聖書の探求(324) サムエル記第二 17章 アヒトフェルの計略、フシャイの反論的提案、アヒトフェルの自殺

ボヘミアのRudolf von Ems(c. 1200 – 1254)による Weltchronik(世界年代記)の挿絵「Ahitofel erhängt sich(アヒトフェルは首を吊る)」(Wikimedia Commonsより)


本章は、アヒトフェルの計略の助言が打ちこわされ、有能な戦略家が自殺するもろさを記しています。いかに才能があり、巧妙な計略を立てることができても、その人自身が主に喜ばれる人でなければ、その策略は主によって打ち壊されてしまいます。すぐれた才能だけでは、人は滅んでしまうのです。この点で、アヒトフェルが主によって油注がれていない、反逆者アブシャロムの側についたことによって、すでに敗北は決まっていたのです。私たちもこの当りの信仰がよく分かって行動したいものです。

17章の分解

1~4節、アヒトフェルの襲撃の提案
5~13節、フシャイの反論的提案
14節、主の干渉の事実
15~22節、フシャイからダビデへの通告
23節、アヒトフェルの自殺
24~26節、ダビデとアブシャロムの戦いの準備
27~29節、マキルとバルジライの来訪

1~4節、アヒトフェルの襲撃の提案

Ⅱサム 17:1 アヒトフェルはさらにアブシャロムに言った。「私に一万二千人を選ばせてください。私は今夜、ダビデのあとを追って出発し、
17:2 彼を襲います。ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。私が、彼を恐れさせれば、彼といっしょにいるすべての民は逃げましょう。私は王だけを打ち殺します。
17:3 私はすべての民をあなたのもとに連れ戻します。すべての者が帰って来るとき、あなたが求めているのはただひとりだけですから、民はみな、穏やかになるでしょう。」

アヒトフェルの提案は、一万二千人の大軍を選んで、今夜すぐにダビデを追撃し、ダビデが疲れて、戦う気力を失っている間に、彼に襲いかかることでした。ダビデが軍を組織して、立て直す時間を与えずに、その前に襲撃して壊滅してしまう策略でした。ダビデ自身を恐れ上がらせれば、彼と一緒にいる民もみな逃げ出してしまい、ダビデだけを打ち殺して、他のすべての民をアブシャロムの所に連れ戻し、エルサレムの都は平穏を取り戻すでしょうと、提案しています。この提案は理にかなっています。この策略が実行されていたら、ダビデは危なかったことでしょう。

3節を改訂訳は、次のように訳しています。

「私はすべての民を、花嫁が夫のところに帰って来るように連れ戻します。あなたの求めているのはただひとりのいのちだけですから、民はみな、平安になるでしょう。」

この改訂訳は、アヒトフェルの提案の仕方が非常に好感を得るような話し方であったことを、雰囲気的によく表現しています。

4節、アヒトフェルの提案の的確性と、好感を持たれる話し方の故に、アブシャロムにも、イスラエルの全長老にも気に入られています。

Ⅱサム 17:4 このことばはアブシャロムとイスラエルの全長老の気に入った。

しかしこの提案には、神が計算に入れられていなかったのです。人間の知恵の最もすぐれた計略も、神が喜ばれないと最も愚かなものになってしまいます。

「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵ある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。」(箴言3:5~7)

「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」(箴言14:12)

5~13節、フシャイの反論的提案

5~6節、この時、アブシャロムはフシャイを思い出しています。

Ⅱサム 17:5 しかしアブシャロムは言った。「アルキ人フシャイを呼び出し、彼の言うことも聞いてみよう。」
17:6 フシャイがアブシャロムのところに来ると、アブシャロムは彼に次のように言った。「アヒトフェルはこのように言ったが、われわれは彼のことばに従ってよいものだろうか。もしいけなければ、あなたの意見を述べてみなさい。」

フシャイもすぐれた戦略家であることを知っていたし、先のフシャイの忠誠を誓った挨拶(16:16~19)も気に入っていたのでしょう。アブシャロムは、フシャイの意見も聞いて、アヒトフェルの提案を確かめたかったのです。

7節、フシャイは結論から話し出しており、主旨をはっきりさせています。これはダビデを救うために重要なことでした。

Ⅱサム 17:7 するとフシャイはアブシャロムに言った。「このたびアヒトフェルの立てたはかりごとは良くありません。」

8節からフシャイはアヒトフェルの提案へ反対の理由と、彼の策略を話しています。

Ⅱサム 17:8 フシャイはさらに言った。「あなたは父上とその部下が戦士であることをご存じです。しかも彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。また、あなたの父上は戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさないでしょう。
17:9 きっと今、ほら穴か、どこか、そんな所に隠れておられましょう。もし、民のある者が最初に倒れたら、それを聞く者は、『アブシャロムに従う民のうちに打たれた者が出た』と言うでしょう。
17:10 そうなると、たとい、獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。全イスラエルは、あなたの父上が勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知っています。

フシャイの提案がアヒトフェルと違っている点は、最初の前提にあります。アヒトフェルは「ダビデは疲れて気力を失っているでしょう。」という前提で、戦略を立てています。しかしフシャイの前提は、ダビデと部下たちが戦士であること、更に「彼らは、野で子を奪われた雌熊のように気が荒くなっています。」と言っています。「気力を失っている」と言ったアヒトフェルとは反対です。更にアヒトフェルはダビデだけを狙って打ち殺すと言いましたが、ダビデは「戦いに慣れた方ですから、民といっしょには夜を過ごさないでしょう。」と、ダビデを見つけることは簡単ではないと言ったのです。ダビデはほら穴か、どこかに隠れているはずです。それだけでなく、隠れていたダビデの家来が、先制の奇襲攻撃を加えて来て、アブシャロムの民のある者が最初に倒れたら、すぐに「アブシャロムに従う民のうちに打たれた者が出た。」と言いふらされるでしょう。そうなると、たといアブシャロムの家来たちが獅子のような心を持つ力ある者でも、気がくじけます。アブシャロムの軍が総くずれになってしまう危険があると説いたのです。イスラエルの民はみんな、ダビデが勇士であり、彼に従う者が力ある者であるのをよく知っているから、このようになる危険は高いと言ったのです。これがアヒトフェルの計略に反対する理由です。これはアブシャロムに起き得る危険についての非常に説得力のある助言でした。

11節では、フシャイは、アヒトフェルの策略よりもよい策略を提案しています。

Ⅱサム 17:11 私のはかりごとはこうです。全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで、海辺の砂のように数多くあなたのところに集めて、あなた自身が戦いに出られることです。

それは「全イスラエルをダンからベエル・シェバに至るまで(イスラエル全土を意味する言い方です。)」海辺の砂のような圧倒的な軍隊を集めて、アブシャロム自身が指揮を取って戦いに出ることを勧めています。

12,13節は、フシャイの提案を実行し、ダビデを捕える時のことを、「露が地面に降りるように」とか、「その町に綱をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。」と絵画的に生き生きとした描写をして、アブシャロムたちの関心を引きつけたのです。

Ⅱサム 17:12 われわれは、彼を見つけしだい、その場で彼を攻め、露が地面に降りるように彼を襲い、彼や、共にいるすべての兵士たちを、ひとりも生かしておかないのです。
17:13 もし彼がさらにどこかの町に入るなら、全イスラエルでその町に綱をかけ、その町を川まで引きずって行って、そこに一つの石ころも残らないようにしましょう。」

14節、主の干渉の事実

14節、アブシャロムと彼の側近たちは、フシャイのはかりごとのほうが、アヒトフェルのはかりごとよりも良いと決定したのです。

Ⅱサム 17:14 アブシャロムとイスラエルの民はみな言った。「アルキ人フシャイのはかりごとは、アヒトフェルのはかりごとよりも良い。」これは【主】がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、【主】がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。

しかし聖書は、この決定の背後にあって、主が働いておられたことを示しています。
「これは主がアブシャロムにわざわいをもたらそうとして、主がアヒトフェルのすぐれたはかりごとを打ちこわそうと決めておられたからであった。」

神がお決めになっておられるご計画を、だれも変えることができません。主はダビデの子孫に救い主をご降誕させられ、その御国を実現されるのです。それをアブシャロムも、アヒトフェルのすぐれた計略も変えることができなかったのです。そればかりでなく、それを敢えて変えようと企む者は、自ら滅びていったのです。人の欲と人の知恵と人の力は神に逆らうのです。

「というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。肉にある者は神を喜ばせることができません。」(ローマ8:7~8)

「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」(へブル11:6)

15~22節、フシャイからダビデへの通告

15~16節、フシャイは時間をおかず、すぐに祭司ツァドクとエブヤタルを通じて、この決定されたことをダビデに伝えるように命じています。

Ⅱサム 17:15 フシャイは祭司ツァドクとエブヤタルに言った。「アヒトフェルは、アブシャロムとイスラエルの長老たちにこれこれの助言をしたが、私は、これこれの助言をした。
17:16 今、急いで人をやり、ダビデに、『今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。ほんとうに、ぜひ、あちらへ渡って行かなければなりません。でないと、王をはじめ、いっしょにいる民全部にわざわいが降りかかるでしょう』と告げなさい。」

アブシャロムが全軍をイスラエル全土から集めるには、なお少しの時間がかかります。その間にダビデの一行はヨルダン川を渡って、より安全な所に逃げるように言ったのです。 「今夜は荒野の草原で夜を過ごしてはいけません。」ユダの荒野にとどまっていれば、一気に呑み込まれてしまうでしょう。

17節、中継ぎの使者に任じられていたヨナタンとアヒマアツはエルサレムの城壁のすぐ外のケデロンの谷の泉の所、エン・ロゲルで待っていました。

Ⅱサム 17:17 ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、ひとりの女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。これは彼らが町に入るのを見られることのないためであった。

祭司ツァドクとエブヤタルは、ひとりの女奴隷を使って、エン・ロゲルで待っていたヨナタンとアヒマアツに事の次第を伝えたのです。ここにダビデと王国を救う重大な役割を担った無名の「ひとりの女奴隷」が用いられています。この人がいなければ、ダビデも王国も滅んでいたのです。ですから、私たちも無名であっても、イエス様の福音を伝えさせていただきたいものです。歴史の中では、いかに多くの無名の主のしもべが福音を伝え、神の御国のために働いて来たことでしょうか。神はこのような人々に大いなる報いを与えてくださいます。

18節、ヨナタンとアヒマアツは人に見つからないようにと気をつけていたのですが、ひとりの若者に見つかってしまい、アブシャロムに報告されています。

Ⅱサム 17:18 ところが、ひとりの若者が彼らを見て、アブシャロムに告げた。そこで彼らふたりは急いで去り、バフリムに住むある人の家に行った。その人の庭に井戸があったので、彼らはその中に降りた。
17:19 その人の妻は、おおいを持って来て、井戸の口の上に広げ、その上に麦をまき散らしたので、だれにも知られなかった。

ヨナタンとアヒマアツは急いで逃げて、バフリムに住む人の家に行き、その人の庭の井戸の中に降りて隠れました。その人の妻は井戸の口の上におおいを広げ、その上に麦をまき散らしたので、追跡して来たアブシャロムのしもべに気づかれることがありませんでした。

20節、アブシャロムの家来はその女の家まで追いかけて来ましたが見つからず、女に尋ねると、女は「あの人たちは、ここを通り過ぎて川のほうへ行きました。」と告げたので捜したのですが、見つからず、追跡者はエルサレムに帰って行きました。

Ⅱサム 17:20 アブシャロムの家来たちが、その女の家に来て言った。「アヒマアツとヨナタンはどこにいるのか。」女は彼らに答えた。「あの人たちは、ここを通り過ぎて川のほうへ行きました。」彼らは、捜したが見つけることができなかったので、エルサレムへ帰った。

こういう時、この女がウソを言ったことは、罪になるか、ならないかと、疑問に思う人もいるでしょうが、そういう人には、神はその人の動機をご覧になられるとだけ言っておけば十分でしょう。

このようにバフリムにダビデの側につく人がいたことは、イスラエルのすべての人がダビデを捨てて、アブシャロムの側についていたのではないことを示しています。目先のアブシャロムの言葉や行ないで惑わされた人だけがダビデを離れて、アブシャロムの側についたのです。ダビデのそれまでの働きや政治を見れば、アブシャロムが反逆していることは人々の目にも明らかだったのです。

フシャイも、なおダビデにつく人々が多くいることを知っていたのです。

アブシャロムはイスラエル全土から徴兵するのに時間がかかっていました。言われていた人数に達せず、大軍を集めるのに時間がかかっている間に、フシャイはダビデに忠実を示していた人々を集めて、連絡網を作っていったのです。

21,22節、二人は井戸から上がって、すぐにダビデに、フシャイのメッセージを伝え、アヒトフェルのはかりごとも知らせています。

Ⅱサム 17:21 彼らが去って後、ふたりは井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに言った。「さあ、急いで川を渡ってください。アヒトフェルがあなたがたに対してこれこれのはかりごとを立てたからです。」
17:22 そこで、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちとは出発して、ヨルダン川を渡った。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者はひとりもいなかった。

それを聞いたダビデと一行は、夜明けまでに全員、ヨルダン川を渡り終えています。こうしてダビデと王国は一番目の危機を脱出できたのです。これはアブシャロムにとっては、敗北が始まったことです。この時点で、アブシャロムが追撃を中止していれば、彼は滅びることを免れたでしょうに。

23節、アヒトフェルの自殺

Ⅱサム 17:23 アヒトフェルは、自分のはかりごとが行われないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた。

アヒトフェルはフシャイの提案を聞いて、自分の敗北を予見したのです。彼は自分のはかりごとが受け入れられず、アブシャロムの軍隊の指揮者になることができなければ、彼はただのダビデ王を裏切った反逆者とみなされ、やがて滅ぼされることを知り、ろばに乗って、自分の町の家に帰り、家を整理して、首をくくって自殺してしまったのです。これは旧約聖書中に記されている二番目の自殺です。最初は主に不従順だったサウル王の自殺です(サムエル記第一 31:4)。アヒトフフェルは自分の主人だったダビデ王を裏切ったために自殺したので、旧約聖書のイスカリオテのユダということができるでしょう。

24~26節、ダビデとアブシャロムの戦いの準備

24節、ダビデは、すでにヨルダン川を渡り、ヨルダン川の東の町、サウルの子イシュ・ボシェテの都があった( 2:8,12)マハナイムに到着していました。しかしアブシャロムの追跡もずい分早かったのです。彼は大軍を集めると、すぐにダビデの後を追い、ヨルダン川を渡った所まで来ていたのです。

Ⅱサム 17:24 ダビデがマハナイムに着いたとき、アブシャロムは、彼とともにいるイスラエルのすべての人々とヨルダン川を渡った。

25節、アブシャロムはヨアブの遠い親戚に当たるアマサをヨアブの代わりに軍の司令官に任命していました。

Ⅱサム 17:25 アブシャロムはアマサをヨアブの代わりに軍団長に任命していた。アマサは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚したイシュマエル人イテラという人の息子であった。

アマサの血統のことも記されています。アマサは、ヨアブの母ツェルヤの妹ナハシュの娘アビガルと結婚したイシュマエル人エテルの息子でした(歴代誌第一 2:17)。これを見ると、アブシャロムは、とりあえずヨアブに見合うような司令官を立てたことが分かります。アブシャロムの軍隊は人数が多くても、にわかづくりの、寄せ集めの軍隊であることが分かります。

Ⅱサム 17:26 こうして、イスラエルとアブシャロムはギルアデの地に陣を敷いた。

26節、アブシャロムの軍隊はギルアデの地に陣を敷いたとありますが、ギルアデ地方は、ヨルダン川の東の広い地方を指していますので、陣を敷いた正確な地は分かりませんが、記者はアブシャロムの軍とダビデの部下との争いがヨルダン川の東の地で行なわれたことを、大まかに記しているようです。

27~29節、マキルとバルジライの来訪

Ⅱサム 17:27 ダビデがマハナイムに来たとき、アモン人でラバの出のナハシュの子ショビと、ロ・デバルの出のアミエルの子マキルと、ログリムの出のギルアデ人バルジライとは、
17:28 寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、
17:29 蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た。彼らは民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。

ダビデはマハナイムで、心温まる三人の人の来訪を受けました。アモン人でラバの出のナハシュの子ショビ、ショビの名前は聖書中他の箇所には記されていませんが、10章2節のアモン人の王ナハシュの子で、ハヌンの兄弟であったと思われます。ハヌンはダビデを攻撃しましたが、ショビはダビデに好意を示しています。ロ・デバルの出のアミエルの子マキルは、サウル王の死後、メフィボシェテを自分の家に引き取って育てていた人物で(9:4,5)、後にダビデに仕えるようになっていたのです。彼も神を知る人で、アブシャロムの側につかず、ダビデについていたのです。ログリムの出のギルアデ人バルジライは、八十歳になる老人(19:32)でしたが、後にダビデとともにエルサレムに上って行って、ダビデの養いを受けるように招かれています。バルジライはダビデが最も信頼した人の一人です。

彼らはダビデが野営で寝るための寝台や、生活に必要な鉢や土器、それにダビデとその一行のための食料を持って来ました。ダビデたちは急のエルサレム脱出の逃亡だったので、ほとんど何も持たずに荒野を逃げていたので、彼らが携えて来た物資は、とても喜ばれたのです。

「主に信頼して善を行なえ。地に住み、誠実を養え。」(詩篇37:3)

「ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行ないましょう。」(ガラテヤ6:10)

あとがき

最近、聖書の探求を百号までお持ちの方から、「今、百号を読んでいるのですが、何号まで出ているのですか。」という、お電話をいただきました。その後の号も、お読みになりたいということでしたが、聖書の探求を途中で断念されておられる方も、お読み下さっていて、思いのほか、多くの方々の心に主が用いて下さっていることが分かりました。
クリスチャンにとって、聖書は唯一の信仰の客観的な具体的な根拠なのですが、「聖書を読んでもわからない。」「おもしろくない。眠くなる。」と言われる方もおられて、クリスチャンにとって聖書が遠い存在になっています。また人の知恵で勝手な解釈をつけて語られていることも少なくありません。聖書の探求が少しでもお役に立てれば幸いです。

(まなべあきら 2011.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


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