週報No.2117 涙の預言エレミヤ書(28)「契約のことば」エレミヤ書11:1~5

2018年2月25日 (日) 午前10時半

礼拝メッセージ  眞部 明 牧師

涙の預言エレミヤ書(28)「契約のことば」エレミヤ書11:1~5

エレミヤ書11章1~5節
11:1 【主】からエレミヤにあったみことばは、こうである。
11:2 「この契約のことばを聞け。これをユダの人とエルサレムの住民に語って、
11:3 彼らに言え。イスラエルの神、【主】は、こう仰せられる。この契約のことばを聞かない者は、のろわれよ。
11:4 これは、わたしがあなたがたの先祖をエジプトの国、鉄の炉から連れ出した日に、『わたしの声に聞き従い、すべてわたしがあなたがたに命ずるように、それを行え。そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる』と言って、彼らに命じたものだ。
11:5 それは、わたしがあなたがたの先祖に対して、乳と蜜の流れる地を彼らに与えると誓った誓いを、今日あるとおり成就するためであった。」そこで、私は答えて言った。「【主】よ。アーメン。」
【新改訳改訂第3版】

<礼拝メッセージの要点>
  
 主はエレミヤに、契約を強調することを命じられました。エレミヤはこのご命令にも、「主よ。アーメン」「アーメン、ヤーウェよ。」とだけ、答えています。

 ここまで彼は、民の不信仰、背教、偶像礼拝に耐えて来られ、悔い改めの招きをせられ、警告されて来たにも関わらず、拒み続けたユダの民に、破滅と捕囚のさばきは避けられないことを告げたのです。

 主は民が、継続的に神に信頼して従う根拠と動機として、先祖たちのエジプト脱出の出来事を取り上げたのでした。それが、エレミヤの奉仕によっても実現しなかったことは残念でしたが、エレミヤは捕囚からの回復と帰還の約束を、主から引き出すまで、諦めていません。

 イスラエルの歴史は、良いものも悪いものも、共に今日の教会にとって、信仰の教訓に満ちています。神は旧約でも新約でも、永遠の霊的原則によって、信仰者を導かれるのです。

 シナイでの契約は、服従に基づくものでした。即ち「わたしの声に聞き従え」でした。神のみことばは、神のみこころを表わし、神と人とがいのちのつながりを持つ、根源です。

 「そうすれば、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」 
 シナイにおけるイスラエルと神との契約は、イエス・キリストにおける義認と新生の神経験と同じ基準を表わしています。どちらも、神から与えられる新しい関係、新しい立場、新しい約束を示しています。

 こうして、神の契約に対するエレミヤの個人的服従は、彼の心に神の火、リバイバルの火をつけたのです。

 その信仰の告白は、11章5節の「主よ。アーメン。」にあります。目の前の問題が何であれ、どのようになろうとも、「主よ。アーメン。」見ずに信じる者は幸いです。神は全てを知っておられ、主のみこころは最善だからです。主は最善のことしかなさらないからです。

 エレミヤのこの「主よ。アーメン。」は、神と人の間に立って執り成す人のたましいに、深い経験をもたらすものです。

 また、この世にあって、苦難にあって、訓練をうけている全ての人にとって、重要な意味を持っています。

 エレミヤは、神の鋭い、強い力が、自分のたましいを貫くのを経験したのです。十二年の長血の女の人が経験したように。

 11章1節では「主からエレミヤに」みことばが臨んでいます。

 「主から」というのは、エレミヤが用いた三つの表現です。ある時は、「エレミヤに主のことばがあった。」また、ある時は、「主はこう仰せられる。」また、「主からエレミヤにあったみことば」と言われています。

 彼の神との接触は、いつも、神のみことば体験です。彼は、みことばが自分の骨の中に閉じ込められていて、忍ぶことのできない燃える火のごとく感じていたのです(20:9)。

 彼は、神のみことばを語らざるを得なくなっていたのです。これは明らかに、みことばの聖霊経験です。

 エレミヤの説教は、神のみことばを語るたびに、「主よ。アーメン。」と付け加えていたのです。

<今週の活用聖句>

マタイの福音書11章29節
「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」

<集会案内>

◇2月28日(水)聖別会 午前10時半
必要な諸区別(17)
「新生と聖化(4)罪の行為と罪の性質」

地の塩港南キリスト教会
横浜市港南区上永谷5-22-2 TEL/FAX 045(844)8421