聖書の探求(288) サムエル記第一15章10~35節 サムエルの譴責(けんせき)、主はサウルを捨てられる

Providence Lithograph Companyから1902年に発刊されたバイブル・カードより「Saul Rejected as King(サウルは王位から退けられた)」(Wikimedia Commonsより)

10~23節、サムエルの譴責(けんせき)

10節、サウルが不服従を行なった時、主はすぐにサムエルに語りかけておられます。

Ⅰサム 15:10 そのとき、サムエルに次のような主のことばがあった。

サウルは度重なる警告を受けて来ましたが、自分の考えを優先することを繰り返して来たのです。

11節、ついに主は「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」と嘆かれました。

15:11 「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。

サウル自身は、主に背を向けているとは少しも思っていなかったでしょう。13節で「私は主のことばを守りました。」と言っていますから。これはみんな、自分の考えにおける判断だったのです。人の目から見れば、サウルは90%くらいは主に従っているように見えるでしょう。しかし、主は100%従うことを「従った」と言うのであって、99%でも「不服従」と言われるのです。この問題の中心は、神のご命令よりも、自分が好いと思うことを優先させる自分中心が先行している点です。確かに、サウルは一所懸命に戦い、アマレク人の大部分を聖絶したのです。しかし、それでも彼の心は主に忠実ではなかったのです。

今も「聖書のことばを自分なりに解釈し、自分なりに納得したことだけを行なう。」と言う人が相当います。これはサウルと同じように危険なことをしているのです。

主は「その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌第二 16:9)

「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。」の「悔いる」はヘブル語の「ナカム」で、「ため息をつく」とか、「残念に思う」という意味で、この言葉が神に関して使われる時には、人に対する神の摂理が変わることを意味しています。

私たちは自分の熱心さや努力によって、一所懸命主に仕えているつもりになっているのでは、自分の思いでやっていることが多いのです。そうではなくて、主のみことばを毎日の生活の中で実行していくことこそ、大切なのです。

「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」(マタイ4:4)

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。」(マタイ7:24)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。」(ヤコブ1:22)

この他に、主が悔いられたり、悔やまれたりした記事は、
「実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」(サムエル第一 15:29)

このみことばは、主が悔いられたことは、人間の後悔ではないことを示しています。つまり、自分を責めたり、自分を否定したり、自分を傷つけたりするようなことではないことを示しています。主が悔いるとは、主が用いる人を代えられることを言っているのです。勿論、そこには主の悲しみがあります。しかし主は、人がするように後悔をされているのではありません、

「主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。」(サムエル第一 15:35)

「それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。」(創世記6:6)

「…どうか、あなたの燃える怒りをおさめ、あなたの民へのわざわいを思い直してください。」(出エジプト記32:12)

「神は、彼らが悪の道から立ち返るために努力していることをご覧になった。それで、神は彼らに下すと言っておられたわざわいを思い直し、そうされなかった。」(ヨナ書3:10)

サムエルはこの主の嘆きのみことばを聞いた時、サウルとサウルの家とイスラエルに、それ以上に主の御名の上に危機が来たことを悟って、深く悲しみ、夜通し主に向かって叫んでいます。

12節、サムエルが翌朝早く、主のみこころを告げるためにサウルに会いに行こうとしていた時、サムエルに次のように告げる者があったのです。「サウルはカルメルに行って、もう自分のために記念碑を立てました。」

Ⅰサム 15:12 翌朝早く、サムエルがサウルに会いに行こうとしていたとき、サムエルに告げて言う者があった。「サウルはカルメルに行って、もう、自分のために記念碑を立てました。それから、引き返して、進んで、ギルガルに下りました。」

このカルメルは、イスラエルの北方の地中海に突き出たカルメル山のあるカルメルではなくて、ヘブロンの南約12kmにあり、ジフとマオンの間にあるカルメルのことです。サウルはここにすぐに自分の戦勝記念碑を立てたのです。この時点で、もはやサウルの心には、何よりも先ず最初に主に感謝する祭壇を築いて、いけにえをささげるという気持ちがありませんでした。ただ、自分の手柄だけに関心が向いており、自分の手柄を世に知らしめようと考えたのです。サウルは最初の謙遜から離れてしまったのです。

「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」(ヨハネの黙示録2:4,5)

13節、サウルは、主を畏れる内なる信仰を失っていても、外見上、信仰的な言葉を使っています。

Ⅰサム 15:13 サムエルがサウルのところに行くと、サウルは彼に言った。「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」

彼はサムエルに会うと、「主の祝福がありますように。私は主のことばを守りました。」と言っています。主はサウルについて、「彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」と仰せられているのに、なぜ、サウルがそのような言葉を平気で言えたのか、というなら、彼がすでに肉に属する者になってしまっており、パウロが「そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」(コリント第二 4:4)と言っていることがサウルの内に起きていたからです。

サムエルはサウルのこの言葉を聞いて、あきれてしまったことでしょう。

私たちの信仰は、言葉が信仰的であったり、儀式や教会の集会に出席しているだけでなく、日常の実際生活の中で信仰が活用されていることが大切です。それが敬虔な信仰生活です。その信仰生活は必ず、主の栄光を現わす実を結んできます。

「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」(ヨハネ第一 3:18)

14節、サムエルの答えは、「サウルが主のことばを守ったと言うのなら、私の耳に聞こえてくる、あの羊がメー、メーいう鳴き声と牛がモー、モーいう、あの鳴き声は、いったい何ですか。」

Ⅰサム 15:14 しかしサムエルは言った。「では、私の耳に入るあの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」

サムエルは、ことばや口先だけの信仰は、神には通用しないことを宣告したのです。実際に忠実に従って来る信仰だけが、主に喜ばれるのです。

15節、再度、サウルは、自分の不忠実さを民のせいにしています。「民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。」

Ⅰサム 15:15 サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。民は羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。そのほかの物は聖絶しました。」

9節では、「サウルと彼の民は…惜しみ」となっていますが、15節ではサウルは自分のことをはずして、民だけの責任にしています。責任を他人になすりつける責任転嫁は、アダムとエバが主に背いた時から続いています。

その後でサウルはサムエルに、「あなたの神、主に、いけにえをささげるためです。」と言っています。サウルが「あなたの神」と言った時、もはやサウルは主を「私の神」として信じていなかったことを表わしています。こうして、表面的には信仰的な言葉を使っていても、自分の不信仰な姿が現われてしまっています。これは単なる過ちや失敗ではありません。見せかけだけの信仰は、その不信仰な姿を隠し通すことができないのです。

16節、サウルが「主のことばを守った」とか、民のせいにしたりすることを繰り返すので、サムエルは悲しみに満ちて、「やめなさい。」と言っています。

Ⅰサム 15:16 サムエルはサウルに言った。「やめなさい。昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」サウルは彼に言った。「お話しください。」

サムエルは「昨夜、主が私に仰せられたことをあなたに知らせます。」と言って、サウルが王に選ばれた経緯について語っています。

17節、サウルがまだ自分が小さい者に過ぎないと思って、謙遜であった時に、主がサウルに油を注いでイスラエルの王とされたこと。

Ⅰサム 15:17 サムエルは言った。「あなたは、自分では小さい者にすぎないと思ってはいても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。主があなたに油をそそぎ、イスラエルの王とされました。

18節、再度の失敗にも関わらず、主はあわれみ深く、再び使命を授けてくださって、主に忠実な服従を示すチャンスを与えてくださったこと。それが「罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。」でした。

Ⅰサム 15:18 主はあなたに使命を授けて言われました。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』

ここで「アマレク人」の前に「罪人(文語訳は「悪人」となっています。)」という言葉を付けていることは注目に値します。旧約であっても、罪人や異教の人々がすぐに絶滅させられたわけではありません。神の警告を拒み続け、神の民を襲撃して止めない人々に、神は絶滅の命令を出されたのです。新約聖書において、主イエス様は「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)と言われました。しかし主イエス様の救いを拒み続ければ、ついには滅びを刈り取ることになります(ガラテヤ6:8)。

ガラ 6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

19節、サムエルは、「主のことばを守りました。」と言っているサウルに向かって、「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行なったのですか。」と言っています。

Ⅰサム 15:19 あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目の前に悪を行ったのですか。」

サムエルがこのように辛辣な言い方をしたのは、サウルが自分のしたことが主に対する高慢と不服従であることを受け入れず、認めず、悟ろうとしなかったからです。

20節、サウルは再度、自分のしたことを正当化しようとしています。

Ⅰサム 15:20 サウルはサムエルに答えた。「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレクを聖絶しました。

サムエルがサウルに「あなたはなぜ、主の御声に聞き従わず、…主の目の前に悪を行なったのですか。」と言っているのに、サウルはサムエルの言葉に反発し、無視するかのように、「私は主の御声に聞き従いました。主が私に授けられた使命の道を進めました。」と反論しています。その後で、「私はアマレク人の王アガグを連れて来て、」と言っているのに、主の御声に従ったと主張し続けているのは、なぜでしょうか。サウルが従ったと言っているのは、主のご命令そのものに対してではなくて、主のご命令をサウルが自分勝手に解釈したものに対して従ったことを示しています。ですから、サウルは自分の考えに従ったのです。そういう動機ですから、サウルは勝利を収めると、すぐに主に祭壇を築いて、感謝をささげるのではなくて、自分のために戦勝記念碑を作ってしまったのです。このように心の中の動機が自分中心であり、自分の思いに従っていれば、その後の行動が「自分のため」のものになって現われるので分かります。

21節では、もう一つの点で、再度、民のせいで羊や牛を取って来たと、繰り返しています。

Ⅰサム 15:21 しかし民は、ギルガルであなたの神、主に、いけにえをささげるために、聖絶すべき物の最上の物として、分捕り物の中から、羊と牛を取って来たのです。」

羊は明確に、「牛も羊も、らくだもろばも殺せ。」(3節)と命じられていますから、「主に、いけにえをささげるために…取って来たのです。」と言っても、主への不服従を軽減することはできません。主は他の時には、羊や牛を分捕り物として取ることを許可しておられます。しかしこの時のアマレクに対しては、それを禁じられたのです。それは、この戦いは分捕り物のための戦いではなく、主に敵対するアマレクを聖絶するための戦いであることを、イスラエル人にも、周囲の異教の人々にも知らせるためであったからです。それをサウルは自分の判断で肥えた羊や牛を惜しんで取って来たのです。主はサウルに過酷な命令を出したのではありません。ですから、どのような言い訳をしても、また解釈付けをしても、今回の主の特命に対しては不忠実であったことは間違いありません。

おそらく、サウルは他の戦いの時に、分捕り物を取っていたので、今回もそうしていいと、勝手に理解したのでしょう。しかし今回は明確に主のご命令は、アガグを生かしておいてもならず、分捕り物を取ってもいけなかったのです。主のご命令はいつも同じではないのです。サウルは分捕り物を取ってよい時には、兵士たちに食事を禁じて、ひどく疲れさせ、すべて聖絶すべき時には羊や牛を取ったのです。自分の思いと考えで生きている人は、このようなことをやりやすいのです。しかしサムエルから、サウルの不忠実が指摘された時、「自分は主に従った」と繰り返して主張せず、また民のせいにもせず、自らへりくだって悔い改め、再び信仰に立って、主に忠実に歩み始めていれば、事態は全く変わっていたはずです。主は恵み深く、あわれみに富んだお方ですから。

22,23節、この二節の中でサムエルは真の敬虔と信仰の本質を教えています。

Ⅰサム 15:22 するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。 15:23 まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

この言葉は預言的文書の中で、最も重要な宣言の一つであると言えるでしょう。サムエルは、この言葉の中で、「信仰とは何か。」「主を喜ばせるとは、どうすることか。」そして「罪とは何か。」を明確に宣言したのです。

「主は主の御声に聞き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(22節)

サムエルは、サウルの単なる言い訳にすぎない強情な主張に対して、心からの信仰の服従こそ、真の信仰であり、外面的、形式的、いけにえをささげる儀式は、心からの信仰の従順な服従の代わりにはならないと言ったのです。

「わたしは誠実を喜ぶが、いけにえは喜ばない。全焼のいけにえより、むしろ神を知ることを喜ぶ。」(ホセア書6:6)

「聞け。わが民よ。わたしは語ろう。イスラエルよ。わたしはあなたを戒めよう。わたしは神、あなたの神である。いけにえのことで、あなたを責めるのではない。あなたの全焼のいけにえは、いつも、わたしの前にある。わたしは、あなたの家から、若い雄羊を取り上げはしない。あなたの囲いから、雄やぎをも。森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。わたしはたとい飢えても、あなたに告げない。世界とそれに満ちるものはわたしのものだから。わたしが雄牛の肉を食べ、雄やぎの血を飲むだろうか。感謝のいけにえを神にささげよ。あなたの誓いをいと高き方に果たせ。苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:7~15)

「たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」(詩篇51:16,17)

「『あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう。』と、主は仰せられる。『わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血を喜ばない。』」(イザヤ書1:11)

「いったい、何のために、シェバから乳香や、遠い国からかおりの良い菖蒲がわたしのところに来るのか。あなたがたの全焼のいけにえは受け入れられず、あなたがたのいけにえはわたしを喜ばせない。」(エレミや書6:20)

これらのみことばはすべて、主が喜ばれる真の信仰が何かを示しています。それは形式的ないけにえをささげる儀式ではなくて、砕かれた心で、主のみことばに従順に、忠実に従う生活です。

更にサムエルは、「まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」(23節)と言っています。主にそむくこと、反抗することは、悪霊による占いと同じであり、サウルのように強情に言い訳を重ねて、主を拒み続けることは、偶像礼拝(ヘブル語で、awen)と同じだと言っています。ここでいう偶像礼拝は、当時、イスラエル人の中に持ち込まれていたテラフィム礼拝のことを言っているようです。サウルの娘ミカル(ダビでの妻となった人)はテラフィムを礼拝していました(サムエル第一 19:13)。

こうして、サウルが主のみことばを退けたので、サウルに対する主の任命も取り消され、王位から退けられることになったのです。主の任命も、恵みも、従順な信仰が続いていくことの条件付きであることが明らかにされています。

24~31節、主はサウルを捨てられる。

24節、サウルはサムエルのこの言葉を聞くと、「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。どうか今、私の罪を赦し、」と告白していますが、このサウルの罪の告白は真心からのものとは、主にも、サムエルにも受け留められていません。

Ⅰサム 15:24 サウルはサムエルに言った。「私は罪を犯しました。私は主の命令と、あなたのことばにそむいたからです。私は民を恐れて、彼らの声に従ったのです。

サウルが主のご命令に不服従だったことは、すでに主もサムエルも指摘していたのに、サウルは「主に従った」と言い続けて来たし、24節でも、なおも「民を恐れ、彼らの声に従った」と、半ば、民のせいであったと言いたげなところがあります。全面的に自分の責任だったと受け止めていません。サムエルから何度も言われて、やっと渋々、自分の不服従を認めて告白したという状態です。これでは主は、彼を喜んで受け入れてはくださいません。彼は「私の罪を赦し」と求めていますが、その後の行動からすると、それは主に忠実な生活をするためではなく、民の前になお主に油そそがれた王であることを見せるためであったことは明らかです。サウルの心はやはり、神の御前に歩むことを真剣に求めておらず、民の評価と見栄とを求めていたのです。その心を見抜いておられる主とサムエルは、サウルを再び受け入れることをなさらなかったのです。

25節、「私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝します。」

Ⅰサム 15:25 どうか今、私の罪を赦し、私といっしょに帰ってください。私は主を礼拝いたします。」

この言葉を見ると、一見サウルは信仰を回復したかのように見えますが、そうではありません。サウルがサムエルと一緒に帰っている姿を民が見れば、サウルは今もなお、主に喜ばれている王であると思うでしょう。サウルはそれを期待したのです。「私は主を礼拝します。」と言えば、サムエルが思い直してくれて、一緒に帰ってくれると思ったのです。ここにもサウルの安易な言葉と口先だけの、真実さのない姿が見られます。

26節、サムエルは、そのようなサウルの心を見抜けない人ではありません。

Ⅰサム 15:26 すると、サムエルはサウルに言った。「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」

サムエルは、主はそのような見せかけだけの信仰は受け入れてくださらないことを明らかにして、「私はあなたといっしょに帰りません。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたをイスラエルの王位から退けたからです。」と言っています。

27節、サムエルが帰って行こうとした時、サウルはすがるようにサムエルの上着のすそをつかむと、それが裂けたのです。これはサウルが王国を失うことを劇的に象徴しています。

Ⅰサム 15:27 サムエルが引き返して行こうとしたとき、サウルはサムエルの上着のすそをつかんだので、それが裂けた。

28節、サムエルは彼の上着が裂けた象徴の意味を説明しています。

Ⅰサム 15:28 サムエルは彼に言った。「主は、きょう、あなたからイスラエル王国を引き裂いて、これをあなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。

主はご自分の王国をサウルから引き裂いて、「あなたよりすぐれたあなたの友に与えられました。」と言っておられます。「あなたの友」とは、ダビデのことですが、この時はまだダビデはサムエルにも、サウルにも知られていないベツレヘム人エッサイの末息子として羊飼いをしていた無名の少年でした。しかし主はすでにエッサイの子ダビデを王として選んでおられたのです。

29節、「イスラエルの栄光である方」の「栄光」とは、ヘブル語の「ネツァク」で、人が旅をする時の目的地を表わしています。その目的地はいつも旅人の心の中で輝いているゴールです。

Ⅰサム 15:29 実に、イスラエルの栄光である方は、偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」

主は霊的にも人の輝いている目標であり、人の人生の目標です。それ故、「イスラエルの栄光」とは、「イスラエル人の輝いている目標」という意味です。

神ご自身の称号として「栄光」が使われているのは、聖書中、ここだけです。その他に沢山使われている「栄光」という言葉はすべて神を形容する言葉です。

「偽ることもなく、悔いることもない。この方は人間ではないので、悔いることがない。」しかし11節には「わたしはサウルを王に任じたことを悔いる。」と書いてあるではないか、と思う人もおられるでしょう。ここでは主は、人間ではないので、人が後悔するように悔いておられるのではないと言っているのです。神が「悔いる」というのは、神のみこころは変わらないけれども、手段や方法や用いている人や物を変えることを意味しています。その人物が神にふさわしくなくなると、主は用いる人を変えられることです。主がご自分のご計画を成し遂げ、ご自分の働きをなさるのに、新しい働き人が必要になれば、不従順になった為政者も変えられます。またその人が悔い改めて、忠実な信仰に立ち返り、従順に従うようになれば、主は刑罰をも撤回されるのです。これを「神は悔いられる。」と言っているのです。主は決して、人が悔いるようには悔いることがないのです。

30節、サウルは再び「私は罪を犯しました。」と告白していますけれども、そのすぐ後の言葉「どうか今、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って」と言っているのは、サウルが主ご自身よりも、人の目を気にし、人の評価を得ようとする、表面的な信仰しか持っていなかったことを表わしています。

Ⅰサム 15:30 サウルは言った。「私は罪を犯しました。しかし、どうか今は、私の民の長老とイスラエルとの前で私の面目を立ててください。どうか私といっしょに帰って、あなたの神、主を礼拝させてください。」

サウルは気がついていなかったかもしれませんが、人の本質は、いくら信仰的な言葉を使い、「主に従った」と言い、「私は罪を犯しました」と告白し、「主を礼拝します」と言っていても、隠すことができず、表われてしまうのです。これとは逆に外見が粗雑に見えていても、その人の心の中が本当に主を愛し、主に忠実であるかも、隠すことができません。必ず外側に表われ出るものです。

サウルは「私の神、主」と言わず、「あなたの神、主を礼拝させてください。」と言っていますから、彼の信仰は口先だけのもので、主を自分自身の神として信じていなかったことを表わしています。ですから彼の礼拝はただの形式的な儀式でしかなかったのです。

31節、サムエルはサウルの執拗な申し入れによって一緒に帰っていますが、それはサウルの回復には何の役にも立っていません。また、「サウルは主を礼拝した。」とありますが、そのような口先だけの、形式的な礼拝儀式では、主との交わりの回復はありませんでした。

Ⅰサム 15:31 それで、サムエルはサウルについて帰った。こうしてサウルは主を礼拝した。

32~33節、アガグの断罪と処刑

32節、サウルがアマレク人の王アガグを処刑しなかったので、年老いた預言者サムエル自身がアガグを処刑しなければならなくなったのです。

Ⅰサム 15:32 その後、サムエルは言った。「アマレク人の王アガグを私のところに連れて来なさい。」アガグはいやいやながら彼のもとに行き、「ああ、死の苦しみは去ろう」と言った。

「アガグはいやいやながら彼のもとに行き、」ヘブル語のmaadhan(マアダアン)は「元気よく、優美に」という意味を持っています。ですから、文語訳聖書では「アガグ喜ばしげにサムエルの許にきたり」と訳されています。これをギリシャ語訳の七十人訳聖書は「ふるえながら」と訳したのです。アガグはこれから先もずっと捕われの身で苦しめられるより、処刑されるほうが、すぐに死の苦しみが去ると考えたという意味です。バークレー訳では、「アガグは『確かに死の苦しみは去った。』と言いながら、喜んで彼に近づいていった。」となっています。

33節、サムエルはアガグに彼が処刑されなければならない理由を告げています。

Ⅰサム 15:33 サムエルは言った。「あなたの剣が、女たちから子を奪ったように、女たちのうちであなたの母は、子を奪われる。」こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。

それは、アガグの軍隊によって、イスラエルの多くの若き兵士たちが殺され、イスラエル人の母の手から息子たちを奪っていたからです。ですから、アガグの母も、彼女の息子を失うことになると宣告しました。これは、

「しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。目には目。歯には歯。手には手。足には足。やけどにはやけど。傷には傷。打ち傷には打ち傷。」(出エジプト記21:23~25)

「あわれみをかけてはならない。いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足。」(申命記19:21)のルールを適用しています。これは復讐してもよいというルールではありません。刑罰として要求されるルールとしてサムエルは適用しているのです。

「こうしてサムエルは、ギルガルの主の前で、アガグをずたずたに切った。」これはサムエルたちがギルガルに来ていたことを示しています。ギルガルはイスラエル人が初めて神の約束の地に足を踏み入れた地です。それはイスラエル人が約束の地での生活を始めた出発点です。これはアガグを処刑することによって、またサウルを王位から退けて、新しい王国が始まる出発点をも意味しています。「主の前で」とは、主のご命令に従って行なわれたことを強く印象づけています。「アガグをずたずたに切った」サムエルはアガグの悪行は死刑に価すると宣告しましたが、年老いていたサムエルがアガグをずたずたにするほど力があったかどうかはわかりません。サムエルが他の者に命じて処刑したことも考えられます。

34~35節、サウルのための悲しみと悔い

サムエルは主に不服従になったサウルと長く一緒にいることはありませんでした。サムエルは自分の住居のあったラマへ行き、サウルもギブアの自分の家に帰って行っています。

Ⅰサム 15:34 サムエルはラマへ行き、サウルはサウルのギブアにある自分の家へ上って行った。

35節は、「サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。」と言っています。

Ⅰサム 15:35 サムエルは死ぬ日まで、二度とサウルを見なかった。しかしサムエルはサウルのことで悲しんだ。主もサウルをイスラエルの王としたことを悔やまれた。

主に忠実な預言者サムエルと主に不忠実で、それを最後まで止めようとしなかったサウルは、ここで永遠に訣別してしまったのです。いつまでも心を頑なにする者の悲しみは、永遠の悲劇です。サムエルは、ひと度、主に油注がれ、主の信任を受け、用いられた後、自分の考えを優先し、神よりも人を恐れ、人の言葉に従い、不忠実になって行き、再び主のもとに立ち返らなかったサウルのことを悲しんだのです。「主も……悔やまれた。」については、すでに解説してある通りです。

この章の中心メッセージは、「聞き従うことは、いけにえにまさる。」です。自分の思いや考えを混入し、優先した部分的服従や、言葉や口先だけの信仰や見せかけの忠実さ、自分中心の言い訳や他人のせいにすること、うわべだけの悔い改めや形式的な儀式礼拝などは、主に喜ばれることなく、破滅に至るのです。

あとがき

先日、教会の婦人会で「愛の絆によって」の本を用いてルツ記を学ばれた方から、お電話をいただきました。
自分で聖書を読むだけではザッと読んで終わってしまうのですが、「愛の絆によって」を用いてルツ記を読んだら、皆さん豊かな恵みを受けられましたというお話でした。
こういうお話をいただくと、本当に聖名を崇めて、光栄に思います。
私は若い頃、化学者になることを目指していましたが、25才でイエス様の御声をいただいてから、聖書だけに仕えてきました。まだわずかの働きしかしていませんが、少しでも、聖書のみことばが皆様の心にいのちとなり、力となって受け止めていただけると、うれしいです。日本人の心に、みことばのいのちをお届けしたいと願っています。

(まなべあきら 2008.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次