聖書の探求(060a) 出エジプト記23章 神と民との契約(祭りに関して)
23章は、22章に続いて道徳的な法規を語りつつ、ヘブル人にとって重要な年に三度の「種を入れないパンの祭り(過越の祭)」と「刈り入れの祭り」と「年の終わりの収穫祭」とを行なうことが命じられています。このことは、これらの三つの祭りがへブル人の生活の中で重要な位置を占めていたことを示しています。
Ⅰ.1~9節、道徳法規(2)
ここでは特に、訴訟の問題が取り扱われています。そして、この根底には、「自分の敵を愛せよ。」(マタイ5:44)という思想が流れています。
マタ 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
特に、4節の「あなたの敵の牛とか、ろばで、‥‥」、5節の「あなたを憎んでいる者のろばが‥‥」はそれを意味しています。これらは非常に具体的に敵を愛することを教えています。
出 23:4 あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。
23:5 あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。
この外にも、私たちが陥りやすい危険を指摘して警告しています。
1節、悪者に巻き込まれ、組して、偽りのうわさや悪意のある証言をして、正しい者を不利な立場に立たせてはならないこと。
出 23:1 偽りのうわさを言いふらしてはならない。悪者と組んで、悪意ある証人となってはならない。
2節、訴訟に当っては、権力者に偏ってはならないこと。長い物に巻かれてはならないこと。特に、クリスチャンはこの世の権力にこびへつらってはなりません。
出 23:2 悪を行う権力者の側に立ってはならない。訴訟にあたっては、権力者にかたよって、不当な証言をしてはならない。
3節、人情に傾いてはならないこと。貧しいからというだけで、すべてがゆるされるのではないこと。貧しい者も富む者もキリストの十字架なくして天の御国に入ることができないことを覚えなければなりません。
出 23:3 また、その訴訟において、貧しい人を特に重んじてもいけない。
6節、また逆に、貧しいからといって、訴訟において不利な立場に立たせてはならないこと。弱者、小数者が、それだけの理由で不利な立場に立たせられてはなりません。この点から見ると、今日の政治や社会機構は旧約の律法にも劣っていると言わなければなりません。
出 23:6 あなたの貧しい兄弟が訴えられた場合、裁判を曲げてはならない。
8節、わいろは人を愚か者にするから、これをはっきりと断らなければなりません。わいろを受け取ったために、その人の倫理性がくずれ、その人生を台無しにしてしまった人がいかに多いことでしょうか。
出 23:8 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。
訴訟において取るべき態度は(7節)、
(1) 偽りの告訴を退ける。
(2) 罪のない者、正しい者に刑罰を与えてはならない。
(3) 悪者を正しいと宣告してはならない。
出 23:7 偽りの告訴から遠ざからなければならない。罪のない者、正しい者を殺してはならない。わたしは悪者を正しいと宣告することはしないからである。
この部分だけ、「わたしは‥‥しないからである。」と言われているのは、神が強調されています。すなわち、罪ある者をそのまま正しいと宣告することは、神においては全くあり得ないことだからです。必ず、キリストの十字架のあがないを必要とします。
9節は、22章21節の繰り返しです。
出 23:9 あなたは在留異国人をしいたげてはならない。あなたがたは、かつてエジプトの国で在留異国人であったので、在留異国人の心をあなたがた自身がよく知っているからである。
出 22:21 在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである。
これは、罪なくして弱い立場にある者への思いやりを教えています。ヘブル人もかつてエジプトで在留異国人としての苦しい生活を経験しているので、よく同情できるはずでした。
主イエスも私たちと同じ人となってくださり、あらゆる苦しみを経験してくださいましたので、私たちの弱さに深く同情してくださいます。
クリスチャンはみな、弱さをもつ人、苦しんでいる人に対して深い同情を示すべきではないでしょうか。(ローマ15:1)
ロマ 15:1 私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
また、このみことばは、神が異国人に対して深いあわれみを示しておられ、決してイスラエル人以外の民を無視されていたのではないことを示しています。異国人であっても、神の民と共に神を信じて生きようとする者には、神の恵みが約束されています。ここにも、福音が全人類に及ぶものであることが暗示されています。
Ⅱ.10~19節、道徳法規(3)
ここでは、三者に対する定めが記されています。すなわち、対神と対人と対獣についての定めです。
10,11節、神が七年目に耕作を休ませ、種蒔きも刈り取りもさせなかったのは、土地を休ませるばかりでなく、貧しい人々や野の獣(家畜ではない)に食べさせるためでした。
出 23:10 六年間は、地に種を蒔き、収穫をしなければならない。
23:11 七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。
ぶどう畑やオリーブ畑は耕作を休んでも、果実は実ってくるので、貧しい者や獣は自由に食べることができたのです。ここに最も弱い者に対する神の深い配慮を見ることができます。このような記録を読みますと、どんな社会が一番よいのかがすぐに分かります。それは最も貧しい者、みなしご、やもめたちが活気に満ちて生活できる社会です。弱者が片隅に追いやられ、金持ちが大手を振って歩く社会はいつでも罪悪と汚れと争いが満ちています。
クリスチャンはこの地上にあって、どういう社会を形成していくべきか、もう一度、聖書に立って考えなければならないのではないでしょうか。
12節には、一週間のうち七日目を休ませなければならないという定めがあります。
出 23:12 六日間は自分の仕事をし、七日目は休まなければならない。あなたの牛やろばが休み、あなたの女奴隷の子や在留異国人に息をつかせるためである。
ここでは、牛やろば、女奴隷の子、在留異国人を休ませなければならないことが命じられています。彼らはみな、厳しい労働についている者たちばかりです。これは彼らの健康のためばかりでなく、彼らもまた神の恵みを受ける必要があるからです。
ここでは神を礼拝することについては記されていませんが、それが含まれていることは当然です。
昨今、日本は諸外国から、働き過ぎの非難を受けています。そして日本の政府は労働時間を減らし、休日をふやすことだけを考えています。また国民も休日ごとに遊ぶことだけを考えています。しかし、神を礼拝し、神のために働くことを休日にしなかったなら、国民はますます堕落し、手がつけられない状態になっていきます。否、そのような状態になりつつあります。
19節後半の「子やぎを、その母親の乳で煮てはならない。」は、最も価値なきものへの神のあわれみであると共に、乳は幼いものを養うためのものであるから、それを死の手段として用いることを禁じたものと思われます。
それにしても、人の最高の愛を示す母親の乳で子やぎのごちそうを作り、それを食べて楽しむことは惨酷のようですが、このようなことは今日でもしばしば行なわれています。親子は愛し合うべきであるのに、憎しみ合っている例は至る所に見られます。
さらに、この習慣は当時カナン人の間でしばしば行なわれていました。彼らは豊作を促進するまじないとして、この異教的儀式を行なっていたのです。神は神の民がこれを真似るなら、すぐに偶像崇拝に陥っていく危険があったので、これを禁じたものと思われます。
私たちもこの世の楽しみに慣れすぎないように注意したいものです。
13節は、神に対する定めです。
出 23:13 わたしがあなたがたに言ったすべてのことに心を留めなければならない。ほかの神々の名を口にしてはならない。これがあなたの口から聞こえてはならない。
ここでは神の民が偶像を拝むことだけでなく、その名を口にすることさえ禁じられています。これは、神の民がその心を神に対してだけ、一心に向けることを求めておられるからです。神はねたむ神であられます(出エジプト記20:5、申命記5:9、ヤコブ4:5)。
出 20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
申 5:9 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
ヤコブ 4:5 それとも、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。
ある人々はキリスト教を「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」という禁止の宗教だと思っています。しかしその人は、神が私たちをねたむほど愛しておられるという、そのみこころを知らないのです。もし私たちがこのような神のみこころを悟らなければ、キリスト教は単なる儀式宗教か、戒律宗教になり下がってしまうでしょう。神が、神の民が偶像の名を口にするのさえ忌み嫌われたのは、偶像を憎まれたからだけではなく、ねたむほど愛しているご自分の民が偶像によって少しでも汚されるのを我慢できなかったからです。それ故、神の禁止は単なる律法的禁止でないことを心にとめておかなければなりません。
14節には、年に三度の祭りを行うことが命じられています。
出 23:14 年に三度、わたしのために祭りを行わなければならない。
(1) 15節、「種を入れないパンの祭り」
出 23:15 種を入れないパンの祭りを守らなければならない。わたしが命じたとおり、アビブの月の定められた時に、七日間、種を入れないパンを食べなければならない。それは、その月にあなたがエジプトから出たからである。だれも、何も持たずにわたしの前に出てはならない。
これは出エジプトの出来事を記念して、感謝をささげる祭りであり、何も持たずに主の前に出てはいけないと命じられています。
クリスチャンはいつも、罪から救われ、いのちと光のある生活に入れられた感謝を忘れてはいけません。クリスチャンは肉の誕生日にまさって、主イエスによって救われた霊の誕生日を意義深くお祝いしたいものです。こういう習慣がクリスチャンの間に根強く定着することを期待します。
(2) 16節、「初穂の刈り入れの祭り」
出 23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。
これは申命記16章9,10節では「七週の祭り」と呼ばれています。
申16:9 七週間を数えなければならない。かまを立穂に入れ始める時から、七週間を数え始めなければならない。
16:10 あなたの神、【主】のために七週の祭りを行い、あなたの神、【主】が賜る祝福に応じ、進んでささげるささげ物をあなたの手でささげなさい。
これは初穂の収穫の祝であり、ユダヤ人の間では、過越の祭りの第一日から数えて丸七週間を経た日にペンテコステ(五旬節)として祝われていました。使徒の働き2章で聖霊が降られた日がちょうどこの日でしたので、私たちは聖霊降臨の記念日をペンテコステと呼んでいるのです。今日、この祭りの意味するところは、クリスチャンは救われただけでなく、聖霊に満たされて実り豊かな人生を送ることです。
(3) 16節、「収穫祭」
出 23:16 また、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行わなければならない。
これは年の終わりの、収穫が終わった時の感謝の祭りです。
クリスチャンはいつも生活の実を神にささげて感謝することを忘れてはいけません。
17節には、この三大祭りに男子は全員、主の前に出なければならないとあります。
出 23:17 年に三度、男子はみな、あなたの主、【主】の前に出なければならない。
婦人は家族の世話などがあるので、どうしてもとは言われていませんが、多くの婦人たちは主の前に出たようです(サムエル記第一1:7)。
Ⅰサム 1:7 毎年、このようにして、彼女が【主】の宮に上って行くたびに、ペニンナは彼女をいらだたせた。そのためハンナは泣いて、食事をしようともしなかった。
18節では、いけにえの血は過越の種を入れないパンの時にだけささげられるべきものです。「種を入れたパンに添えてささげてはならない。」と命じられています。
出 23:18 わたしのいけにえの血を、種を入れたパンに添えてささげてはならない。また、わたしの祭りの脂肪を、朝まで残しておいてはならない。
これは、罪の赦し、罪の潔めにはイエス・キリストの十字架の血だけで十分であり(ヨハネ第一1:7)、決して人の努力や善行と組み合わされてはならないことを示しています。
Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
神のみこころがよく分からない人にとっては、イエス・キリストが自分の罪のために十字架にかかってくださったことも信じるけれども、自分の善行や努力も救いに役立つのではないかと思っています。しかし神は、そのような考えを高慢で、不純なものとして退けられます。救いと聖潔には、キリストの血だけで十分であって、私たちの努力や善行を付け加えてはならないのです。私たちの努力や善行は神の前では、自分の罪を帳消しにできるほど潔くも、価値のあるものでもないのです(イザヤ書64:6)。
イザ 64:6 私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。
19節、先に、私たちの罪の赦し、潔めのためにはキリストの血だけが必要であり、それで十分であることを学びました。しかし私たちは感謝のささげ物として、自分の労働の実を神にささげることができます。その時、私たちは「初穂の最上のもの」をもって神にささげるべきです。
出 23:19 あなたの土地の初穂の最上のものを、あなたの神、【主】の家に持って来なければならない。・・・
それは自分自身を神にささげる全き献身を意味するものでなければなりません。しかしここで大切なことは、先ず、キリストの血によって、はっきりと救われ、潔められていることです。このことなしに、自分の働きの実をささげるなら、それは不純な動機になりやすく、誇り、高ぶりの心を抱くようになります。このことに十分注意しましょう。
Ⅲ.20~33節、従順の祝福-先導される神
ここに記されている勝利と祝福のすべては、すべて条件つきです。すなわち、「神の御声に聞き従う」ことです(21,22、サムエル記第一15:22)。
出 23:21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。
23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。
Ⅰサム 15:22 するとサムエルは言った。「主は【主】の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
これは、これからカナンの地に入ろうとする神の民への約束であり、それはまた、天の御国に向かって信仰生涯をたどっている私たちへの約束でもあります。
神は「使い」(20節)を遣わして、民を導かれます。この「使い」とは、モーセやヨシュアのような神の使いとして任命された人か、主の御使いか、どちらかでしょう。また、「わたしの名がその者のうちにある」(21節)とは、神の権威がその者に委ねられていることを示しています。
20~23節は、約束の国に着くまでの旅路のことが言われているようです。
出 23:20 見よ。わたしは、使いをあなたの前に遣わし、あなたを道で守らせ、わたしが備えた所にあなたを導いて行かせよう。
23:21 あなたは、その者に心を留め、御声に聞き従いなさい。決して、その者にそむいてはならない。わたしの名がその者のうちにあるので、その者はあなたがたのそむきの罪を赦さないからである。
23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。
23:23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。
ここでは、神によって遣わされた「使い」に心を留め、聞き従い、そむいてはならないことが強調されています。
ここで問題になるのは、私たちを導く者はだれかということです。
ヨハネの福音書10章4節で主イエスは、羊飼いは羊の先頭に立って行くと語られました。
ヨハ 10:4 彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
この羊飼いとは主イエスご自身を指しています。私たちは主イエスのあとに従って行くことが大切です。これは霊的な意味においてです。しかし、ある人々はキリストの導きを主張するあまりに、神が立てられた指導者としての人物を無視し、拒否し、否定してしまいます。そしてはなはだ偏見に満ちた主観に片寄ってしまう人がいます。しかし聖書はこう言っています。
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。」(ヘブル13:7)
「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13:17)
主イエスは主のご用を委ねるために弟子たちを召し、訓練をされました。
使徒パウロもテモテ、テトス、シラスなどを、各地の教会でクリスチャンたちを指導するために訓練しました。
私たちは個人的に、キリストとキリストのみことばから直接、霊的に教えられ、導かれる必要があります。それとともに神が立てられた人の指導者から教えを受ける必要もあります。しかし、ここにもう一つの注意すべき点があります。それは指導者である人がたえず神のみこころを悟って会衆を指導しなければならないことです。指導者は自分の弟子をつくらず、キリストの弟子をつくることを心がけなければなりません。
次に、勝利はすべて、人の力によらず、神によることが明確に語られています(22、23、27、28節)。
出 23:22 しかし、もし御声に確かに聞き従い、わたしが告げることをことごとく行うなら、わたしはあなたの敵には敵となり、あなたの仇には仇となろう。
23:23 わたしの使いがあなたの前を行き、あなたをエモリ人、ヘテ人、ペリジ人、カナン人、ヒビ人、エブス人のところに導き行くとき、わたしは彼らを消し去ろう。
出 23:27 わたしは、わたしへの恐れをあなたの先に遣わし、あなたがそこに入って行く民のすべてをかき乱し、あなたのすべての敵があなたに背を見せるようにしよう。
23:28 わたしは、また、くまばちをあなたの先に遣わそう。これが、ヒビ人、カナン人、ヘテ人を、あなたの前から追い払おう。
このことは今日のクリスチャンにもまだまだ確信されていませんが、みことばは、勝利は神によることをはっきりと告げています(歴代第二20:15、17、20、ゼカリヤ書4:6)。
Ⅱ歴代 20:15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。【主】はあなたがたにこう仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
Ⅱ歴代 20:17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる【主】の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。【主】はあなたがたとともにいる。』」
Ⅱ歴代 20:20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住民よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、【主】を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
ゼカ 4:6 すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。
25,26節は、食糧の祝福、病気が除き去られること、そして民の繁栄が約束されています。
出 23:25 あなたがたの神、【主】に仕えなさい。主はあなたのパンと水を祝福してくださる。わたしはあなたの間から病気を除き去ろう。
23:26 あなたの国のうちには流産する者も、不妊の者もいなくなり、わたしはあなたの日数を満たそう。
31節には、約束の地として与えられる領域が定められています。
出 23:31 わたしは、あなたの領土を、葦の海からペリシテ人の海に至るまで、また、荒野からユーフラテス川に至るまでとする。それはその地に住んでいる者たちをわたしがあなたの手に渡し、あなたが彼らをあなたの前から追い払うからである。
この約束は最初アブラハムに与えられたものですが(創世記15:18)、ここで更新されています。
創 15:18 その日、【主】はアブラムと契約を結んで仰せられた。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。
しかし、この広範囲の領域を一度に与えられるのではありません。それはイスラエル人の信仰の力と民の増強に従って徐々に与えられることが約束されています。さらにそれは、一挙に敵を取り除くと、野獣が増して、却って害を与えるようになるからです(29,30節)。
出 23:29 しかし、わたしは彼らを一年のうちに、あなたの前から追い払うのではない。土地が荒れ果て、野の獣が増して、あなたを害することのないためである。
23:30 あなたがふえ広がって、この地を相続地とするようになるまで、わたしは徐々に彼らをあなたの前から追い払おう。
この約束が実際に成就したのは、ソロモンの時代になってからです。しかし、神はそんなに長く先に延ばされるつもりはなかったようです。こんなに長く延期されてしまったのは、民が神の条件を忠実に守らなかったからです。
24、32節で、神は神の民の最大の危険を警告しています。それは彼らがこれから行って住む国の偶像を拝まないこと、その異教の風習にならわないことです。
出 23:24 あなたは彼らの神々を拝んではならない。仕えてはならない。また、彼らの風習にならってはならない。これらを徹底的に打ちこわし、その石の柱を粉々に打ち砕かなければならない。
出 23:32 あなたは、彼らや、彼らの神々と契約を結んではならない。
33節、これらに妥協すれば、必ずそれがわなとなることを警告されていたのに、彼らはそこに陥ったのです。このことは今日のクリスチャンも注意すべきです。
出 23:33 彼らは、あなたの国に住んではならない。彼らがあなたに、わたしに対する罪を犯させることのないためである。それがあなたにとってわなとなるので、あなたが彼らの神々に仕えるかもしれないからである。」
「この世と調子を合わせてはいけません。」(ローマ12:2)
これは私たちが勝利の信仰生活を送るのに、不可欠なことであるのに、クリスチャンの中にはこの世の勢力を恐れて、この世と妥協しつつ共存していこうとする者がいます。これは神の民を破滅させてしまいますから、取り除かれなければなりません。
あとがき
ことしの二月に入って、私たちの教会の幼児クラスに出席し始めた二才八ヶ月の男の子が、エペソ2章10節前半の聖句を一週間くらいで暗誦しました。覚えるように強制したわけではありませんが、本人はしっかり両目を手で押えて暗誦しています(手で目を押えなくても、まだ字が読めませんから同じですが)。みなさんはこのような子がどのように育っていくと思われるでしょうか。私は大いに期待しています。少なくとも神のみことばを覚えようとするその積極的な態度は、彼の人格形成に大きな影響を与えるはずです。彼はその人生が神のみことばによって保証されたのです。
私たちのみことばに対する態度は私たちの人格形成と生活形成に大きな影響を与えます。神のみことばが私たちの内で光となるかどうかは、私たちの人生と永遠を決定するのです。それ故、私たちはもっともっと、みことばによる生活を大切にし、深めていかなければなりません。
(まなべあきら 1989.3.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の写真は、「Photo of Mount Sinai near Saint Katherine’s Monastery in Sinai Peninsula(シナイ半島の聖カタリナ修道院近くのシナイ山の写真)」(撮影:November 7, 2009、Wikimedia Commonsより)
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