書籍紹介 「ジーンとくる生き方」

まなべあきら著 B6 115頁

けっこう楽しい生活をしている。しかし、心のどこかにむなしさを感じています。もっと心にしみわたるようなジーンとくる生き方がしたい。そんな生き方を求めている人のために、書かれた本です。

 

 

目次

1章 生きがいとは
1、むねにジーンとくる生き方
2、生きがいとは何か?

2章 人は何のために生きるのか?
1、人生の真の目的は何か?
2、人間は二度生まれる
3、自己の性格の形成
4、いったいこの自分は何者なのだ?
5、自己確立のための父との距離、母との距離

3章 生きがいの喪失
1、情熱を注いでいるか?
2、無気力としらけ

4章 未来に生きる
1、心理学的未来
2、生活設計はどのようにしてできるのか?
3、現実の生活設計は、どうなっているのか?
4、信頼と希望

5章 生きがいと人間関係
1、あたたかい心の交流
2、友だちの関係
3、孤独と交わり

以下、抜粋


はじめに

 現代人は、豊かな物に囲まれて生きています。戦後の平和と自由と経済的繁栄との中で、もはや、ひと頃のように生きることに必死になる必要はなくなりました。何の努力をしなくても気楽に生きることができます。その意味では、結構しあわせです。
 しかし、私たち現代人が本当に心の底から満たされた生活をしているか、と言えば、そうはいいがたいでしょう。表面的にはしあわせでありながら 心の中は、真の充実感や希望を得ているとはいえません。生きること、働くことに本当の生きがいを得ることができず、確かな手ごたえを得ていないのが実情です。
私たちは、与えられた平和、自由、繁栄を十分に生かすことができずに、かえって、毎日、不安や失望や生きがいを持てなくて悩んでおり、青少年たちも登校拒否、落ちこばれ、校内暴力、家庭内暴力、暴走族、非行など、様々な問題をひき起こしているのです。
 これらの原因の一面は、社会構造上の矛盾や欠陥が大きく広がりすきて、人間の機械化を招き、人間としての存在意味を無視したことにあり、種々の人間疎外が進行したためです。そして更には、価値感の基準が不明瞭になり、多様化し、混乱してしまって、生きる指針を発見することができにくくなってしまったからです。しかしこれらの原因には、真に根本的な問題が残っていますそれは、人間が精神的なものよりも物質を、神よりも自分の欲望を満たすことを優先させたことにあるのです。聖書はこれを罪と呼んでいるのです。
 こういう状況の中で、私たちは、自分自身の拠所をはっきりと見つけ出していかなければなりません。その意味での苦悩や煩悶なら決して無駄ではなく、マイナスになる面ばかりではありませんが、この拠所を正しく見い出さなければ、人生を大きく誤ってしまう危険をはらんでいるのです。
 こういう意味から人生の生きがいを探求する人々に多少の助けともなればと願って、この小著を書いた次第です。読者の皆様が生きがいに満ちた人生を歩まれるように、心よりお祈りします。

一九八二年 九月 六日
著者   まなべ あきら

第一章 生きがいとは

1 むねにジーンとくる生き方

 私が聞いた、ある電車の中での若いサラリーマンの会話。
「おまえは、なんで、こう毎日会社に行ってんの?」
「そんなのわかってるじゃないか。給料もらって、帰りに一杯やるためじゃないか。帰りの楽しみがなければ、アホらしくて毎日会社なんかに行ってられるか。」
と、まあ、こんな具合でした。
 これでは、砂をかむような生活になってしまうのは当然です。しかし、これに似た生活をしている人が、少なくないのではありませんか。現代人は遊ぶために働いている、といわれています。土日の休み、夏休み、ゴールデンウィークの休みに思い切り遊ぶために働いている人が大勢います。海外の観光旅行に行くのは日本人が一番多いとも言われています。
 私たちは遊ぶことに生きがいを見い出しているのでしょうか。あるお年寄は、「テレビがなければ生きていても仕方がない。」と言っています。
 はたして人生をこのように生きていて、いいものでしょうか? 人生はどのように生きるべきなのでしょうか? これは人間にとって最も重大な問題です。しかもこの問いは、ずっと先になって答えを出せばいいというものではなく、毎日毎日答えが求められている問題なのです。私たちの毎日の生活がその答えとなっていなければならないのです。私たちは、たえず自分の生活の行動を、自分の判断で選んで営んでいますですから、常に、自分の生活の行動には自分で責任を負わなければならないのです。この故に、自分で満足のいかない一日を送ると、失望感や絶望感や空しさが襲ってくるのです。一日をいかに生きるか、ということは切実な問題になってくるのです
 だれでも
 むねにジーンとくるような生き方がしたい。
 真実な生き方がしたい。
 自然に感激の涙がこみあげてくるような生き方をしたい。
と思っているのではないでしょうか。感動的な生き方をしたいと思っていることでしょう。わかりやすく言えば、このような生き方から生まれてくるものが、生きがい感であろうと思います。
 真実なものとはいったい何か?
 人生とは何か?
 人生をいかに生きるべきか?
 こういうことを深く考えようとするところから生きがいの探求が始まるのです。
 それでは、現代人はどういうことに生きがいを感じているのでしょうか。
 ある高校の調査によりますと、生きがいの対象は、男女交際、趣味、友人、遊び、クラブ、たばこ、勉強、食べること、寝ることなどです。
 大学生の調査でも、これに似たものが出ています。自分の好きなことをすること、好きな人と一緒に暮らすこと、自分を向上させるために勉強すること、結婚すること、知らない人と出会うこと、音楽を聴くこと、共鳴する本を読むこと、他人にほめられること、知らない所に旅行すること、障害を苦しみながら乗り越えていくこと、などです
 これらがすべて「生きがい」と呼ぺるものかどうかは、これからご一緒に考えるとしても、現代人の生きがいが明確な対象に向けられていないことは確かです。ただ漠然と自分の可能性を生きがいと感じているだけであったり、結構気持ちが良い、ぬるま湯につかっているだけであったりするのです。そのぬるま湯から出て、自分にとって胸にジーンとくる一番鋭い喜びを見つけ、それを追求しようとすると、他の多くの我儘な自己を捨てなければならなくなり、苦痛や葛藤が伴うのです。そこで、ただなんとなく、ぬるま湯につかっているということになってしまうのです。ぬるま湯から出ると、寒くなるように、我儘な自己を飛び出して、真の生きがいを見つけ出そうとすると、苦痛が伴うのです。しかし、その反面、なんとなしの人生を送ってしまいたくはないのです。毎日、生きがいに満ち、確かな実感が感じられる生活がしたいと思っている現代人も少なくありません。ぬるま湯と生きがいを求める生活と、両方に片足ずつつっこんだ生活をしているのではないでしょうか。
 戦後間もない頃は、生きることで精一杯で「生きがい」について論じられることはほとんどなかったようですが、今日は、生きがいのブームと思われるほど生きがい論がさかんです。これは、今の私たちが十分に生きがいのある生活を見い出し、それを十分に味わっているからではなく、むしろ、ますます生きがいに飢え渇き、生きがいを求めて尋ね歩き、もがいているからではないでしょうか。
 旧約聖書詩篇九〇篇の中に、
「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかもその誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです」 (一〇節)
「それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」 (一二節)
「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」 (一四節)
「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにしてください。」 (一七節)
と、生きがいを求める切実な祈りが記されています。
 世界一の知恵ある者ソロモンは、旧約聖書、伝道者の書の二章の中で、
「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか。笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう」(一、二節)
「私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(一〇、一一節)
「実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神のみ手によることがわかった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。」 (二二~二五節)
 ソロモンは、どんなにぜいたくに暮らしていても生きがいのない生活がいかにむなしいかを吐き出すように語っています。また、人は神を離れては、真の生きがいを持てないことを教えているのです。職場を変えても、住居を変えても、生きがいは得られないのです。私たちの神に対する心の態度が変わらなければならないのです。
 救い主イエス・キリストは、生きがいを得られずにいる人々を見て、新約聖書マタイの福音書九章三六節で、
「羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている」
と、言われました。
 これらの言葉から、生きがいのない生活が、どんなに力なく、むなしい、無意味なものであるかが、わかります。
 科学の進歩によって産業革命がはじまって以来、人間は大自然を思うままに支配し、豊かな物質的富を作り出してきました。そして私たちはその物質的富によって、生活が便利になり、豊かになり、幸福になり、個人の自由が保障される社会が実現すると信じ切ってきました。経済が高度成長し、生産高が無限に増大し、多くの給料を手に入れさえすれば、だれもが幸福になれると信じ込んできたのです。しかし、私たちの希望をかき立て、支えていたこの約束は、幻想に終わってしまったのです。このまやかしの夢に裏切られた今、私たちは、人間として生きる新しい決断をせまられているのです。
 戦後の、自由と解放と経済的繁栄による物質的豊かさは手に入れました。そして確かに表面的にはみんなしあわせです。しかし、どこか、なにか、満たされないものがあるのではないでしょうか。どうも人間として本物の生き方をしていない。手ごたえのある生き方をしていないのではないでしょうか。人間らしい、しっくりした生き方をしていないのではないでしょうか。このことは、人間の本能が感じるのです
 今日の社会では、真に人間らしく生きることがむずかしくなってきています。しかし、そうであればこそ、人間らしい、生きがいのある生活を見い出さなければならないのです。胸にジーンとくる生き方を、発見しなければなりません。

以上、一部抜粋