音声と文書:ヨハネの黙示録(18) 解かれる封印(1) 6:1~6 第一、第二、第三の封印

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PDF文書:ヨハネの黙示録(18)

ヨハネの黙示録 6:1~6
6:1 また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを私は聞いた。
6:2 私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
6:3 小羊が第二の封印を解いたとき、私は、第二の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。
6:4 すると、別の、火のように赤い馬が出て来た。これに乗っている者は、地上から平和を奪い取ることが許された。人々が、互いに殺し合うようになるためであった。また、彼に大きな剣が与えられた。
6:5 小羊が第三の封印を解いたとき、私は、第三の生き物が、「来なさい」と言うのを聞いた。私は見た。見よ。黒い馬であった。これに乗っている者は量りを手に持っていた。
6:6 すると私は、一つの声のようなものが、四つの生き物の間で、こう言うのを聞いた。「小麦一枡は一デナリ。大麦三枡も一デナリ。オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」【新改訳改訂第3版】

上の絵画は、ロシアの画家 Viktor Mikhailovich Vasnetsov (1848–1926) により1887年に描かれた「Four Horsemen of the Apocalypse(黙示録の4人の騎手)」(ロシア、モスクワの国立中央音楽文化博物館蔵、Wikimedia Commonsより)
右から左へ、勝利、戦争、飢饉、死、の馬。上方に子羊が見える。

はじめに

七つの封印が解かれていくわけですが、今日は三つまで。
5章では、私達は、御座についておられる方と、その周囲の生き物、四つの生き物とか、二十四人の長老たちの礼拝、御使いたちの礼拝、こういうものを見てきたわけです。
そして、小羊の手に巻物が渡された。

Ⅰ.いよいよ6章からは、恐るべき神の審判の幻が書かれている巻物の封印が、解かれていくわけです。

A.ヨハネは何度も、「見た」「見た」と書いていますね。

この、「見た」、というのは目を見張るようなものであった。
映画監督であると、一生のうち一つは聖書の映画を作りたいと思うんだそうです。日本の映画監督は、そんなことは思わないかもしれないけれども、ヨハネの黙示録の映画だけは見た事がないんですね。是非どなたかがお作りになったら見たいと思うんですが、とても作りにくいと思います。

ここを見ますと、もう一つ注目したいのは、これらの御業の中心に、必ず小羊がおられるんですね。1節でも、この小羊が封印を解いておられますね。3節にも小羊が、5節にも小羊が、7節を見ましても小羊が、9節を見ましても小羊が、とね。
私達はしばしば封印が解かれると、何が起きたか、ということに気を取られやすくて、誰がこの封印を解いているかということを、忘れてしまいやすいんです。
聖書全体はキリストが中心でありますが、特にヨハネの黙示録では、小羊というのはイエス様のことなんですがね、神の小羊となって十字架にお架かりくださったキリストのことを言っているわけですね。この小羊が中心におられるから、審判の巻物もイエス様が解いておられるわけで、贖(あがな)われた者、キリストによって救いだされた者は、その審判の時も守られるわけです。
この裁きの封印が、サタンが解いたら大変なことになってしまう。たまりませんね。
罪人が救われてキリストの側についている者は、みなここで滅びるということになってしまいます。ですから、小羊が解かれているということは、非常に大事なことなんですね。

今日においても、私達の上に降りかかってくるいろいろな苦しみとか、苦難があるわけですけれども、誰の許しのもとに、こういうものが自分の上に降りかかってくるかを、私達が理解するならば、守られる、という確信に立てるわけですね。誰がそれを許しておられるか、ということを悟る必要があると思いますね。

封印はまず、六つが次々と開かれるんです。七つ目は、今日は読みませんが、7章をとびましてね、8章の1節で、「小羊が第七の封印を解いて」と書いてありますので、六番目の封印から七番目の封印までの間に、しばらく中断されている部分がある、ということがお分かりいただけますね。七つ目の封印は8章までとんでいるわけです。ですから六つ目から七つ目に行く時に、何かが起きている、ということがわかりますね。

しかも一つの封印が解かれるたびに、懲罰といいますかね、罰するところの力が、裁きの波紋を引き起こして、それがだんだんと絶頂に達しているということです。だんだんその裁きが厳しくなっている。
この七つの連続の裁きというのは、封印の後にラッパが出てきます。その次に鉢が出てくる。これは特徴として、終わりに向かって行くほどだんだんと裁きが悪くなっている。
これは、後程見ていくとわかると思いますが、さらにこれらの裁きが一致している点は何かというと、これがみんな地上に住んでいるすべてのものに下る事を意味しているわけです。
正しい者であっても苦しい目にあう。神の被造物は、やがて恐るべき時代にその苦しみを味わわなければならない、ということですね。

ですから、ちょうど預言者のエリヤがですね、雨が降るようにお祈りをした時に、自分の所にだけ降って来たんじゃなくて、自分もまたケリテ川に行って、川の細々と流れる水を飲んで、それも涸れてしまう。今度は、ツァレファテのやもめさんのところに行くというようなことを経験したわけで、クリスチャンもそういう苦しい出来事がやがて起きてくる。
今の人々は安閑としていますけれども、必ず神の裁きを受けなければならないんだということを、私達は決して忘れないようにしたいんです。私達には神の裁きが来ますよ。しかも逃れることができない。

けれどもイエス様に命を戴いている人は、最終的には勝利者になれる。キリストのゆえに救いに預かっているからです。
ヨハネの福音書を読んでみましょうかね。ヨハネの福音書16章33節。

ヨハ16:33 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

実はイエス様は、いろんなことを含めて、このことを仰っておられると思うんですね。
私達がこの幻にある裁きの日に至る時には、このヨハネの福音書16章33節が本当に悟れると思います。本当の患難というものがどういうものであるか、分かってきますね。
本当に苦しいことってなんなのか。あるいは「勇敢でありなさい」と書いてありますが、本当に勇敢であるとは、どういうことなのか。あるいは「世に勝つ」とはどういうことか。これが悟れるようになる。
それまで、私達が今この地上で経験している、患難とか勇気とか勝利とかはみな部分的な
ものなんですね。

ヨハネの黙示録の方に返りますけれども、ここに書いてある裁きの幻というのは、詳しくは書いていないのですが、実はこれは簡潔に書いてあるだけであって、ただこれだけのことではない、ということですね。

七つの封印を見ますと、大きく二つに分けることができるんです。
最初の四つは、地上における人間の歴史のなかで行われることなんですね。この地上の出来事として、あり得る、と。
第五、第六、第七は、天上で起こることが記されている。もちろん天上で起きることは、地上に下ってくるわけですが、天界でおこることが記されている。
これらの事をあらかじめ心に留めていただきたい。

B.さて、そこで、小羊が第一の封印を解くと、四つの生き物のうちの一つが、「来なさい」とこう言っているんですね。

「来なさい」と言ったのは、これから次々と現れてくる、馬に乗った人がいるわけですよ。この人を呼んでいる。
これは、幻を見ているヨハネに「ついて来なさい」といったわけではないんですよ。
馬に乗っている人、これを呼んでいるわけです。ですから、この「来なさい」ということは、これから、予定されていることを実行するように、という命令なんですね。雷のような声で聞いていますね。

Ⅱ.そこで第2節を見ますと、「来なさい」と言って現れたのが、白馬の騎士ですね。

1、白馬の騎士というのは、魅力的な姿ですね。今風に言えば、かっこいい。
魅力的な姿がありますから、大勢の人達が、聖徒のために戦いに出てくるところのキリストである、と考えてきたわけなんです。

2、もう一つ、黙示録の中で、白馬の騎士が出てくるんですね。ちょっと見てみましょうかね。黙示録の19章11節~16節を見ますとね、白い馬に乗った人が出てきます。

黙19:11 また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。
19:13 その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。
19:14 天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。
19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。
19:16 その着物にも、ももにも、「王の王、主の主」という名が書かれていた。

こちらのほうは、明らかにイエス様であるということが分かるわけです。そしてここには多くの天の軍勢が、真っ白い着物を着て、白い馬にのった軍勢がつき従っている。こちらの騎士は、その名とか、その様相からみて、キリストであるということがはっきりわかります。
しかし、6章の方の白馬の騎士は、同じ白い馬に乗っていますけれども、同一のキリストであるかどうかは決め難いわけですね。なぜならば、最初の白馬のほうは、後で赤い馬とか黒い馬とかが出てくるんですが、七人の騎士の内の一人として出てきているんです。
それに対して、19章の方は、明らかに白馬の騎士は一人だけですね。
6章の方の白馬の騎士には、はっきりと、イエス様である名前ですとかが、ないんです。その証拠になるものがどこにも記されていないんです。だからこちらのほうは、キリストであるというのはちょっと難しいわけですね。
19章の方を見ますと、明らかに、主の主、王の王、神のことばと書いてあり、明らかにイエス様だと分かりますから、誰が見ても分かるわけですね。

ですから、最初の白馬の騎士をキリストだと断定することは出来ない。
けれども、この6章の白馬の騎士も、一人の人なのか、あるいは、ある勢力を表しているのか、それはわからないわけですが、学者はいろんなことを言っているんですね。
ですから問題があるわけですけれども、一つ言えることは何かというと、これは小羊なるキリストの権威のもとにあるということだけは事実です。それが、彼が最後の戦いに出てきたところの器である、一人の個人であるのか、勢力なのかというのはわかりませんけれども。
そしてこれが白い馬、白というのは勝利を表している言葉なんです。それから、彼には弓が与えられて、冠をかぶってと、書いてあります。冠というのは、勝利が約束されていることですね。だから戦う前にこの人は、勝つ、ということを約束されている人物である、ということが分かります。
弓のことは、またあとでお話しますが、ま、戦いの武器であると思いますがね。

しかも2節の終わりには、「勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」と書いてありますね。このあたり文語の聖書を読みますと、すごく語呂がいいようにね、「勝ちてまた勝たんとて、出でゆけり」と書いてあるわけですね。なかなか勇ましい。
「勝利の上にさらに勝利を得ようとする」。これはね、旧約聖書に「万軍の主」というのがあります。「万軍」というのは常に勝つ、ということです。つまりこの白馬の騎士がイエス様ではないとしたら、どういうものなのか、って考える。
それは「万軍である」、あらゆるところで、終末の裁きにおいてあらゆるところで起きる戦いに全部勝つ、あるいは、勝利そのものをさしているんじゃないか、勝利そのものを言っているんじゃないか、と言っている人もありますし、あるいは、これはキリストの福音そのものを言っているんだ、最終的に勝利を得るキリストを言っているんだと、考える方もいるんですが、どちらも正しいということができると思いますね。
少なくともこれは、キリストにしっかり繋がって、イエス様の権威にあって戦う者の、連続的勝利、無敗、黒星なし。お相撲でも黒は負け、白は勝ちのほうですけれども、これは関係ないと思いますけれども、白は勝利を表している。私達もこれは、キリストに深く、堅く信頼しているならば、常勝、常に勝つ生活ができるわけです。
ですからこれは、私達にとっても意味があると思いますね。現在の戦いの中にあって、キリストの現実の力を用いれば、白い馬の騎士になることができる。勝つことができる。この第一番目の白馬の騎士、これに私達もならせていただくことができるということができますね。

Ⅲ.それから第3節を見ますと、これは小羊が第二番目の封印を解いているわけで、ここにもまた、「来なさい」という言葉がありますね。

同じようなスタイルで行われているわけですが、ここで現れているのは火のように赤い馬である。ここはみんな馬の色が特徴ですね。馬の色が、あることを表しているようです。
燃える火のような馬であった。そんな馬なんかいないわけですから、やはり象徴的なことだということがお分かりいただけると思います。
彼はなんのために来たのかというと、地上から平和を奪い取ることが許されている。人々が互いに殺し合うというためだというのだから、恐ろしい騎士ですね。ですからこれはほとんど、第一の白馬の騎士と同じ働きをするわけですね。滅ぼす。
これは、終末における悲惨な戦いとか争いとかが、繰り返されるということが強調されているわけでね。続けて第一の馬、第二の馬が出てくる、悲惨な出来事。

この世の中は決してだんだん良くはならないと、いうことですね。残念なことですけれども、イエス様もこのことを預言しているわけですね。マタイ24章6節、7節をご一緒に読んでみましょう。

マタ 24:6 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

こういうふうに言われていますね。

最近ゴルバチョフさんとか、ペロストロイカとか、東西の雪解けムードだとかという話が出てきていますけれども、聖書は、平和はこの世には来ないと、世の終わりはますます悲惨な争いになっていくんだと、示しているわけですね。
だから私達は安心してはいられない。東西の関係は緩和されているように見えますけれども、世界の南北問題は、ますます深刻化していますね。それから、イスラエルを取り巻く諸国の問題もご存じの通りです。もつれにもつれているわけですね。
こういうのを見ますと、決して聖書の預言というのが、外れてはいないということですね。聖書の預言が確実だということが、示していると思うんです。そしてキリストの再臨のときまで、この平和の問題は解決しないんだ、ということが分かるんですね。

この二番目の騎士が、「火のように赤い馬」に乗っている、この「赤」は、血を表すのか。戦争の悲惨さをあらわしているといわれていますね。
南方の方の花にブーゲンビリヤという花がありますね。この花は赤いんです。人の話によると、ブーゲンビリヤはなぜ赤いか。戦争で血を吸ったから赤いんだ、と言われているというんですが、ブーゲンビリヤが赤いのはそうじゃないと思いますけれどもね。

ここで注目していただきたいことは、第一の騎士の与えられた武器は弓であったのに対し、第二の騎士に与えられたのは、「大きな剣」となっていますね。これは、少し違いがあるということをお気づき頂けたでしょう。
この「大きな剣」が何を意味するのか。ミサイルを意味するのか、何を意味するのか分かりません。少なくともこれは、一度に大量殺人を行うことができる武器であることを意味していますね。しかもここをみますと、互いに殺し合うと、書いてあります。本当に恐ろしいですね。
しかし、もっと重要なことはなんであるかというと、これらの戦いとか争いが、国家間の政治や経済の争いではなくて、キリストとこの世の戦いであるということを忘れてはならないのです。
サタンの目的というのは、一つです。これはキリストとキリストの民を倒すことなんです。最初は、サタンは政治とか経済を用いて人間を混乱させるんです。最後の土壇場になるとサタンは、直接キリストとキリストの民に向けてくるんです。
ローマのネロ皇帝の迫害の時もそうでしたね。最初ネロは、クリスチャンのことなど眼中になかったわけです。しかし、大騒ぎをさせて自分の罪をクリスチャンになすり付けたわけですね。そして、ローマの大火をクリスチャンがやったんだということで、片づけようとしたわけですね。
こういうふうに、だんだんなっていってしまう。サタンが働いているわけですね。けれども、悪魔と悪魔が率いる勢力は決して絶つことができない。イエス様がマタイの24章10、11節でね、

マタ 24:10 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。
24:11 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。

と言っていますね。恐ろしいことが起きてくるんです。12節では

マタ24:12 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。

現代、本当にそうなりつつありますね。で、

マタ 24:13 最後まで耐え忍ぶ者は救われます。

と、言っています。

本当にこれから、忍耐が必要になってくる時代になってくるわけです。ますます世の終わりに向かって、人々の心は愛を失うし、自分中心になるし、憎しみは増してくるし、平和がなくなる。
クリスチャンは、忍耐が試される時代がこれからやってきますよ、っていうことをイエス様は警告しておられるんですね。私達は今、恐ろしい時代に住んでいるなあと、感じさせられるんです。

Ⅳ.さて、 第三番目の封印に移っていきたいと思います。

5節~6節、特に5節ですね。
封印が解かれるわけですが、そこに現れた馬は「黒い馬」ですね。「黒馬の騎士」。

A.この人の手に持っていた物は「量り」ですね。

この「量り」というのは穀物を量る意味なんですね。
第一と第二の結果ですね。第一の封印と第二の封印で戦争が起きているわけですが、その戦争の結果として、飢饉がやってくるんですね。そして食料が不足する。イエス様もマタイの福音書の24章7節で、世の終わりに飢饉がくる、と言っています。

マタ 24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。

今や世界の三分の二の人は、食料不足で苦しんでいるんですね。
報道によると、これは、干ばつや洪水によるものだと、言われていますけれども、ほとんどは戦争と、ソ連なんかみますと武器の生産のため、もう一つは、一部の人達の贅沢な生活のためなんですね。

この第三の幻、食料の飢饉というのは、世界を襲いつつあります。
豊かな国に住んでいる私達は、このことに気づかないんです。でも、気づかないといけないと思いますね。

石油は無限にあると信じているんです。みんな遊びのために車を走らせている。この年末年始のニュースを聞くとね、あっちで70キロ、こっちで何十キロ渋滞している。これで事故が起こらないはずがないなあ、と思うんですね。
こうしてね、莫大な消費を続けているわけです。
いつかのニュースを聞きましたらね、日本人の持っている車を全部つなぎ合わせると、日本の道路の長さよりも長くなるという話なんですね。これは恐ろしいことですよ。道路の長さよりも、車の長さの方が長いっていうのは、どういうことでしょうかね。
凧あげをするときに、しっぽの方が長いのと同じようなものです。まさに馬鹿げた話だと思うんです。

食べ物だって、無限にあるわけではないんです。しかし贅沢を尽くしていますね。
地上の物質には限りがあるということを、私達は考えておかなくちゃならないと思うんです。そうしないとやがて、アフリカで起きている、あるいは地球の南部を襲っている食料不足というのが、やがて私達の家庭にも襲ってくることは、間違いがないんですね。
限りがあれば、必ず襲ってくるんです。そしてその食料の奪い合いのために、激しい戦争が必ず起きてくると思います。

私はこういうのを考えていますとね、ヨセフの時代に起きた、エジプトの豊作と大飢饉の事を十分に学ぶべきだと思うんです。豊作の後には大飢饉が来るということですね。贅沢の後には必ず大飢饉がやってくる。悲惨な状態がやって来る。
しかも、いつも、さきの豊作を呑み込んでしまって、跡形もなくしてしまうんです。
お金をパッパ、パッパと使う人がいるでしょう。羽振りをきかしていい生活をしている人がいるでしょう。どうか私達は安易にですね、富んだ生活に押し流されてはならないと思うんですよ。
自分の食卓がいつまでも潤っている。金があるからってね。そうはいかない。戦後の乏しい時期っていうのは、お金を持っていたからって、どうにもならないわけですよ。山羊じゃあるまいしね、紙切れは食べられない。

贅沢をせず、遊び暮らさず、穀物を蔵に納めて、飢饉に備えるようにと彼は教えていますよ。だから今の時代、お互いにですね、富んでいるんだとか、なんだかんだと言っていますがね、もう一度点検をするべきではないでしょか。
豊かだからといって安易に生活をしている人、必ずその大きな代償を払わされて、飢饉を招くということですね。このあたり、みんな田畑をゴルフ場に変えてしまっているところが、たくさんあると思うんですね。いったい何を考えているのかなと、思わされてしまう。

この「量り」というのは不足したところの穀物を量るため、ということですね。

B.さて、6節を見ますと、穀物の値段が書いてあるんですが、非常に高いです。

1.小麦一枡は一デナリ。
一枡というのは、ギリシャ語でCHOINIX(コイニックス)、約一リットルです。一リットルというのはそんなに多くはないでしょう。
「一デナリ」は一人の労働者の一日の給料です。一日働いて、やっと小麦が一リットル買える、ということなんですね。これは大変ですね。いかに小麦が高いか。小麦ってパンを作るものですね。
2.大麦の方は、三枡買えます。
これは何を意味しているかというと、一人の人の働きでは家族を養えない状況になっているということですね。

皆さん本当に、私達が住んでいる世界では、簡単に食べ物が手に入り、簡単にお金が手に入るようですが、中国に行くと、そう簡単じゃないわけですね。もっと南の方へいって、インドネシアとか、フィリピンに行きますと、もうどんなに働いたって、家族を養うほどの収入を得ることができない国はたくさんあるわけです。これ、考えなければならない。こういうのを考えると、大変な時代です。
だから、中国では「一人っ子政策」と言って、皆さんお聞きになったことがあると思いますが、要するに食いぶちを減らすっていうことですね。こんなこともなされているわけですね。これは非常に恥ずかしいことだと思う。
食料問題というのは、戦争と、自己中心による贅沢さから起きているということですね。

C.小麦と大麦のあと、「オリーブ油とぶどう酒に害を与えてはいけない。」と書かれていますね。

このことについては、いろんなことが言われているんですが、西暦92年、黙示録が書かれた数年前ですけれども、ローマの皇帝にドミチアヌスがいたわけですね。
ドミチアヌスもだいぶ迫害した人ですけれども、この時代に穀物が非常に不足したんです。ところが穀物は不足しているのに、オリーブ油と葡萄酒があり余った時代が起きているんです。そこでこのドミチアヌスはですね、オリーブ油と葡萄酒の生産を中止して、もっと穀物をつくれという命令をだしたんです。ところが民衆は激しく反対してね、結局この命令は、廃せざるを得なかった、という歴史的事実があるんです。
ある学者はですね、ドミチアヌスの時代の、この歴史の出来事を念頭に置いて書かれたんじゃないかと、いわれているんです。

その結びつきは明らかではありませんけれども、一つだけ明らかなことがあるんです。
何を言っているかといいますと、つまり人々は、人間はパンをつくるのに必要な小麦や大麦が不足して、世界の多くの民が飢え死にするようになっても、片方では、高価で贅沢なオリーブ油や酒を求め、それがあふれるような社会を作っていこうとする、っていうことですね。そういう人間の性質を表している。
ちょうど私達は、こういう時代に生きているんじゃないかと思うんですね。世界で三分の二の人が、小麦、大麦を食べることができないのに、日本なんかではどうです、ワインだの、なんだのと言って浴びるほど飲んでいるではありませんか。

第三番目はこの穀物の危機であったわけです。
第一、第二は争いでありました。これらの幻は、将来起きるべきこととして記されたわけですが、既に当時のローマ時代から今日においてまで、実際に行われている、ということですね。これは裁きの終わりじゃない。
イエス様はマタイの福音書24章6節で
「気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。」
と言っていますね。
まだ食料不足の声が、世界のあっちこっちから聞こえてきますけれども、まだ終わりではない。この裁きは第四、第五、第六、第七と続いて、だんだんと厳しいものに変わっていくわけですね。

私達は今、どういう時代に生きているのかというと、第一、第二、第三の封印が解かれた時代に住んでいると思わなければならない。
そしてイエス様が、「気をつけて、あわてないようにしなさい」と仰ったわけですね。
私達は、無制限に浪費する危険性を知らなくてはいけないと思うんですね。そして自分が置かれている時代をよく悟る。そしてその時代に自分がなすべきことを、生きるべき道をはっきりと悟って、この一日を歩ませていただかなければいけないと思いますね。

ですから、これらの封印の一つ一つというのは、ただの幻ではないだけではなくて、もう既に私達は、そういう時代の中を歩みつつあるんだな、ということを心にしっかりと、受け止めさせていただかないといけないと思うんです。将来に来るんだ、ということではなくて、既に封印は開かれている。

こういうのを見ますと、私達の現実の世界そのとおりを書いていると、見ることができる。どうか願わくは、こういう中にあって、クリスチャンがこの使命を果たしていく必要が    ある。既に白い馬、赤い馬、黒い馬は走っている。今の時代、ますます暗黒の時代になってきている。
その中で神の民として、私達は光を放って、その中からいくらかの人々でも、主のもとに導いていけるようにさせて頂きたい。

それではまたこの次、第四の封印からご一緒に学んでいきたいと思います。

お祈り

天の父なる神様、既に封印は開かれ、私達はその中に住んでいる生活をさせていただいています。こういうのを見ますと、本当に聖書は世界の様子を最も言い当てている。
御言葉がだんだんと成就していくことでありますが、そういう時代に生かされている私達は、時の流れに身をまかせて、あるいはこの世の流れに乗ってしまう、この滅びに包まれることがないように、また今の時代にあって、イエス様が気をつけなさいと仰ったように、深く心に留めて歩ませていただき、何を成すべきかを悟らせてください。
この日本でも多くの人たちが、物が無制限にある、いつまでも平和が続き、そして贅沢ができるかのように思っていました。しかし、ヒタヒタとこれらの困難がある、私達のところにも押し寄せてくる、と聖書は教えています。
どうか主にあるところの者が、このイエス様によって守られると約束されていますので、再び信仰がしっかりとイエス様につながることができるように、どうぞ顧みてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明