音声と文書:ヨハネの黙示録(38) 世の終わりの刈り入れ 14:14~20

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PDF文書:ヨハネの黙示録(38)

ヨハネの黙示録 14:14~20
14:14 また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。
14:15 すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
14:16 そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
14:17 また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。
14:18 すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」
14:19 そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。
14:20 その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。【新改訳改訂第3版】

上の絵は、スイス最初の宗教改革者 フルドリッヒ・ツヴィングリ(Huldrych Zwingli 1484–1531) が著した Zwingli Bible(1531)の挿絵「Ernte, Weinlese(刈り入れ、ぶどうの収穫)」(Wikimedia Commonsより)

はじめに

12章から始まりました七つの幻のシリーズの第七番目の幻の前半は、この前お話しました。永遠の福音を携えた御使いが宣言したバビロンが倒れたことも語りました。それから、獣に従う者に対する神のさばき、こういうものが語られました。
今回はその残された後半の部分に入っていきたいと思います。

Ⅰ.この部分は、詳しくはありませんが、明らかに再臨されたイエス・キリストを描いています。

この再臨されたキリストの幻は、19章以後になりますともっとずっとはっきりと記されているんですね。14章14節以下ではそれほど詳しくはない。

A.そこでまずヨハネは14節で、突然にこう言っているわけですね。「白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。」

こういう幻を見た、と言っているんですね。

この幻は突然に現れていますが、これまでもしばしば語られた幻であったわけです。ですから、これは、突然幻を見た、というよりどちらかというと、親しい幻をここで見ているということが出来ます。
では、どんな所に出ているのかということですが、いくつかの所で出ていますから、ちょっと見てみましょうか。

まず旧約聖書を見ますと、ダニエル書。

これはもう何度も開いておりますが、ヨハネの黙示録は随分ダニエル書によっているということが分かります。ヨハネの幻はダニエル書の幻に非常によく似ておるということが、学ぶことによって徐々に分かってまいりますね。

1.まずダニエル書7章13節。

ダニ7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

ここに、キリストの再臨のはっきりした幻が記されているわけですね。ダニエルが見た幻は、人のような方が天の雲に乗って来られた。
丁度この幻を、ヨハネも見ている。ですから、ヨハネの幻はこのダニエルの幻に基づいている、ということが出来ます。こういうのが段々分かってきますと、聖書が一貫しているものであるということが分かってくるわけなんです。ダニエルとヨハネは年代的にはかなり差がありますけれども、聖書は同じテーマを扱っている。

2.それから、イエス様が昇天された時も、同じようなことが暗示されているわけですね。イエス様が再臨される時ですね。

使徒1:9 こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。
1:10 イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。
1:11 そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」

ここでは、弟子たちが見ていた天に上がっていくのと同じ有様で、またおいでになる、ということを言っていますね。
どういう有様で天に上がっていったかというと9節で、「雲に包まれて、見えなくなった」ということですね。
ですからこれも、イエス様が再臨される時を暗示している、と言ってよろしい。

3.もう一つは、ヨハネ自身が語っているわけですね。

これはすでに学びましたが、ヨハネの黙示録の1章の7節、そこをもう一度復習的に読んで見ましょう。この1章7節でヨハネはすでにこの幻を見ていたんですね。

黙1:7 見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。

この「彼」というのは、ずうっと話を進めてみますと、1章13節のところで

黙1:13 それらの燭台の真ん中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。

ですね。ですからこれは「人の子のようなお方」が雲に乗ってやってくる。
ですから、だんだんとその幻が具体化されていく、というのが分かるんです。
この聖句が示している「人の子のようなお方」とは、「再臨されたキリスト」であることは間違いない。
ですからこの幻は、キリスト再臨直後に行われる、神の刈り入れの審判を描いているわけですね。この刈り入れの審判というのは、さらに先の方に行きますと、白い大きな御座における最終的なさばき、となっているようです。こういうことが一応分かるわけなんです。

B.さて、この「雲に乗って来られる、人の子のようなお方」はどういうお方なのか。
1.まず、頭にあるものに目を留めたいと思うんですね。14節の終わりに「金の冠をかぶり」とあります。

普通、冠というのは王様がかぶるわけですが、この「金の冠」は、キリストはただの王ではない、すべてのものを征服した征服者であることを表しているわけです。
ですから再臨のキリストは、権威を持つ王というだけではありません。神の権威をもって全宇宙を征服する、悪の勢力を征服された方として来られる。

2.再臨したキリストというのは、再臨されてから征服するのではなく、再臨そのものが征服を意味するわけなんです。

このあたりは、もっともっと聖書を学んでいく必要があると思いますが。
ですから、ここではただの王様ではない。「冠」というのはすでに征服しているということなんですね。これは非常に重要な意味をもっています。
なぜなら、イエス様は降誕以来ですね、あの飼い葉おけに伏された時以来、人に仕える生涯を送られている。しもべの姿をとって歩まれた。
ヨハネの黙示録を見ましても、何度も何度も小羊という言葉が出てまいりますね。
小羊というのはどうも征服者ではないんです。小羊というのは、いけにえに捧げられるという意味が強いわけですね。しかしこの14章の14節をみますと、これはもう小羊というのは出てこないわけです。あとのほうでまた小羊というのは出てまいりますが、ここではもう小羊ではない。これまではずっとしもべの姿をとってこられたイエス様がここでは全然違った征服者ですね。

人間は昔も今も、イエス様は心の優しい愛に満ちた柔和な方として見てきました。確かにそれはイエス様の変わらぬご性質ではありますが、それらはイエス様の一方の姿なんですね。もう一方の姿がある。それはここに見られる「金の冠」をかぶった征服者であり、審判者であるキリストの姿です。
ですから私たちはヨハネの黙示録を見ることによって、キリストのもう一方の姿を拝することが出来るわけであります。これは「金の冠」から学ぶことが出来る。

C.それから「手には鋭いかまを持っておられた。」

彼の手に握られているかまに目を留めていただきたい。日本のかまは小さいですけれども、ヨーロッパなんかで使うかまを見ますと、大きなかまがあるわけですよね。ご存じですか。あれは非常によく切れるわけです。
実はこのかまが、この部分の幻のテーマになっている。
次々出てくる御使いを見ますと、みんな鋭いかまをもっていますね。ですからこのかまが、幻の鍵になっている主要なテーマであるということが分かります。
私たちの今の時代は、再臨のキリストの手に握られているかまによって刈り取られる日に向かって、刻一刻と進んでいることを忘れないようにしたいわけです。
この日に向かって進んでいる。やがて刈り取られる。最近はジャッジャッと空き地で雑草が刈り取られていますが、あんなものではない。イエス様による刈り取りがある。

Ⅱ.キリストの出現、再臨の後に、次々と御使いが現れて来るわけですね。

A.15節から、もう一人の御使い、また、もう一人の御使い、と出てまいります。

彼らはどこから現れてきたか、ということに目を留めてみましょう。

1.15節をみますと、この幻は四番目の幻になるんですね。第七番目の幻の中では第四番目の幻になります。

15節で、「聖所から出て来て」、四番目にでてくる幻、
17節で「天の聖所から出てきたが」、五番目に出てくる幻
18節で「祭壇から出て来て」、六番目に出てくる幻
と、これは一つずつ表現が違います。
その意味合いは多少違うんでしょうけれども、彼らが出てきたところは同じところですね。「聖所」「祭壇」も神の臨在を表す。
ですから、ここでは「出て来た」と書いてありますが、その意味するところは、客観的な場所を指すのではなくて、神様の絶対的な支配を意味する、神の臨在を意味している。
御使いたちが「出てきた」と書いてありますが、実際は神によって派遣されている。エンジェルというのがありますが、派遣されたということですね。神様によって派遣されておる。ですから彼らのなすべきことの全ては、神のご命令に従っているわけです。
「出て来た」なんて、適当に出て来て適当なことを言っている、みたいに感じますけれども、そんなことではない。

2.御使いについては、ヨハネの黙示録では約70回も記されているんですね。

御使いの特徴をみてみますと、御使いたちは自分の考えで行動するという、個性的な行動が一つも見られないんです。
それは、彼らが神様に忠実であるからなのか、それともあまり個性がないのかはよく分かりませんが、ある学者は、御使いはあまり個性がないのじゃないか、という人もあります。
しかし完全に個性がないというわけではない。意志を持たないというわけではないでしょうね。
少なくともサタンというのは、かつては御使いの長であり、自分自身で高ぶった意志を持ったために、御使いの座から叩き落されているわけですから、サタンは個性を持っていたわけですね。それが神のみ旨に逆らってしまった。

しかしヨハネの黙示録を見る限りでは、御使いたちはほとんど個性的な行動はされていない、ということです。御使いたちはみんな神の代務者、代理人として各々神様から与えられた役割を忠実に果たしています。
たとえば、7章の1節をみますと、風を支配している御使い、16章の5節をみますと、水を支配している水をつかさどる御使い、16章の8節をみますと、太陽を支配しているようであります。
この他にもサタンと戦う御使いもあるし、神の命令、メッセージを伝える御使いもある。みんな神のため働いておる。
彼らは自分の与えられた力を強調しているんじゃなくて、神の絶対的な力を鮮明に語るために遣わされているのが、この御使いの特徴ですね。御使いというのはそういう働きをしている。次々と現れていますが、自分のために働いているのは一人もいない。

B.さて15節に現れた御使い。14章では第四番目の御使いになりますが、この御使いは雲に乗ってこられた方に向かって、大声で指示をしているわけですね。

「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」こう言っているわけですね。
この刈り入れの幻はマタイの福音書の13章に書いてある、イエス様が語られた世の終わりの収穫の話に基づいています。

2か所ほど読んでみましょう。これは最後の刈り入れの時のことが書いてあるんですね。

マタ13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽ばえ、やがて実ったとき、毒麦も現れた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

こういうふうに、最初はおっしゃったんですね。
そしてその解説にあたるところを36節~40節でお答えになっているんです。弟子たちが分からなかったんでしょうね。その部分を読んでみましょうか。

マタ 13:36 それから、イエスは群衆と別れて家に入られた。すると、弟子たちがみもとに来て、「畑の毒麦のたとえを説明してください」と言った。
13:37 イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

こう言っているわけですね。
終わりの日に良い麦と毒麦がより分けられる。
それまでは良い麦と毒麦は共存する、ということをお話になっていますね。
良い種を蒔くものは人の子である。良い種とは何かというと神の子であり、毒麦とは悪い者の子、悪魔に従っている者のことですね。
ヨハネの黙示録でいえば、獣に従っている者、獣のしるしを受けている者ということですね。毒麦を蒔くのは悪魔である。畑とはこの世のことであり、刈り手とは御使いたちのことである。ですから、やがて必ず刈り入れの時が来るわけです。

教会の中にも本当に救われている人もあれば、そうでない人もいるわけです。共存している。だからと言って私たちは、この人は救われているとか救われていないとか選り分けることが出来ない。これをするのは神様が最後の日にしますから、とこう言っているわけです。イエス様は、刈り手は御使いたちだと言っていますね。

ヨハネの黙示録の14章15節に戻りますが、この第4番目の御使いが大声で、
「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」と、こう言っているんです。
これを見ると、イエス様が刈り入れをするように見えますね。ところが16節をみますと、「地にかまを入れると地は刈り取られた。」とありまして、これは面白い言い方なんです。
「雲に乗っておられる方は刈り入れをした」、と書いていないんです。「地にかまを入れた」とだけ書いてある。すると「地は刈り取られた。」
これは要するにいわゆる「かま入れ式」なんです。言い方がおかしいですけれども、よく「かま入れ式」なんてありますけれどもね、会社を建てる時に社長さんなんかが鍬で掘りますが、最後まで掘る人なんかいないわけです。他の人にまかせるわけですけれども。
恐らくイエス様はちょっとかまを入れただけでしょうね。あとはずーっと御使いたちが刈り取ったということだと思いますね。
ですからイエス様はかまを入れただけで、実際に刈り取ったのは、イエス様のみ言葉通り、これは御使いたちであるということが分かります。

Ⅲ.さて、私たちが心に留めておかなければならないことは何かというと、15節、16節以降では、二重に刈り入れがなされているように見えるわけです。

ちょっとそこを見てみますと、表現されている違いが見えてきますね。

1.15節で刈り取られているものは何か。

これは穀物ですね。穀物が刈り取られているんです。
15節に「地の穀物は実ったので」と書いてありますが、穀物が実るというのは、からからに乾燥している状態のことです。
今もそうするかどうかはわかりませんが、昔は稲を刈り取りますと、すぐに脱穀しないで、しばらく逆さにして干しておく。あれは乾燥させるんでしょうね。軸の中にまだ養分が残っていたりすると、お米の粒の中に入っていくように穀物を最後まで実らせる。
ですからここで「地の穀物が実ったので」とありますが、毒麦だったらこんなことはしないわけですね。お百姓さんが、毒麦を逆さにして十分乾燥させて脱穀するなんてしませんから、地の穀物の中には毒麦も混ざっているかもしれませんが、ここでは「良い麦」が暗示されているように思われます。

2.しかし、18節以降を見ますと、15節では「刈り入れ」と書いてあるのに対して、18節以降では「刈り入れ」とは言われていないんです。「刈り集める」と言っているんです。

「集める」「刈り入れる」はちょっと違いますね。「刈り集める」ものは何かというと、ぶどうなんです。
これはまた後でお話しますが、こちらの方は全般的に見ますと、悪しき者たちへのさばきが中心になっているようですね。
イエス様のお話によると毒麦が中心になっているようです。やがて焼かれる。
しかもこの全体の幻では、穀物の「刈り入れ」よりもぶどうを「刈り集める」方を詳しく描いているようですね。ですからここでは、ぶどうの刈り集めに目を留めていることが分かります。さばきのほうに向かっている、ということです。

B.17節と18節に移ってみますと、第五と第六の御使いが現れていますね。ここで激しくぶどう刈りが行われています。
1.18節に登場してくる第六番目の御使いは、「火を支配する権威を持ったもう一人の御使い」が現れて、「祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声だ叫んで言った。『その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。』」と、こう言ったわけですね。

なぜここに「火を支配する」御使いが現れるのか、ということですね。これは、やっぱりいろいろな意味があるわけで、
まずこの「火」というのは神の怒りを象徴しているようですね。
彼は、神の臨在のもとから遣わされたんですけれども、この御使いだけは「祭壇から出てきた」と書いてあります。
おそらくこの祭壇は、いけにえを捧げる祭壇のことでしょう。ですからこの「火」というのは旧約的にいうなら、いけにえを焼き尽くすところの「火」ですね。いけにえを焼き尽くすというのは、罪を裁く神の義の性質を表しているわけです。この「火」は罪に対する神の怒りを表す。また、悪しき者につく、サタンにつく者に対する神のさばきの公正さを示すものです。
だから、ここではやはり「火を支配する権威」を持つ御使いが現れてくるのは合っているわけですね。
この「火」は燃える火のことだけではない。そこに意味されているものがある。

そして第五の御使いに向かって、地のぶどうを刈り集めるように指示したわけです。
「ぶどうはすでに熟している」と言っています。これは地の穀物が実ったというのと対称的ですけれども、ここでは悪しき者の堕落を、あるいは神様に対する反逆が十分に熟している、つまり腐りきっているということなんです。
熟しているというと、良いふうに見えますが、これは怒り、さばきを刈り取るということです。

2.19節は、第五の御使いがぶどうの刈り取りをするわけですね。刈り取ったものを、神の怒りの大きな酒ぶねに投げ込んでいるわけです。

だんだん恐ろしいことが行われているんですが、ここに記されている19節の預言は、すでに預言者ヨエルが預言しているんですね。
ヨハネの幻というのはですね、なんとなく見た幻ではなくて、ちゃんとその裏付けが全部あるわけなんです。これはヨハネの幻と全く同じことを預言しているわけです。

ヨエ3:13 かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。

ぶどうの汁をとる方法というのはいろいろあるわけですけれども、石を丸くして、そのうえにぶどうの房を乗せて人間が足で踏むわけです。その石の一番下の所に穴が開いていて、ぶどうの汁が流れ出る。それをかめに入れていた。
この流れ出たところの汁が、ぶどう汁とは言われないで、20節をみると「血」と書いてありますね。これは完全にぶどうのジュースを作っているんじゃない、ということがお分かりいただけると思います。
「血」といいますから神のさばきがなされている。
そこから流れ出た血は、「馬のくつわに届くほど」、これは深さですね。
どこまで広がっていったかというと、1600スタディオン、メートルにしますとね、269キロメートル、約300キロメートル。
東京から静岡のあたりまででしょうか。そこらまで流れていった。
距離とか深さというのは象徴的な言い方をしているわけですが、この怒りの表現は神の怒りの激しさを表しているわけですね。

なぜ、愛の神がこれほど激しい怒りを表したのか。
これは私たちの一つの課題ですね。
怒りというのは、まったく無関心なものには表されないのが普通です。怒りというのは愛すれば愛するほど、その愛が裏切られたところに激しさ、厳しさが増してくるわけですね。ですから神の愛が大きければ大きいほど、それを裏切る者、反逆するものに対する神の怒りは激しい、ということをここでは表している。
神様は、御子イエス様を十字架にかけるほど私たちを愛してくださいました。これ以上の愛はないわけですね。これに対して私たちがひとつも応えようとせず、かえってサタンの側につき、サタンと妥協して、サタンの権力に恐れて、不本意ながらも彼に従うなら、神の愛を踏みにじることになる。裏切ることになる。
ですからこの神の怒りの激しさは、神の愛の大きさと言ってもいいわけです。怒りというのは裏返して言えばそれは愛である。愛を裏切れば怒りになる。
ですから私たちは、是非この神の愛に積極的に応える者になりたいと思うのです。私たちが怒りから逃れるには、一つしかない。それは愛に応えるということですね。これ以外に方法はない。
これは非常に大事なことです。これは神様に対しても人に対しても同じですね。怒りから逃れるには、愛に対しては愛しかない。
ここでは神の愛に対して反逆する者は、必ず厳しいさばきとなって、それは必ず訪れるということを預言しているわけなんです。

C.最後に、もう一つ注目しておきたいことは何かといいますと、この酒ぶねが踏まれた場所についてですね。20節を見ますと、「都の外」で踏まれたと、書いてあります。

この「都」がどこなのか、学者の間ではいろいろな意見が出されてきたわけですね。ある学者はローマだといい、他の学者はエルサレムだといいました。そのどちらも意味合いはあるわけですね。

(1) 確かにローマは、酒ぶねが踏まれるにはふさわしいわけですね。
なぜならヨハネの時代はローマ帝国は非常に盛んで、ローマ帝国は神の愛を踏みにじって、不真実な人が大勢いたわけですね。ですからローマの都の外でローマがさばきにあうのは、当然考えられるわけなんです。
ですから怒りの日にローマの不真実な市民が、ローマの都の外で神の激しい怒りを受けたとしても、不思議ではないし、当時の人はそのように考えたのであろうと思われるわけです。おそらくヨハネ自体もそう考えていたかもわかりませんね。

(2) エルサレムもそれにふさわしい都の一つですね。
先にお話しましたように、ヨハネの見た幻はヨエルの預言によっているわけですが、ヨエルはこのさばきが行われるところについてこう言っています。

ヨエ3:14 さばきの谷には、群集また群集。【主】の日がさばきの谷に近づくからだ。

ヨエルはこのさばきが、「さばきの谷」と言われるところで行われる、と言っているんです。当時のユダヤ人たちはヨシャパテの谷、あるいはケデロンの谷とよばれている谷、エルサレムの都の外からして、そう考えたわけですね。
しかし、ヨエルは、ヨシャパテの谷、ケデロンの谷とは言わなかったんです。
「さばきの谷」とだけ言ったんですね。
当時のユダヤ人たちは、谷といったらエルサレの周りにある谷しか考えられないわけです。ですからそうとったとしても過ちではないわけですけれども、しかし、ヨエルが言った言語的な意味から考えますと、「主がさばかれる谷」という意味ですから、
ヨエルはどこどこと特定の場所を指していたわけではない。
これは地理的というより、もっと象徴的な意味で預言されていたわけです。

(3) ヨハネが「都の外」という言葉を象徴的な意味で使ったのなら、どんな象徴的な意味を持っていたのか。
ここでヘブル人への手紙13章12節を見てみたいのですが、そこを読むと謎が解けてまいります。

ヘブル13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。

これはイエス様がエルサレムの都の外で、十字架に架かられたということですね。
ゴルゴダの丘はエルサレムの外にあった。
イエス様は都の外で、私たちの罪のために苦しいさばきを受けてくださった。これは事実でありますね。ですから今度は、悪しき者たちが都の外で神の怒りを受ける番なんだと、こういう意味あいを持っているんですね。
そうだとするとこの「都の外」は一体どこなのか。
これは確かに新しい都、新しいエルサレムの都の外のことであることが分かる。
これはヨシャパテの谷でもないし、ケデロンの谷でもない。ローマでもない。新しいエルサレムの都の外、すなわち、悪しき者、獣につく者は、神の恵みから全く切り離されたところ、そこで神の厳しい怒りのさばきを受けることになる。
こういう預言であるわけですね。

このさばきの場所を見ますと、流れの長さ、深さも象徴的な預言ですけれども、さばきそのものは決して象徴ではない、ということです。現実に起きてくる。
これらの象徴が意味するところは、神の怒りの厳しさ、激しさを物語っていますね。ですからこれらの象徴は決して、誇張されたものではないということです。
これらのことはキリストの再臨によって、象徴ではなく現実になって私たちにやってくるということですね。
ですから私たちは残された生涯を、神の愛に積極的に応えていく、こういう生き方をさせていただかねばならない。こう思うことですね。
神の激しい怒りというのは、それは神の大いなる愛に対してですね、愛の裏側であると考えてよろしい。神の愛に逆らうなら、神の激しい怒りにあってしまうことになる。
この場所はキリストの再臨によって、どちらかというと、サタンとその悪に従う者たちに対する神の厳しいさばきを、「刈り集めよ」という言葉の中に表されているわけですね。
もちろん良い麦は、神の蔵に収められることも意味されていますが、こちらは神のさばきの方ですね、ここでは強調されているようです。
どうか私たちもやがて主のおいでの日、現実のこととなって、臨んでくることであります。しっかりと心に納めて、生活を営まさせていただきたいと思います。

お祈り

「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」
恵みの深い天の神様、やがて主がおいでになり、刈り入れの時が刻一刻と迫っております。どうかよき備えをしてください。
悪はますます悪に進み、また潔きはますます潔きに進むと、このみ言葉は教えています。この時代、本当に世の終わりの時代になっております。そしてこの腐ったぶどうも最後のさばきを迎えるほどに、人間の心は乱れに乱れております。
こういう時に生かされている私たち一人ひとりが、イエス様。あなたの愛にしっかりと応えることが出来る様に、目を覚まして、主の道を励んで歩ませてください。
最後の勝利を与えてください。
この時を感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。
アーメン
地の塩港南キリスト教会牧師
眞部 明