聖書の探求(305) サムエル記第一 27章 ペリシテ人アキシュのもとに滞留、ダビデに対するアキシュの信頼
フランスの画家James Tissot (1836–1902)による「アキシュのところへ帰るダビデ」(New YorkのJewish Museum蔵)
サウルの悔い改めの言葉が真実そうに見えていても、気まぐれで決して信用できないと確信したダビデは、このまま逃亡生活を続けていれば、いまにサウルに殺されると思い、彼はユダの野を去ってペリシテのガテの王マオクの子アキシュを頼って行ったのです。ダビデの家族はツィケラグの町をもらって、そこに一年四か月住むことになったのです。この章は、そのツィケラグ亡命中のことを記しています。
27章の分解
1~7節、ペリシテ人アキシュのもとに滞留
8~12節、ダビデに対するアキシュの信頼
1~7節、ペリシテ人アキシュのもとに滞留
1節、「ダビデは心の中で言った。」珍しく、ダビデは主に尋ねていません。
Ⅰサム27:1 ダビデは心の中で言った。「私はいつか、いまに、サウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地にのがれるよりほかに道はない。そうすれば、サウルは、私をイスラエルの領土内で、くまなく捜すのをあきらめるであろう。こうして私は彼の手からのがれよう。」
サウルの追跡から追いつめられていた彼は、ついに自分自身の考えに従ったのです。これは不信仰な考えです。結果は、サウルの追跡は止みましたが、別の悲惨な事件が起きてきました。
1、ダビデは外国を攻撃して、アキシュの信頼を得なければならなくなりました(27:8~12)。
2、イスラエルとペリシテとの戦いが始まった時、ペリシテ軍の一部として戦いに加わる危険が生じたのです。実際には加わらなかったのですが(29章)。
3、ツィケラグの家族がアマレクに捕えられて奪回しなければならなくなりました(30章)。
2,3節は、アキシュの所に行ったダビデの同行者たちのリストです。
六百人の者たちとダビデの二人の妻アヒノアムとアビガイルと、部下たちの家族です。
Ⅰサム 27:2 そこでダビデは、いっしょにいた六百人の者を連れて、ガテの王マオクの子アキシュのところへ渡って行った。
27:3 ダビデとその部下たちは、それぞれ自分の家族とともに、ガテでアキシュのもとに住みついた。ダビデも、そのふたりの妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルといっしょであった。
4節、サウルは、アキシュの所に逃げ込んだダビデの所にまでは追って来ませんでした。ペリシテ人を恐れていたからでしょう。
Ⅰサム 27:4 ダビデがガテへ逃げたことが、サウルに知らされると、サウルは二度とダビデを追おうとはしなかった。
5節、ダビデはアキシュの住むガテに一緒に住むことを好まず、ダビデの一隊だけがまとまって地方の一つの町に住むことが安全だと考えて、アキシュに一つの町を与えてくれるように願っています。
それも謙遜の限りを尽くして、「どうして、このしもべが王の都に、あなたといっしょに住めましょう。」と言って頼んでいます。
Ⅰサム 27:5 ダビデはアキシュに言った。「もし、私の願いをかなえてくださるなら、地方の町の一つの場所を私に与えて、そこに私を住まわせてください。どうして、このしもべが王の都に、あなたといっしょに住めましょう。」
6節、アキシュは、ダビデの願いを聞き入れてツィケラグを与えています。
Ⅰサム 27:6 それでアキシュは、その日、ツィケラグをダビデに与えた。それゆえ、ツィケラグは今日まで、ユダの王に属している。
こうしてダビデたちは日常の行動の自由を得ることができたのです。日常は武器を持たないで生活もできるし、ペリシテ人に気を使う必要もないし、アキシュに対しても、ダビデがサウルに敵意を持っていると見せかけることもできたのです。
ツィケラグは、もともとユダ部族の相続地のうち最南端ネゲブの町でした(ヨシュア記15:31)。この町はシメオン族の相続地として与えられていました(ヨシュア記19:5)。そこはガテの南東に位置しており、ユダの国境に近く、長い間ペリシテ人から占領されていたのです。アキシュにとってツィケラグは重要な町ではなく、もともとユダの町だったので、そこが良いと考えたのでしょう。
「ツィケラグは今日まで、ユダの王に属している。」「イスラエルの王に属している。」と言わず、「ユダの王」と言っていることは、この記録が記された時、イスラエルの王国がソロモンの死後、北と南に分裂していたことを示しています。しかしまたユダの王の統治の時代ですから、紀元前586年のユダの捕囚よりも前であったことも確かです。
7節、ダビデとその部下とその家族たちは、ここで一年四か月生活したのです。
Ⅰサム 27:7 ダビデがペリシテ人の地に住んだ日数は一年四か月であった。
ところでガテの王アキシュは、なぜダビデを快く受け入れ、しかもダビデの願いを聞き入れて、ツィケラグの町も与えたのでしょうか。
21章10~15節で、ダビデが第一回目にアキシュの所に逃げて行った時には、ダビデを「あの国の王」として見ていたので、ダビデは警戒心を抱いていましたが、今回はアキシュも、ダビデがサウル王から命を狙われて逃亡していることを聞き知っていたのです。そのダビデが自分を頼って逃げて来たのです。アキシュは、ダビデがサウルに敵意を抱いていることを疑わなかったのです。
きっとダビデはサウルを打って、仕返しをするに違いないと信じたのです。アキシュにとっても、サウルを打ち、イスラエルを打つことは念願だったので一致したのです。しかもダビデ自身が強力な勇士であるばかりでなく、戦いのためによく訓練された六百人もの兵士を率いていたので、アキシュは同盟軍を受け入れるように歓迎したのです。ダビデは戦略家として、この当りのことをよく読んでいたのです。しかし危険は十分にありましたから、安全のためにも、ガテに住むのではなく、田舎の離れた小さい町に住むことを希望したのです。
8~12節、ダビデに対するアキシュの信頼
8節、この一年四か月の間に、ダビデの一隊は極力イスラエルの方面には近づいておらず、ゲシュル人、アマレク人を襲撃しています。
Ⅰサム 27:8 ダビデは部下とともに上って行って、ゲシュル人、ゲゼル人、アマレク人を襲った。彼らは昔から、シュルのほうエジプトの国に及ぶ地域に住んでいた。
これはユダより更に南方の荒野の諸部族です。ゲシュル人はペリシテ人の近くに住んでいました(ヨシュア記13:2)。ゲゼル人は旧約聖書中、ここ以外に他のどこにも記されておらず、分かっていない民族です。アマレク人はイスラエルと長い戦いの歴史をもっていましたが、サウル王によって滅ぼされたことになっていました(15章)。しかし、アマレクの生き残りの人々が脱出して、再び勢力を持ち始め、ユダの南西のシュルの荒野で半遊牧生活を始めていたのです。ダビデはこれらの民を次々と襲撃することによって、アキシュの全面的信頼を得ていったのです。これはダビデの一隊が自分たちを守るためとは言え、また故意にアキシュをだましていたとは言えないまでも、アキシュと心を一つにしていたのではないことは明らかです。このダビデの態度に対して主がどう思われたかは、聖書に何も記されておらず、ただ事実だけを記しています。28章を見ると、ダビデ自身もアキシュを裏切らないように苦しい配慮をしながら、しかし神の民を傷つけないようにと苦慮していることが見られます。
9節、ダビデは徹底的な戦いをして多くの戦利品をアキシュにもたらしていたのです。
Ⅰサム 27:9 ダビデは、これらの地方を打つと、男も女も生かしておかず、羊、牛、ろば、らくだ、それに着物などを奪って、いつもアキシュのところに帰って来ていた。
10節、アキシュが「きょうは、どこを襲ったのか。」という質問に対して、ダビデは自分の心の内を悟られないように、「ユダのネゲブ」「エラフメエルのネゲブ」「ケニ人のネゲブ」と、すべてイスラエルに近いネゲブ地方を答えています。
Ⅰサム 27:10 アキシュが、「きょうは、どこを襲ったのか」と尋ねると、ダビデはいつも、ユダのネゲブとか、エラフメエル人のネゲブとか、ケニ人のネゲブとか答えていた。
これはアキシュに、ダビデがサウルの隙を狙っていると思わせるためであったと思われます。
11節、そして捕虜を一人も連れて来なかったのは、「ダビデがネゲブではなく、もっと南西のシュルやエジプトに近い地方を打っていた」ことを告げられないために、男も女も徹底して生かしておかなかったのです。
Ⅰサム 27:11 ダビデは男も女も生かしておかず、ガテにひとりも連れて来なかった。彼らが、「ダビデはこういうことをした」と言って、自分たちのことを告げるといけない、と思ったからである。ダビデはペリシテ人の地に住んでいる間、いつも、このようなやり方をしていた。
12節、アキシュはダビデのこの言葉と行動を見て、完全に信用したのです。
Ⅰサム 27:12 アキシュはダビデを信用して、こう思った。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。彼はいつまでも私のしもべになっていよう。」
ダビデはサウルとイスラエルを打つ決意が確かであると信じたのです。「ダビデは進んで自分の同胞イスラエル人に忌みきらわれるようなことをしている。」と。アキシュはダビデを最も信頼できる同盟者と信じたのです。
あとがき
若き日には、物理化学を志していましたが、二五才の時、イエス様の御救いを受け、それから聖書だけに集中して探求し、聖書全体を分かりやすく解き明かすことを、生涯の仕事としてきました。今月、マルコの福音書の講解を終えて、ピレモンに入ります。残すのは新約聖書ではテモテ第二とテトスだけになりました。旧約聖書の探求でサムエル記まで、エズラ、ネヘミヤ、エステル、雅歌、哀歌、詩篇はテープに収録しました。他の書も以前早天祈祷会で一度は全部お話しました。今は聖書以外、何も分からない人間になりつつあります。そして、もっともっと聖書を信じて活用させていただきたいのです。「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」のです。
(まなべあきら 2009.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)