聖書の探求(060b) 出エジプト記24章 神と民との契約(礼拝に関して)
24章は21章から始まった神と民との間の契約の書の締括りであり、礼拝と契約について語られています。そしてまた、この章は25章からの幕屋に関する叙述についての序となっています。
さらに、この章から、モーセが神と民との間を往復することが始まっています。モーセは仲保者として、預言者としての働きをしているのです。
Ⅰ.1~11節、神と民の契約の調印
1,2節、神はモーセに、アロン、ナダブ、アビフとイスラエルの長老七十人を連れて主のところに上るように命じられました。しかし神に近づき、神と親しく物語ることを許されたのはモーセだけです。
出 24:1 主は、モーセに仰せられた。「あなたとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は、【主】のところに上り、遠く離れて伏し拝め。
24:2 モーセひとり【主】のもとに近づけ。他の者は近づいてはならない。民もモーセといっしょに上ってはならない。」
主イエスも、群衆には祝福を与えられましたが、親しく語られませんでした。親しく語られたのは、へりくだって主のみもとに自ら近づいていった者たちだけです。五千人以上の人々が主イエスからパンをいただいて食べましたが、彼らのうちの多くはその生涯を主イエスとともに歩まなかったのです(ヨハネ6:66)。
ヨハ 6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。
ペテロも、イエスが捕えられた時、主から遠く離れてついて行ったために(ルカ22:54)、主を三度も否んでしまったのです。
ルカ 22:54 彼らはイエスを捕らえ、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。
しかしベタニヤ村のマリヤはいつも主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていました(ルカ10:39)。
ルカ 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
私たちは主から祝福を得、助けを受けると、すぐに主のもとを離れてしまいやすいのです。祝福や助けを求めても、主と親しく物語り、交わることを欲しないからです。私たちは、マリヤの如く、いつまでも主のみことばに聞き入る生活をしたいものです。
3節、モーセは契約の律法を主からいただくと、それを持って民の所に下ってきました。モーセは主のみことばについて三つのことをしました。
(1) 告げた(3節)
出 24:3 そこでモーセは来て、【主】のことばと、定めをことごとく民に告げた。すると、民はみな声を一つにして答えて言った。「【主】の仰せられたことは、みな行います。」
(2) ことごとく書きしるした(4節)
出 24:4 それで、モーセは【主】のことばを、ことごとく書きしるした。そうしてモーセは、翌朝早く、山のふもとに祭壇を築き、またイスラエルの十二部族にしたがって十二の石の柱を立てた。
(3) 読んで聞かせた(7節)
出 24:7 そして、契約の書を取り、民に読んで聞かせた。すると、彼らは言った。「【主】の仰せられたことはみな行い、聞き従います。」
この三つ、すなわち、説教、文書伝道、聖書及び信仰書の朗読は、今日もなお必要なことです。
これに対して、民はどんな応答をしたでしょうか。神のみことばに対しては、必ず応答が求められます。ある人はそれを受け入れて従い、ある人はそれを拒みます。
3,7節、民は神が仰せられたことを、みな行ない聞き従うことを約束しました。
神に対してなされた約束は必ず実行されなければなりません。しかし、しばしばそれは反古にされています。
4節で、モーセが祭壇を築いたのは、主の臨在を現わすためであり、十二の石の柱を立てたのは、十二の部族全部が立ち会ったことを示すためです。
6,8節、この契約は血によって結ばれました。その血は半分を祭壇に、半分は民に注がれました。
出 24:6 モーセはその血の半分を取って、鉢に入れ、残りの半分を祭壇に注ぎかけた。
24:8 そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、【主】があなたがたと結ばれる契約の血である。」
これは、この契約が主とその民の間で結ばれたことの象徴でした。しかしこの血も、主イエスの血が注がれるまでは、その予表でしかありませんでした。
「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:20)
ルカ 22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
また、民が「主が仰せられたことは、みな行ないます。」と言った決心も、信仰によるまでは、ただの律法上の人間的な決心でしかなかったのです。それ故、彼らに罪の性質がある限り、主の戒めを守ろうと思っても、それを破ってしまったのです。
パウロも自分の力で律法的に正しく生きようと決心しながら、それができないで苦しんでいる人の姿を措いています。ぜひ、ローマ人への手紙7章7~25節を注意潔く探求してください。
私たちはいつの間にか、信仰によって主イエスの力を受けずして、自分の知恵と力によって神の戒めを守ろうとしています。その時は、いつも敗北してしまうのです。 パウロは自分の力で律法を守ろうと決心し、努力するのではなく、「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」(ガラテヤ5:6)と教えています。
ガラ 5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼を受ける受けないは大事なことではなく、愛によって働く信仰だけが大事なのです。
9~11節、この契約の調印式に参加した者は、神との交わりに与かる特権を得ました。
出 24:9 それからモーセとアロン、ナダブとアビフ、それにイスラエルの長老七十人は上って行った。
24:10 そうして、彼らはイスラエルの神を仰ぎ見た。御足の下にはサファイヤを敷いたようなものがあり、透き通っていて青空のようであった。
24:11 神はイスラエル人の指導者たちに手を下されなかったので、彼らは神を見、しかも飲み食いをした。
11節に、「神はイスラエルの指導者たちに手を下されなかった」とありますので、彼らは神を仰ぎ見るほど近くにまで進むことが許されたのでしょう。だれでも求めるなら、神に近づくことができるのです(エレミヤ書30:21)。
エレ 30:21 その権力者は、彼らのうちのひとり、その支配者はその中から出る。わたしは彼を近づけ、彼はわたしに近づく。わたしに近づくためにいのちをかける者は、いったいだれなのか。──【主】の御告げ──
11節に、「飲み食いをした」とあるのは、犠牲の肉を食べたことであり、それは神と交わることを意味しています(ヨハネ6:53~58)。
ヨハ 6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」
彼らが食事をしている間、神は恵みのしるしとして、ご自身の栄光を彼らに示されたのです。しかしこれは主ご自身の姿ではなく、その栄光の反映でしかありません。それでも、それは無比のすばらしさをもち、しかもなお、彼らは生きていました。通常、人が直接、主の栄光に触れる時、死を意味していました。出エジプト記33章でモーセが、「どうか、あなたの栄光を私に見せてください。」(18節)と言った時でさえ、主は「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」(20節)と言われました。それ故、彼らが主の栄光の反映を拝しても、なお死ななかったのは、特別な恵みであったことが分かります。
しかし現在は、神のみことばと聖霊との交わりによって、特別な神の栄光を拝することができます。
「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」(コリント第二3:18)
Ⅱ.12~18節、「わたしのところに上り、そこにおれ」
出 24:12 【主】はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」
24:13 そこで、モーセとその従者ヨシュアは立ち上がり、モーセは神の山に登った。
24:14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」
24:15 モーセが山に登ると、雲が山をおおった。
24:16 【主】の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。
24:17 【主】の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。
24:18 モーセは雲の中に入って行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。
モーセと長老たちは契約の調印が終わると、山を下りていたようです。
この箇所には、「そこにおれ」という意味の言葉が二回(12、14節)語られて
います。
その意味は各々、重要です。
第一は12節で、主がモーセに語られたみことばです。
出 24:12 【主】はモーセに仰せられた。「山へ行き、わたしのところに上り、そこにおれ。彼らを教えるために、わたしが書きしるしたおしえと命令の石の板をあなたに授けよう。」
モーセは神のみもとに上り、そこにおることが命じられています。それはモーセがこれから先、民に神の戒めを教えるために、神が書き記されたおしえと命令の石の板を授かるためでした。実に、神のメッセージを語り、教えることは、神のみもとに長くとどまる者にだけ可能です。
クリスチャンは神のみことばを語り、あかしするために、神のみもとに登り、そこにとどまらなければなりません。それによって語るべきメッセージを神から賜わるのです。
第二は14節で、モーセが長老たちに語った言葉です。
出 24:14 彼は長老たちに言った。「私たちがあなたがたのところに帰って来るまで、ここにいなさい。ここに、アロンとフルとがあなたがたといっしょにいます。訴え事のある者は、だれでも彼らに告げるようにしなさい。」
「‥‥帰って来るまで、ここにいなさい。」これはモーセの留守中、欠けなく、万事を行なうようにとの命令です。
私たちは主がお帰りになるまで、万事欠けなく奉仕を続けたい。また自らすゝんで神のことばを語る者を助けるために、教会の雑用を果たしたいものです。
モーセは、長老たちに山の下の用事を託すことによって、神のみもとに上ることができたのです。
(まなべあきら 1989.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の写真は、「Climbing the trail near the summit of Mount Sinai(シナイ山頂上近くの登山路を登る)」(2008年頃 Mark A. Wilson氏撮影、Wikimedia Commonsより)
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