音声と文書:ヨハネの黙示録(31) 女と男の子と竜 12:1~6

音声を聴き取って、下記に文書化しましたので、お読みください。
また、次のPDF文書をクリックして印刷できます。

PDF文書:ヨハネの黙示録(31)

ヨハネの黙示録 12:1~6
12:1 また、巨大なしるしが天に現れた。ひとりの女が太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた。
12:2 この女は、みごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた。
12:3 また、別のしるしが天に現れた。見よ。大きな赤い竜である。七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。
12:4 その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。また、竜は子を産もうとしている女の前に立っていた。彼女が子を産んだとき、その子を食い尽くすためであった。
12:5 女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。
12:6 女は荒野に逃げた。そこには、千二百六十日の間彼女を養うために、神によって備えられた場所があった。【新改訳改訂第3版】


上の写真は、ドイツの画家 Matthias Gerung (1500–1570) により1530-1532年頃に描かれた「Das Apokalyptische Weib(黙示録的な女)」。(Ottheinrich Bible(ドイツのオットー・ハインリッヒ公により編纂された聖書)の挿絵より。バイエルン州立図書館蔵。Wikimedia commons より)


はじめに

これを絵にするとすごく怖い絵になってしまいますね。
これを悟るためには神の助けが必要であります。ヨハネの黙示録12章から新しいサイクルに入るわけですね。これまでのことを大まかに1章から11章まで、どんなことが書かれてあったかまとめておきたいんです。そして12章に入りたいと思いますが。

1.ヨハネは、1章から11章においては、彼の見た幻を展開してきたわけですが、まず初めに記したのは、キリストの幻であったわけですね。

これは1章の所に出てまいります。口から剣が出ていたり、炎のように燃えている目だとかいうのが出てきます。これはみんなキリストのご性質を表しているわけです。
それに続いて出てきたのは、七つの教会にあてた七つの手紙。それからさらに、巻物の七つの封印が解かれていったわけです。
ずいぶん前ですけれども、家内が教会から発行している物を封筒に入れて、封筒に差し込んだだけで送ったら、家内の母親があとから、『封筒だけ届いたよ』って。中身が抜けちゃっていたんですね。開封で送るものがあります。すると中身が抜けて封筒だけ届いて、中身が届かなかったっていう話でね。

黙示録では、ちゃんと封印されているのが一つずつ解かれていって、第七番目の封印が解かれる時に、七つのラッパが出てきたわけですね。その七つのラッパはずうっと11章まで続いてきて、これらは何を意味していたかというと、この世の罪の世界が当然受けるべき裁きの幻であったわけです。

また、七つのシリーズ、つまり七つの封印、七つのラッパ、七つの手紙。
ま、ヨハネの黙示録はこの「七つ」がいっぱい出て来るわけなんです。これは、神様が神の民を保護する約束と、最終的な勝利がこの中に意味されていたわけですね。

さらにもう一つの特徴を見てみますと、これらの幻の中には、エジプトに対する十の災いのしるしが時どき出てくる。それからシナイ山でモーセが十戒をもらう時の様子に似たしるしが起きました。
これらはみな、神様の権威と神の教会を迫害する者が滅ぼされ、イエス様の血潮によって救いが完成する、ということを表していた。
これが1章から11章まで。これが今までの大きな内容でありました。

2.12章からは凄まじい戦いが始まるわけですね。

天上では神とサタンの戦い、地上では教会と悪の勢力との衝突が書かれている、というわけです。
この戦いというのは本質的には霊的なものなんです。現実には、神の民、クリスチャンには圧迫となってのしかかって来るわけですね。
ですからキリストの教会は、どうしてもこの地上にあっては戦いをしなければならないという運命にある。戦いといっても戦争のことではありませんけれども。
そして私たちは、すでに一部、この圧迫の中にいるということになります。

3.そして12章から14章の幻のもう一つの特徴は、「七つ」という数字はあまりでてこないんですけれども、七つのシリーズとは別の七重の形態をとっている。

七つの幻が実はあるわけなんです。ヨハネは七を強調している。七という数字は、出来事の完全性を表している神様の数字なんです。完全であるということを強調している。

4.しかもヨハネの黙示録の幻は、世の終末のことを述べていながら、この真理は普遍的で時間を超えたものである。

要するにあらゆる時代の教会が戦ってきた戦いである。
世の終わりの時の出来事だからって、終わりの時だけ起きるのかって思うのではなくて、ヨハネの時代にもこういう戦いはありました。そしてずうっと2000年間の教会も、こういう苦しい戦いを乗り越えてきた。
そして今もそれは続いている。普遍的なものである、ということが分かる。普遍的であるかと思うと、この幻は世界の教会の歴史を表しているわけではありませんけれども、だんだんと発展性があるといいますか、終わりになればなるほど裁きが深刻化してくる。
だからこの幻は、世の終わりに向かっていることを示している。いつの時代にも行われてきて普遍的ではあるけれども、世の終末に従ってだんだんと裁きが深刻化している、ということが分かってくる。こういうふうにヨハネの黙示録は、あっちの面からもこっちの面からもいろいろないろどりが出てくる、ということが分かる。

さてこういうような幻は、

① 神の民の最終的な勝利
② サタンに従う者の滅亡
③ 聖徒たちの報い

の3つのことが約束されている。

そこで、教会と悪の勢力との戦いの幻に目を向けていきたいわけですが、ヨハネはそういう幻を通して、究極的には、神とサタンとの超自然的な世界の戦いに結び付けようとしていることが分かる。

地上では私たちはいろいろと苦しい思いをしたり、我慢しなければならないことがあったりします。ヨハネはそういうことを教えながら、実際は神とサタンが戦っていることに心を向けさせていこうとしているのが、ヨハネの黙示録の非常に大きな目的であるわけです。

Ⅰ.さて今日は12章の最初の部分に入るわけですが、1節をまず見ますと、「巨大なしるしが天に現れた。」と書かれていますね。

3節にも「別のしるしが天に現れた。」と言っています。
ヨハネが自分で見た幻をここで初めて「しるし」と言っているんですね。11章までは「しるし」とは一回も言わなかったんです。

「しるし」という時にはこの幻は預言的な意味を持っているということを表している。「しるし」というのはこれから起こる預言的なことである。これが「天に現れた」と書いてあります。
これまでも天の御座が出てきましたが、ここで言っている「天」というのは神の御座のことではありません。これは「空」という意味です。だから、この幻は「空」に現れた、見たということです。

ここで彼は二つのしるしを見ています。
一つは「一人の女」で彼女は身ごもっていたと書いてあります。
もう一つは「大きな赤い竜」です。

ヨハネはこれらのしるしが何であるか、はっきり書かなかったわけです。この「一人の女」とは誰か、「大きな赤い竜」とは誰か、「男の子」とは誰か、言わなかったわけです。
それは目的があったわけですね。ヨハネはこの幻から、具体的に何が起こるかということよりも、もっと大事なこと、霊的真理を強調しようとしているんです。

A.まず、この女の幻はヨハネの黙示録で初めて出てくる。

この婦人を見ますと、「太陽を着て、月を足の下に踏み、頭には十二の星の冠をかぶっていた」
これは何を意味しているのか。おそらくこれは霊的美しさとか、魅力とか、あるいは輝きを表している。
「十二の星の冠」というのは暗示的ですね。ヨセフが夢を見ましたでしょ。あの時に、星と月と太陽がですね、自分を拝んでいるという夢を見ていますね。ヨハネはこれが脳裏に浮かんでいたんだろうと思うんです。

彼女は男の子を産んだわけですけれども、この女の人と男の子はいったい誰なんだろう。これは長い間、論議されてることなんですけれども、伝統的には主の母マリヤとイエスであると考えられていた。さあ、本当にそれでいいんだろうか。
これはまた後でお話したいと思いますが、しかしヨハネはこのことについて何も触れていないんです。わざと言わなかった。もしはっきり言っていたら「一人の女マリヤと、その男の子イエス、子羊」とか、いろいろついてきてよさそうなものですが、ヨハネはここで何にも言っていないんです。なぜか、っていうんです。

それは目的があった。ヨハネはここで、人間イエスの時代に何が起きたか、マリヤの身の上に何が起きたか、は問題にしていないわけです。ヨハネの最大の関心は、霊的真理である。彼が教えたかったのは、過去に何があったかということではない、ということですね。

ですから不思議なんですね。ヨハネは、ここでマリヤやイエスであったとしても、イエス様やマリヤに実際過去に起きなかったことをこの幻の中に加えている。このあたりがヨハネの黙示録のなかなか難しい部分だと思うんですね。ヨハネにとっては、これがイエス様だったらおかしいじゃないかと思われることが書かれているとしても、具体的にはどうでもよかったんです。ヨハネの関心はただ霊的な真理だけに向けられている。

① たとえば6節を見ますと、この女の人は男の子を産んですぐに荒野に逃げていますね。マリヤはイエス様を産んで後2年くらいしてから、ヨセフとともにイエス様を連れてエジプトに逃げた、ということはあります。しかし出産直後に荒野に逃げた、という記録は福音書のどこにもないわけなんです。ですからこれはおかしいではないか、と思われる。

② それから4節を見ますと、竜がでてきますね。この竜は産んだ子を食い尽くそうとしている。ある人はこれを、ヘロデじゃないか、という人がいるんですけれども、ヘロデは2歳以下の子供を殺そうとしていたという記事が出てまいります。しかしヘロデを竜だとするのはあまり適当ではないと、ヘロデがどんなに悪賢くても竜にされるほど力はなかったわけですね。

13章1節~22節で、竜から大きな権威を与えられた獣が出てきます。
ほとんどの学者たちは、ヘロデはこの獣の中の一人であろうというんですが、それよりももっと力があるのが竜。この9節を見ますと、この巨大な竜はヘロデである、とは書いていない。悪魔とかサタンとか呼ばれている、と書いてありますから、ですからこの竜はヘロデではない。こういうことがわかってくるわけです。

それでこの女と男の子は一体誰なのか。
聖書が伏せているところは、私たちがあまり断言しない方がいいんです。ヨハネは何も言っていないわけですから、確定はできません。

少なくても「男の子」の方は、イエス様である、ということはわかるんです。
それはなぜかというと、5節で「この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。」と書かれています。鉄の杖というのは支配権を意味しています。
ちょっと詩篇2篇9節をご覧いただきましょう。

詩2:9 あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。

実はこれは、イエス様がお生まれになる前ですけれども、キリストのことが預言されている。これはイエス様の支配権を預言しているわけですね。

「すべての国々の民を牧する」
これはペテロの手紙にも出てきますが、イエス様の全人類的な支配を意味していますね。

「神のみもと、その御座に引き上げられた」
これはイエス様の死からの復活と昇天のことである。ですからこれを見ますと「男の子」はイエス・キリストだということが分かります。

それではやっぱり「女」はマリヤじゃないか、となるわけですが、これがなかなか先ほどお話しましたね、太陽と月と星が出てきているんですけれども、まあ、これがマリヤだと固執したいかもしれないけれども、この女をマリヤにしても大きな間違いを犯したことにはならないと思いますけれども。

ヨハネが言いたかったことは、ヨハネの黙示録を書いたこのヨハネという人は、イエス様が十字架にかかった時に、主の母であるマリヤを託された人です。十字架の上からヨハネを呼んで、わたしの母マリヤをよろしくお願いします、と言われているんですね。
イエス様は女と呼んでいますけれどもね、まさかイエス様のお母さんをヨハネが「一人の女」というわけにはいかないと思うんですよね。「女」という言葉は比較的、抽象的な言葉なわけで、おそらく、これが主の母マリヤであれば別の言葉を使っていただろう、と私は思います。多くの方もそう考えておられるわけですが。

この婦人が太陽と月と十二の星を持っている。ヨセフの幻からすればそれは、イスラエル民族を表していたわけですね。摂理上イエス様を生み出すことになった、イエス様の先祖となった神の選民ユダヤ人をさしているんじゃないか、この「女」というのは。
だから女性のことを言っているんじゃなくて、民族的な立場での母をとった、ということですね。彼らは神によって、世界の救い主の母なる備えられた民であったわけですね。

「この女は、身ごもっていたが、産みの苦しみと痛みのために、叫び声をあげた」と書いてあります。これは出産の時のことではなくて、彼らは早くからイエス・キリストの来臨の預言を受けていたわけで、それが実現するためには多くの苦難を経てきた。
今日はその苦難の一つ一つをあげることはしませんが、その代表的なものは捕囚ですね。アッシリヤに民族ごと囚われていく。バビロンに民族ごと囚われていく非常な叫びであったわけです。そして今もその苦しみの中にユダヤ人たちはいますけれどもね。これはイエス様がおいでになる前のことです。
そしてね、この「女」という難しさは、イエス様がお生まれになる前の特徴、主イエスの来臨の時までの民。

それから5節以降を見ますと、彼女は男の子を産んで荒野に逃げた、と書いてあります。主イエス様が生まれた後の女の人がいる。一言でいえば神の民なんですけれども、ヨハネが意味していることは、霊的な意味における神の民も意味している。すなわち、イエス様を救い主と信じる民の両方を意味している。

イエス様がこの地上においでになる前の民、ユダヤ民族、神の選民です。それからイエス様がお生まれになった後の民、すなわちクリスチャンですね。この両方をこの「女」で表しているように思われるんですね。だからヨハネの黙示録の難しさはこのあたりにある、ということなんですね。これが第一番目の「女」の幻であるわけです。なかなかちょっと難しいかな、とは思いますけれども、ヨハネはそこのところを表したかったんでしょうね。

Ⅱ.それから、第二のしるしについて考えてみたいと思いますが、3節を見ますと「別のしるしが天に現れた」と書いてありますけれども、実はこれは二つではなくて一つなんですね。

これは、竜が女の前に立って男の子を食い尽くそうとしている、という一つの幻の二つの面を見ている。

A.この大きな赤い竜には「七つの頭と十本の角とを持ち、その頭には七つの冠をかぶっていた。」
1.この「赤い」というのがいろいろと問題になるわけですけれども、

赤は共産党ではないか、ソビエトではないかとか、いろんなことを言う人がいるんですが、唐辛子だって赤いし、なんとも言い切れないわけです。赤いのはみんな竜であるというのも問題があるわけで、竜はこれは悪魔を表しているわけですが。
「赤い」色だとか、七つの頭とか、十本の角だとか、七つの冠とかいうのは、これは破壊力を表す。核兵器なんかも非常な破壊力を持っている。そして世界を制覇する支配力を持っているわけですね。これは、あとでずうっといけば学びますが13章をみましてもね、これと似たようなものが現れる。獣ですけれども、この竜から獣が大きな権威をもらうんですが、13章1節を見ても十本の角と七つの頭、ここには十の冠が与えられて、その頭には神を汚す名があった、と書いてあります。似たような性質を持っているということがお分かりいただけると思いますが、17章にも、こういう権力を竜は獣に与えている。これは竜の方が親分で、獣は実際この地上で働く悪の勢力を持つ人物である。だから、一人はヘロデのような人間であるわけです。こういうことが分かるわけですね。

2.ヨハネがここで「竜」と言っているのは、確かにサタンであるとは分かってきましたけれども、

なぜここで彼は「竜」と言ったかというと、これは創世記の3章1節でですね、
サタンの使いとして蛇が出てきてね、ですからね、ヨハネの頭の中には旧約聖書がみっちりと詰まっていたということが分かりますね。
パウロが別の面からこれを言っているので、ちょっと読んでみましょうか。エペソ人への手紙2章2節を見てみましょう。ここに「竜」と呼ばれるものの本体、姿が出てくる。

エペ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

ここに、「空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊」とありますが、実はこれがサタンである。

エペソの6章12節でも「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」と言っているんですね。

これがここに出てくる「赤い竜」の特徴なんですね、今も彼は働いている。霊的な権威をもって、不従順な子らの心の中を支配している。彼は暗闇の天使。変な言い方ですけれども、悪魔ですね。
悪魔というのは私たちは手で掴むことができません。しかし、心に、人の人格に触ることができる非常に恐ろしいもの。
私たち人間は、神様に心を触られているか、悪魔に触られているかどうかですね。非常に怖い。

3.さてヨハネの黙示録の方に帰らせていただきます。12章4節を見ますと、「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた。」と書いてありますね。

これは、私は、大変面白いなあ、と思ったんです。ま、あまり面白がっちゃいけないんですけどね。尻尾でね、星の三分の一をひとまとめにして、地上に叩きつけたということなんですね。これは御使いのマネをしているわけです。

8章の12節をご覧いただけますと、それが出てくるんですね。8章12節では、第四の御使いがラッパを吹いた時の話が出てまいります。そうすると、太陽の三分の一と、月の三分の一と、星の三分の一が打たれたので、三分の一は暗くなった、と書いてあるんです。
そのほかも三分の一が打たれているんですけれども、竜がこれをマネしてですね、自分の力を誇示して見せたわけです。神の使いができるなら俺もできるんだ、ってね、誇示して見せている。

実はこれと同じことを、モーセの時代のエジプトの呪法師たち、魔術師たちも行っているんです。ちょっと読んでみましょうかね。こういうのはやはり聖書の中に出てきますので、知っておかれたらいいと思うんですが、出エジプト記から3か所、読んでみたいと思います。

出 7:20 モーセとアロンは【主】が命じられたとおりに行った。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。
7:21 ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。
7:22 しかしエジプトの呪法師たちも彼らの秘術を使って同じことをした。それで、パロの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞こうとはしなかった。【主】の言われたとおりである

モーセとアロンがやったことをエジプトの呪法師もやった。

出 8:6 アロンが手をエジプトの水の上に差し伸ばすと、かえるがはい上がって、エジプトの地をおおった。
8:7 呪法師たちも彼らの秘術を使って、同じようにかえるをエジプトの地の上に、はい上がらせた。

また、

出8:18 呪法師たちもぶよを出そうと、彼らの秘術を使って同じようにしたが、できなかった。ぶよは人や獣についた。

今モーセの時代のことを見ましたが、ヨハネの黙示録の方では、これは天界のことを書いてあるわけですけれども、今日も、私たちの世界においても同じことをしている。神と同じ奇跡を行い、人の力を誇示し、自分の力を誇示して人々を騙そうとしている。これがサタンのいつもやる手なんですね。これは気を付けなければいけない。
神様が奇跡を行うとサタンも奇跡を行う。この世の中に似通ったことがいっぱいあるわけです。だから私たちは、どれが本物なのか。

昨日も直ちゃんが歩いていて、自分の影を見て『これなんだ』って聞くわけですね。
『影だよ』って教えても、『風だ、風だ』って言っていましたけどね。自分の影を見て、動く。似ているんでしょうね。
本物は一体何かということをよく知る必要がある。

ですからヨハネは先ほどお話したように、9節でこの竜の正体をあばいている。

黙12:9 こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。

「あの古い蛇」というのは、もちろん創世記3章1節に出てくるサタンを意味しているわけです。だからこれは非常に恐ろしいことである。

Ⅲ.さてここにおける神とサタンの戦いの始まり、そして教会と悪の勢力との戦いはどういうものであろうか。

1.神様は地上にキリストを派遣された。そこから、神とサタンとの戦い、あるいは神の民とサタンとの戦いの対決が始まったわけです。

神様は、罪の完全な救いの約束であるイエス様を、クリスマスの時にお送りくださったわけです。それが、神の民とサタンの勢力の決定的な対決を引き起こしたわけですね。このことが起きるまでは、それほど大きな対決が起きなかった。

イエス様がこの地上に来られるや否や、イエス様を礼拝するものも訪れました。馬小屋に羊飼いたちも集まりましたし、東の博士たちもやってきました。しかし、それとともにですね、サタンもすぐに対決に挑んだ。まず第一にヘロデを怒らせた。また多くのエルサレムの人々は、イエス様の誕生を喜ばなかった。
この対決はその日以来、ずうっと現実のものになってきたわけですね。一日も休むことがなかった。

これは本質的には、個人個人の戦いであるとともに、宇宙的な戦いにもなっているわけですね。汚れに汚れた天と地も、新しい天と地の交代を余儀なくされるような問題が起きているわけですね。
サタンは突如として怒り出したわけなんです。それがなんと2000年続いている。2000年の怒りですね。

2.サタンは何とかしてこのキリストを滅ぼそうとしたわけです。

だからここにその「子を食い尽くすためである」と言っていますね。
新約聖書をご覧になるとわかりますが、その幼子の時から殺そうと狙われていますね。それから成人されてからも、群衆の中からパリサイ人を使って何度も殺そうとした。みんなこれはサタンが取り計らっている。
ついにはイエス様の弟子であったイスカリオテのユダを騙して、サタンはキリストを十字架の上にかけて殺したわけです。これで目的を果たしたかのように見えたんです。

ですけれども残念なことに、ま、サタンから見れば残念ですがね、イエス様の十字架の死はイエス様を信じるすべての者を救う結果になってしまった。藪蛇というのはこういうことですね。
サタンの側からいえば、殺して始末してしまったかと思ったら、そこから救いの子供がいっぱい生まれてきた。丁度カマキリの巣をつつくようなものですね。巣をつついてとってしまったらよかったのかもしれないのに、カマキリの子がうじゃうじゃ出てくる。あの蜂の巣をつつくのと同じですね。イエス様の誕生をカマキリや蜂の子に例えるのは具合が悪いんですけれども、はなはだ具合の悪い例え方ですけれども、悪魔の方から考えると実にこうであったわけですね。

ヨハネはこまごまとしたことを何一つ示していませんけれども、そこには霊的な現実があるんだ、ということですね。

3.さてヨハネは、この女が荒野に逃げて安全に守られたということと、実は霊的な現実の教訓を私たちに与えようとしているんですね。

なぜこんなことを言っているかというと、その背景には、モーセの時代にイスラエルの人たちがエジプトを脱出して助られている。あるいは紀元70年、ローマのタイタスという将軍がエルサレムを攻撃したとき、エルサレムのクリスチャンたちはいち早く荒野に逃げている。そういう経験がヨハネにはあったわけなんです。そういうことが彼の脳裏にあって、女は荒野に逃げた、と言っているんですね。ですからこれはマリヤのことを言っているのではなくて、別のことを言っているということが分かります。

しかし、この逃亡はどちらも一時的ものであったわけです。サタンから人々を救うことはできなかった。ですからヨハネは、女は荒野に逃げた、と書いていますが、これはもっと霊的なことを教えようとしている。

どんなことであるかといえば、クリスチャンがこの世で生活をしながら、霊的にはこの世に縛られない、この世から分離された生活を示している、といっているわけですね。
荒野というのは孤独です。荒野には賑やかなものはない。ですからクリスチャンのひとつの姿ですね。たとえば、隣人や近親者であっても、イエス様を信じていなかったりすれば、イエス様とまだ繋がっていない人との間には、相入れないものがあるんですね。孤独感見たいなものをクリスチャンは持たない、というよりは持っているということですね。

クリスチャンは身近にいる者であっても、お互いが、イエス様を宿している者と宿していない者の間には、何か心の中に相入れないものがある、ということですね。
それはイエス様もお話になっておられるわけですが、ヨハネの福音書17章14,15節。

ヨハ 17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。

こう言っています。クリスチャンはこの世の中から全く孤立した生活をしなさい、と言っているわけではないんです。そんなことをすれば福音は伝わりません。
ですから私たちはこの世の中で相変わらず生活している。

けれども、

この世を愛しているわけではない。
この世に縛られているわけでもないし、
この世に執着しているわけでもない。
この世から全く自由である。
イエス様を愛して生きるということを教えている。

この世から取り去ってくださるようにとお願いしているのではなくて、この悪の力、悪いもの、この世を支配している力からお守りください、こういうふうにお願いしたいんです、と、イエス様はお祈りしてくださっている。これが、ヨハネは女が荒野に逃げてその安全を守った、という意味で示しているわけですね。

この地球上には2種類の人間しかいない。神に従っている人と、サタンに従っている人のどちらかだと言っているわけですね。そしてそこには絶えず、霊的な戦い、霊的な争いが生じる。この女は早急に荒野に逃げて、サタンの支配から、霊的ですけれども、分離して離れて安全を守った、ということです。これはクリスチャンの成長の上にも必要だということを表していますね。

6節を見ますと、荒野に逃れました。荒野の生活というのはなかなか厳しいものですけれども、神はこの荒野に逃れた女を養うために、神によって備えられた場所があったと、そこに書いてありますね。神は養い、守り、力を与えたわけですね。荒野の生活はどうしても神の守りが必要になってくる。
これは、サタンとこの世がいくら権力を振るっても必ず滅びる。街中で繁盛しているように見えても必ず滅びる。彼らは最後の崩壊を待つ敵である。

コンクリートの大きなビルを見ると永久に立っているかに見えますけれども、あれは必ず滅びを待つところの建物である、こういうふうに思いますね。いつかもニュースで、ダイナマイトでどんどん建物が壊されている町を見ましたね。建てる時はそんなに早く壊すつもりはなかったと思うんですが、どんどん壊されていく。最近の上大岡あたりのビルも壊されて建て替えるって話していますけれども、立て替えたらまた壊すんでしょうけどね。

サタンは、いつかは崩壊していく敵である。ですから彼らは人々を惑わす。神の民をも惑わそうとしているわけですが、その惑わしから守られるためには、サタンから離れていることが最も安全である。

最後に、女が荒野で過ごした期間が記してあります。1260日である。ユダヤ人は1年を360日で計算していました。これは3年半になるわけです。11章3節でも、1260日という日数が出てまいりました。これは二人の証人が預言をした期間ですね。
この1260日、3年半というのは、その実数を言っているわけではありません。これはクリスチャンの時代、あるいは教会の時代、教会が迫害を受ける時代を指していると思われます。少なくてもクリスチャンがサタンと戦わなければならない苦難の時代である。

そしてそれがいつ頃から始まっているかというと、ヨハネの時代のローマの迫害の時代から、将来に来る大艱難の時代までずっと続いていく戦いである。ですから1260日というのは、3年半ではなくて、もっと長い時代、今でも続いているわけなんです。1260日と言っているのは、これは永遠に続くというのではない、ということですね。
サタンはずうっと勝ちっぱなしみたいにね、クリスチャンはみんな黒星みたいに見えますけれども、そうじゃない。限られた期間だけだ。
お互いはこの地上にあって、まず第一にはサタンの惑わしに陥らないように、この世で生活しながらこの世に縛られない、サタンから離れて信仰生活を送る必要がある。こういうことを教えてくれているわけですね。
どうか私たちの生涯が恵みに満ちて、サタンから離れて、荒野の生活でありますように。
そこは神様が養いのために備えてくださっている場所である。少々窮屈なことがあるかもしれません。しかし、神の養いがあるということを心に覚えておきたい。

お祈り

「女は荒野に逃げた。そこには1260日の間、彼女を養うために神によって備えられた場所があった。」
恵みの深い天の神様、私たちはこのようにして、この地上で様々な戦いをたどりながら生活をさせて頂いております。しかしこの世に縛られ、この世を愛して生活しているわけではありません。この世から離れて、そして神様あなたの道をひたすら求めて歩む者であります。そこが荒野のように時々寂しいことがあり、不自由なことが起きてきます。しかし神の養いは常にあり、あなたが備えてくださった場所である。安全に守られるところであることを思いまして、ありがとうございます。
このサタンであり竜であるところの大きな惑わしがあり、また吞み込もうとするような恐ろしい力を持っている者ではありますが、彼らはやがて最後の滅びを待つところの者であることを私たちは心に覚え、神様、あなたの道を進ませてください。
この時を感謝して、尊いイエス様の御名によってお祈りいたします。アーメン。

地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明