聖書の探求(082) レビ記 17章 「血はいのちである」ことの教え

17章は、いけにえの血のことから、「血はいのちである」ことが教えられており、大切にしなければならないことが教えられています。

1~9節、家畜をほふること(食事)の宗教的意味

レビ 17:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
17:2 「アロンとその子ら、またすべてのイスラエル人に告げて言え。【主】が命じて仰せられたことは次のとおりである。
17:3 イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、
17:4 【主】の幕屋の前に【主】へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。
17:5 これは、イスラエル人が、野外でささげていたそのいけにえを持って来るようにするため、また会見の天幕の入口の祭司のところで、【主】に持って来て、【主】への和解のいけにえとして、それらをささげるためである。
17:6 また、祭司が、その血を会見の天幕の入口にある【主】の祭壇に注ぎかけ、その脂肪を【主】へのなだめのかおりとして焼いて煙にするため、
17:7 また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。
17:8 また、あなたは彼らに言わなければならない。イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、全焼か、または、ほかのいけにえをささげ、
17:9 それを【主】にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。

1,2節は、これから語られる定めが非常に重要なことであることを印象づけています。

2節では、アロンとその子らすべてのイスラエル人、8節では、在留異国人も含まれていますから、この定めは非常に包括的であることがわかります。

また、2節の「主が命じて仰せられたこと」という言葉は、その絶対性を示しています。宗教の第一原則は、主の命じられたみことばに絶対的に従うことです。それを自分なりに解釈して割引いたり、水増ししたり、曲げたりするところから滅びが始まるのです(ヨハネの黙示録22:18,19)。

黙 22:18 私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。
22:19 また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる。

3節で、取り扱っている、牛か子羊かやぎをほふることは、イスラエルの民が飼っている家畜をほふることです。

レビ 17:3 イスラエルの家の者のだれかが、牛か子羊かやぎを宿営の中でほふり、あるいは宿営の外でそれをほふって、

当時、食糧として家畜をほふっても、家畜をほふることはすべて、いけにえとみなされていました。それは、神が与えられた命を殺すからです。それ故、いかなる動物をほふることも宗教的意味を含んでいたのです。

そこで主は、イスラエルの民が家畜をほふることによって偶像礼拝に陥ることのないように、先ず、そのいけにえにする家畜を会見の天幕の前に連れてくるように命じました。そして、家畜はそこでほふられ、和解のいけにえとして、血と脂肪を主のものとしてささげ、残りの肉はささげた者の物として食することができました。こうして彼らははっきりと主への信仰を表して、罪に陥ることを免れたのです。

元来、食事は非常に宗教的な意味を含んでいます。旧約聖書では、過越の食事はその代表的なものであり、新約聖書では主の聖餐はその代表的なものです。パウロも、コリント第一10章31節で、「食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。」と、その宗教的意味を示しています。食事の時の交わりは、神の栄光を現わすこともできますが、その飲み食いは偶像礼拝にもつながりやすいのです(出エジプト記32:6)。

出 32:6 そこで、翌日、朝早く彼らは全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえを供えた。そして、民はすわっては、飲み食いし、立っては、戯れた。

それ故、神ははっきりと神の栄光を現わすために、偶像礼拝者たちと混同するような食事の仕方をせず、神へのいけにえとして食事をするように命じたのです。
私たちの家庭の食事でも、教会での愛餐会でも、さんびと祈りと交わりのうちに神の栄光を現わすものとしなければなりません。食事がつまずきになって、主の聖名を汚すようなことがあってはなりません。

この定めは単なる「すゝめ」ではありません。この定めを破る者は「民の間から断れる」(4、9節)という厳しい刑罰が言い渡されています。それには理由があったのです。

レビ 17:4 【主】の幕屋の前に【主】へのささげ物としてささげるために、それを会見の天幕の入口の所に持って来ないなら、血はその人に帰せられる。その人は血を流した。その人はその民の間から断たれる。

レビ 17:9 それを【主】にささげるために会見の天幕の入口に持って行かないなら、その者は、その民から断ち切られる。

7節の「やぎの偶像」は英欽定訳では「悪鬼」と訳されており、悪霊に満ちたものと考えられていたようです。

17:7 また、彼らが慕って、淫行をしていたやぎの偶像に、彼らが二度といけにえをささげなくなるためである。これは彼らにとって、代々守るべき永遠のおきてとなる。

そして当時の世界では、異教的習慣として、ほふられた家畜はこの「やぎの偶像(悪鬼)」にささげられたものとみなされていました。しかも、このような偶像にいけにえをささげる時には、しばしば淫行が行われるのが習慣となっていました。それ故、イスラエルの民でも家畜を神へのいけにえとしてほふらず、各々、勝手にほふって食するなら、それは偶像礼拝とみなされ、さらにそのような自分勝手なことが横行するようになると、必ず、異教との交わりが始まり、信仰的妥協やこの世の侵入が始まり、神の民の宗教生活が堕落していく危険性があったのです。事実、後にイスラエルは神への明確な信仰を失った時、バアルやアシュタロテ、その他、近隣諸国の偶像を取り入れ、イスラエル人の信仰生活は汚れ、滅びを招くほどに堕落してしまったのです。

クリスチャンの中にも、できるだけこの世の近くで生きたいという人がいます。この世の習わしや習慣的行事を行いながら、クリスチャンとしての生活もしたいと思っている人がいます。しかしそれは自分だけでなく、キリスト教会全体をも偶像礼拝に引き込んでしまう大きな危険をはらんでいるのです。クリスチャンは自分の信仰の旗色を鮮明にして信仰生括を営むべきです。

こうして神は、神の民の信仰に有害となるものとの交わりを防ぐために、深い配慮をされてこの定めをおかれたのです。食事は非常に日常的なことですが、クリスチャンは日常的なことにおいて、はっきりと自分の信仰を現わさなければなりません。そうしないと、この世の異教に染まって埋没してしまいます。

10~16節、血による贖(あがな)いの真理

レビ 17:10 また、イスラエルの家の者、または彼らの間の在留異国人のだれであっても、どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から断つ。
17:11 なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。
17:12 それゆえ、わたしはイスラエル人に言った。『あなたがたはだれも血を食べてはならない。あなたがたの間の在留異国人もまた、だれも血を食べてはならない。』
17:13 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕らえるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。
17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。それゆえ、わたしはイスラエル人に言っている。『あなたがたは、どんな肉の血も食べてはならない。すべての肉のいのちは、その血そのものであるからだ。それを食べる者はだれでも断ち切られなければならない。』
17:15 自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。
17:16 もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」

この血による贖(あがな)いがキリストの十字架の血を予表していることは明らかです。それ故、エホバの証人のように、キリストの血による贖いを否定して、輸血にこだわり、これを拒否して患者を死亡にいたらせることは狂気じみたサタンの仕業です。

10、12節にある、血を食べることの禁止は、古く、ノアの時代から定められています(創世記9:4)。

創 9:4 しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

ここでは、そのことが更に強調されています。その理由は二つあります。

一つは、血は肉のいのちであるからです。そして、いのちは神のものであるからです。
それ故、血は神聖なものとして扱わなければなりません。しかし、罪に染まった世の中では、汚れた血によって多くの病気が引き起こされているのをみると、人間がいかに血を神聖に扱うべきかを教えられます。

13節では、いけにえにした血ではなく、狩りで捕えた獣や鳥でも、その血を土でおおうように命じています。

17:13 イスラエル人や彼らの間の在留異国人のだれかが、食べることのできる獣や鳥を狩りで捕らえるなら、その者はその血を注ぎ出し、それを土でおおわなければならない。

サムエル記第二23章13~17節において、ダビデは三人の勇士がペリシテ人の陣営を突き抜けてベツレヘムの門にある井戸から汲んできた水を飲もうとはせず、それを注いで主にささげ、「主よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」と言っています。

Ⅱサム 23:13 三十人のうちのこの三人は、刈り入れのころ、アドラムのほら穴にいるダビデのところに下って来た。ペリシテ人の一隊は、レファイムの谷に陣を敷いていた。
23:14 そのとき、ダビデは要害におり、ペリシテ人の先陣はそのとき、ベツレヘムにあった。
23:15 ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
23:16 すると三人の勇士は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデは、それを飲もうとはせず、それを注いで【主】にささげて、
23:17 言った。「【主】よ。私がこれを飲むなど、絶対にできません。いのちをかけて行った人たちの血ではありませんか。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

これは実際上の血ではありませんが、命がけで汲んできた水を血に見立てているのです。私たちも命がけで主に仕えたいものです。命がけで主に仕えることは血のいけにえをささげるのと同じほど神聖なのです。

もう一つは、血によって、いのちが贖(あがな)われるからです。いけにえの血はすべて完全に神にささげられなければなりません。これを自分勝手に各々のために用いることはできません。イエス・キリストの血は最後の一滴までも、罪人である私たちの霊魂の贖いのためにささげられました。

「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

「血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)

「私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、」(ヘブル10:22)

ヘブル10章29節は、キリストの血を踏みつけにする者への警告です。

ヘブル 10:29 まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
ヨハネは、

「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)

と言いました。

旧約聖書においては、「血を流さないように」という消極的な扱いが命じられていますが、新約聖書では、キリストの血に全く信頼するようにと、積極的な意味で強調されています。私たちの罪が赦され、潔められ、神と交わり、神の恵みを受けることができる根拠は、ただキリストの血によるのみなのです。
私たちは、あたかもキリストの血に力がないかのような不確かな信頼の仕方をしてはならないのです。キリストの血への信頼がゆらぎ始め、確信がなくなってくると、霊的に新鮮な輝きを失い、生活が堕落してきます。

15,16節は、どのような殺され方をしたのか分からない家畜には血が残っている可能性があるので、過ってその肉を食べた場合は、からだと衣服を洗わなければならないし、夕方まで汚れているとみなされます。

レビ 17:15 自然に死んだものとか、野獣に裂き殺されたものを食べるなら、この国に生まれた者でも、在留異国人でも、だれでも、その衣服を洗い、水を浴びなければならない。その者は夕方まで汚れている。彼はきよい。
17:16 もし、その衣服を洗わず、その身に水を浴びないなら、その者は自分の咎を負わなければならない。」

これは、キリストの血に対する信仰が不透明な、いいかげんなクリスチャンの姿であるとも言えましょう。お互いは、はっきりとキリストの血による贖いを信じていなければなりません。

あとがき

この聖書の探求がお手元に届くころは、クリスマスの特別集会も終わって、年末から新年へと向かっておられることと思います。実に、一年の過ぎるのは早いもので、一分をも惜しむようにして奉仕しているのですが、仲々はかどりません。霊的な働きは種類が多いのと、だれでも適当にまかせられませんので、いきおい仕事が重なってしまいます。特に、説教や執筆活動には霊的力のほかに、多くの時間と体力を消耗します。ある人は、「牧師は一週間に二、三回、聖書の話をしていればいいのだから・・・」と思っている人もありますが、実状は三六五日、朝から晩までひっきりなしに働きずくめで、それが生涯続きます。私のように教会を創設した者には定年はなく、休日をつくっても、主のために働いています。それでも、救われる人、潔められる人、献身する人などが起こされると、本当にこの働きをさせていただいてよかったと思います。小さい私の働きですが、それでも全国の方々に少しでも主の恵みをお届けできれば幸いです

(まなべあきら 1991.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、オランダの MARIAN VAN DER KRUIJTさんにより描かれた「Instructions God gave for the peace offering(神様から示された和解のささげ物の手順)」(Freebibleimagesより。参照:https://www.freebibleimages.org/illustrations/mk-peace-offering/


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