聖書の探求(061b) 出エジプト記25章 幕屋とその備品類の型

25~27章は主に、幕屋とその備品類の型が示されています。

Ⅰ.1~8節、イスラエル人の心からのささげ物

出 25:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
25:2 「わたしに奉納物をささげるように、イスラエル人に告げよ。すべて、心から進んでささげる人から、わたしへの奉納物を受け取らなければならない。

2節、材料はすべてイスラエル人がささげた。しかも、それはすべて心から進んでささげられたものです。今日、主の働きのためにささげられるものも、かくの如くありたいと思います。そうすれば、主もまた、そのささげる人とささげ物を祝福されます(コリント第二9:5~13)。

Ⅱコリ9:5 そこで私は、兄弟たちに勧めて、先にそちらに行かせ、前に約束したあなたがたの贈り物を前もって用意していただくことが必要だと思いました。どうか、この献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。
9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。
9:7 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。
9:8 神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ち足りて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。
9:9 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。
9:10 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。
9:11 あなたがたは、あらゆる点で豊かになって、惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して、神への感謝を生み出すのです。
9:12 なぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく、神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。
9:13 このわざを証拠として、彼らは、あなたがたがキリストの福音の告白に対して従順であり、彼らに、またすべての人々に惜しみなく与えていることを知って、神をあがめることでしょう。

3~7節、ここにささげられる宝石類や着物は、イスラエル人がエジプトを脱出する時にエジプト人から得たものです(12:35,36)。

出 12:35 イスラエル人はモーセのことばどおりに行い、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。
12:36 【主】はエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。

これらのものが、神を礼拝する幕屋建造のために用いられました。

(材料)

(イ) 金属

出 25:3 彼らから受けてよい奉納物は次のものである。金、銀、青銅、

金-至高、権威、能力、栄光
銀-購罪
青銅-審判あるいは十字架、献身

(ロ)皮

25:4 ・・・、やぎの毛、
25:5 赤くなめした雄羊の皮、じゅごんの皮、・・・

皮は獣の血を流し、死によって取られるので贖い(あがな)いを表わす(創世記3:21)。

創 3:21 神である【主】は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださった。

これらの三種の皮は幕屋のおおいとして用いられ、おおいは三重になっています。

「やぎの毛」は、救い主の汚れなき純潔とすべての悪からの聖別を予表していると思われます。そしてこれは、信じるすべての者の罪を取り除く主の犠牲の死を意味しています(「アザゼルのやぎ」レビ記16:8~10、20~22)。

レビ 16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
16:9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

レビ 16:20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
16:21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
16:22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

「赤くなめした雄羊の皮」は、傷ついた救い主、主の苦難の予表と思われます(イザヤ書53:5、ピリピ2:8、創世記22:13)。ここには罪人の身代わりとなって十字架にかかられたイエス・キリストを見ます。

イザ 53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

ピリ 2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

創 22:13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。

「じゅごんの皮」は、内は愛で満ちておられるのに外側は人の目には卑しい者に見られるイエス・キリストの謙卑を予表していると思われます(イザヤ書52:14、53:2)。

イザ 52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──

イザ 53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。

実に、イエス・キリストの福音はこのような三重の意味でおおわれています。

(ハ) 6節の油は聖霊を予表するものですし、「かおりの高い香」は、イエス・キリストの高貴な御品性か、あるいは執り成しの祈りを表わすものと思われます。

出 25:6 燈油、そそぎの油とかおりの高い香のための香料、

(二) 様々な色の糸と布

出 25:4 青色、紫色、緋色の撚り糸、亜麻布、やぎの毛、

青色-キリストの神性(ヨハネ1:1、14)

ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

ヨハ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

紫色-王の色、キリストは王の王です(マタイ2:2、黙示録17:14)

マタ 2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

黙 17:14 この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」

緋色―キリストの苦難、贖(あがな)いの血(ルカ22:20、ヘブル9:12、14、22)

ルカ 22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル 9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

白色(亜麻布)-キリストの純潔(黙示録1:14、ペテロ第一1:19、同2:22)

黙 1:14 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。

Ⅰペテ 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

Ⅰペテ 2:22 キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。

これらの四色の糸で、庭の門の幕(門であるキリスト、ヨハネ10:7、9)と、聖所の入口の幕(キリストのからだ、ヘブル9:6~8)と、至聖所と聖所を隔てる隔ての幕(キリストの内なる栄光(ヨハネ1:14、コロサイ2:9、ヘブル10:20)が織られました。

ヨハ 10:7 そこで、イエスはまた言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしは羊の門です。
10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

ヘブル 9:6 さて、これらの物が以上のように整えられた上で、前の幕屋には、祭司たちがいつも入って礼拝を行うのですが、
9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。
9:8 これによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。

ヨハ 1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

コロ 2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

ヘブル 10:20 イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

(ホ) 7節のエポデや胸当てにはめ込まれる宝石類には、その一つ一つにイスラエルの十二部族の名前が刻み込まれて、祭司が神の御前で執り成す時、胸に覚えられていることを示しています。

出 25:7 エポデや胸当てにはめ込むしまめのうや宝石。

これはイエス・キリストが私たちのために日夜、執り成していてくださることの予表です(ローマ8:27、34、ヘブル7:25)。

ロマ 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ロマ 8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

さて、8節で主は、「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」と仰せられました。

出 25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。

「聖所」とは、「分離された場所」、「神聖な聖別された場所」という意味です。これは今日の教会堂にも当てはめることができます。教会堂は神を礼拝し、賛美し、神のみことばを聞き、学び、また神の家族が交わり、神のためにだけ使われる場所として聖別されるべきです。その時、主はその民の中に住んでくださいます。しかし主は、その聖所の中に住まわれると仰せられず、それを造った民の中に住まわれる(臨在される)と仰せられました。本当に主を礼拝することを願う民なら、主を礼拝するための聖別された場所を造ることを真剣に願うはずです。聖所を造ることは、その人の信仰と感謝と礼拝心を具体的に現わしています。すなわち、礼拝心が強くなれば、当然、教会堂建設が問題になってくるということです。

Ⅱ.9~40節、幕屋の備品の型とその意味

9節、幕屋の型とすべての用具の型とは、神が示されたとおりに、全く同じに造らなければなりません。

出 25:9 幕屋の型と幕屋のすべての用具の型とを、わたしがあなたに示すのと全く同じように作らなければならない。

これらの型はみなキリストを表わすものですから、重要な意味をもっています。今日の教会では、外形的な型を同じようにすることではなく、教会の礼拝はキリストが中心であり、みことばが健全に、しかも人々の心と生活に浸透できるように力強く語られ、霊とまことをもって礼拝が行なわれなければなりません。有名人がいても、立派な会堂があっても、キリストのいない礼拝は礼拝ではありません。キリストとみことばに満ちた礼拝こそ、主に喜ばれる礼拝です。この点において、私たちの教会は主が示された型と全く同じかどうか、点検してみなければなりません。

(1) 10~16節、契約の箱

出 25:10 アカシヤ材の箱を作らなければならない。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半、高さは一キュビト半。
25:11 これに純金をかぶせる。それは、その内側と外側とにかぶせなければならない。その回りには金の飾り縁を作る。
25:12 箱のために、四つの金の環を鋳造し、それをその四隅の基部に取りつける。一方の側に二つの環を、他の側にほかの二つの環を取りつける。
25:13 アカシヤ材で棒を作り、それを金でかぶせる。
25:14 その棒は、箱をかつぐために、箱の両側にある環に通す。
25:15 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。
25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。

この箱は主として律法が記された二枚の石の板を納めるために造られました。

アカシヤ材・・・キリストの人性
内外をおおった純金・・・キリストの神性、またこれは、神の民の内的、外的生活が共に潔くなければならないことを示しています。

(内容物)

十戒の石の板・・・神の律法(信仰生活の基準を示すもの、ガラテヤ3:24)

ガラ 3:24 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。

マナ・・・いのちのパンなるキリスト(ヨハネ6:48~58)

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

アロンの芽ざした杖・・・復活のいのち(ヨハネ11:25)

ヨハ 11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

15節、棒は箱の環に差し込んだままにしておかなければなりません。

出 25:15 棒は箱の環に差し込んだままにしなければならない。抜いてはならない。

それは運ぶ者の体が箱に触れないためです。これは、キリストの福音は自動的に伝わっていかないので、クリスチャンのひとり一人がその肩に担って運ぶのです。しかし運んでいる人が、キリストの福音そのものを変えたり、ねじ曲げたりしてはいけないことを示しています。キリスト教二千年の歴史の中で、キリストの福音は人間の思想、哲学、また利己的な目的のために曲げられ、変えられる危機に直面してきました。そのためにどんなに多くの犠牲が払われてきたことでしょうか。

16節の「さとし」(あるいは「あかし」)は、神の定めを民が守り従うという約束を表わしています。

出 25:16 わたしが与えるさとしをその箱に納める。

この箱の中に律法の板を入れたのは、神が霊であり、聖であるお方であることを示しています。

(2)17~22節、贖(あがな)いのふた(贖罪(しょくざい)所)

出 25:17 また、純金の『贖いのふた』を作る。長さは二キュビト半、幅は一キュビト半。
25:18 槌で打って作った二つの金のケルビムを『贖いのふた』の両端に作る。
25:19 一つのケルブは一方の端に、他のケルブは他方の端に作る。ケルビムを『贖いのふた』の一部としてそれの両端に作らなければならない。
25:20 ケルビムは翼を上のほうに伸べ広げ、その翼で『贖いのふた』をおおうようにする。互いに向かい合って、ケルビムの顔が『贖いのふた』に向かうようにしなければならない。
25:21 その『贖いのふた』を箱の上に載せる。箱の中には、わたしが与えるさとしを納めなければならない。
25:22 わたしはそこであなたと会見し、その『贖いのふた』の上から、すなわちあかしの箱の上の二つのケルビムの間から、イスラエル人について、あなたに命じることをことごとくあなたに語ろう。

「贖(あがな)う」は「おおう」を意味するへブル語から出ています。それ故、ここは「恵みの御座」(ヘブル4:16)です。

ヘブル 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

ここはすべて純金で造られています。これは幕屋の備品の中で最も重要な至高な場所であることを示しています。ここに小羊の血が注がれ、罪人の罪が神の御目からおおわれるのです。箱の中の律法は人の罪を告発し、上から神のさばきの目が注がれていますが、その間に小羊の血が注がれることによって罪はおおわれるのです。これが「贖(あがな)い」の真理です。

この贖(あがな)いのふた(贖罪所)はキリストの贖い(身代わりの死による救い)を示しています。この贖いがある故に、神はこの場所で民を代表する大祭司を受け入れられ、人と交わられるのです。それ故、この幕屋は会見の幕屋と言われました。

この贖(あがな)いのふたは二つのケルビムのつばさでかくされていました。これは人である大祭司が肉の目で神の臨在を見ないようにするためです。今も神の臨在は肉の目で見ることはできません。神は内にその臨在を現わしてくださるのです。

(神が人と会われる贖罪(しょくざい)所)

対モーセ(出エジプト記25:22、民数記7:89)

出 5:22 それでモーセは【主】のもとに戻り、そして申し上げた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。

民 7:89 モーセは、主と語るために会見の天幕に入ると、あかしの箱の上にある「贖いのふた」の二つのケルビムの間から、彼に語られる御声を聞いた。主は彼に語られた。

対アロン(レビ記16:2)

レビ 16:2 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

対ヨシュア(ヨシュア記7:6)

ヨシ 7:6 ヨシュアは着物を裂き、イスラエルの長老たちといっしょに、【主】の箱の前で、夕方まで地にひれ伏し、自分たちの頭にちりをかぶった。

(3) 23~30節、机と供えのパン

出 25:23 机をアカシヤ材で作らなければならない。長さは二キュビト、幅は一キュビト、高さは一キュビト半。
25:24 これを純金でかぶせ、その回りに金の飾り縁を作り、
25:25 その回りに手幅のわくを作り、そのわくの回りに金の飾り縁を作る。
25:26 その机のために金の環を四個作り、その四隅の四本の足のところにその環を取りつける。
25:27 環はわくのわきにつけ、机をかつぐ棒を入れる所としなければならない。
25:28 棒をアカシヤ材で作り、これに金をかぶせ、それをもって机をかつぐ。
25:29 注ぎのささげ物を注ぐための皿やひしゃく、びんや水差しを作る。これらは純金で作らなければならない。
25:30 机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。

このパンはキリストの人性を表わしています。それはまた、キリストがご自分の肉体を引き裂くことによって私たちに分け与えられた永遠のパンを表わしています(ヨハネ6:48~58)。

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

30節で「机の上には供えのパンを置き、絶えずわたしの前にあるようにする。」と命じられているのは、神がいのちを与えてくださるということのあかしです。

歴代誌第一9章32節には、ケハテ族の者が安息日ごとに供えのパンを備えていたことが記されています。

Ⅰ歴代 9:32 また、ケハテ族の彼らの同胞のうちには、並べ供えるパンをつかさどり、安息日ごとにこれを用意する者たちもいた。

(4) 31~40節、燭台

出 25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。
25:32 六つの枝をそのわきから、すなわち燭台の三つの枝を一方のわきから、燭台の他の三つの枝を他のわきから出す。
25:33 一方の枝に、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくを、また、他方の枝にも、アーモンドの花の形をした節と花弁のある三つのがくをつける。燭台から出る六つの枝をみな、そのようにする。
25:34 燭台の支柱には、アーモンドの花の形をした節と花弁のある四つのがくをつける。
25:35 それから出る一対の枝の下に一つの節、それから出る次の一対の枝の下に一つの節、それから出るその次の一対の枝の下に一つの節。このように六つの枝が燭台から出ていることになる。
25:36 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。
25:37 それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。
25:38 その心切りばさみも心取り皿も純金である。
25:39 純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。
25:40 よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。

この燭台には七つのともしび皿があります。「七」は聖なる完全数であり、それが神的性質をもった神に属するものであることを意味しています。

第一に、この燭台は、世の光であるキリストを表わしています。それとともに、ヨハネの黙示録1章12、20節に出てくる教会、すなわち「あなたがたは世界の光です。」と言われた神の教会の原型を表わすといってもよいでしょう(マタイ5:14~16)。

黙 1:12 そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。

黙 1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

マタ 5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。
5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

この燭台には、様々な装飾がされています。特に、六つの枝はみな、アーモンドの花の形をしています。ア-モンドは「目覚める者」という意味をもち、エレミヤが見たアーモンドの枝の幻は、神が目覚めて、見張っておられることを示しています(エレミヤ書1:11、12)。

エレ 1:11 次のような【主】のことばが私にあった。「エレミヤ。あなたは何を見ているのか。」そこで私は言った。「アーモンドの枝を見ています。」

またアロンのつえに咲いた花もアーモンドでした(民数記17:8)。

民 17:8 その翌日、モーセはあかしの天幕に入って行った。すると見よ、レビの家のためのアロンの杖が芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいた。

これは神のいのち、永遠のいのちを示しているのでしょう。それ故、このアーモンドは、キリストを照らすものといってよいでしょう。しかし私たちがキリストを照らすためには、ゼカリヤ書四章にある燭台が教えているように、聖霊の油を受けて、光輝く燭台とならなければなりません。

あとがき

パウロは、「このキリストを宜べ伝える」(コロサイ1:28)と言いました。

コロ 1:28 私たちは、このキリストを宣べ伝え、知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。それは、すべての人を、キリストにある成人として立たせるためです。

「このキリスト」とは、クリスチャンの内に住まわれているキリストです。今日、このお方がクリスチャンの内で確信されていないのではないかと思います。この「内なるキリスト」が確信されなくなると、キリスト教は儀式的になったり、行事主義になったり、感情的になったりしていきます。「内なるキリスト」の経験とは、クリスチャンの内にみことばが聖霊によって力強く働いている状態のことです(29節)。

コロ 1:29 このために、私もまた、自分のうちに力強く働くキリストの力によって、労苦しながら奮闘しています。

これが「生けるキリスト経験」です。私は、「生けるキリスト」を内に宿したクリスチャンを日本全国に多く起こしていきたいし、また、こういうクリスチャンを生み出し、育てることのできる教会を全国に建てていきたい。主が神であり、王であられるのに、日本で勝利が得られないわけがない。
その秘訣は、神のみことばが内で力強く働いているクリスチャンが多く起こされてくることであると、確信しています。

(まなべあきら 1989.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

一番上の絵は、「バイブル・ワールド、地図でめぐる聖書」(ニック・ペイジ著、いのちのことば社刊)より、幕屋の想像図。

その他の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の実物大模型を、2013年に訪問した時に撮影したもの。
(ご参考:「たけさんのイスラエル紀行、”Model of the Tabernacle at Timna”(ティムナの幕屋モデル)」


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発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
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