聖書の探求(083) レビ記 18章 性的不道徳に対する警告
18章は、エジプトやカナンの地で日常に行われていた性的不道徳に対して、その真似をしてはならないという警告です。今日、性が快楽のゲームとなってしまっている社会に対して、聖書は唯一の正しい警告です。
1~5節、異教の民の風習に従ってはならないこと
ここでは、イスラエルの民が神の民となるための二つの条件が命じられています。
それは第一に、異教の民の風習に従わないことです。
レビ 18:1 ついで【主】はモーセに告げて仰せられた。
18:2 「イスラエルの人々に告げて言え。わたしはあなたがたの神、【主】である。
18:3 あなたがたは、あなたがたが住んでいたエジプトの地のならわしをまねてはならない。またわたしがあなたがたを導き入れようとしているカナンの地のならわしをまねてもいけない。彼らの風習に従って歩んではならない。
3節で、神はまず、イスラエルの民が出て来たエジプトの地の習わしを取り上げています。これは、エジプトの習わしを約束の地に持ち込まないことです。これは、未信者時代の罪深い習慣やこの世的な価値観を信仰生活の中に持ち込まないようにとの警告です。
また、これから入って行こうとするカナンの地にも、異教の民が住んでいましたから、カナン人の習わしにも従わないようにと命じられています。私たちはクリスチャンになっても、この世の異教徒たちの間で生活していますので、彼らの習慣に染まりやすいのです。
それでパウロは、ローマ人への手紙12章2節で、「この世と調子を合わせてはいけません。」と言ったのです。また、すでに教会の中に異教的習慣が入り込んできていることもありますから、それらは取り除かなければなりません。福音の土着化という名目のもとに、その地の文化を生かすという口実のもとに、異教的要素を取り入れてキリストの福音を変質させてしまう危険があります。福音宣教において、その地の文化を無視することはできませんし、それを尊重しなければなりませんが、それによってキリストの福音を変質させてしまっては、もはやキリストの福音ではなくなってしまいます。このようなことが今日のキリスト教会の信仰の力を弱体化させてしまっているのです。
神は、人が神の民となるために、第一に異教的風習に従わないようにと命じたのです。
クリスチャンは今も、この主のご命令に忠実に従わなければなりません。異教の風習は必ず、神の民にとってワナとなります。サムエルの時代にイスラエルの民が王を求めたのも、異教の国々にならってのことでした。これが悲惨な運命を招いていったのです。
6~23節にあるようなことは、すべて、神の民の周囲の異教の民の中で行われていたいまわしい風習でした。イスラエルの民は、この戒めにもかかわらず、バアルやアシュタロテを初め、様々な異教的、偶像的習わしを取り入れていって、捕囚という神の審判を受けるに至ったのです。今日、クリスチャンは、各々の信仰生活の価値観をもっと異教的なものから離して、神に聖別されたものとしなければ、主を憂しめ、滅びを招くことになります。
第二の条件は、4,5節、神の定めとおきてとを守り、従い、行うことです。
レビ 18:4 あなたがたは、わたしの定めを行い、わたしのおきてを守り、それに従わなければならない。わたしは、あなたがたの神、【主】である。
18:5 あなたがたは、わたしのおきてとわたしの定めを守りなさい。それを行う人は、それによって生きる。わたしは【主】である。
「定め」も、「おきて」も、神のことばを指しています。神のみことばに従った生活が、最も安全で祝福に満ちていることを聖書は宜言しており、また真実な聖徒たちはそれをあかしし、教えてきました。そしてそれを実現させるものは信仰なのです。人が自己中心になる時、その人の心は神のみことばより、この世の価値観に心が奪われてしまいます。クリスチャンは神のみことばによる勝利と祝福を、どうしてもこの世に示し、あかししたいものです。主が私たちを罪の泥沼の中から救い出してくださったのは、そのためです。
パウロは、テトスへの手紙2章14節で、
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」
と言っています。ここに、クリスチャンの生きる目的と使命が明示されています。
最後に、この命令の根拠と保証は何かを考えてみましょう。なぜ、この命令を守らなければならないのでしょうか?
それは、「わたしはあなたがたの神、主である。」と言われているからです。この言葉は、2、4、5節と、三回も語られています。これが、私たちが主のご命令に従わなければならない根拠です。もし従わなければ、「主は、私の神ではない。」と反逆することになります。
またこの命令を守ることのできる保証も、「主が私たちの神である。」ということです。主は、私たちになすべきこと、守るべきことを命じられましたならば、必ず、それを実行することのできる力をも与えてくださいます。主は私たちに、聖くあるようにと命じられました(ペテロ第一1:16)。
Ⅰペテ 1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。
しかしそれとともに、主ご自身が潔めてくださるとの約束も与えてくださいました(テサロニケ第一5:23,24)。
Ⅰテサ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
主は命令と保証の両面を果たしていてくださるのです。これによって、私たちは必ず、勝利の生活を送ることができるのです。ですから、消極的にならず、逃避的にならず、主は厳しいと言わず、主に信頼し、主にゆだねて、積極的に従いましょう。
6~30節、性の乱用の禁止
1~5節で異教の風習に従うことを禁じた後、6節以後では、特に、カナンの地で行われていた、いまわしい性の乱用を詳しく取り上げて禁じています。今でも、性的不道徳が個人や家庭を破壊し、社会全体に害毒をまき散らしています。性的罪を犯したことによって極度な精神的不安定に陥った人、離婚してしまった人、地位や職業を失った人が沢山います。そればかりでなく、神のさばきは必ず下ります。今、性はいろいろな面で産業化しています。これには必ず、神の、さばきが下ります。クリスチャンは性について、いつでも神の前に立てるようにしておかなければなりません。
6節は、7~18節までの具体的な事項の一般原理を示しています。
レビ 18:6 あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは【主】である。
18:7 父をはずかしめること、すなわちあなたの母を犯すことをしてはならない。彼女はあなたの母であるから、彼女を犯してはならない。
18:8 あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。
18:9 あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。
18:10 あなたの息子の娘、あるいはあなたの娘の娘を犯してはならない。それはあなた自身をはずかしめることだからである。
18:11 あなたの父の妻があなたの父に産んだ娘は、あなたの姉妹であるから、あなたはその娘を犯してはならない。
18:12 あなたの父の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの父の肉親である。
18:13 あなたの母の姉妹を犯してはならない。彼女はあなたの母の肉親であるから。
18:14 あなたの父の兄弟をはずかしめてはならない。すなわち、その妻に近づいてはならない。彼女はあなたのおばである。
18:15 あなたの嫁を犯してはならない。彼女はあなたの息子の妻である。彼女を犯してはならない。
18:16 あなたの兄弟の妻を犯してはならない。それはあなたの兄弟をはずかしめることである。
18:17 あなたは女とその娘とを犯してはならない。またあなたはその女の息子の娘、あるいはその娘の娘をめとって、これを犯してはならない。彼女たちは肉親であり、このことは破廉恥な行為である。
すなわち、自分の肉親の異性と性的関係をもってはならないことです。このことはモーセの時代になって、はっきりと啓示されました。それまでは近親結婚がかなり行われていたようです。たとえば、アブラハムは異母妹であるサライと結婚していました(創世記20:12)。
創 20:12 また、ほんとうに、あれは私の妹です。あの女は私の父の娘ですが、私の母の娘ではありません。それが私の妻になったのです。
また、ヤコブは18節の戒めを犯していました。
18:18 あなたは妻を苦しませるために、妻の存命中に、その姉妹に当たる女をめとり、その女を犯してはならない。
彼はラバンの上の娘レアを自分の妻にし、また同時に、下の娘ラケルをも自分の妻にしたのです。レアとラケルは実の姉妹でした。その為に、この二人の姉妹は苦しみ、ヤコブも苦しんだのです。
しかし、ここでは、近親結婚に弊害があるから禁じられているということとともに、「わたしは主である」と言われているように、信仰的、霊的な意味で禁じられています。これは不品行として禁じられているのです。それにもかかわらず、ダビデの息子アムノンはタマルという美しい妹に恋して、力づくで性的に彼女をはずかしめたのです。このことは、ダビデの王家にはなはだしいわざわいをもたらしました。ダビデの息子たちの間で殺し合いが始まり、タマルの兄アブシャロムの反乱と死までもたらしてしまったのです(サムエル記第ニ13~18章)。アムノンの愚かな実例は性的不品行がどんなに恐ろしいわざわいを生むかを今日の私たちに教えているのです。
新約のコリントの教会でも、そのような性的不道徳が行われていました(コリント第一5:1)。
Ⅰコリ 5:1 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
ここで、「父の妻」と言われているのは、自分の母親のことではないと思われます。おそらく、一夫多妻であった父親の別の妻と性的関係をもっていたのだと思われます。このように、性的放縦は時代を問わず、今日でも起きているのです。人が正しい信仰を失い、道徳的人格性が低下してくると、まず初めに、性の堕落が起きるのです。今日、科学的文明がどんなに進んだといっても、人の堕落性は少しも変わっていないことが、よくわかります。
レビ記28章には、「はずかしめることになる。」という言葉がよく出てきます。これは霊的に、人格的に深い傷を負わせ、激しい罪の苦しみの中に陥れることを言っています。
性的な罪は、快楽を楽しむつもりで行うのですが、その罪がもたらすものは、快い幸福ではなく、生涯、いや、永遠に続く激しい罪の苦痛なのです。アムノンが妹タマルを犯した後、彼はタマルを愛し続けたのではなく、憎みました(サムエル記第二13:15)。
Ⅱサム 13:15 ところがアムノンは、ひどい憎しみにかられて、彼女をきらった。その憎しみは、彼がいだいた恋よりもひどかった。アムノンは彼女に言った。「さあ、出て行け。」
タマル自身も苦しみました。兄のアブシャロムの怒りはアムノンを殺さないではいられないほど燃え上がったのです。
ダビデ自身が自分の忠実な家来ウリヤの妻バテ・シェバと性的関係をもった時も、ダビデの苦痛は死ぬこと以上でした。彼はその苦しみを詩篇32篇3,4節で告白しています。
「私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が夜も昼も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。」
この苦しみは、ただの苦しみではありません。神から下された刑罰の苦しみです。私は性的罪を犯して、人格まで破壊されてしまった男女を何人か見てきました。
しかもダビデがバテ・シェバと関係をもった直後にアムノンとタマルの事件が起きていることを見ますと、親の模範、大人の模範が与える影響が大きいことも見逃すことができません。この事件が発端となって、ダビデの王家に悲惨な事件が次々と起きたのです。もしダビデがこの主の戒めを忠実に堅く守っていたなら彼の王家はその何倍も栄えたに違いありません。
21節では、別のことが禁じられています。
それは、子どもをアモン人の偶像モレクにいけにえとしてささげてはならないことです。
レビ 18:21 また、あなたの子どもをひとりでも、火の中を通らせて、モレクにささげてはならない。あなたの神の御名を汚してはならない。わたしは【主】である。
ソロモン王は晩年に、アモン人の妻によってモレク崇拝を取り入れ、ヒンノムの谷のトフェテでいけにえをささげました(詩篇106:38、エレミヤ書7:31、同19:4~6、エゼキエル書16:21、同23:37,39、イザヤ書30:33)。
詩 106:37 彼らは自分たちの息子、娘を悪霊のいけにえとしてささげ、
106:38 罪のない血を流した。カナンの偶像のいけにえにした彼らの息子、娘の血。こうしてその国土は血で汚された。
エレ 7:31 また自分の息子、娘を火で焼くために、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテに高き所を築いたが、これは、わたしが命じたこともなく、思いつきもしなかったことだ。
エレ 19:4 彼らがわたしを捨ててこの所を見分けがつかないほどにし、この所で、彼らも彼らの先祖も、ユダの王たちも知らなかったほかの神々にいけにえをささげ、この所を罪のない者の血で満たし、
19:5 バアルのために自分の子どもたちを全焼のいけにえとして火で焼くため、バアルの高き所を築いたからである。このような事は、わたしが命じたこともなく、語ったこともなく、思いつきもしなかったことだ。
19:6 それゆえ、見よ、その日が来る。──【主】の御告げ──その日には、この所はもはや、トフェテとかベン・ヒノムの谷とか呼ばれない。ただ虐殺の谷と呼ばれる。
エゼ 16:21 あなたは、わたしの子どもたちを殺し、これを焼いて、ささげ物とした。
エゼ 23:37 彼女たちは姦通し、その手は血に染まっている。彼女たちは自分たちの偶像と姦通し、わたしのために産んだ子どもをさえ、それらのために火の中を通らせて、焼き尽くした。
23:39 偶像のために、自分たちの子どもを殺し、その同じ日にわたしの聖所に来て、これを汚した。彼らはなんと、このようなことをわたしの家の中でした。
イザ 30:33 すでにトフェテも整えられ、特に王のために備えられているからだ。それは深く、広くされてあり、そこには火とたきぎとが多く積んである。【主】の息は硫黄の流れのように、それを燃やす。
アハズも、マナセも同じ罪を犯しました。北王国はこの罪の故に神の怒りを招いて滅んだといってもよいのです(列王記第二17:17)。
Ⅱ列王 17:17 また、自分たちの息子や娘たちに火の中をくぐらせ、占いをし、まじないをし、裏切って【主】の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。
ヨシヤはソロモンが建てたモレクの祭壇をこわしました(列王記第二23:10、13~15)。
Ⅱ列王 23:10 彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。
23:15 なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。
その外に、モアブのケモシュ、スロ・フェニキヤのバアル、アシュタロテなどがイスラエルに侵入し、神の民は偶像の民と化していきました。偶像礼拝は神の御名を汚すのです。
クリスチャンと言われている人々の中に、イエス・キリストを信じていると告白していながら偶像礼拝をしている人がいますが、これは、キリストの御名を汚すことになることを知らなければなりません。
22節では、同性愛が禁じられています。
レビ 18:22 あなたは女と寝るように、男と寝てはならない。これは忌みきらうべきことである。
同性愛はローマ人への手紙一章26,27節でも禁じられています。
ロマ 1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、
1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
23節では、獣との性交渉を禁じています。
レビ 18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。
これらはみな、神が人を創造された目的からはずれた性交渉であり、これを犯すなら、神の刑罰を受けることは免れることができません。しかし、24、27節にあるように、このような性の堕落と乱用は歴史上、いつも行われ続けてきたのです。そして人類は、そのために苦しみ、その度ごとに神の審判を受けてきたのです。
レビ 18:24 あなたがたは、これらのどれによっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、
レビ 18:27 ──あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた──
25、27、28、29節.このような性的罪を犯す者に対する神の審判は厳しいものです。それは、吐き出され、断たれることです。これは根絶されることを意味しています。
レビ 18:25 このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地の咎を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになるからである。
18:27 ──あなたがたより先にいたこの地の人々は、これらすべての忌みきらうべきことを行ったので、その地は汚れた──
18:28 あなたがたがこの地を汚すことによって、この地が、あなたがたより先にいた国民を吐き出したように、あなたがたを吐き出すことのないためである。
18:29 これらの忌みきらうべきことの一つでも行う者はだれであろうと、それを行う者は、その民の間から断たれる。
ここに挙げられた戒めは、異教の風習の一部分に対するものです。そして、神の民はこの忌み嫌うべき風習を決して行わないようにと警告されているのです。異教社会では、常に性的不道徳の風習が行われてきました。しかしこれを行えば、必ず、自分を苦しめ、家族や他人を苦しめ、神の聖名を汚し、神の審判を受けることになります。
私たちがこの戒めを守らなけれはならない理由は何なのか。それは、私たちがわざわいに会わないためであるばかりでなく、神が「わたしはあなたがたの神、主である。」と言われているからです。
レビ 18:30 あなたがたは、わたしの戒めを守り、あなたがたの先に行われていた忌みきらうべき風習を決して行わないようにしなさい。それによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
神が聖であられますから、私たちも自らの肉欲を捨てて、潔められ、神のみ旨にふさわしく生きるべきです。
あとがき
1991年の最初の聖書の探求をお送りできますことを主に感謝致します。年々、忙しさが増してきて、この聖書の探求も時間をぬうようにして書いております。執筆活動には多くの時間とともに、体力と霊性の消耗が伴います。霊性と健康が守られるようにお祈りいただければ幸いです。
この聖書の探求をずっと学んでいてくださる方々や、メッセージテープを聞き続けて下さっている方々から「信仰が変わってきた。」というお知らせをいただくようになりました。これは神のみことばに力があることを再確認させてくれます。クリスチャンにとって、聖書が正確に、十分に理解でき、しかも自分の実生活に活用できるように分かることは、命よりも大事なことです。そして、理解されたみことばが各々の生活の中で活用されるようになったら底力のあるリバイバルが起きます。それは個人においても、家庭においても、社会においても、国家においても、信仰による革命となるのです。その鍵は、聖書をどのように理解できるかにかかっているのです。
(まなべあきら 1991.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、アメリカの聖書学者 Charles Foster Kent (1867 – 1925)により1897年に出版された「Bible Pictures and What They Teach US」に掲載された「Offering to Molech(モレクへのいけにえ)」(Wikimedia Commonsより)
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