聖書の探求(289) サムエル記第一 16章以降の序 ダビデの登場、出生、生涯、功績、訓練、与えられた恵み

エルサレム旧市街のシオン門の外にある、二階の間(最後の晩餐の部屋)の一階部分にダビデの墓があり、そこに向かう道の脇に置かれたダビデ王の像


この章からダビデが登場してきます。サウルのことも続けられているのですが、その内容は惨めで、主に不忠実を続けた者の結果を見せつけられています。主から離れると、人間がどこまで落ちていくのかを見せつけられています。それはまた、人の人格が神に似せて造られていることの証拠でもあります。

神から退けられたサウルは、神に油注がれて、神のしもべとなったダビデに、執拗に敵意を抱き、命を狙うようになったのです。ダビデは、どんなに堕落して自分の命を狙うサウルでも、一度、主の油注ぎを受けたサウルに対して攻撃をしませんでしたが、サウルはその反対に主がダビデに油を注いで用いられると、ますますねたみと憤りを抱いて、ダビデを殺そうとしたのです。そのことが最終的にサウルを破滅に陥れたのです。

今日でも、主に油注がれた者に攻撃を加えれば、主は決してそれを見逃されません。それは最も危険なことです。その結果が必ず現われて来ます。他人をののしったり、攻撃したりすることは、絶対にしてはいけないことです。それは必ず主によって自分にはねかえって来ます。

主はサムエルがサウルのことで、いつまでも悲しんでいることを許されませんでした。残念な過去から目を離して、神の目的を実現させるために、未来に向かって信仰の前進を求められたのです。

ダビデの出生と少年期(サムエル記第一16~17章)

井戸のあるベツレヘム(歴代誌第一11:17「ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」)は、ダビデの出生地でもあり、イエス・キリストのご降誕地でもあります。

ダビデは八人兄弟の末弟でした(サムエル記第一16:10,11)。

Ⅰサム16:10 こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んではおられない。」16:11 サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは答えた。「まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。」

その詳細な系譜はルツ記4章、および歴代誌第一2章11~15節に記されています。歴代誌第一2章13~15節では、ダビデは「七男ダビデ」と記されています。これは多分、兄弟のうちの一人が早死にし、この系図の表には削除されていたものと思われます。

マタイの福音書の系図においては、ダビデは君主の称号が付けられていて、「ダビデ王」(マタイ1:6)として特別な扱いを受けています。

マタイ 1:6 エッサイにダビデ王が生まれた。ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、

ダビデは、若い頃は牧羊者として働き、身体上の危険の多い仕事をしていました。彼は、羊の群れを保護するために、獅子を殺し、熊を撃ち、彼の威力を示しました(サムエル記第一17:34~36)。この羊飼いの生活の中から、あの最も美しい詩の一つ、詩篇23篇が生まれたのです。

また彼は広い田園の中に住み、荒野で夜を過ごしたこともあり、目もくらむばかりにきらめいている星空をながめていたことでしょう。その経験が、最も優れた創造の詩篇の中に連想されているのです。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」(詩篇8:3,4)

「天は神の栄光を語り告げ、大空は御手のわざを告げ知らせる。」(詩篇19:1)

昔、ダビデが羊の番をして星空をながめていた、同じ野原で、羊飼いたちが夜、羊の番をしていたのです。東の博士たちを導いて来た大きな星は、羊飼いたちの上にきらめき、突然、主の天使が現われて、大いなる喜びの音信を伝えたのです。ダビデの町に救い主キリストがお生まれになったことを告げたのです(ルカ2:10~12)。

ダビデは、羊飼いとしても、王としても、救い主イエス様の型(予表する人物)です。

「ダビデの生涯」の概要

前期 王位につく前の生涯

サムエル記第一、
16~17章、ダビデの少年期の記録(少年期)
18章、サウルに用いられる時期(登用期)
19~31章、サウルによる迫害期(逆境期)

後期 王としての生涯

サムエル記第二、
1~4章、即位直前のダビデ(サウルの死後、サウルの家とダビデの家の争い)
5章~列王記第一1章、王としての治世の記録
–    サムエル記第二5章~10章、ダビデの治世の初期(興隆期)
–    11~19章、ダビデの治世の中間期(衰退期)
–    20章~列王記第一1章、ダビデの治世の後期(晩年期)

ダビデの主な功績

1、エルサレムの占領
2、契約の箱の帰還
3、ペリシテ人に対する勝利
4、イスラエル全土に平和をもたらす
5、メフィボシェテへの心遣い
6、詩(篇)歌、文書を残したこと

ダビデの受けた訓練

ダビデが受けた訓練は独特なものであって、彼の使命と目的に完全に適していました。

第一に、サムエルがそばにいて、ダビデに訓練を与えました。

サムエルは天才的な弟子ダビデを十分に薫陶して、読み方、書き方、音楽などの教養を与えたに違いありません(サムエル記第一19:18~20)。

しかし、サムエルが最も力を注いだのは、神の律法の知識と、神と共にある生涯の美しさに達成することであったことは間違いないでしょう。ダビデのような霊的に鋭い気質と敬虔さを持っている人が、サムエルと共に一定の期間を過ごせば、その霊性の上に大きな恵みを受けずにはいられないはずです。サウルですら、サムエルの前に来ると、その恩沢を受けずにはいられなかったのですから。イスラエルの未来の王の上に与えられた預言者サムエルの感化は、測り難いものがあります。

第二の訓練は、サウルとその他の敵からダビデが受けた苦難と迫害です。

神は、ご自分のしもべとなる者を、この苦難の学校に入学させて、ダビデに対する神のご計画にぴったりと適合した苦難の教科書を彼に与えられたのです。

もしダビデがこれらの苦難を受けなかったなら、彼は神のみこころにかなう心の持ち主になることができなかったでしょう。人間的に言えば、ダビデがその困苦や悲惨の泥沼に踏み込んだことがなかったならば、彼の多くの詩篇は生まれなかったでしょう。彼は憎まれ、迫害され、しゃこが山に追い込まれるように野山を流浪することがなかったなら、主イエス様を予表する人物にはなれなかったでしょう。

ダビデは、神とのしっかりした関係に立ち、生涯、多くの奇妙な患苦に満たされ、多くの曲がりくねった道を左右にたどりつつ、時には、栄誉と偉大さの絶頂に上り、時には、謙卑と哀傷の谷底に深く沈んだりしたために、その生涯の間に、多くのことを経験し、すべての時代の人々が出会う様々な境遇に当てはまる詩歌を詠むことができたのです。

ダビデの経験した試練の中から、彼に三つの人格的恵みが与えられました。

第一は、ダビデの謹慎が解かれ、神の信任が与えられたことです。

「ダビデはその行く所、どこででも勝利を収めた。主が彼とともにおられた。ダビデが大勝利を収めるのを見て、サウルは彼を恐れた。…ペリシテ人の首長たちが出て来るときは、そのたびごとに、ダビデはサウルの家来たちのすべてにまさる戦果をあげた。それで彼の名は非常に尊ばれた。」(サムエル記第一18:14,15,30)

第二は、サウルに対するダビデの寛容さ、及び、他の者に対する偉大な度量です。

「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。」(サムエル第一24:6)

「『主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。さあ、今は、あの枕もとにある槍と水差しとを取って行くことにしよう。』こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとして、これを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。主が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。」(サムエル記第一26:10~12)

「恐れることはない。私は、あなたの父ヨナタンのために、あなたに恵みを施したい。あなたの祖父サウルの地所を全部あなたに返そう。あなたはいつも私の食卓で食事をしてよい。」(サムエル記第二9:7)

「兄弟たちよ。主が私たちに賜わった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。だれが、このことについて、あなたがたの言うことを聞くだろうか。戦いに下って行った者への分け前も、荷物のそばにとどまっていた者への分け前も同じだ。共に同じく分け合わなければならない。」(サムエル記第一30:23,24)

第三は、ダビデの神に対する信頼です。

彼は、様々な数多くの危険にさらされましたが、その度に、神に叫んで、危機一髪の難を助けられました。彼は神を、「私を患難から贖(あがな)い出してくださった主」とか、「岩」「力」などと言い続けています。詩篇にある神の保護を表わす多くの比喩は、実際に彼が追われた時に逃げ込んだ「隠れ場」や「とりで」から取られたものなのです。

詩篇23篇について

この詩篇は、ダビデが羊飼いであったことを題材として、羊飼いの主を詠っています。
ダビデが自分の羊を導いて行って、緑の牧場に伏させ、いこいの水際に連れて行った回数は、数え切れないほどであったでしょう。

詩23:2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

ユダヤの荒野には多くの深い谷がありましたから、ダビデはしばしばその暗い死の谷を思わせられるような谷を羊の群れを導いて通ったものと思われます。

ヘブル語では「谷」という語が八つあり、みな別々の意味を持っています。そのうち、この詩篇の「谷」はヘブル語の「ゲイ」で、岩の深い谷のことです。その中には、両岸が264mもある断崖で、谷底の幅はわずか1mくらいしかないものもあり、昼でも夜のように暗く、ハイエナが潜んでいて、羊が羊飼いから離れると、すぐに襲いかかってくる危険があります。

しかし羊飼いは、ムチをもって野獣と野盗(アラビヤの一族)とを防ぎ、羊飼いの杖をもって羊に触れて導き、暗い谷の中でも、羊たちを安心させるのです。ダビデは獅子や熊に捕らえられた羊を救い出すために、死を覚悟して戦ったことがありました(サムエル記第一17:34~37)。良い羊飼いは、いつも自分の命をささげており、いつでも羊のために命を捨てる覚悟が出来ています。

ダビデが「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」(詩篇23:1)と言った時には、主に対して絶対の信頼を言い表わしたのです。ダビデの裔であられるイエス・キリストは、ダビデの信頼に答えるように、「わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)と言われました。主は九十九匹の羊が手元にいても、迷える一匹の羊を尋ねて歩きまわり、見い出すまで帰らないお方です(ルカ15:4)。

ダビデも、ダビデの裔であられるイエス・キリストも、羊飼いであり、王でもあります。真の王は、常に羊飼いの心を持っているのです。

「ダビデは神に言った。『民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。』」(歴代誌第一21:17)

「わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。」(エゼキエル書34:23,24)

主イエス様は、私たちのために、

1、十字架にかかって死んでくださった良い牧者

「わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」(ヨハネ10:11)…詩篇22篇

2、よみがえられた大牧者

「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、」(ヘブル13:20)…詩篇23篇

3、栄光にいます大牧者

「そうすれば、大牧者が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。」(ペテロ第一5:4)…詩篇24篇

あとがき

復活のイエス様を心より感謝致します。
ただの復活の記念日として祝うだけでなく、自分の内に生けるイエス様の御霊によって、心に神の愛を注いでいただき、イエス様の平安をいただいて毎日の生活をさせていただきましょう。
この聖書の探求も、お読みになって理解され、納得されるだけでなく、心に悟るところがあれば、それはイエス様が教えてくださっているのですから、ぜひ、実際の生活の中で悟ったことを使っていただきたいのです。隣り人を愛することに、主に対して仕えるように、互いに赦し合うことに、忍び合うことに、へりくだることに、感謝することに、素直に従順になることに、実際に信仰を使っていただくと、確かに自分の内に働くイエス様のいのちと力を経験することができます。

(まなべあきら 2008.4.1)
(聖書箇所は【新改訳聖書】より)


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