聖書の探求(024) 創世記24章 イサクとリベカの結婚の記録

24から26章までの一区切の中にはイサクの歴史が記されています。アブラハムに対してなされた神の契約は、再度イサクによって確証されました。一度はゲラルにおいて、二度目はべエル・シェバにおいてです(26章)。

24章はイサクとリベカの結婚の記録です。

〔24章の概要〕

1~9節 アブラハムの依頼

イサクの結婚にはカナン人の中から妻を選んではならないこと。親族の中からだけ妻をめとること。
イサクの妻となる者への贈物に十頭のラクダとあらゆる貴重な品々を持ってアラム・ナハライム(メソポタミア)のアブラハムの親族ナホルの町へ行った。

10~61節 しもべの行なったこと

(イ)10~53節 到着した日の出来事

しもべは女の人が集まりやすい井戸辺に行き、そして祈った。ここでしもべが先ず祈ったのは、しもべの信仰とその人となりをよく表わしています。またしもべをこのように敬虔に導いたアブラハムの人となりも思い合わされます。ここでしもべはリベカに会います。27節で、しもべは主人の親戚の人の娘との出会いを神に感謝しています。

(ロ)54~61節 その翌日の他来事

54~57節 しもべの要求
58節 リベカの承諾
59、61節 リベカの出発
60節 家族の祝福
62、63節 イサクの待ち望み
64、65節 リベカの到着
66、67節 イサクと結婚

〔キリストと教会(クリスチャン)との関係の型〕

この章には深い意義が含まれています。

22章は、イサクの犠牲‥‥キリストの十字架の型
23章は、サラの死‥‥ユダヤ人が捨てられることの型

24章は、イサクの結婚‥‥教会すなわち、キリストの新婦の型

このようにイサクの身の上に起きたことはキリストの身の上に起きたこととよく一致しています。それ故に本章を、キリストの教会の問題として考えることは重要なことです。

教会とは、「選び出された者」という意味で、すべての国々のうちより選び出された者です。そしてペンテコステの日(使徒2章)からキリストの再臨の日までは、この教会の時代なのです。

教会は、「キリストの体」であり、キリストは頭で、クリスチャンはその枝なのです(ヨハネ15:5、コリント第一12:27)。

ヨハ 15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

Ⅰコリ 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

教会は、「キリストの花嫁」であり、これはキリストと真のクリスチャンが一つとなることを意味しています。(コリント第二11:2、ヨハネの黙示録21:2、9、10)。

Ⅱコリ 11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

黙 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。
黙 21:9 また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」
21:10 そして、御使いは御霊によって私を大きな高い山に連れて行って、聖なる都エルサレムが神のみもとを出て、天から下って来るのを見せた。

聖書中には、キリストと教会(クリスチャン)との関係を表わす譬えが五つあります。

① 尊い礎石と生ける石(ペテロ第一2:4~7)
Ⅰペテ 2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。
2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。
2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
2:7 したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、

② ぶどうの木と枝(ヨハネ15:1~8)
ヨハ 15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。
15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。
15:8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。

③ 霊とからだ(コリント第一6:15~20)
Ⅰコリ 6:15 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。
6:16 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりは一体となる」と言われているからです。
6:17 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。
6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

④ 頭と各器官(コリント第一12:14~27、エペソ4:11~16)
Ⅰコリ 12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。
12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。
12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。
12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。
12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

エペ 4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

⑤ 夫と妻(エペソ5:23~33)
エペ 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

キリストと教会の関係を夫婦の関係として記されているのは、最高の比愉です。

イサクはキリストの型です。

リベカはキリストの花嫁であるクリスチャンの型です。

そして、イサクの妻を捜すために遣わされたしもべは聖霊に満たされた伝道者の型であると言うことができます。

クリスチャンは自らがキリストの花嫁であるとともに、キリストのもとに花嫁を呼び集める働きもするのですからキリストのしもべとしての伝道者でもあります。私たちはここから多くのことを学ぶことができます。

(1)しもべに委任(1~10節)

創 24:1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。【主】は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24:8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24:9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。
24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

このしもべがだれであったか、その名前は記されていませんが、おそらく15章2節に記されているエリエゼルであっただろうと考えられています。

① しもべに対する訓示(4節)

「私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」と、アブラハムは愛子イサクのために妻を捜すようにしもべに命じています。

マタイ22章2~14節に、「王子のために結婚の披露宴を設けた王」のたとえがありますが、これは未来におけるキリストと教会の結婚(ヨハネの黙示録19:6~9)をさしています。
マタ 22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。
22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

黙 19:6 また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。
19:8 花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」
19:9 御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい」と言い、また、「これは神の真実のことばです」と言った。

神は、アブラハムがしもべに命じたのと同じように、私たちにキリストの花嫁となる者を捜すように命じておられます。人々は恐るべき地獄から救われて天国に入ることばかりを求めていますけれども、クリスチャンにはキリストの花嫁となること、すなわち、クリスチャンが深められて重き者とされ、キリストと一つになることが求められています。この全くされた花嫁こそ、キリストが再臨されて、王として支配される時、その栄光に与(あずか)る者なのです。これはただ滅亡から救われるということより、はるかに深い神の恵みのご目的なのです。

② しもべを信任(2節)

創 24:2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。

「自分の全財産を管理している家の最年長のしもべ」
ルカ12章42~44節に「食事時には彼らに食べ物を与える忠実な思慮深い管理人」のことが記されています。このアブラハムのしもべは、ちょうどそのような支配人であったのでしょう。忠実でなければ、信任されることはあり得ないからです。これも私たちのための良い模範です(マタイ25:21、23)。

マタ 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

③ しもべの誓い(3節)

創 24:3 私はあなたに、天の神、地の神である【主】にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。

アブラハムはしもべに「私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。」と、主にかけて誓わせました。その如く、不信者の中からキリストの花嫁をめとることはできません。ヨハネ14章17節に、「その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。」とあるとおり、「世」すなわち、不信者は神の御霊 を受けることができません。だから、必ずクリスチャンでなければキリストの花嫁になることはできないのです。

④ しもべへの警告(6節)

創 24:5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24:6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。

「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。」
イサクを連れて行って、見て来るのではなく、花嫁は信仰によって来なければならないのです。復活された主イエスもトマスに、「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。
ヨハ 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。」(ペテロ第一1:8)
とあるように、五官をとおして主イエスを知ろうとせず、信じて喜び、愛するのでなければ、キリストの花嫁となることはできません。私たちはイエス・キリストを見ないでも、みことばをとおして主イエスを信じることができるのです。

⑤ しもべの特権(4節)

創 24:4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」

しもべには花嫁を招いて来る特権が与えられています。バプテスマのヨハネには多くの従者がいましたが、イエス・キリストか現われたことによって、人々は彼のもとを去ってキリストの方に行ってしまいました。これを見て、バプテスマのヨハネの弟子たちは、「みなあの方のほうへ行きます」と心配そうに言った時、バプテスマのヨハネは、「自分は花婿の友人であり、花嫁が花婿のところに行くのは当然である。キリストはますます盛んになり、自分は衰えなければならない。」(ヨハネ3:26~30)と答えました。
ヨハ 3:26 彼らはヨハネのところに来て言った。「先生。見てください。ヨルダンの向こう岸であなたといっしょにいて、あなたが証言なさったあの方が、バプテスマを授けておられます。そして、みなあの方のほうへ行きます。」
3:27 ヨハネは答えて言った。「人は、天から与えられるのでなければ、何も受けることはできません。
3:28 あなたがたこそ、『私はキリストではなく、その前に遣わされた者である』と私が言ったことの証人です。
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」
花婿の声を聞いて、自ら喜んで衰えていくことができるのは、しもべの幸福です。

⑥ しもべへの励まし(7節)

創 24:7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える』と約束して仰せられた天の神、【主】は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。

「私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。」
これはしもべへの大きな励ましです。しもべが心配だったのは、どんなにイサクをほめても、その富を語り聞かせても、花嫁が来ないときは、イサクを連れて行かなければならないのか(5節)、ということでした。これに対して、アブラハムは、神がともに行ってくださるから大丈夫だと言ったのです。
どんなに心配することよりも、キリストとともに歩むということが大切です。キリストがともにいて祝福してくださることによって、人々はクリスチャンのあかしを信じるようになるのです。

⑦ しもべの準備(10節)

創 24:10 しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。

「主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。」
しもべはイサクを連れて行くことはできませんでしたが、貴重な品々を持って行って、これを花嫁に勧めることができました。
私たちはキリストを天から引きおろすことはできませんが、私たちが受けている恵みをもって人々に勧めることができます。

(2)しもべの奉仕(11~54節)

しもべが使命を果していった方法

① 信仰による的確な祈りと神の応答(11~16)

創 24:11 彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。
24:12 そうして言った。「私の主人アブラハムの神、【主】よ。きょう、私のためにどうか取り計らってください。私の主人アブラハムに恵みを施してください。
24:13 ご覧ください。私は泉のほとりに立っています。この町の人々の娘たちが、水を汲みに出てまいりましょう。
24:14 私が娘に『どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください』と言い、その娘が『お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう』と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。」
24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

12~14節のしもべの祈りが終わらないうちに、その祈りは答えられました。このしもべの祈りは、信仰による的確な祈りのよい例です。成功する奉仕のための重要な条件の一つは的確な祈りです。

② しもべがリベカに近づいた方法(17~25)

創 24:17 しもべは彼女に会いに走って行き、そして言った。「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」
24:18 すると彼女は、「どうぞ、お飲みください。だんなさま」と言って、すばやく、その手に水がめを取り降ろし、彼に飲ませた。
24:19 彼に水を飲ませ終わると、彼女は、「あなたのらくだのためにも、それが飲み終わるまで、水を汲んで差し上げましょう」と言った。
24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、
24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」
24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」

「どうか、あなたの水がめから、少し水を飲ませてください。」(17節)
これは、しもべがリベカに近づいた方法です。それはリベカの世話になることによってでした。
主イエスもサマリヤの女に近づかれた時、「わたしに水を飲ませてください。」(ヨハネ4:7)と、謙遜の態度をとられました。私たちも、人を主イエスの救いに導こうとするとき、この近づき方を学ぶべきです。
ヨハ 4:7 ひとりのサマリヤの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください」と言われた。

③ 祈りの答えに対する感謝と礼拝(26、27)

「そこでその人は、ひざまずき、主を礼拝して、言った。『私の主人アブラハムの神、主がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。主はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。』」
しもべは、祈りが答えられると、すぐに礼拝し、感謝と賛美をささげています。

礼拝する心が自然に起きる場合が三つあります。


(イ) 主ご自身が現われた場合(ヨシュア記5:14、15)

ヨシ 5:14 すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
5:15 すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。

(ロ) 祈りが的確に答えられた時(創世記24:26、27、ヨハネ16:24)
創 24:26 そこでその人は、ひざまずき、【主】を礼拝して、
24:27 言った。「私の主人アブラハムの神、【主】がほめたたえられますように。主は私の主人に対する恵みとまこととをお捨てにならなかった。【主】はこの私をも途中つつがなく、私の主人の兄弟の家に導かれた。」

ヨハ 16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

(ハ)  いけにえが受け入れられた時(レビ記9:24)
レビ 9:24 【主】の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くしたので、民はみな、これを見て、叫び、ひれ伏した。

これらはみな、神が私たちとともにおられることの明確な証拠であり、神の臨在が現われると、自然に礼拝心が起きるのです。

④ しもべの証言(34~42節)

「私はアブラ八ムのしもべです。主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。…主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。」

しもべは二つの証言をしています。

(イ) 一つはしもべ自身について
しもべ自身については、自分がいかに主人から信任されているかを語らず、自分の功績を言わず、ただアブラハムのしもべとだけ言っています。これはバプテスマのヨハネが、「わたしは荒野に呼ばわる者の声」(マタイ3:3)であると言われているのと同じです。
マタ 3:3 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と言われたその人である。

魚つりの秘訣は、自分の姿を隠すことであると言われていますが、人を主の救いに導く場合にも、先ず自分を隠すことが大切です。使徒の働きを見ますと、ペンテコステ以後、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの他の9人の使徒たちの名前が一度も記されていません。これは彼らが働かなかったからではなく、聖霊だけが崇められて、彼らが隠れていたためです。私たちも自分の名前を蒔いて、自分の栄誉を刈り取ることをせず、主イエスの御名を蒔いて、主のために刈り入れをすべきです(ガラテヤ6:8)。
ガラ 6:8 自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

(ロ)もう一つは主人について
しもべは主人については大いに誇っています。
(a) 主人の大いなる富
(b) すべての財産をその子に与えたこと

私たちが伝道するときにも、
(a) 神の愛と富と力とを信じるべきこと、
愛すべきことを示し、
(b) すべてのものがみな、キリストに与えられていることを示さなければなりません(コロサイ2:3、9)。
コロ 2:3 このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。
コロ 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

⑤  神の導きと摂理を示すこと(42~48節)

「主は私の主人の兄弟の娘を、主人の息子にめとるために、私を正しい道に導いてくださったのです。」(46節)
しもべは簡潔に神の導きと摂理とを語りました。これは、このことが神から出たことであることを自分にも、リベカの家族にも信じさせるためでした。

⑥ 即刻の決心を促すこと(49節)

「それで今、あなたがたが私の主人に、恵みとまこととを施してくださるのなら、私にそう言ってください。そうでなければ、そうでないと私に言ってください。」
しもべは即刻の決心を促しました。私たちが神を信じるときも、従うときも、即刻でなければなりません。あとで従っても従ったことにはなりません。主が促しておられる間に信じて従わなければなりません。主は通り過ぎて行かれるお方です。

⑥ 贈物を与えること(53、54節)

「このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。」
彼らの決心を聞くや否や、しもべは主人の宝物と衣服を出して与え、飲み食いして交わりました。
ヨハネの黙示録3章17~20節には、金と白い衣とが与えられて、ともに食事することが記されています。

黙 3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。
3:18 わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精錬された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。
3:19 わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

ルカ15章22、23節には、一番良い着物と指輪とが与えられて、祝宴が開かれることが記されています。私たちがキリストの花嫁となることに決心するならば、必ず喜びと確信と愛とが与えられるのです。

ルカ 15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。

(3)リベカ(花嫁)の応答(54~67節)

しもべの奉仕の成功は、リベカが彼の招きに応じてイサクの花嫁となることです。
クリスチャンの奉仕の真の成功は、キリストの花嫁としての招きに応じる者が起こされることです。

(人が救われるための七つの段階)

① リベカが無意識のうちに導かれたこと(15、16節)

創 24:15 こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。リベカはアブラハムの兄弟ナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘であった。
24:16 この娘は非常に美しく、処女で、男が触れたことがなかった。彼女は泉に降りて行き、水がめに水を満たし、そして上がって来た。

「こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せて出て来た。」(15節)
リベカは全く何も知らずに神の摂理の御手に引かれて来ました。このように人々は初めは知らないうちに、主のみもとに導かれているのです。これは救われた多くの人々の体験です。

② リベカが喜びをもって、しもべを迎えたこと(20~25節)

創 24:20 彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。
24:21 この人は、【主】が自分の旅を成功させてくださったかどうかを知ろうと、黙って彼女を見つめていた。
24:22 らくだが水を飲み終わったとき、その人は、重さ一ベカの金の飾り輪と、彼女の腕のために、重さ十シェケルの二つの金の腕輪を取り、
24:23 尋ねた。「あなたは、どなたの娘さんですか。どうか私に言ってください。あなたの父上の家には、私どもが泊めていただく場所があるでしょうか。」
24:24 彼女が答えた。「私はナホルの妻ミルカの子ベトエルの娘です。」
24:25 そして言った。「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」

「彼女は急いで水がめの水を水ぶねにあけ、水を汲むためにまた井戸のところまで走って行き、その全部のらくだのために水を汲んだ。」(20節)
「私たちのところには、わらも、飼料もたくさんあります。それにまたお泊まりになる場所もあります。」(25節)
リベカの心に神が働いてくださったのですが、リベカには神の恵みを受けるのにふさわしい心があったのです。リベカは走っています。全部のらくだに水を汲んでいます。これはザアカイが主イエスを迎えたことによく似ています。これは救いの最初のしるしです。

③ リベカのあかし(28~31節)

創 24:28 その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。
24:29 リベカにはひとりの兄があって、その名をラバンと言った。ラバンは外へ出て泉のところにいるその人のもとへ走って行った。
24:30 彼は鼻の飾り輪と妹の腕にある腕輪を見、また、「あの人がこう私に言われました」と言った妹リベカのことばを聞くとすぐ、その人のところに行った。すると見よ。その人は泉のほとり、らくだのそばに立っていた。
24:31 そこで彼は言った。「どうぞおいでください。【主】に祝福された方。どうして外に立っておられるのですか。私は家と、らくだのための場所を用意しております。」

28節「その娘は走って行って、自分の母の家の者に、これらのことを告げた。」
リベカは走って行って、家の者にあかしをしました。ヨハネの福音書4章のサマリヤの女も、すぐに町に帰って行って、あかしをしました。これは、霊魂が主を受け入れた最初の結果です。

④ リベカの決心(58節)

「それで彼らはリベカを呼び寄せて、『この人といっしょに行くか。』と尋ねた。すると彼女は、『はい。まいります。』と答えた。」(58節)
リベカは母の家を離れて、しもべに従って行くことを決心しました。クリスチャンはただ信じるだけでなく、この世を離れて主イエスに従って行く決心が必要です。信じることと、従うことは、同じではありません。

⑤ リベカの信仰(61節)

「リベカとその侍女たをは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。」(61節)
これはリベカの美しい信仰です。まだ見たことのない花婿イサクについて、しもべが言うことを全く信じ、自分と自分の将来を全くまかせて、導かれて行ったのです。

⑥ リベカの謙遜(63~65節)

創 24:63 イサクは夕暮れ近く、野に散歩に出かけた。彼がふと目を上げ、見ると、らくだが近づいて来た。
24:64 リベカも目を上げ、イサクを見ると、らくだから降り、
24:65 そして、しもべに尋ねた。「野を歩いてこちらのほうに、私たちを迎えに来るあの人はだれですか。」しもべは答えた。「あの方が私の主人です。」そこでリベカはベールを取って身をおおった。

リベカがイサクを見つけるや否や、らくだから降りて、ベールを取って身をおおったことは、彼女の謙遜さを表わしています。

⑦ リベカの結婚(66、67節)

創 24:66 しもべは自分がしてきたことを残らずイサクに告げた。
24:67 イサクは、その母サラの天幕にリベカを連れて行き、リベカをめとり、彼女は彼の妻となった。彼は彼女を愛した。イサクは、母のなきあと、慰めを得た。

これはキリストとクリスチャンの関係の型です。キリストの再臨のとき、主とクリスチャンとの結合は、目に見えるものとなります。

(以上、創世記24章)

上の写真は、Horne, Charles F. (1870-1942)と Brewer, Julius August(1877-1953)により1908年に出版された「The Bible and its story」の挿絵(New York, F. R. Niglutsch出版、Wikimedia Commonsより)

〔あとがき〕

この一、ニケ月、「聖書が分からないのですが」という手紙や電話をいただき、牧師の一人として痛切に責任を感じています。イエス・キリストを信じている。洗礼も受けている。しかし聖書が分からない。これが大方のクリスチャンの状態ではないでしょうか。これではクリスチャンに力がないのは当然ですし、異端がはびこる原因ですし、日本に福音が広がらない最大の理由です。私たちは知らないものを伝えることができません。
ある時、「注解書を買ったのですが、持っているだけで意味があるでしょうか。」という笑い話のような話を聞きました。この聖書の探求も持っているだけでは意味がありません。

先日、「宇宙の終末」をお読みになって救いに導かれた方のお話を伺い御名を崇めました。人は十人寄れば十人とも異なった問題に直面しており、十人とも異なった偏見を持っているものです。その一つ一つに答える本を書くことは全く不可能なことです。しかし疑問や偏見にピッタリ当ではまる本に出会うなら、救いに導かれるのは確実です。いつも思うことは、もっと伝道用の本が用いられたらもっと多くの人が救いに導かれるのにということです。しかし仲々すゝまないのが、この文書伝道です。ぜひ、教会の貸出図書に地の塩の本を備えていただけたらと思います。また病院などの文庫などにも寄贈していただけたらと思います。お友だちや求道中の方や、結婚式や告別式などの引き出物に、贈物にプラスして「うれしくて」や「愛の絆によって(ルツ記)」などの本をどうぞ。(1986.3.1)

「聖書の探求」の目次

(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用しました。)