聖書の探求(057) 出エジプト記20章 十戒

この章の中心は十戒です。十戒の前半四つは神に対する人の義務を記しており、後半の六つは隣人に対する戒めを記しています。これは主イエスが、マタイの福音書22章37~40節で教えられた二つの戒めと全く一致しています。

マタ 22:37 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒めです。
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
22:40 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

十戒はそれを消極的な面から、律法的な面から記しており、主イエスはそれを積極的な面から、愛と恵みの面から記しています。十戒は人に罪を悟らせて、神の恵みを求める必要感を覚えさせるために与えられており、主イエスの教えは、それを成就するために語られています。それ故、主イエスの教えは十戒の完成であると言っていいでしょう。

〔十戒の意義〕

一戒 礼拝の対象について
二戒 礼拝の様式について
三戒 礼拝の態度について 神に対して
四戒 礼拝の時について
五戒 両親の聖なること
六戒 生命の聖なること
七戒 結婚の聖なること
八戒 所有物の聖なること 隣人に対して
九戒 名前、名誉(人権)の聖なること
十戒 内なる思念の聖なること

〔愛が律法の十全であること〕

一戒 愛は第一戒を全うする。神への愛は他の偶像の存在を不可能とする。
二戒 愛は他の物を礼拝の対象として置き換えることをしない。
三戒 愛は決して神の御名をみだりに唱えさせたりしない。
四戒 愛は神の日を尊ぶことを喜ぶ。
五戒 愛は家庭を聖別し、祝福する。
六成 愛は傷つけ、殺すことに同意せず、他人の幸福を喜ぶ。
七戒 愛はみだらな情欲を破壊する。
八戒 愛は与えることを喜び、盗むことをしない。
九戒 愛は偽りの唇を押さえる。
十戒 愛は隣人の持ち物に不法な目を向けない。むしろすべての人々の祝福を願う。

Ⅰ.1~11節、十戒前半‥神に対する人の義務

この十戒は申命記5章にも再述されています。これは民が神を信じ、神を愛して従う時に祝福が与えられるための規定です。

出 20:1 それから神はこれらのことばを、ことごとく告げて仰せられた。
20:2 「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。

2節は、十戒全体の基礎となっています。
これは民が罪の奴隷としての生活から解放され、神との密接な関係を結んでいる者に与えられた戒めです。
ここでは神が、人と無援な関係を結ばれる人格神であり、その関係とは、イスラエル人にとってはエジプトの奴隷から解放された神であり、クリスチャンにとっては罪の奴隷から解放された神です。それ故に、この十戒は、神との正しい関係を結んでいる者にとってのみ、祝福の条件となります。

3節、一戒

出 20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。

ここでは唯一の神が強調されています。この唯一とは、数のことよりも、偶像との区別をはっきりさせることを意味しています。神が唯一であられることは、私たちに二心のない献身を求めます。
唯一の神以外の物を神として礼拝することは、真の神に対する大きな冒涜です。また人間が偶像を拝んだり、それに宗教哲学や思想を付け加えても、その偶像が生命を持つようになるのではありません。それはいつでも人間の側の問題であって、神においては全く偶像問題はないのです。
特に、神の民となっている者にとっては、間違っても偶像に関わることに心が引かれたり、それに加わるようなことがあってはなりません。「神の民」とは、この世の偶像に対して解決を持っている人のことです。
これが神の祝福を受ける第一の条件です。
ところがイスラエル人はこのような戒めを受けつつも、偶像礼拝に妥協したために捕囚という大惨事を招いたのです。

4~6節 二戒 偶像礼拝の禁止

出 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

ここでは神が霊であることを強調しています(ヨハネ4:24)。

ヨハ 4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

3節の神が唯一であること、そして神が霊であること、さらに神が永遠であることは、神の本質です。それ故、十戒は単に人間が守るべき戒めであるばかりでなく、神ご自身の本質の啓示を含む重要なものです。
この神の本質を正しく理解しておくことは、私たちが神を礼拝する上で最も必要なことと言えましょう。礼拝の対象者であられる神がどのようなお方か、わからないでは礼拝はできません。神はこの第二戒において、礼拝の対象のために偶像を作ってはならないことを命じました。それはたとい、真の神を象徴するものであっても、偶像礼拝とみなされたのです。たとえば、アロンが作った金の子牛(32章)は、偶像として神の激しい怒りをかっています。モーセが作った青銅の蛇(民数記21:8,9)も、後代の人々によって「ネフシュタン」と呼ばれて偶像礼拝の対象にされていました(列王記第二18:4)。

民 21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

Ⅱ列王 18:4 彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。

この戒めは芸術としての彫刻や絵画を禁じたものではありませんが、それらはしばしば礼拝の対象とされる危険があります。その時、神は怒りを発せられ、人間は不道徳に傾いていくのです。今日の私たちも神が霊のお方であることをもっと強調すべきです。大きな会堂が信頼の対象になったり、十字架のネックレスのような装飾品に心が奪われるようになったら、もうそれらは十分に偶像礼拝となります。私たちは聖書の原点に立った信仰に立ち帰らなければなりません。これは実に素朴ですが、真実であり、神が求めておられる礼拝です。

出 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、・・・

5節の「ねたむ神」とは、人間のねたみとは異なります。それは、神の民が神のみを愛することを要求される神という意味です。それほどに神は民を愛し、キリストを十字架につけられたのです。この、ねたむほどの愛の神に対して私たちが逆らうなら、神の愛は激しい怒りとなって私たちの上に下されます。イスラエルの歴史はそれを示しています。

5節後半~6節 親の信仰の子孫に対する影響力。

出 20:5 ・・・ わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。

神は、神を憎む者には審判の神となり、神を愛し、その戒めを守る者には恵みの神となられます。ここに、神の怒りは三、四代までの影響でとどまり、恵みは千代までも続くことが約束されているのは、神の憐みです。これも具体的にイスラエル民族のうちに成就しています。ヤコブの息子ヨセフの信仰はその子孫エフライム部族の繁栄となって後々まで祝福をもたらしています。ダビデの信仰はユダの王位継承において現わされています。このように親の信仰が子孫にいかに大きな影響を与えるかを考えると、各々がいかに敬虔に、忠実に神に従って生涯を過すべきでしょうか。

とにかく、人が偶像を作るのは、利己的欲望のためですから、礼拝の対象には霊なる神を礼拝し、いかなる形ある像も作ることを禁じられました。人のかたちをとって現われた神は受肉されたイエス・キリストだけで、その他の形ある神仏はすべて偶像であり、神はこれを最も嫌われます。

7節 三戒 聖なる神の御名

出 20:7 あなたは、あなたの神、【主】の御名を、みだりに唱えてはならない。【主】は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

旧約のイスラエル人たちは神の御名を語る時には非常に注意を払いました。彼らは決して神の御名をそのまま使いませんでした。彼らは神の御名から母音を除いて子音だけを発音し、神を「ヤーウェ」と呼びました。これを「主」と訳しているのです。(新改訳聖書では、このヤーウェはゴシック字で「主」と書かれています。) 彼らはこの戒めに非常に忠実であろうとしたので、偽りの誓いや偽りの証言のために、神の御名を使ったり、不真面目に唱えることを禁じました。しかしクリスチャンはその使用において不真面目にならないというだけでなく、心のうちにて神の御名に対する深い畏敬と信頼をもちたいものです。

8~11節 四戒 安息日の遵守

出 20:8 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。
20:9 六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない。
20:10 しかし七日目は、あなたの神、【主】の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない。──あなたも、あなたの息子、娘、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、また、あなたの町囲みの中にいる在留異国人も──
20:11 それは【主】が六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にいるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。それゆえ、【主】は安息日を祝福し、これを聖なるものと宣言された。

「安息」という語は、「止む」とか、「休む」という意味で、安息日はすでに創世記2章1~3節でその意味が明らかにされています。

創 2:1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
2:2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
2:3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

しかし、安息日としての制度化は、ここにおいて初めてなされました。この安息日は神を礼拝し、神のために用いるように聖別された日です。この安息日を守ることは、人だけでなく、家畜にまでも適用されています。これは人が家畜を使って仕事をしたからでしょう。

安息日制定の根拠は11節に神が六日間で天地を創造され、七日目に休まれたことに基づいていますが、これは人にとって、肉体的にも、精神的にも、霊的にも、必要な神の配慮であります。
この日は特に、神に祝福される日です。この安息日は新約聖書中では、主の復活された週の初めの日に適用されています。主イエスは週の初めの日、すなわち日曜日に復活され(ヨハネ20:1)、「八日後」(次の日曜日、同20:26)に顕現されています。

ヨハ 20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

ヨハ 20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように」と言われた。

これは安息日の意味を変えたのではありませんが、クリスチャンは日曜日に礼拝を守るようになりました。それは日曜日が、安息日の主(マタイ12:8)であるお方の復活の記念日であるからです。

マタ 12:8 人の子は安息日の主です。」

旧約において主は天地創造の完成をもって七日目を安息日と定められましたが、新約において主はあがないの完成を意味するご自身の復活をもって、日曜日ごとに弟子たちの前に現われることによって、週の初めの日を安息日と制定されました。こうして、キリストの十字架による完全ないけにえによって、旧約の獣のいけにえの儀式が終わったように、キリストによる新しい安息日の制定によって、旧約の七日目の安息日は完了することになったのです(ローマ10:4)。

ロマ 10:4 キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。

Ⅱ.12~17節 十戒後半‥隣人に対する義務

12節、五戒 父と母を敬え

出 20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

両親を敬うことが、人に対する戒めの第一位に置かれていることは、これが人間の社会における秩序の第一のものだからです。この秩序が崩壊する時、個人も、家庭も、社会も、根底からくずれていきます。そして現代はそのような時代にあるのです。
この十戒が制定された当時、諸国の人々の間では、年老いた両親を扶養する困難さから、砂漠などに捨ててしまうことがあったようです。しかしこのようなことは形を変えて、今日でも起きているのではないでしょうか。それ故、この戒めは今日、もう一度強く叫ばれ、回復されなければならないのではないかと思います。

両親を敬うことは、神を敬うことに通じるのです。これは多くの儀式を守ること以上に大切なことなので、空文化させてはなりません。(マルコ7:9~13)

マル 7:9 また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。
7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。
7:11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。
7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」

(「敬う」ことの意味)

1、服従、従順‥エペソ6:1~3

エペ 6:1 子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。
6:2 「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、
6:3 「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする」という約束です。

2、扶養の義務‥マルコ7:10~12

マル 7:10 モーセは、『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言っています。
7:11 それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、
7:12 その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。

3、尊敬‥創世記9:23、蔵言19:26、20:20、30:17、申命記21:18~21

創 9:23 それでセムとヤペテは着物を取って、自分たちふたりの肩に掛け、うしろ向きに歩いて行って、父の裸をおおった。彼らは顔をそむけて、父の裸を見なかった。

箴 19:26 父に乱暴し、母を追い出す者は、恥を見、はずかしめを受ける子である。

箴 20:20 自分の父や母をのろう者、そのともしびは、やみが近づくと消える。

箴 30:17 自分の父をあざけり、母への従順をさげすむ目は、谷の烏にえぐりとられ、鷲の子に食われる。

申 21:18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
21:19 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
21:21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。

13節 六戒 殺してはならない

出 20:13 殺してはならない。

この戒めは、故意に殺害することを禁じています。これは人の命を創造された神の大原則であり、決闘、自殺、殺人を禁じています。また、自分と他人とを問わず、人を死に至らせる傾向や危険性のあるすべてのことを禁じることになります。たとえば、罪深い感情、憎しみ、悪意、復讐心、争い、論争、口論、過剰な飲食、薬物や酒、タバコ類の使用、過剰な労働、自らの命や他人の命を危険にさらすこと、いかなる環境においても命を守るために必要な手段を取ることを怠ることなどが含まれます。

しかし後に、殺しても許される場合が記されています。

1、神の御手によった場合(21:13)

出 21:13 ただし、彼に殺意がなく、神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに彼ののがれる場所を指定しよう。

2、誤って、気づかずに殺した場合(民数記35:23~25)

民 35:23 または気がつかないで、人を死なせるほどの石を人の上に落とし、それによって死なせた場合、しかもその人が自分の敵でもなく、傷つけようとしたのでもなければ、
35:24 会衆は、打ち殺した者と、その血の復讐をする者との間を、これらのおきてに基づいてさばかなければならない。
35:25 会衆は、その殺人者を、血の復讐をする者の手から救い出し、会衆は彼を、逃げ込んだそののがれの町に返してやらなければならない。彼は、聖なる油をそそがれた大祭司が死ぬまで、そこにいなければならない。

3、正当な殺人(22:2)

出 22:2 ──もし、盗人が、抜け穴を掘って押し入るところを見つけられ、打たれて死んだなら、血の罪は打った者にはない。

4、旧約時代の神のご命令による戦い。今日、正義のための戦争については様々な議論があります。しかし新約においては主イエスは、「剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26:52)と言われただけで、戦いが命じられたことも、許可されたことも一度もありません。

マタ 26:52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。

旧約時代の戦いのご命令も決して普断に行なわれたのではなく、特別な状況において、特別な御意図によってなされました。

今日の、法のもとにおける死刑や自己防衛のための殺人についても、クリスチャンの間で意見が分かれることです。理想的には死刑や自己防衛の必要のない社会をつくることがクリスチャンの使命ですが、現実問題からすると、各人の信仰的良心の判断にまかされていて、どちらが良い、悪いと言えない点があります。しかし神の原則から言うと、神は罪悪に対しては必ず審判を下されるお方であるということを覚えておく必要があります。
倫理性の低い社会で死刑がなくなれば、犯罪はふえ、また自己防衛をしなくなれば、乱暴者が社会を支配するようになるでしょう。それ故、これらは簡単に結論づけられません。

また最近では、意識のない植物人間のようになってしまった患者をいつまで医療機器で生かしておくのかという問題も生じています。これは家族の生活問題ともからんで複雑です。さらに臓器移植の面でも、どの時点で死と認めるかという問題が日久しく議論されています。これらの問題の複雑さは、ひとりの人の死によって、他の人が生かされるという点にあると思われます。しかし、「生かされる」ために、「死」が軽く扱われてはなりません。また議論の中に、本人や家族の意志、また医師や法の考え方は含まれていても、人に命を与えられた神の御意志が反映されていないところに危険性を感じます。命を与え、命を取り去る殺生与奪の権はただ神にのみあります。ここに人間が介入することは神の権威の侵害になります。また医学という人間の力が人の命を延したり、造ったりできるという思い上がりになっていくと、人類は早急に滅亡の道をたどることになります。

最後に、殺人について一つ重大なことを考えておかなければなりません。それは、人は、「憎む」ということによって殺人を日常に犯しているということです。ヨハネは、「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」(ヨハネ第一3:15)と言いました。

Ⅰヨハ 3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

人は実際に殺人の行為をしなくても、「憎む」という動機において多くの殺人を犯しています。もしチャンスがあったなら、多くの人が自殺者か、殺人犯になっていることでしょう。こういう点で、特にクリスチャンは心の動機が潔められて、神の愛を心に満たしているべきです。

14節 七戒 姦淫してはならない

出 20:14 姦淫してはならない。

結婚と家庭はアダムとエバ以来、神によって定められた神聖なものです。これを汚す者は神の神聖を汚すものです。
姦淫は人間の社会のすべての基礎をなす家庭生活を侵害し、人類を崩壊に陥れます。旧約の時代に厳しい神の刑罰を受けた者はほとんど姦淫の罪を犯していました。またイスラエル民族は性的姦淫にとどまらず、霊的姦淫を犯し、みだらな偶像礼拝に見境もなく酔いしれていたのです。その結果が悲惨な捕囚という刑罰でした。今日も、姦淫の故に、夫婦は離婚し、家庭は崩壊しています。一時の肉的快楽を求め、すべてを失っていくのです。しかも現代の男女はますます挑発的になっていますから、今後もこの罪はふえて、健全な家庭が存在しない社会へと、どろ沼状態になっていくでしょう。

人間は性と富と名誉に弱いのですが、性の誘惑には最も弱いと思われます。この誘惑に勝つ方法は、

1、そのような会話や雰囲気のある場所に身を置かないこと、
2、好奇心をもって見つめないこと、
3、誘惑を直ちに拒否すること。誘惑をもてあそばないこと、
4、異性に対して、神の愛をもって接すること。神の愛が心の内に満ちている時にだけ、誘惑に勝ち続けることができます。

主イエスは、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)と、動機における姦淫について警告しています。罪からの自由、罪に対する勝利は、動機が潔められ、動機において勝利を得ていることです。動機が勝利を得ていれば、実際的行動においては容易に勝利が得られます。しかし動機が誘惑にゆすぶられていながら、実際の行動で勝利を得ようとしても、これは百%失敗に終わります。
姦淫の罪は人類史最大の悪ということができるでしょう。そしてこの罪は後代にも悪い影響を与え続けてきたのです。
パウロは若い伝道者テモテに対して、「若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。」(テモテ第一5:2)
「あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(テモテ第二2:22)と教えました。クリスチャンは潔められた心を持ち、きよい交わりを保つことが必要です。また、夫婦の間の愛を主にあってますます豊かなものにすべきです。

15節 八戒 盗んではならない

出 20:15 盗んではならない。

この世にあるすべてのものは神のものです。神はそれを各々人に委託され、各人がそれをどのように使用するかを見ておられます。そしてこれが神の裁きや報いの対象になってきます(マタイ25:14~30)。

マタ 25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。
25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。
25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。
25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。
25:28 だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。
25:30 役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

しかし人間は貧欲の故に、他人をだまして他人のものを奪おうとします。これは神の委託権を侵害するものです。正当な手段(相手の同意があって)によって与えられるなら、それは神の委託です。

盗みは物品だけでなく、時間、名誉、権利などにも適用されます。また盗みという行為の中には、自己中心が最もよく表われています。

「盗む」という行為の中には様々なものが含まれています。

1、強盗‥力ずくで奪う(ヨハネ10:1,8)

ヨハ 10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。
ヨハ 10:8 わたしの前に来た者はみな、盗人で強盗です。羊は彼らの言うことを聞かなかったのです。

2、盗む‥自分の欲望を満たすためのむさぼりから起きる(アカンの例 ヨシュア記7:21)

ヨシ 7:21 私は、分捕り物の中に、シヌアルの美しい外套一枚と、銀二百シェケルと、目方五十シェケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それらを取りました。それらは今、私の天幕の中の地に隠してあり、銀はその下にあります。」

3、盗難品であることを知りつつ、それを手に入れること、
4、偽りの計量器、地境などの不正
5、契約に関して不正、不忠実
6、賄賂、圧制
7、賭事
8、悪口‥他人の名聞を傷つけること
9、詐欺‥他人の無知や弱みにつけこんで他人のものを奪う

16節 九戒 隣人に対して偽りの証言をしてはならない

ここに「隣人」とあるのは、良きサマリヤ人のたとえ(ルカ10:29~37)からして、すべての人、自分の好まない人も含まれています。

ルカ 10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

すなわち、隣人が自分の好む人である時だけでなく、敵の立場にある人であっても、偽りの証言によって、相手が不利になるような証言は、法廷においても、日常の生活においてもしてはならないという戒めです。証言は、人の前ばかりでなく、神の前で行なわれていることを忘れてはなりません。

偽りの証言とは、
1、法廷における偽りの証言
2、あらゆる場所での偽りの言葉(無責任な発言も含む).
3、文書、貨幣の偽造
4、真理をかくすこと(不正な沈黙)
5、悪口、そしり、ささやき
6、ひとり合点による他人の評価
7、罪の言分け、隠すこと
8、隣人に害を与える目的で偽りの報告をすること

17節 十戒 むさぼりの禁止

出 20:17 あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」

これはこの世に対する愛を禁じたもので、心の動機や状態を扱っており、先の四つ、殺人、姦淫、盗み、偽りの証言の動機の基礎となる戒めです。
1、隣の家に足をしげくしてはならない。
2、隣人の妻に近づくことは姦淫への道。
3、隣人の財産‥必要以上に物を欲しがることは盗みへの道です。神が与えてくださったもので満足しなさい(ルカ3:14)。

ルカ 3:14 兵士たちも、彼に尋ねて言った。「私たちはどうすればよいのでしょうか。」ヨハネは言った。「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」

常に、不正直の背後に金を愛することがある(テモテ第一6:10)。

Ⅰテモ 6:10 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。

人は、その行ないにおいてばかりでなく、思いや動機においても、神の御前に責任を取らなければなりません。それ故、人は動機が深められる時、罪から実際的に解放されます。

Ⅲ.18~26節 民の恐怖とモーセの畏敬

出 20:18 民はみな、雷と、いなずま、角笛の音と、煙る山を目撃した。民は見て、たじろぎ、遠く離れて立った。
20:19 彼らはモーセに言った。「どうか、私たちに話してください。私たちは聞き従います。しかし、神が私たちにお話しにならないように。私たちが死ぬといけませんから。」

19節で民が「聞き従います。」と言ったのは、愛の故でもなく、信仰の故でもありません。ただの恐れのためでした。もし人が神の審判を恐れ、地獄を恐れるだけで、神に従っているなら、その人はやがて神に反逆するようになります。なぜなら、神はあわれみの神であるのに、神のあわれみを素直に受け入れないで神の裁きを恐れたり、あるいは、神のあわれみが示される時、人は神の厳しさを忘れてしまうからです。それ故、恐れの故に神に従うことは健全ではありません。愛と信仰をもって神に従うのでなければ、決して神に喜ばれません。私たちは奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。(ローマ8:15)

ロマ 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

民は神の来臨を恐れましたが、モーセはその意味をよく悟っていました。何事においても、特に、霊的なことにおいては、正しく理解されないと、ただ混乱を招くだけです。健全な理解は健全な教えを受けることによってだけ得られます。聖書と信仰生活においては自己流の判断と異端的に片寄った指導を受けることほど危険なものはありません。

「恐れ」と言っても、民の恐れはただの恐怖であり、モーセが言った「神への恐れ」は畏敬です。神が降臨され、この十戒を与えられたのは、民が罪を犯さないためであり、それと共に、罪とは何であるかを、はっきりと教えるためでもありました。これを祝福と受け留めるか、恐怖と受け留めるかは、その人の心の在り方によります。今日でも教会に出席する人々の中に、この二種類の受け留め方をする人々がいます。神のメッセージを裁きと受け留める人と、恵みと受け留める人です。この両者の間には無限の隔たりがあります。恐れをもっていれば裁きとなって聞こえ、信仰をもって積極的になっていれば恵みとなって聞こえてきます。

21節で、モーセは民が恐れている「神のおられる暗やみ」に近づいて行きました。

出 20:21 そこで、民は遠く離れて立ち、モーセは神のおられる暗やみに近づいて行った。

常に、不信仰な人は、神に近づき、神に全く従うことは危険であると思います。しかし、信仰の強い人は、神に全く従うことが最大の恵みであることを知っています。民は暗やみを恐れていましたが、モーセは暗やみの向こうに光があることを知っていました(詩112:4)。

詩 112:4 主は直ぐな人たちのために、光をやみの中に輝かす。主は情け深く、あわれみ深く、正しくあられる。

民は雷といなずまの故に恐れましたが、モーセはそこに神の御声を聞いたのです。不信仰と信仰には、これほどの差があることを私たちは悟らなければなりません。同じ物を見ても、同じ問題にぶつかっても、全く反対の態度を示してしまうのです。

22~26節では、再度、神は民に警告を発しています。

出 20:22 【主】はモーセに仰せられた。「あなたはイスラエル人にこう言わなければならない。あなたがた自身、わたしが天からあなたがたと話したのを見た。
20:23 あなたがたはわたしと並べて、銀の神々を造ってはならない。また、あなたがた自身のために金の神々も造ってはならない。

23節は、偶像の絶対禁止です。真の神を偶像と同じようなものと考えてはならないことです。クリスチャンですら、しばしば神を、偶像と同じように力のないもののように考えてしまいます。これは神を冒涜する罪です。

出 20:24 わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。

24節では、土の祭壇を造って、その上にいけにえをささげるように命じられています。土の祭壇はやがてくずれてしまいますから、後世の者が偶像礼拝に使用することがない、という配慮がなされています。ここでは、全き献身をあらわす全焼のいけにえと、罪の赦しと回復をあらわす和解のいけにえをささげることが命じられています。いけにえについての詳細な制度の制定はレビ記においてなされていますが、ここで神が求めておられることは、今日、私たちに求めておられるのと同じ、救いの恵みと、潔めの恵みに与ることです。ここに大きな祝福の源があります。

出 20:25 あなたが石の祭壇をわたしのために造るなら、切り石でそれを築いてはならない。あなたが石に、のみを当てるなら、それを汚すことになる。

25節では、石の祭壇をつくる場合、自然石を用いるように命じられています。「のみを当てるなら、それを汚すことになる」というのは、石を刻んで偶像をつくることの禁止と関係があると思われます。

出 20:26 あなたは階段で、わたしの祭壇に上ってはならない。あなたの裸が、その上にあらわれてはならないからである。

26節では、まだこの時は、いけにえをささげる時の祭司の衣服は定められていなかったようです。しかし、神に近づくのに、不潔な姿や、裸同様の姿であるのは、神は禁じられました。そのふさわしさが求められたのです。これは今日のクリスチャンの服装に対する一つの警告としても受け取るべきです。

(ハムラビ法典とモーセの律法の相違点)

ハムラビは創世記14章1節のシヌアルの王アムラフェルと同一人物です。

ハムラビ法典

1、所有物の強調
2、特別な人と一般人とを差別している
3、純粋に民法的性格をもっている

モーセの律法

1、人に強調点を合わせている。
2、人の差別はない
3、より宗教的性格をもっている(民法的な面も含んでいる)

〔あとがき〕

現代のクリスチャンの弱さは、祈りの経験と聖書の理解のはなはだしい欠乏にあります。
祈りは、祈りの言葉を覚えて、それを上手に言えるようになることであると思い、それが出来ないと祈れないと思うのです。しかしたとい、そのような祈りが出来ても、そこには生きた神との交わりがありませんから、祈りとは言えません。
聖書については、もっとひどい状態にあります。教会の説教の時間は大巾に短縮されて三十分以内のところがふえています。もはや聖書の講解説教は聖会で有名説教者がなすべきものになりつつあります。
その代わりにふえてきたのが賛実の時間です。讃美は礼拝に欠かせません。しかし聖書は神がご自分を啓示された唯一の啓示の書です。それ故、聖書がわからなければ、祈りも賛美も的はずれのものになってしまいます。また説教はただ聖句の釈義で終らず、聴衆が個人生活で活用できるものでなければなりません。また各人は家庭で聖書を本格的に探求すべきです。霊想書を読むだけでよしとしないで。

(まなべあきら 1988.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵画は、オランダの画家 Caspar Luyken (1672-1708)が1699-1705年頃に描いたエッチング画「Moses receives the Ten Commandments(モーセは十戒を受け取る)」(Wikimedia Commonsより)、ちなみにCaspar Luykenは、同じくエッチング画家のJan Luykenの息子である。


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