

サムエルは霊的指導の上に、政治的指導をし、さらにその上に祈りの奉仕をしていたのです。サムエルは母ハンナの祈りによって誕生した神の人でしたが、彼は祈りの人となり、彼の奉仕は祈りによって主に結びついていたのです。このサムエルの姿には、大祭司としてのイエス様と、執り成してくださっているイエス様が予表されています。

「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

「さて、私たちのためには、もろもろの天をと通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14~16)

あとがき

信仰を持って間もない二五才の頃、小さい聖書を買って、それを分冊にしてポケットに入れて、バスや電車の中でよく読んでいました。歯医者さんに行った時は、一時間以上待たされたので、よく読むことができました。会社の昼休みに食事の後、聖書を読んでいると、「何、読んでいるの」と近寄って来る人がいましたので、ラジオの福音番組を教えてあげたりしました。そしたら、この賛美歌で慰められたという人もいました。しかしその頃、私は聖書のことばの真意がほとんど分かっていなかった状態だったのです。その頃から四十年、聖書を探求し続けてきました。そして今、少しずつ主のみこころに触れる思いがしています。こうして聖書の探求を書くことができることをうれしく思います。

(まなべあきら 2007.9.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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