聖書の探求(073a) レビ記 2章 穀物のささげ物

2章は、穀物のささげ物について記しています。これは、全焼のいけにえなどの獣のいけにえを補い、それに漆えて献げられました(民数記15:1~6)。

民 15:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
15:2 「イスラエル人に告げて言え。わたしがあなたがたに与えて住ませる地にあなたがたが入り、
15:3 特別な誓願を果たすために、または進んでささげるささげ物として、あるいは例祭のときに、【主】へのなだめのかおりをささげるために、牛か羊の群れから全焼のいけにえでも、ほかのいけにえでも、火によるささげ物を【主】にささげるときは、
15:4 そのささげ物をささげる者は、穀物のささげ物として、油四分の一ヒンを混ぜた小麦粉十分の一エパを【主】にささげなければならない。

カインは、この穀物のささげ物を単独でささげました(創世記4:3)。

創 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

穀物のささげ物は単独では、主に受け入れられません。必ず、血のいけにえに添えて献げなければなりません。これを単独で献げたカインは、血による贖(あがな)いを受けずに、生まれつきのままで神の御前に立ったのです。彼は、自分が血による贖罪(しょくざい)を必要とする罪人であることを認めようとせず、自分の勤勉さや努力の功績によって神の御前に立ち、それを誇っていたのです(ユダ11)。

ユダ 1:11 ああ。彼らはカインの道を行き、利益のためにバラムの迷いに陥り、コラのようにそむいて滅びました。

これに対して、弟アべルは罪を宣告された者として、罪の赦しのために血のいけにえをたずさえて主の御前に立ちました(創世記4:4、ヘブル9:22、11:4)。

創 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

ヘブル 9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

ヘブル 11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

イエス・キリストは血のいけにえとともに、穀物のささげ物にもなってくださったのです。主は潔く、しみのないお方であり(ペテロ第一1:19)、穀物のささげ物の完成者です。

Ⅰペテ 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主が穀物のささげ物として、私たちの霊の糧となられたのは、私たちのためにご自分をいけにえとされたからです(ヨハネ6:48~58、12:24)。主は十字架の死を通してでなければ、穀物のささげ物となることができなかったのです。

ヨハ 6:48 わたしはいのちのパンです。
6:49 あなたがたの父祖たちは荒野でマナを食べたが、死にました。
6:50 しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」
6:52 すると、ユダヤ人たちは、「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか」と言って互いに議論し合った。
6:53 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。
6:57 生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。
6:58 これは天から下って来たパンです。あなたがたの父祖たちが食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」

ヨハ 12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

1~3節、生のままの小麦粉のささげ物
4~16節、調理した小麦粉のささげ物

レビ 2:1 人が【主】に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、
2:2 それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
2:3 その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。

1節、穀物のささげ物は、小麦粉でなければならないと定められています。おそらく、主は小麦粉を穀物の代表として選ばれたものと思われます。

穀物のささげ物の特長は、大地の実りであるとともに、人間の労働力が加えられていることです。ですから、高慢になって自分を誇ることがないように十分に注意し、へりくだって敬虔に献げなければなりません。カインはこの点で罪を犯しました。

それ故、小麦粉はそれだけでは捧げることができず、油と乳香を添えて捧げなければなりませんでした。

まず油。油は食事には不可欠なものです。油は人間に不可欠です。旧約聖書では、油は、喜び、栄養、繁栄、豊かさを意味していました(申命記32:13、ヨブ記29:6、イザヤ書61:3)。

申 32:13 主はこれを、地の高い所に上らせ、野の産物を食べさせた。主は岩からの蜜と、堅い岩からの油で、これを養い、

ヨブ 29:6 あのとき、私の足跡は乳で洗われ、岩は私に油の流れを注ぎ出してくれたのに。

イザ 61:3 シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す【主】の植木と呼ばれよう。

ここから、油は、元気づけ、生き返らせる力、潔める力を意味するようになったのです。新約聖書では、油は聖霊を示します。それでは、ここに示されている霊的意味は何でしょうか? 小麦粉に油が注がれるのは、人の努力の中に、潔める聖霊の臨在が注がれることです。私たちの働きの中に、潔める聖霊が臨在してくださる時、私たちの生活は神に受け入れられ、神に喜ばれる聖なる生ける供え物となるのです(ローマ12:1)。

ロマ 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

次に乳香。乳香は、味は苦いですが、良い香りのする芳香性の樹脂です。旧約聖書では聖なる注ぎ油の材料として用いられ(出エジプト記30:34)、香として用いられ(雅歌3:6)、供えのパンと共にささげられました(レビ記24:7)。

出 30:34 【主】はモーセに仰せられた。「あなたは香料、すなわち、ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、これらの香料と純粋な乳香を取れ。これはおのおの同じ量でなければならない。

雅 3:6 没薬や乳香、貿易商人のあらゆる香料の粉末をくゆらして、煙の柱のように荒野から上って来るひとはだれ。

レビ 24:7 それぞれの並びに純粋な乳香を添え、【主】への火によるささげ物として、これをパンの記念の部分とする。

新約聖書では、東の博士たちが幼子イエスに贈物としてささげています(マタイ2:11)。

マタ 2:11 そしてその家に入って、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。

これは、祈り、賛美、感謝を象徴していると思われます。私たちがささげ物をする時、ただ、金品をささげるだけでなく、祈りと賛美と感謝をもってささげることによって、神に喜ばれるのです。

これらの油と乳香を添えなければ、人の働きによるささげ物はすべて、高ぶりのささげ物となり、神に喜ばれることができません。

2節、祭司がこれらを祭壇にささげる時、小麦粉はひとつかみだけ、油と乳香は全部ささげることに注意してください。聖霊の臨在と、祈り、賛美、感謝は全部ささげなければ
なりませんが、人の働きは一部分だけです。この「ひとつかみの小麦粉」は、「記念の部分」と呼ばれています。「記念」とは、記憶することです。

それは、まず、神に記憶されることです。神が、ささげた人を記憶される時、新しいことが始まります。すなわち、ささげた人が神のみこころにかなう場合、その人に祝福と助けが与えられます。しかし、みこころにかなわない場合、警告が始まり、さらにそれに逆らうなら、さばきが行われます。

また、ささげた人が神を記憶する時、新な信仰の刷新と服従の生活が始まります。聖餐式の意味はここにあります(ルカ22:19、コリント第一11:23~26)。

ルカ 22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

Ⅰコリ 11:23 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、
11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:25 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」
11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

神が私たちひとり一人にみこころをとめられ、私たちが神を覚えるようになる時、そこに真の礼拝が始まります。そして真の礼拝からは、必ず新しいことが始まります。私たちはそういう礼拝者でなければなりません。ヨハネの福音書4章のサマリヤの女は、礼拝の
場所を問題にしていましたが、そういう外側的なことを問題にしている間は、彼女の生活が不道徳なものであっても、少しも心は咎めを感じていませんでした。しかし、霊とまことをもって礼拝しなければならないことを教えられた時、彼女は自分の罪、自分の本当の姿を悟ったのです。このことが発端となって、サマリヤの町にはリバイバルが起きました。一人の人が真実な礼拝者となることが、どんなに大切なことかを、この記事は示しています。毎週、習慣として教会堂に出席していたり、ただ儀式に参加するという形式的な礼拝者から、真の礼拝者に変わらなければなりません。

3節、穀物のささげ物は最も少ない場合でも、十分の一エパ(約2.3リットル)以上でした。祭壇にささげたひとつかみの小麦粉以外の残りのものは、祭司のものとなり、最も聖なるものとなります。旧約では、祭司の男子だけがこれを食べることができました(レビ記6:16~18)。

レビ 6:16 その残った分は、アロンとその子らが食べることができる。それを聖なる所で種を入れないパンにして食べなければならない。それを会見の天幕の庭で食べなければならない。
6:17 これにパン種を入れて焼いてはならない。わたしは、それを火によるささげ物のうちから、彼らの分け前として与えた。それは罪のためのいけにえや罪過のためのいけにえと同じように、最も聖なるものである。
6:18 アロンの子らのうち、男子だけがそれを食べることができる。これは、【主】への火によるささげ物のうちから、あなたがたが代々受け取る永遠の分け前である。それに触れるものはみな、聖なるものとなる。」

今や、真のクリスチャンはみな祭司です。私たちがこのようなささげ物をするなら、私たちの残りのすべての生活は、神に聖別された最も聖なるものとなるのです。

これらの箇所には、人の働きを、いかにして神にささげるべきか、その奥義を示しているのです。

4~11節は、調理した穀物のささげ物を記しています。ここでの調理の方法は、煮ることではなく、焼くことが用いられています。

レビ 2:4 あなたがかまどで焼いた穀物のささげ物をささげるときは、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れない輪型のパン、あるいは油を塗った、種を入れないせんべいでなければならない。
2:5 また、もしあなたのささげ物が、平なべの上で焼いた穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉の、種を入れないものでなければならない。
2:6 あなたはそれを粉々に砕いて、その上に油をそそぎなさい。これは穀物のささげ物である。
2:7 また、もしあなたのささげ物が、なべで作った穀物のささげ物であれば、それは油を混ぜた小麦粉で作らなければならない。
2:8 こうして、あなたが作った穀物のささげ物を【主】にささげるときは、それを祭司のところに持って来、祭司はそれを祭壇に持って行きなさい。
2:9 祭司はその穀物のささげ物から、記念の部分を取り出し、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
2:10 穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。これは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。
2:11 あなたがたが【主】にささげる穀物のささげ物はみな、パン種を入れて作ってはならない。パン種や蜜は、少しでも、【主】への火によるささげ物として焼いて煙にしてはならないからである。

6節、穀物は、人の労働が含まれていますので、まず、粉々に砕かれる必要があります。人の働きによるささげ物をする時は、全く砕かれて、誇るところのないように、へりくだってささげるべきです(エペソ2:9、コリント第一1:29)。

エペ 2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

Ⅰコリ 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

人の働きによるものは、いつも砕かれていなければなりません。神は砕かれた人のささげ物を喜ばれます(詩篇51:17、34:18)。

詩 51:17 神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

詩 34:18 【主】は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。

次に、すべての調理には聖霊を表わす油が加えられています。それは聖霊によって潔められていなければならないからです。

さらに、4,5節では、「種を入れない」ことが強調されています。旧約のへブル人には、発酵は分解と腐敗を意味し、汚れたものと考えられていました。しかし、ここでは、種は悪の象徴として用いられています。新約聖書において、明らかに主イエスは、パン種をパリサイ人やサドカイ人の誤った考えに対して使っておられます(マタイ16:6、ルカ12:1)。

マタ 16:6 イエスは彼らに言われた。「パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。」

ルカ 12:1 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話しだされた。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。

またパウロは「パン種のはいらない、純粋で真実なパン」について語っています(コリント第一5:7,8)。

Ⅰコリ 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

イスラエル人が出エジプトの時に、種なしパンを食べたのは、急いでいて種を入れる時間がなかったからだと言われていますが、ここで種を入れないものを作ったのには、二つの目的があったからだと思われます。一つは、イスラエル人がエジプトで奴隷であったことを覚えるためであり、もう一つは、神に礼拝をささげるのに、不純な心がないようにするためです。主イエスは、霊とまことをもって神を礼拝するように命じられました。礼拝には、不純な動機や、不純な教え、不純な儀式などの悪の種があってはなりません。

11節では、パン種の外に、蜜も入れてはならないと命じられています。イスラエル人にとって、蜂蜜と牛乳は常食でした。しかし蜜はしばしば近隣諸国で、いけにえに加えられていたために禁じられたものと思われます。これは明らかに、イスラエル人が他の民族とはっきりと区別されるべきであることを強調しています。神の民は異教の人々の真似をしないことです。

12~16節は、初物としての穀物のささげ物を記しています。

レビ 2:12 それらは初物のささげ物として【主】にささげなければならない。しかしそれらをなだめのかおりとして、祭壇の上で焼き尽くしてはならない。
2:13 あなたの穀物のささげ物にはすべて、塩で味をつけなければならない。あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。あなたのささげ物には、いつでも塩を添えてささげなければならない。
2:14 もしあなたが初穂の穀物のささげ物を【主】にささげるなら、火にあぶった穀粒、新穀のひき割り麦をあなたの初穂の穀物のささげ物としてささげなければならない。
2:15 あなたはその上に油を加え、その上に乳香を添えなさい。これは穀物のささげ物である。
2:16 祭司は記念の部分、すなわち、そのひき割り麦の一部とその油の一部、それにその乳香全部を焼いて煙にしなさい。これは【主】への火によるささげ物である。

13節、先に、パン種と蜜が禁じられていましたが、ここでは塩を加えて味つけするように命じられています。塩は貴重な生活必需品であり、さらに、パン種が腐敗や汚れを表わすのに対して、塩は腐敗を防ぐため、永遠性や不朽性を象徴するものとして使われています。また塩は神との契約に用いられたため、交わり、誠実、保証などを表わしています。

人間の人格を味で表わすなら、神は蜜で甘くし、パン種でふっくらしたやわらかい人格より、塩からくて、かたい種なしパンのような人格を好まれるようです。甘くて、やわらかい人格の持ち主の信仰は、腐敗しやすく、くずれやすいからでしょう。

14節、初穂の中にある、やわらかい若い穀物を火にあぶったり、ひき割りにして神にささげることは、この祝福が神によって与えられたものであることをあかしするためです。羊や牛の初子が神のものであり、長男が神のものとされたのと同じです。すべては神のものでありますが、神はその初物を全部の代表として受け入れられました。残りの物は、ささげた者が感謝して使ってよいことを意味しています。

16節、最後に再び、素祭のささげ物についてまとめられています。

1、穀物をささげることは、人の礼拝と奉仕です。
2、人間の労働の実はすべて、砕かれてささげられるべきです。
3、油は聖霊の潔め、臨在、照明です。
4、乳香は祈り
5、パン種を入れないことは、腐れ、汚れのないこと、純潔
6、蜜を加えないことは、異教社会との区別
7、塩は、永遠性、不朽性、契約、
8、火で焼くことは、神に受け入れられること、
9、よい香りは、神に喜ばれること

を意味しています。私たち自身の存在と働きのすべてが、このように神にささげられるなら、どんなに幸いでしょうか。

(まなべあきら 1990.4.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、Wikimedia Commons より、「Farine de blé(小麦粉)」


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