聖書の探求(304) サムエル記第一 26章 サウルの再びダビデ追跡、ダビデとアビシャイ、夜、敵陣に侵入
フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「David Takes Saul’s Spear and Water Bottle(ダビデはサウルの槍と水差しとを取って行く)」(New YorkのJewish Museum蔵)
この章で再度、ダビデは主が油注がれた者に対して、自分で手を下すことは絶対にできないという心を表わしています。
この記録は再びダビデがジフの荒野に帰って、サウルと向かい合っていることを記しています。これは23章19節から24章22節までの出来事と似ていますので、ある人々は同じ出来事を再び記しているのではないか、と言っていますが、この二つの記録には明確な相違点もありますので、別々の出来事であったことは確かです。ただダビデとサウルが同じ地域で向かい合ったことを記しているのです。
しかしここに記されている信仰の内容は、前回の時と同じです。
1、ダビデは、主が油注がれた者に対して手を下すことを禁じておられると受け留めていたこと
2、長い逃亡生活と逼迫(ひっぱく)した状態にあっても、主に対するダビデの信頼は弱らなかったこと
3、ダビデの態度とは対照的にサウルの態度は、一見、罪を悔い改めたかに見えましたが、それは一時だけであって、口先だけでしかなかったことを明らかにしています。後悔と真の悔い改めとは全く別のものなのです。
26章の分解
1~5節、サウルの再びダビデ追跡
6~12節、ダビデとアビシャイ、夜、敵陣に侵入
13~16節、ダビデのアブネルへの呼びかけ
17~20節、ダビデのサウルへの訴え
21~25節、サウルの後悔とダビデの神への信頼の言葉
1~5節、サウルの再びダビデ追跡
新鋭のダビデが国民の人気の的となり、勝利を重ねていく度に、ねたむ者もいました。また、神がダビデに油を注いで次の王とされることよりも、自分の欲によってサウル王から何らかの報いを受けようとしてサウル王に荷担する者も少なくなかったのです。特に、聖書の記録では、ジフ人がそういう態度をとっています。その理由は定かではありませんが、ジフはユダ部族の相続地の中で最南端の山地の町の一つです。ダビデはサウルに追われていた時、この近くの荒野の山地を隠れ場にしていたのです。ジフ人も、ダビデもユダ族であり、サウルはベニヤミン族でしたから、ジフ人は同族のダビデをサウルに売っていたことになります。イスカリオテのユダも、自分の欲のために主イエス様を売ったのですが、人は自分の欲のためなら、何でも恐ろしいことをする危険があることを十分心得ておかなければなりません。
1節、ダビデは再び、ハキラの丘に戻っていたのです。
Ⅰサム 26:1 ジフ人がギブアにいるサウルのところに来て言った。「ダビデはエシモンの東にあるハキラの丘に隠れているではありませんか。」
2節、サウルは密告を受けるとすぐ、ダビデを追って三千人の精鋭の兵士を率いてハキラの丘に向かいました。そして、そこに最前線基地を設けたのです。
Ⅰサム 26:2 そこでサウルはすぐ、三千人のイスラエルの精鋭を率い、ジフの荒野にいるダビデを求めてジフの荒野へ下って行った。
26:3 サウルは、エシモンの東にあるハキラの丘で、道のかたわらに陣を敷いた。一方、ダビデは荒野にとどまっていた。ダビデはサウルが自分を追って荒野に来たのを見たので、
26:4 斥候を送り、サウルが確かに来たことを知った。
3節、「エシモンの東」は直訳ではエシモンの「前面」、すなわち荒野に接している地点のことです。
この記述はこの地域を相当詳しく知っている人が記したことを証明しています。サウルとダビデは非常に接近していたのです。それはダビデにとって非常に危険な状態になっていたことを示しています。
4節、ダビデはその状態を斥候を送って確かめています。
5節、その夜、ダビデは勇敢にも自分自身でサウルの陣営の中を偵察しています。
Ⅰサム 26:5 ダビデは、サウルが陣を敷いている場所へ出て行き、サウルと、その将軍ネルの子アブネルとが寝ている場所を見つけた。サウルは幕営の中で寝ており、兵士たちは、その回りに宿営していた。
普通なら見張りが起きているはずですが、「主が彼らを深い眠りに陥れられ」ていたのです(12節)。
「サウルは幕営の中で寝ており」の「幕営」はヘブル語のマガラアで、「丸い」を意味しています。彼らは円形の塁壁を築いていたのです。多分、兵士たちの荷物を円形の囲いを作るように置き、そのまわりに兵士たちが、王とアブネルを中心に取り囲むように寝ていたのでしょう。
6~12節、ダビデとアビシャイ、夜、敵陣に侵入
5節は総括的に記していましたが、6節からはその時の詳しい経緯を具体的に記しています。
Ⅰサム 26:6 そこで、ダビデは、ヘテ人アヒメレクと、ヨアブの兄弟で、ツェルヤの子アビシャイとに言った。「だれか私といっしょに陣営のサウルのところへ下って行く者はいないか。」するとアビシャイが答えた。「私があなたといっしょに下って行きます。」
ヘテ人アヒメレクがダビデと一緒に行ったかどうかは分かりませんが、ヨアブの兄弟で、ツェルヤ(ダビデの姉妹、歴代誌第一 2:16)の子アビシャイが、ダビデの呼びかけに積極的に志願して、ダビデと一緒にサウルの陣営に入り込んで行っています。
7~8節、二人はサウルの枕もとにサウルの槍が地面に突き刺してあるのを見たのです。
Ⅰサム 26:7 ダビデとアビシャイは夜、民のところに行った。見ると、サウルは幕営の中で横になって寝ており、彼の槍が、その枕もとの地面に突き刺してあった。アブネルも兵士たちも、その回りに眠っていた。
26:8 アビシャイはダビデに言った。「神はきょう、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうぞ私に、あの槍で彼を一気に地に刺し殺させてください。二度することはいりません。」
アビシャイは、この時こそ神が与えてくださった時だと直感したのです。しかもダビデがしなくても、アビシャイがサウルを一突きにすれば、二度とする必要はなく、この危険な状態からも、すぐに解放されることができるのです。このチャンスを逃せば、二度とこういう機会は来ないかも知れません。アビシャイの心は逸(はや)っていたでしょう。
9~11節、ダビデの心は動きませんでした。目先のチャンスよりも、神に忠実であるほうを選んだのです。
「殺してはならない。主に油そそがれた方に手を下して、だれが無罪でおられよう。主は生きておられる。主は、必ず彼を打たれる。彼はその生涯の終わりに死ぬか、戦いに下ったときに滅ぼされるかだ。私が、主に油そそがれた方に手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。」
サウルに対する処罰は神に委ねたのです。結局サウルはダビデが言った後者の方で死んだのです。ペリシテ人との戦いに出て行った時に、致命的傷を受け、自ら剣の上にうつぶせに倒れて死んだのです。他人を陥れると、必ず、わざわいはその身に振りかかってきます。主は生きておられるのです。
しかしダビデはよく、最後まで、自ら手を下さず、苦しみに耐え抜きました。目の前に現われてくるチャンスに見えるものにも、だまされないで、主に対する忠誠を尽くし切りました。神様はこのことをどんなに喜ばれたことでしょうか。
12節、しかし、ダビデは、主が彼の手にサウルの命を渡されたことを証明する証拠として、サウルの枕もとにあった槍と水差しを取って行きました。
Ⅰサム 26:12 こうしてダビデはサウルの枕もとの槍と水差しとを取り、ふたりは立ち去ったが、だれひとりとしてこれを見た者も、気づいた者も、目をさました者もなかった。【主】が彼らを深い眠りに陥れられたので、みな眠りこけていたからである。
この時も主が働いてくださっていました。サウルも兵士たちも、一人も目を覚ますことなく、深い眠りに陥れられていたので、ダビデたちは発見されることなく、この離れ業を成し遂げることができたのです。主が働いてくださっていなければ、こういうことは決してできないことです。これもダビデが主を畏れて忠誠を守っている心を主が知っていてくださったからにほかなりません。主はご自身に忠実に従って来る者を守られるのです。
13~16節、ダビデのアブネルへの呼びかけ
Ⅰサム 26:13 ダビデは向こう側へ渡って行き、遠く離れた山の頂上に立った。彼らの間には、かなりの隔たりがあった。
26:14 そしてダビデは、兵士たちとネルの子アブネルに呼びかけて言った。「アブネル。返事をしろ。」アブネルは答えて言った。「王を呼びつけるおまえはだれだ。」
26:15 ダビデはアブネルに言った。「おまえは男ではないか。イスラエル中で、おまえに並ぶ者があろうか。おまえはなぜ、自分の主君である王を見張っていなかったのだ。兵士のひとりが、おまえの主君である王を殺しに入り込んだのに。
26:16 おまえのやったことは良くない。【主】に誓って言うが、おまえたちは死に値する。おまえたちの主君、【主】に油そそがれた方を見張っていなかったからだ。今、王の枕もとにあった王の槍と水差しが、どこにあるか見てみよ。」
ダビデはサウルとの十分な距離を取るだけ退却してから、眠っていたアブネルを呼び起こしています。しかし大声を出したとしても、声が届く距離ですから、そう遠くはありません。
アブネルはイスラエル人の中でも勇士として知られており、また自分の主君を守るべき役職についていながら、見張りを怠り、眠りこけてしまい、王の命を危険にさらした責任を示しています。その責任は「死に値する(直訳では「死の子らだ。」)」と言っています。サウル王の命が危険にさらされた証拠として、ダビデが取って来た、サウルの枕もとにあった王の槍と水差しを差し上げて示したのです。
17~20節、ダビデのサウルへの呼びかけ
Ⅰサム 26:17 サウルは、それがダビデの声だとわかって言った。「わが子ダビデよ。これはおまえの声ではないか。」ダビデは答えた。「私の声です。王さま。」
26:18 そして言った。「なぜ、わが君はこのしもべのあとを追われるのですか。私が何をしたというのですか。私の手に、どんな悪があるというのですか。
このダビデの呼びかけには、アブネルよりも先にサウルが反応して答えています。
ダビデは繰り返し、サウルに対して反逆心も、敵対心もなく、無実を訴えています。
19節のダビデの訴えは要を得ています。
Ⅰサム 26:19 王さま。どうか今、このしもべの言うことを聞いてください。もし私にはむかうようにあなたに誘いかけられたのが【主】であれば、主はあなたのささげ物を受け入れられるでしょう。しかし、それが人によるのであれば、【主】の前で彼らがのろわれますように。彼らはきょう、私を追い払って、【主】のゆずりの地にあずからせず、行ってほかの神々に仕えよ、と言っているからです。
もし、サウルがダビデを狙い、殺すことが主から出ているなら、それは主のみこころと主のご計画ですから、その証拠としてサウルが主にささげ物をすれば、主がそのささげ物を受け入れてくださいましょう。しかしこのことはすでに明らかでした。主はサウルの祈りも、ささげ物も顧みられていなかったのです。
しかしもし、人の差し金や吹き込みによって、サウル王がダビデをねたむようになったのなら、サウルにそのような細工をして、吹き込んだ人々は主の前でのろわれます。心が不安定になり、疑い深い状態になっている人は、容易に人の言葉によって欺かれ、動かされてしまうのです。
事実、これまでもサウルは自分の信仰がしっかり確立しておらず、アマレク人との戦いの時でも、主のご命令に従わず、家来たちの言葉に従い、肥えた獣を殺さず、アガグをも生かしておいたのです。こうして信仰の明確でない人はいつも疑心暗鬼の心の状態になっており、簡単に他人の言葉に心が動かされてしまうのです。ダビデはサウルがこのような状態になってしまっているのは、サウルにダビデが王位をねらっていると吹き込む者たちがいたことを知っていたのです。彼らは、ダビデを「主のゆずりの地」イスラエルから追い出して、「ほかの神々に仕えよ。」と言っていると言っています。これは実際、ダビデがサウルに追われて、ペリシテ人の地に行ったことなどを示しているでしょう。ダビデを主の約束の地で住むことが出来なくしてしまい、イスラエル周辺の偶像を礼拝している諸民族の間に定住させようと計っていたことを、ダビデが明らかにしているのです。
20節、再びダビデは24章14節で言ったことを繰り返しています。
Ⅰサム 26:20 どうか今、私が【主】の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。イスラエルの王が、山で、しゃこを追うように、一匹の蚤をねらって出て来られたからです。」
ダビデは自分を価値のない、山ではぐれた孤独な「しゃこ(きじの一種)」を追いかけることや、一匹の蚤を追いかけている例えを挙げて、サウル王の行為が不当であり、適切でないことを訴えています。
「私が主の前から去って、この血を地面に流すことがありませんように。」ダビデがサウルの血を流さなかったように、サウルもダビデの血を流してはならなかったのです。それをすれば、サウルとサウルの家の上に神の怒りが下ることになるからです。
21~25節、サウルの後悔とダビデの神への信頼の言葉
21節、サウルはダビデの慈悲深い行ないと無実の告白を聞いた時、再度、悔悛の告白をし、「私は罪を犯した」ことを認めました。
Ⅰサム 26:21 サウルは言った。「私は罪を犯した。わが子ダビデ。帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。きょう、私のいのちがおまえによって助けられたからだ。ほんとうに私は愚かなことをして、たいへんなまちがいを犯した。」
今回は更に「帰って来なさい。私はもう、おまえに害を加えない。」と、サウルの宮廷に帰って来るように招いています。しかし27章1節を見ると、ダビデはサウルのこの言葉を信用していません。その場だけで、すぐに感動する人の態度は長続きすることがありません。岩地に蒔かれた種と同じで、すぐに喜び、感動した言葉を話すけれども、しばらくすると、心変わりしてしまい、元の自分中心の頑なな心を示すようになるのです。
「たいへんなまちがいを犯した。」の「まちがいを犯す」は、ヘブル語のシャガグで、文字通りの意味は「道に迷う」です。すなわち、神の道を迷い出て罪を犯したことを示しています。迷い子の羊や放蕩息子の話はみな、これに当ります。
「たいへんな」は「増大する」「激しい」「大いに」を意味する言葉です。それ故、この言葉の全体の意味は、「大いに道に迷ってしまって、遠くにまで来てしまった。」ということになります。
22~24節のダビデの答えは、先ず、サウル王に槍を返すことです。次に、この問題を主の御手に委ねることでした。
Ⅰサム 26:22 ダビデは答えて言った。「さあ、ここに王の槍があります。これを取りに、若者のひとりをよこしてください。
26:23 【主】は、おのおの、その人の正しさと真実に報いてくださいます。【主】はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、【主】に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。
26:24 きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、【主】は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」
自分中心で、これまでも気まぐれに約束をひっくり返して来たサウルの権力の手に任せるより、「人の正しさと真実さに報いてくださる」主の御手に委ねたほうが、ずっと確かで安全でした。人の良さそうな言葉に乗って行く人は、必ずわざわいに会います。人の好意は、感情的なバランスを崩すと、すぐに態度が変わってしまう程度のものなのです。
「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。主に身を避けることは、人に信頼するよりもよい。主に身を避けることは、君主たちに信頼するよりもよい。」(詩篇118:6~9)
そして「主はきょう、あなたを私の手に渡されましたが、私は、主に油そそがれた方に、この手を下したくはありませんでした。」と告白し、そして、「きょう、私があなたのいのちをたいせつにしたように、主は私のいのちをたいせつにして、すべての苦しみから私を救い出してくださいます。」と信仰の確信を語ったのです。
「たいせつにして」とは、神にとって重要なものとして扱ってくださることです。
ダビデはこれまでの告白や訴えの中で、ひと言もサウルをののしったり、侮辱したり、見下したり、悪く言ったりする言葉を使っていません。これは彼の心がいつも主の前に置かれていたことを示しています。
「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」(詩篇16:8)
25節は、ダビデに対するサウルの祝福の言葉です。
Ⅰサム 26:25 サウルはダビデに言った。「わが子ダビデ。おまえに祝福があるように。おまえは多くのことをするだろうが、それはきっと成功しよう。」こうしてダビデは自分の旅を続け、サウルは自分の家へ帰って行った。
この言葉は内容が正しくても、サウルの心の態度とは一致していません。言葉と行ないが全く反対です。しかしこのサウルの言葉は、ダビデに対する預言的祝福が含まれています。ダビデはその後、多くのことを行ない、それを成就したのです。
この言葉の後、二人は別れて、再び会うことはなかったのです。
あとがき
最近、集会に来られる人の中に、ゴスペル(福音という意味ですが)と聞くと、若者たちのにぎやかなお楽しみ会と思っている人たちがいます。聖書のみことばをじっくり聞いて、救いを経験し、霊のいのちが養われることを求めていない人がいます。意外にクリスチャンの中にも、聖書のみことばの説教を聞いて、霊魂が養われることよりも、自分たちの出番を楽しみにしている人がいるのではないでしょうか。
最初は、イエス様を心から賛美するために始まったゴスペル・ソングの集会も、いつの間にか、この世の人々と同じ自分たちが楽しむお楽しみ集会になってしまっていませんか。いのちのみことばによって心が生き返るとき、私たちの心に主をほめたたえる賛美が生まれてくるのを味わいます。
(まなべあきら 2009.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)