聖書の探求(074a) レビ記 4章 罪のためのいけにえ(1)

4章と5章は、広い範囲における罪のためのいけにえについて記しています(出エジプト記29:10~14、レビ記8:14~17、9:8~11,15)。

出 29:10 あなたが、雄牛を会見の天幕の前に近づけたなら、アロンとその子らがその雄牛の頭に手を置く。
29:11 あなたは、会見の天幕の入口で、【主】の前に、その雄牛をほふり、
29:12 その雄牛の血を取り、あなたの指でこれを祭壇の角につける。その血はみな祭壇の土台に注がなければならない。
29:13 その内臓をおおうすべての脂肪、肝臓の小葉、二つの腎臓と、その上の脂肪を取り、これらを祭壇の上で焼いて煙にする。
29:14 ただし、その雄牛の肉と皮と汚物とは、宿営の外で火で焼かなければならない。これは罪のためのいけにえである。

レビ 8:14 ついで彼は罪のためのいけにえの雄牛を近寄せた。そこでアロンとその子らは、その罪のためのいけにえの雄牛の頭の上に手を置いた。
8:15 こうしてそれはほふられた。モーセはその血を取り、指でそれを祭壇の回りの角に塗り、こうして祭壇をきよめ、その残りの血を祭壇の土台に注いで、これを聖別し、それの贖いをした。
8:16 モーセはさらに、その内臓の上の脂肪全部と肝臓の小葉、二つの腎臓とその脂肪を取り、それを祭壇の上で焼いて煙にした。
8:17 しかし、その雄牛、すなわちその皮とその肉とその汚物は、宿営の外で火で焼いた。【主】がモーセに命じられたとおりである。

レビ 9:8 そこで、アロンは祭壇に近づき、自分のために罪のためのいけにえの子牛をほふった。
9:9 アロンの子らは、その血を彼に差し出し、彼は指をその血に浸し、祭壇の角に塗った。彼はその血を祭壇の土台に注いだ。
9:10 彼は罪のためのいけにえからの脂肪と腎臓と肝臓の小葉を祭壇の上で焼いて煙にした。【主】がモーセに命じられたとおりである。
9:11 しかし、その肉と、その皮は宿営の外で火で焼いた。

ここでは、いけにえの制度が発展し、進歩したことを示しているのではなく、罪のためのいけにえについての特別な律法が、様々な階級の人々に守られるべきものとして示されているのです。

特に、ここでは罪過の贖(あがな)いが取り扱われています。いけにえの体は宿営の外で焼き捨てられています(4:12)。

レビ 4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

これはちょうど、イエス・キリストが罪を負わせられ、さばかれて焼き尽くされるようです(ヘブル13:11~13)。

ヘブル 13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。

至聖所に携えられ、贖罪(しょくざい)所に注がれる血は、罪のいけにえの血だけでした(16:14,15)。

レビ 16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖(あがな)いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。
16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。

イエス・キリストは罪のための全きいけにえとなられたので、私たちのために神の御前に現われたのです(ヘブル9:11,12,24)。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブル 9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

〔芳しい香りのささげ物(全焼のいけにえ、穀物のささげ物、和解のいけにえ)と罪のためのいけにえの共通点〕

1、いけにえが、神と人との正しい関係の基礎となっていること

2、ささげる者(罪びと)とささげ物(いけにえ)が一つにされていること

〔その異なる点〕

1、芳しい香りのささげ物は、神に受け入れられるためと、礼拝のためです。これらのささげ物は、神に喜ばれるものであり、これを基礎として、神と礼拝者とがともに交わります。

2、罪のためのいけにえは、神と和解するためのいけにえです。これを携えて近づく者は、礼拝者として来るのではなく、罪びととして来るのです。神との交わりを求めて来るのではなく、その前の、罪の赦しを求めて来るのです。自分の罪のために受けるはずの刑罰を、身代わりとなるいけにえが引き受けてくれるために近づくのです。そして、この罪のためのいけにえはイエス・キリストにおいて成就されました。主イエスは私たちの罪のすべてを負われ(イザヤ書53:6,12、ペテロ第一2:24)、ご自身のいのちを与えて、多くの人のための贖(あがな)いとなられたのです(マルコ10:45)。

イザ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

イザ 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

マル 10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

1~12節、祭司の罪のためのいけにえ

旧約における罪のためのいけにえの規定は不完全ですが、神の小羊であるキリストが示されています。これはキリストの十字架によって完全なものとなるのです。

ここで、不完全ながらも、罪のためのいけにえが規定されたことは、重要な意味を持っています。それは、イスラエル人のいけにえが近隣諸国のいけにえと異なるというだけでなく、これが神によって定められたということにその重要性があります。すなわち、罪の赦しは、人間の理性的思想や哲学から出たものでないことを示しています。キリストの救いは、考え方や宗教的思想や儀式にあるのではなく、全くキリストといういけにえによるのだということです。彼によらなければ、決して罪の赦しと救いはあり得ないのです。このことは神がお決めになられた規定であって、だれも変えることができません。

しかも、ここでは二つの意味でキリストが予表されています。一つは、罪のためのいけにえとしてのキリストです。もう一つは、罪のためのいけにえをささげる、神と人との仲保者としてのキリストです。

いけにえのささげ方は、一部を除いて、ほとんどの場合、似ています。

2節、「あやまって罪を犯し」

レビ 4:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
4:2 「イスラエル人に告げて言え。もし人が、【主】がするなと命じたすべてについてあやまって罪を犯し、その一つでも行った場合、

ここでは、故意に、尊大になって神に反逆する態度をもって犯した罪ではなく、無知のために(4:13,22,27、5:18)、

レビ 4:13 また、イスラエルの全会衆があやまっていて、あることが集団の目から隠れ、【主】がするなと命じたすべてのうち一つでも行い、後で咎を覚える場合、

レビ 4:22 上に立つ者が罪を犯し、その神、【主】がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行い、後で咎を覚える場合、

レビ 4:27 また、もし一般の人々のひとりが、【主】がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、

レビ 5:18 その人は、羊の群れからあなたが評価した傷のない雄羊一頭を取って、罪過のためのいけにえとして祭司のところに連れて来る。祭司は、彼があやまって犯し、しかも自分では知らないでいた過失について、彼のために贖いをする。彼は赦される。

あるいは不注意のために(5:2,4,15)、

レビ 5:2 あるいは人が、汚れた獣の死体でも、汚れた家畜の死体でも、汚れた群生するものの死体でも、すべて汚れたものに触れ、汚れてはいたのに、そのことが彼の目から隠れ、後で咎を覚える場合、

レビ 5:4 あるいは人が口で軽々しく、害になることでも益になることでも誓う場合、その人が軽々しく誓ったことがどんなことであれ、そのことを知ってはいたのに彼の目から隠れ、後でそれらの一つについて咎を覚える場合、

レビ 5:15 「人が不実なことを行い、あやまって【主】の聖なるものに対して罪を犯したときは、その償いのために、羊の群れから傷のない雄羊一頭、聖所のシェケルで数シェケルの銀に当たるとあなたが評価したものを取って、罪過のためのいけにえとして【主】のもとに連れて来る。

無意識のうちに犯した罪のためのいけにえです。キリストは私たちが故意に犯した罪のためばかりでなく、気づかずに無意識のうちに犯している罪のためにも、十字架によってその代価を払ってくださったのです。それ故、子どものころ犯した罪や、すでに忘れてしまっている罪のためにも、完全な救いがあります(ヨハネ第一3:20、ヘブル7:25)。

Ⅰヨハ 3:20 たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

ヘブル 7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

罪を犯した人によって、いけにえにすべき獣の種類と性別が変わっています。

・祭司と全会衆の場合、傷のない若い雄牛(3、14節)、

レビ 4:3 もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして【主】にささげなければならない。

レビ 4:14 彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。

・上に立つ者の場合、傷のない雄やぎ(23節)、

レビ 4:23 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、

・一般の人々の場合、傷のない雌やぎ(28節)か、雌羊(32節)。

レビ 4:28 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、

4:32 もしその人が罪のためのいけにえのために、ささげ物として子羊を連れて来る場合には、傷のない雌羊を連れて来なければならない。

これは、責任を担う者の罪の及ぼす重大さを示しており、その責任の重大さが問われているものと思われます。私たちはどのような地位にあっても、神の前には等しく、すべての罪はキリストの十字架で十分です。しかし各々、家族の中での立場、教会での立場、職場や社会でのクリスチャンとしての立場によって、罪を犯せば、その影響がどれほど重大かを十分に知って自重しなければなりません。

3節、祭司の罪は、神の前に人々の代表者として立つ者として、その重大さが問われています。

レビ 4:3 もし油そそがれた祭司が罪を犯し、民が咎を覚えるなら、その人は自分の犯した罪のために、傷のない若い雄牛を、罪のためのいけにえとして【主】にささげなければならない。

祭司の罪は、4~7節の血の注ぎの内容からして、聖所そのものを汚したものと考えられています。罪は自分に害を及ばすだけでなく、主の御名を汚し、主の御働きを妨げ、人々の霊魂にも不信仰な、不敬虔な悪い影響を与えます。

それ故、パウロは教会の監督や執事、長老となる者の資格について、テモテへの手紙第一、3章や、テトスへの手紙1章で厳しく定めています。特に、教会でリーダーとなって奉仕する人の責任は、私たちが考えている以上に重大ですから、深く慎んで責務を全うしたいものです。この点がおろそかにされる時、また安易に、教会に長く来ているからというだけで、リーダー的役割につくなら、すぐに問題をひき起こしてしまうでしょう。教会で奉仕をする人の責任は重大なのです。

4節、祭司の罪のためのいけにえは、和解のいけにえのようにゆるやかな規定ではありません。

レビ 4:4 その雄牛を会見の天幕の入口の所、【主】の前に連れて来て、その雄牛の頭の上に手を置き、【主】の前にその雄牛をほふりなさい。

雄牛が主の前に連れて来られ、その頭の上に手を置き、主の前でほふらなければなりません。頭の上に手を置くのは、罪を犯した人といけにえとが一体となり、身代わりのいけにえとなることを表しています。

5~7節、その血は念入りに注がれています。

レビ 4:5 油そそがれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入りなさい。
4:6 その祭司は指を血の中に浸し、【主】の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。
4:7 祭司はその血を、会見の天幕の中にある【主】の前のかおりの高い香の祭壇の角に塗りなさい。その雄牛の血を全部、会見の天幕の入口にある全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければならない。

聖所の垂れ幕の前に七たび振りかけ(「七」は完全数)、香壇の角に塗り、その残りは全焼のいけにえの祭壇の土台に注がなければなりません。

なぜ、祭司の罪に対しては、このように厳しい規定が定められたのでしょうか。それは、祭司が堕落するなら、民全体が堕落するからです。祭司エリの時代に、エリの二人の息子ホフニとピネハスが堕落していたので(サムエル第一2章12節~4章)、神の箱はペリシテ人に奪われてしまい、イスラエル人はわざわいを受けたのです。イエス様の時代の大祭司職は金銭で売買され、大祭司の家族はその権利を乱用し、また神殿礼拝を悪用して私利私欲にふけっていたために、一般の民は非常に堕落した生活をしていました。

今日、教会においても、その内部が不信仰とこの世の欲で汚されたなら、クリスチャンまでも罪を犯すようになります。ここに、祭司の罪に対しては、厳しい規定が定められた理由があります。

8~10節、脂肪の全部は和解のいけにえと同じように、焼いて煙にされました。

レビ 4:8 その罪のためのいけにえの雄牛の脂肪全部を、それから取り除かなければならない。すなわち、内臓をおおう脂肪と、内臓についている脂肪全部、
4:9 二つの腎臓と、それについていて腰のあたりにある脂肪、さらに腎臓といっしょに取り除いた肝臓の上の小葉とを取り除かなければならない。
4:10 これは和解のいけにえの牛から取り除く場合と同様である。祭司はそれらを全焼のいけにえの祭壇の上で焼いて煙にしなさい。

しかし、和解のいけにえのときのように、「食事としての、主への火によるささげ物」とは記されていません。11~12節に記されているような肉は、和解のいけにえでは、祭司やささげた者が食べてよかったのですが、罪のためのいけにえでは、肉ばかりでなく、皮、頭、足、内臓、汚物にいたるまで、全部、宿営の外のきよい所、すなわち、灰捨て場で、たきぎの火で焼かれました。

レビ 4:11 ただし、その雄牛の皮と、その肉の全部、さらにその頭と足、それにその内臓と汚物、
4:12 その雄牛の全部を、宿営の外のきよい所、すなわち灰捨て場に運び出し、たきぎの火で焼くこと。これは灰捨て場で焼かなければならない。

これらのものが祭壇の火で焼かれていないのは、全くの汚れとみなされているからです。このことは明らかに、キリストの十字架を表しています(ヘブル13:11~22)。

ヘブル 13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。
13:15 ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。
13:16 善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。
13:18 私たちのために祈ってください。私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、何事についても正しく行動しようと願っているからです。
13:19 また、もっと祈ってくださるよう特にお願いします。それだけ、私があなたがたのところに早く帰れるようになるからです。
13:20 永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、
13:21 イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、あなたがたがみこころを行うことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

イエス様は私たちの罪の身代わりとなられたために、父なる神からご自身が全く汚れた罪とみなされ、捨てられてしまったのです。その時のイエス様の叫びが、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」(マタイ27:46)です。

マタ 27:46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

このことは、罪がいかに恐ろしい刑罰をもたらすかを示しています。それ故、キリストの十字架の救いは、比類のない偉大なものなのです。

13~21節、全会衆のための罪のためのいけにえ

イスラエルの全会衆があやまちを犯した場合、ほとんど祭司の時と同じ定めが与えられていますが、いくつか特徴がみられます。

1、13節に、「集団はそのことを気づかなくても」と記されています。

レビ 4:13 また、イスラエルの全会衆があやまっていて、あることが集団の目から隠れ、【主】がするなと命じたすべてのうち一つでも行い、後で咎を覚える場合、

これは気づかない過失についての贖(あがな)いを示しています。私たちは知らないうちに、自分の態度や言葉で他人を傷つけていることがあります。これは傷つく方にも問題がありますが、それはまた、私たちの不完全さによるものであって、贖いを必要とします。私たちは、どんなに潔められても、不完全さからくる過失によって、他人を傷つけることがあり得ます。それ故、私たちは自ら、故意に罪を犯していない時でも、たえず、主の血を心にいただいている必要があります。

2、14節、その罪が明らかになった時、公に罪の贖いが行われています。

レビ 4:14 彼らが犯したその罪が明らかになったときに、集団は罪のためのいけにえとして若い雄牛をささげ、会見の天幕の前にそれを連れて来なさい。

もし私たちが故意ではなく、気づかないうちに犯した過失であっても、それが他人から指摘されたなら、あるいは教えられ、気づいたなら、へりくだって、自分の過失を認め、謝り、悔い改める必要があります。

3、15節、会衆の過失の場合、長老たちが代表となって、主の前でいけにえにする雄牛の頭に手を置いています。

レビ 4:15 そこで、会衆の長老たちは、【主】の前でその雄牛の頭の上に手を置き、その雄牛を【主】の前でほふりなさい。

これを今日の教会に当てはめるなら、教会で問題が生じた場合、それは指導すべき立場にある人々の指導が不適切であったか、不十分であったか、その責任が問われることだと言ってもよいでしょう。それ故、正しく指導できる人が長老とならなければなりません。勿論、各個人も過失を悔い改めるべきですが、正しい指導が行われないと、同じ過失が何度も起きる危険性があります。また、信者の中には、指導者の責任を問いつめて迫る人もいるかもしれませんが、この責任を問うのは、主であって、人ではありませんから、贖いがすんだら、教会員は一同、心を一つにして積極的に前進すべきです。なかには、責任問題から批判的になって教会から離れていく人もいるようですが、それは悲しいことです。どんなすぐれた指導者にも欠点があり、過失を犯す可能性があるのですから、贖いがすんだなら、主が私たちを赦してくださったように、互いに忍び合い、赦し合って、愛の前進をすべきではないでしょうか。

4、20節、この時、祭司のなすべきことは、祭司が罪を犯した場合と同じですが、この場合の祭司の役割は前回と異なっています。

レビ 4:20 この雄牛に対して、彼が罪のためのいけにえの雄牛に対してしたようにしなさい。これにも同様にしなければならない。こうして祭司は彼らのために贖いをしなさい。彼らは赦される。

前回の贖いは自分の罪のためであったのに対して、今回は他の人のためのとりなしの贖いです。ここから、祭司はその召された使命の職分を果たすことになります。クリスチャンはいつまでも自分のためにばかり祈っていてはいけません。他の人の救いのために祈り、労する者とならなければなりません。そのためには、まず、自分の罪が解決し、潔められている必要があります。自分に勝利がなくて、他の人が勝利を得るために祈り、働くことはほとんど不可能に近いことです。

22~35節、上に立つ者と一般の人々の罪のためのいけにえ

先に、全会衆が知らずに過失を犯した場合には、長老たちが代表者として主の前で雄牛の頭の上に手を置いて、ほふらなければなりませんでした。しかしここでは、長老のような指導的立場にある者が罪を犯した場合のいけにえについて記しています。

人の上に立つ者の罪やあやまちは、たとい本人がそれに気づいていない場合でも、全会衆に及ぼす影響は大きいのです。これは教会の中で、しばしば現実問題となります。たとえば、新しい回心者は無意識のうちに先輩の信者の真似をするようになります。それ故、先に信仰の道を歩いている者は、知ると知らざるとに関わらず、責任が重いのです。ですから、主の赦しを請いつつ、またへりくだって、神の国とその義とを第一に求める生活に励みたいものです。だからといって、ビクビク、オドオドする必要はありません。堂々と大胆に、積極的に信仰生活を営んでいただきたいと思います。しかしもし、自分の欠点や過失に気づいたり、教えられたなら、素直にへりくだり、それを改めていく謙虚な信仰を持ちたいものです。

潔められるとは、そういうクリスチャンになることです。潔められるとは、何一つ欠点もなく、一つの過失も犯さない人になることではありません。そんなことは、私たちがこの地上を歩んでいる限り不可能なことです。その不可能なことを主が私たちに求められるはずがありません。しかしクリスチャンの中には、「潔められるとは、完璧な、無欠点、無過失の人間になることだ。」と誤解して、失望し、いつも暗く、喜びのない生活をしている人があります。そうではなくて、自分の欠点や過失が示されたら、いつでもすぐに悔い改めて、改めていくやわらかい謙遜な信仰を持つことです。この人は心が神の前に砕かれている人です。こういう人を主は喜ばれます。責任の重さに打ちひしがれないで、へりくだって、しかも積極的な信仰を持たせていただきましょう。

また、すべての場合に言われていることですが、「主がするなと命じたすべてのうちの一つでもあやまって行ない、‥‥」(22、27節)といわれていることは、一つの罪が自分自身と周囲の者を信仰の道から迷わせてしまうことを教えています。

レビ 4:22 上に立つ者が罪を犯し、その神、【主】がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行い、後で咎を覚える場合、

レビ 4:27 また、もし一般の人々のひとりが、【主】がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、

この世の見方では、「一回くらい」とか、「一つくらい」という甘い考え方をしますが、聖書はその一回の罪、一つの罪の中にすべての罪が含まれていることを警告しています。エバの一回の罪は、全人類を罪と死の中に閉じ込めてしまいました。私たちも一つの罪の恐ろしさを十分自覚したいものです。確かに、その罪はイエス様の十字架の恵みによって赦されますが、だからと言って安易に考えるなら、キリストの教会は光を失い、塩けを失ってしまいます。

23節、上に立つ者は常に見られており、模倣されているのですから、言動は慎み深くなければなりません。しかしそれでも罪が示されたなら、罪を悔い改めることも模範的でなければなりません。

レビ 4:22 上に立つ者が罪を犯し、その神、【主】がするなと命じたすべてのうち一つでもあやまって行い、後で咎を覚える場合、
4:23 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼はささげ物として、傷のない雄やぎを連れて来て、
4:24 そのやぎの頭の上に手を置き、全焼のいけにえをほふる場所で、【主】の前にそれをほふりなさい。これは罪のためのいけにえである。

上に立つ者個人の場合、いけにえの動物に「傷のない雄やぎ」(23節)が指定されています。しかし一般の人々の場合(27~31節)は、雌やぎか(28節)、子どもの雄羊(32節)と指定されています。これは各々のささげる能力に応じてとられた神のご配慮と思われます。

レビ 4:27 また、もし一般の人々のひとりが、【主】がするなと命じたことの一つでも行い、あやまって罪を犯し、後で咎を覚える場合、
4:28 または、彼が犯した罪が自分に知らされたなら、彼は犯した罪のために、そのささげ物として、傷のない雌やぎを連れて来て、
4:29 その罪のためのいけにえの頭の上に手を置き、全焼のいけにえの場所で罪のためのいけにえをほふりなさい。
4:30 祭司は指で、その血を取り、それを全焼のいけにえの祭壇の角に塗りなさい。その血は全部、祭壇の土台に注がなければならない。

しかしどの場合も、罪のためのいけにえを食べることはできません。全部を焼かなければなりません。しかもこの煙は、主への芳しいかおりではなく、神の怒りを解くためのなだめのかおりです(31節、ヨハネ第一2:2)。

4:31 また、脂肪が和解のいけにえから取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司は【主】へのなだめのかおりとして、それを祭壇の上で焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために贖いをしなさい。その人は赦される。

Ⅰヨハ 2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

このことは、私たちがどんなに貪欲になり、快楽やこの世の富を求めても、罪からは、どんな利益も祝福も得られないことを教えています。しかも、人の罪は自分の努力で赦されることはできず、祭司の贖いのわざに頼らなければならないことを教えています(31、35節、エペソ2:8,9)。

レビ 4:35 また、和解のいけにえの子羊の脂肪が取り除かれる場合と同様に、その脂肪全部を取り除かなければならない。祭司はそれを祭壇の上で、【主】への火によるささげ物の上に載せて焼いて煙にしなさい。祭司は、その人のために、その人が犯した罪の贖いをしなさい。その人は赦される。

エペ 2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

ここにイエス・キリストの贖(あがな)いのみわざの予表がみられます。主イエスは、自ら傷なき神の小羊であられたとともに(ヨハネ1:29、コリント第一5:7)、自ら祭司となって、ご自身をいけにえとしてささげられたのです(ヘブル7:24、26~27、9:14、26、28)。このことの故に、今日、私たちは自ら知らずして犯した罪をも完全に赦されるのです。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

Ⅰコリ 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

ヘブル 7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。

ヘブル 7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

ヘブル 9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

(まなべあきら 1990.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1890年にアメリカで出版されたHolman Bibleの挿絵より「Sin Offering(罪のためのいけにえ)」(thebiblerevival.com, Wikimedia Commonsより)


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