聖書の探求(081) レビ記 16章 贖いの日(大贖罪日、ヨム・キプール)について

上の絵は、イギリスの画家William James Webb (1830—1904)による「Sending Out the Scapegoat(スケープゴートを送り出す)」(Pictures from Children’s Bible Story Booksから, Wikimedia Commonsより)

16章は「贖(あがな)い」という聖書中、最も重要なことをテーマにしています。

1~10節、至聖所に入るための準備

レビ16:1 アロンのふたりの子の死後、すなわち、彼らが【主】の前に近づいてそのために死んで後、【主】はモーセに告げられた。

1節の「アロンのふたりの子の死後」は、10章のナダブとアビフの事件のことです。
この二人は、これから祭司が神の御前で仕えるに当って、悪い実例として警告に用いられています。人間の祭司制度はナダブとアビフの事件において、その出発の時点で大きくつまずいてしまいました。

レビ 16:2 【主】はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所に入って、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならない、死ぬことのないためである。わたしが『贖いのふた』の上の雲の中に現れるからである。

2節の「かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって」は、神の秩序を破って、神を冒涜することの危険を警告しています。私たちの自分勝手な思いと行動は、神の秩序を乱し、神を冒涜する罪になります。

「死ぬことのないためである。」この警告がアロンに与えられたのは、神のあわれみです。かつてアロンは、金の子牛を作ったことがあります(出エジプト記32章)。その時、アロンの罪が赦されたのは、モーセのとりなしの故です(申命記9:20)。

申 9:20 【主】は、激しくアロンを怒り、彼を滅ぼそうとされたが、そのとき、私はアロンのためにも、とりなしをした。

神はアロンを危い人物のひとり、信用のおけない人物のひとりと見ておられたようです。このことはモーセの姉ミリヤムにも言えることです。その時、主が心おきなく信任できたのは、モーセひとりであったものと思われます。私たちも、信仰において神に全く信任されるように、いつ、どんな時でも、主に忠実な者でありたいものです。自分の都合で態度や行動がコロコロ変わる、信用のおけない人間になりたくないものです。

「垂れ幕の内側の聖所」とは、至聖所のことです。この至聖所の中に置かれている契約の箱の「贖(あがな)いのふた」の上の雲の中に、主ご自身が現われると言われています。この部分は、聖書が示している信仰の最重要な真理を、旧約的な模型として示しているのです。

贖いのふたの下の箱の中には、二枚の律法の石の坂が入れられており、その律法は人の罪を指摘するものです。「律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

しかしその上の贖(あがな)いのふたの中に、いけにえの血が注ぎ込まれるなら、その上に臨在され、人の罪をさばかれる主も怒りたまわず、親しく交わってくださるのです。ここに、キリストの血の偉大さが教えられます。しかし祭司がいけにえの血を携えて至聖所に入らず、贖いのふたの上にその血を注がないなら、神は律法が指摘する人の罪を容赦なく裁かれるのです。人の罪を赦すのも神であるなら、人の罪をさばかれるのも神であることを深く覚えて、罪をいいかげんにしておかないようにしなければなりません。自分の真面目さや正義感によって「自分は正しい」などと思ったり、主張したりしないようにしたい。はっきりと自分が罪人であることを認め、キリストの血潮によって罪赦され、潔められる恵みの経験を受けましょう。

贖いのふたの前に近づけるのは、大祭司だけが一年に一度、贖いの日だけでした。それ以外は、いけにえの儀式は外庭で行われました。しかし、イエス・キリストの十字架によって、この垂れ幕は切って落とされ(マタイ27:51)、

マタ 27:51 すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。

すべての人がキリストを通して主と交わることができるようになったのです(ヘブル9:11~14、10:19~22)。

ヘブル 9:11 しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、
9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。
9:13 もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

しかし、私たちが主に近づくためにしなければならない霊的準備は、アロンの時と同じです。
第一に、アロンは自分と家族のために、罪のためのいけにえと全焼のいけにえを携えなければなりませんでした(3節)。

レビ 16:3 アロンは次のようにして聖所に入らなければならない。罪のためのいけにえとして若い雄牛、また全焼のいけにえとして雄羊を携え、

私たちも、主と交わるためには、先ず、キリストの血による救いと血による潔めを、たえず持っている必要があります(ヨハネの手紙第一1:7)。

Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

第二に、アロンは聖なる装束を身に着けなければなりません(4節)。

レビ 16:4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。

この聖なる装束の一部は、エペソ6章の神の武具に似ています。帯やかぶり物などです。これらについてはすでに祭司の装束のところで学びましたが、一言でいうなら、神と交わる者は、この世にならう生活から離れて、聖別されているべきことを示しています(ローマ12:2)。

ロマ 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

第三に、アロンはイスラエルの全会衆のためにも、罪のためのいけにえと、全焼のいけにえをささげなければなりません(5節)。

レビ 16:5 彼はまた、イスラエル人の会衆から、罪のためのいけにえとして雄やぎ二頭、全焼のいけにえとして雄羊一頭を取らなければならない。

神と交わる人は、たえず他の人の救いと潔めのために奉仕する者でなければなりません。クリスチャンが伝道するのは、まだ救われていない人々のためでもありますが、それは、ひいては自分が神と交わるために不可欠なことであることも知っておかなければなりません。自分中心的な動機で伝道してはいけませんが、しかしそれが必ず、自分に恵みと祝福となって帰ってくるということも事実です。

7~10節に、二頭のやぎのことが記されています。

レビ 16:7 二頭のやぎを取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。
16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
16:9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

 

一頭は主の怒りをなだめるいけにえとし、もう一頭のアザゼルと呼ばれるやぎは、人の罪を背負っていくものとして、荒野に放たれました。

これは、私たちの罪を背負って、なだめの供え物となられたキリストの十字架を示しています(ヨハネの手紙第一2:2、4:10)。

Ⅰヨハ 2:2 この方こそ、私たちの罪のための──私たちの罪だけでなく、世全体のための──なだめの供え物です。

Ⅰヨハ 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

11~14節、自分と家族のための贖(あがな)い

レビ 16:11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。

アロンは、民のために仕える前に、自分と自分の家族、すなわち、他の人の罪のためにとりなす祭司となる者のために、十分な贖いをしなければなりませんでした。
真の大祭司であられるイエス・キリストは罪なき聖なる神ご自身が人の婆をとられたお方ですから、アロンのようにご自分のために贖いをする必要はありませんでした。しかし、クリスチャンが、主のため、人々のために奉仕するためには、その前に、自分のためにしておかなければならないことがあります。

それは、
第一に、自分の救いを明確にしておくこと、
第二に、潔めの恵みに立って、十分な聖霊の満たしを受けておくこと、
第三は、みことばをよく知ることです。みことばを知らずに、みことばの奉仕をすることはできません。

これらは神と人のために奉仕する者の必須条件です。

12節、「火皿いっぱいの炭火」と「両手いっぱいの粉にしたかおり高い香」

レビ 16:12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
16:13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

このように、炭火や香が「いっぱい」必要であったのは、香の煙が贖いのふたをおおうためでした。祭壇の火は、イザヤのくちびるを潔めたように(イザヤ6:6,7)、罪を取り除き、深めることを意味しています。

イザ 6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」

「香」は祈りを意味しています。すなわち、罪が潔められた者の祈りを、主は喜んで受け入れてくださるのです。これは他の人々のために執り成しの祈りをする者にとって非常に大切なことです。神に祈る時、必ず罪が解決されていなければなりません(イザヤ59:1,2)。

イザ 59:1 見よ。【主】の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

このことは潔められた人の祈りが、いかに力があるかを示しています(ヤコブの手紙5:16)。

ヤコブ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

14節では、アロンは雄牛の血を「贖いのふた」の前に、七度振りかけなければならないと命じられています。

レビ 16:14 彼は雄牛の血を取り、指で『贖いのふた』の東側に振りかけ、また指で七たびその血を『贖いのふた』の前に振りかけなければならない。

「七」は神の完全性を表しています。この雄牛の血はイエス・キリストの血を予表しているのですが、雄牛の血はイエス・キリストの血と違い、贖いのためには不完全でしたので、贖いの完全性を示すために七度振りかけることが命じられているのです。しかし主イエスの血は一度で完全です(ヘブル9:12)。

ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

次に注目したいことは、これらのことがみな、「贖いのふた」に向かってなされていることです。「贖いのふた」は、神ご自身ではありません。しかしそれは神のご臨在を表すしるしだったのです。今、主は「贖いのふた」にではなく、各々、主を信じる人の霊魂の内にご自身を現わされます。それ故、私たちは自分の霊魂の内にキリストの血の注ぎを受けなければなりません。

13節に、「死ぬことのないためである。」とありますのは、イエス・キリストの血による潔めなくして、不用意に神に近づく者は滅ぼされることを示しています。

レビ 16:13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

10章でナダブとアビフは滅ぼされましたが、これは特別なことではありません。私たちも、いつもキリストの血を心に抱いて神に祈らなければなりません。そうすれば、心がむなしくなったり、失望したりすることはありません。

15~19節、聖所の贖(あがな)い

レビ 16:15 アロンは民のための罪のためのいけにえのやぎをほふり、その血を垂れ幕の内側に持って入り、あの雄牛の血にしたようにこの血にもして、それを『贖いのふた』の上と『贖いのふた』の前に振りかける。
16:16 彼はイスラエル人の汚れと、そのそむき、すなわちそのすべての罪のために、聖所の贖いをする。彼らの汚れの中に彼らとともにある会見の天幕にも、このようにしなければならない。

これは、祭司たちの贖いでもなければ、イスラエル人の贖いでもなく、主を礼拝する場所である聖所の贖いです。

会見の天幕の中へは、罪、汚れをもったイスラエル人の会衆が入ってきますから、もし、聖所、会見の天幕、祭壇などがたえず、聖く保たれるように贖われていなければ、民の汚れによって、たちまち世俗化し、偶像化していってしまいます。後に、ユダヤ人は異教徒と交わるようになり、神殿の中に偶像の祭壇を作ったり、罪深い異邦人が住む家を作ったりしています(ネヘミヤ記13:7~9、29~31)。

ネヘ 13:7 エルサレムに帰って来たからである。そのとき、エルヤシブがトビヤのために行った悪、すなわち、神の宮の庭にある一つの部屋を彼にあてがったことに気づいた。
13:8 私は大いにきげんを悪くし、トビヤ家の器具類を全部、その部屋から外へ投げ出し、
13:9 命じて、その部屋をきよめさせた。そして、私は、神の宮の器物を、穀物のささげ物や乳香といっしょに、再びそこに納めた。

ネヘ 13:29 私の神。どうか彼らのことを思い出してください。彼らは祭司職を汚し、祭司やレビ人たちの契約を汚したからです。
13:30 私はすべての異教的なものから彼らをきよめ、祭司とレビ人のそれぞれの務めの規程を定め、
13:31 定まった時に行うたきぎのささげ物と、初物についての規程も定めた。私の神。どうか私を覚えて、いつくしんでください。

教会の中も、たえず主イエスの血によって潔め続けていないと、罪人が集まってくるのですから、たちまちこの世の思想、考え方、生き方が入ってきて世俗化し、堕落していってしまいます。教会の歴史をみると、そのようになっていた時代も相当長くあります。教会の内部が、ひとり一人のクリスチャンがキリストの血によって潔められ続けていないと、説教は堕落し、教会の営みや活動は汚れてきて、教会は争いや憎しみで満ちるようになります。

教会はその性質上、堕落したこの世の中に置かれ、罪人を迎え入れていくことが使命ですので、教会は、この世に汚染されないで、キリストの生命を発展させ続けるためには、霊的浄化能力を持っていなければなりません。これまで教会はしばしば堕落しましたが、しかしまた再び、キリストの血と聖霊とみことばの強調によってリバイブされ、その純潔を取り戻してきました。

レビ 16:17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

17節で、アロンは聖所の贖(あがな)いをする間、だれも会見の天幕に入れてはならないと命じられています。教会の中心メンバーは、はっきりと主イエスを救い主と信じている信仰者です。そしてまず、信仰者の集まりにおいてしっかりと信仰が植えつけられ、クリスチャンたちがまず、潔められていなければなりません。昨今、教会は信仰が明確でない人にもバプテスマ(洗礼)を授けて教会員にしてしまい、真の信者と未信者の区別がはっきりしなくなり、混乱を生じています。これは非常に危険です。これはキリスト教の明確な信仰をなしくずしにしていき、教会の存亡問題をひき起こすことになります。

教会の中にはたえず、信者と未信者(あるいは求道者)がいます。これは必要なことです。成長している教会では特に、未信者の求道者が沢山集まっています。これは幸いなことですが、教会はあくまでもクリスチャンとなっている人がその中心でなければなりません。そしてまず、クリスチャンがはっきりとキリストに潔められる必要があります。そうするなら いくらでも罪人を受け入れることができる準備が整うのです。いくらこの世の汚れや思想を持った人が教会に入ってきても、教会は浄化能力を持っていることができるのです。しかしもし、教会員の信仰が不鮮明で明確でないなら、教会はたちまち、この世の汚れで汚染され、争いや憎しみの巣と化してしまいます(マタイ21:13)。

マタ 21:13 そして彼らに言われた。「『わたしの家は祈りの家と呼ばれる』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」

またこの聖所は、私たち自身でもあります。クリスチャンはみな、各々、神の神殿であり、聖霊の宮です(コリント第一6:19)。

Ⅰコリ 6:18 不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。

しかし私たちは毎日、この世の中に生きていて、様々なこの世の汚れや悪、様々なこの世の思想、価値観、生き方と接触しながら生活していますから、自らの内にキリストの血による霊的浄化能力をもっていなければ、たちまち霊魂は汚染されてしまいます。

レビ 16:18 【主】の前にある祭壇のところに出て行き、その贖いをする。彼はその雄牛の血と、そのやぎの血を取り、それを祭壇の回りにある角に塗る。

18節で、血が角に塗られているのは、「救い」を意味しています。

レビ 16:19 その残りの血を、その祭壇の上に指で七たび振りかける。彼はそれをきよめ、イスラエル人の汚れからそれを聖別する。

19節は「きよめ」を表しています。

これはヨハネの第一の手紙1章9節に、「罪の赦し」と「すべての悪からのきよめ」が約束されているように、「救い」と「きよめ」の二重の恵みの約束が示されているのです。クリスチャンはこの二つの恵みをはっきりと経験することによって、この世の汚れに対しても、強い浄化能力をもつクリスチャンとなることができるのです。

20~34節、特別な贖(あがな)いの日

レビ 16:20 彼は聖所と会見の天幕と祭壇との贖いをし終え、先の生きているやぎをささげる。
16:21 アロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎの頭の上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
16:22 そのやぎは、彼らのすべての咎をその上に負って、不毛の地へ行く。彼はそのやぎを荒野に放つ。

20~22節の「アザゼルのやぎ」のことについては、8~10節に説明がなされています。

レビ 16:8 アロンは二頭のやぎのためにくじを引き、一つのくじは【主】のため、一つのくじはアザゼルのためとする。
16:9 アロンは、【主】のくじに当たったやぎをささげて、それを罪のためのいけにえとする。
16:10 アザゼルのためのくじが当たったやぎは、【主】の前に生きたままで立たせておかなければならない。これは、それによって贖いをするために、アザゼルとして荒野に放つためである。

祭司アロンは、聖所と会見の天幕と祭壇の贖いを成し終えた後に、人のための贖いをします。

人のための贖いには、二つの要素が示されています。

一つは、そのやぎの頭に両手を置き、すべての罪をその上に告白する。これは、罪の贖いには罪の告白が必要であることを教えています。ダビデは長い間、罪を隠し、告白しなかった故に、心身ともに激しく苦しんでいます(詩篇32篇、38篇)。

もう一つは、22節にあるように、もう一頭のやぎは、人の咎をすべてその身に負って、放たれるのです。ここには、人の罪の身代わりとなるキリストの姿が見られます。このやぎが「不毛の地」「荒野」に放たれるとは、罪が遠去けられることを意味しています。

23~28節、アロンの奉仕の終了

レビ 16:23 アロンは会見の天幕に入り、聖所に入ったときに着けていた亜麻布の装束を脱ぎ、それをそこに残しておく。

23節、アロンは聖所から外に出る場合、聖所で主に仕えていた時に着ていた聖なる装束を脱いで、そこに残しておかなければなりませんでした。

レビ 16:24 彼は聖なる所でそのからだに水を浴び、自分の衣服を着て外に出て、自分の全焼のいけにえと民の全焼のいけにえとをささげ、自分のため、民のために贖いをする。

また、24節では、彼は至聖所を出る時、からだを洗い、自分の大祭司の衣服を着て外に出て、自分と民のために全焼のいけにえをささげ、贖いをするように命じられています(エゼキエル書42:14、20)。

エゼ 42:14 祭司たちは聖所に入ったなら、そこから外庭に出てはならない。彼らが奉仕に用いる服は神聖だから、それを脱いで他の服に着替えてから民の所に近づかなければならない。」

エゼ 42:20 彼が外壁の回りを巡って四方を測ると、その長さは五百さお、幅も五百さおで、聖なるものと俗なるものとを区別していた。

これは聖と俗とをはっきりと区別すべきことを示しています。これを外面的にそのまま受けとってしまうと、クリスチャンは教会で礼拝をささげている時と、教会外で日常の生活をしている時とを、聖と俗に分けて生活すべきであるという受け留め方をしてしまう危険がありますが、そのような受け留め方は過っています。

旧約においては、儀式上のことで霊的な意味を教えましたのでこのようになっていますが、そのことが示す霊的な真の意味は、クリスチャンが教会の内と外において聖と俗の二種の相反する生活をするように勧めているのではなくて、それはクリスチャンが教会生活においても、各々の日常生活においても霊的に聖なる生活をすることを勧めているのです。クリスチャンは隠遁して聖なる生活をするのではなく、俗生活の中で聖なる衣を着て、主と交わる生活をして、この世に光を放ち、主をあかしする生活をするように求められているのです(マタイ5:16、コロサイ3:9~14)。

マタ 5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

コロ 3:9 互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

しかしまた、クリスチャンは、この世にならう生活をしないのです。この点において、クリスチャンは日常生活の中において、聖と俗とをはっきりと区別しておく必要があるのです。

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

25~28節は、贖いの儀式の後片付的なものですが、これもキチンと最後までしなければなりません。

レビ 16:25 罪のためのいけにえの脂肪は、祭壇の上で焼いて煙にしなければならない。
16:26 アザゼルのやぎを放った者は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びる。そうして後に、彼は宿営に入ることができる。
16:27 罪のためのいけにえの雄牛と、罪のためのいけにえのやぎで、その血が贖いのために聖所に持って行かれたものは、宿営の外に持ち出し、その皮と肉と汚物を火で焼かなければならない。
16:28 これを焼く者は、その衣服を洗わなければならない。そのからだに水を浴びる。こうして後に宿営に入ることができる。

主イエスも五千人のパンの給食の後、パン切れの余りを弟子たちに集めさせています。しばしば大きな働きを乗り越えた時、その締括りの終わりの部分を疎そかにしやすいのです。こういう時に私たちは気を抜き、油断して失敗しやすいのです。激しい働きのあとや、重要な仕事をなし終えたあとに、誘惑や失望感に陥りやすいのです。

29~34節、総括

29節、第七月の十日は包括的な贖いをする特別な日として制定されました。

レビ 16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。

ここに、在留異国人のことが言われていますが、彼らはイスラエル人との交流を求めてか、商取引をするためにか、イスラエル人の中に留まっていた者たちです。彼らはイスラエルの国家行事には直接、参加することが許されていませんでしたが、これらの律法を守ることによって、主の祝福に与かることができるように配慮されていました。

30,31節、この日の贖いは「全き休みの安息」であると言われており、「永遠のおきて」であると言われています。

レビ 16:30 なぜなら、この日に、あなたがたをきよめるために、あなたがたの贖いがなされるからである。あなたがたは、【主】の前でそのすべての罪からきよめられるのである。
16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

これは新約のクリスチャンが主イエスの贖いによって全き平安、全き安息が与えられることの約束でもあります(ヨハネ14:27、マタイ11:28)。

ヨハ 14:27 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

マタ 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

34節、この贖いは一年に一度行うべきことが命じられています。

レビ 16:34 以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは【主】が命じられたとおりに行った。

そしてモーセとアロンは、最初の、この贖いの儀式を行っています。

しかしその直後に、イスラエルは背教を始めたのです(レビ記24:10~23)。

レビ 24:10 さて、イスラエルの女を母とし、エジプト人を父とする者が、イスラエル人のうちに出たが、このイスラエルの女の息子と、あるイスラエル人とが宿営の中で争った。
24:11 そのとき、イスラエルの女の息子が、御名を冒涜してのろったので、人々はこの者をモーセのところに連れて来た。その母の名はシェロミテで、ダンの部族のディブリの娘であった。
24:12 人々は【主】の命令をまって彼らにはっきりと示すため、この者を監禁しておいた。
24:13 そこで、【主】はモーセに告げて仰せられた。
24:14 「あの、のろった者を宿営の外に連れ出し、それを聞いた者はすべてその者の頭の上に手を置き、全会衆はその者に石を投げて殺せ。
24:15 あなたはイスラエル人に告げて言え。自分の神をのろう者はだれでも、その罪の罰を受ける。
24:16 【主】の御名を冒涜する者は必ず殺されなければならない。全会衆は必ずその者に石を投げて殺さなければならない。在留異国人でも、この国に生まれた者でも、御名を冒涜するなら、殺される。
24:17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。
24:18 動物を打ち殺す者は、いのちにはいのちをもって償わなければならない。
24:19 もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。
24:20 骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない。
24:21 動物を打ち殺す者は償いをしなければならず、人を打ち殺す者は殺されなければならない。
24:22 あなたがたは、在留異国人にも、この国に生まれた者にも、一つのさばきをしなければならない。わたしはあなたがたの神、【主】である。」
24:23 モーセがこのようにイスラエル人に告げたので、彼らはのろった者を宿営の外に連れ出し、彼に石を投げて殺した。こうしてイスラエル人は、【主】がモーセに命じられたとおりに行った。

さらに、背教後の四十年間、イスラエルがシナイの荒野をさまよっている間、この贖いの日が守られたという記録がありません。

何故、彼らはこの日を守らなかったのでしょう。

その理由として、

1、この間、イスラエル人は偶像礼拝に陥っていた(アモス書5:25,26)。

アモ 5:25 「イスラエルの家よ。あなたがたは、荒野にいた四十年の間に、ほふられた獣とささげ物とをわたしにささげたことがあったか。
5:26 あなたがたはあなたがたの王サクテと、あなたがたのために造った星の神、キウンの像をかついでいた。

2、イスラエル人の放浪期間中、彼らは神との契約を表す割礼を行っていない(ヨシュ ア記5:1~9)。

ヨシ 5:1 ヨルダン川のこちら側、西のほうにいたエモリ人のすべての王たちと、海辺にいるカナン人のすべての王たちとは、【主】がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。
5:2 そのとき、【主】はヨシュアに仰せられた。「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」
5:3 そこで、ヨシュアは自分で火打石の小刀を作り、ギブアテ・ハアラロテで、イスラエル人に割礼を施した。
5:4 ヨシュアがすべての民に割礼を施した理由はこうである。エジプトから出て来た者のうち、男子、すなわち戦士たちはすべて、エジプトを出て後、途中、荒野で死んだ。
5:5 その出て来た民は、すべて割礼を受けていたが、エジプトを出て後、途中、荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていなかったからである。
5:6 イスラエル人は、四十年間、荒野を旅していて、エジプトから出て来た民、すなわち戦士たちは、ことごとく死に絶えてしまったからである。彼らは【主】の御声に聞き従わなかったので、【主】が私たちに与えると彼らの先祖たちに誓われた地、乳と蜜の流れる地を、【主】は彼らには見せないと誓われたのであった。
5:7 主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。
5:8 民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。
5:9 すると、【主】はヨシュアに仰せられた。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。

3、彼らは、信仰によって神に導かれてではなく、彼ら自身の力で約束の地を占有しようとはかっていたものと思われます。

この日が守られなかったのは、シナイの荒野を放浪していた間だけでなく、モーセ以後、この贖いの日の儀式が守られたという、はっきりした記録が旧約聖書中にはありません。

さらに、バビロンのネブカデネザルとローマのタイタス(ティトース)によってエルサレムの神殿が破壊され、契約の箱は奪われ、この日の贖いの儀式は実際上、行うことが不可能になっていました。

そこで、ユダヤ人たちは「身を戒める」(29、31節)ことを強調するようになり、それは悔い改めと損害賠償、善行、苦しみを受けることなどであると解釈して、それらを熱心に行うようになりました。

レビ 16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。

16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

ここからパリサイ主義が発生するわけです。パリサイ主義は初めは不熱心になってしまっていた信仰をもう一度、改革するという真面目な動機から起きるのですが、福音書の時代にはそのパリサイ主義も真の真面目さを失ってしまい、偽善的な形式主義に陥ってしまっていたのです。

この特別な日の目的は贖いであり、それはイエス・キリストの十字架によって成就したのであって、パリサイ主義では代わりができなかったように、私たちの救いも、自分の善行で代えることはできず、キリストの十字架によらなければならないのです。また教会においても、教会は様々な社会的活動をすることによって、キリストの救いを世に現わすという使命に代えることはできません。もしそうするなら、キリストの血と命とのない活動になってしまって、パリサイ人と同じ結末になってしまいます。必ず、キリストの十字架に立ち帰らなければなりません。

(贖いの日について)

1、1節、ナダブとアビフの死(レビ記10章)

この二人のアロンの子らは、その不従順と高ぶりのために死にました。これにより祭司職は失われ、これまで制定されていたすべての制度と儀式が不十分であることが暴露され、ここに贖いの日が制定されたのです。それは神の恩寵と愛、さらに罪を除くためのモーセの律法の不十分さが一層明らかにされるためでした。

2、29、31節、第七の月の十日にこれを守り、身を戒める日としなければならない。

レビ 16:29 以下のことはあなたがたに、永遠のおきてとなる。第七の月の十日には、あなたがたは身を戒めなければならない。この国に生まれた者も、あなたがたの中の在留異国人も、どんな仕事もしてはならない。

16:31 これがあなたがたの全き休みの安息であり、あなたがたは身を戒める。これは永遠のおきてである。

この日には会衆は世俗の仕事をすべて離れ、ひとり一人の思念中に罪の自覚が探く刻み込まれ、痛恨の嘆きを表す日で、悔い改めに至らせる荘厳な悲しみの日でした。

3、34節、一年に一度行われた。

レビ 16:34 以上のことは、あなたがたに永遠のおきてとなる。これは年に一度、イスラエル人のすべての罪から彼らを贖うためである。」モーセは【主】が命じられたとおりに行った。

「一年」は完結を意味する期間です。それ故、一年に必ず一度行うように命じられています。贖いの日はモーセの律法の中の最も重要な一時期です。

「一度」は、非常に強い言葉で、「一度に一切を尽くす」という意味です。これによって、再びその人の犠牲の行為を繰り返す必要がないことを意味しています。それ故、一年の間に、贖いの日はただの一日だけに定められたのです。これは明らかに一度だけのイエス・キリストの十字架の犠牲によって、全人類の罪のための贖いは完成し、二度と、贖いのためのいけにえを繰り返す必要がないことを予表しています(ローマ6:9,10、ヘブル9:26、28)。

ロマ 6:9 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。
6:10 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。

ヘブル 9:26 もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。
9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。

4、大祭司

大祭司は贖いの日に最大の責任が課せられます。大祭司はこの日の前、一週間、自分の家から離れて聖所に住み、その前日、夜を徹して眠らず、当日の夕に至るまで断食します。服装は他の祭りの時に着るような麗しい衣服ではなく、亜麻布の長服に亜麻布のももひきをはき(4節)、額には金の板はなく、裾に鈴の音もありません。

レビ 16:4 聖なる亜麻布の長服を着、亜麻布のももひきをはき、亜麻布の飾り帯を締め、亜麻布のかぶり物をかぶらなければならない。これらが聖なる装束であって、彼はからだに水を浴び、それらを着ける。

そこには輝しい王者の姿はありません。それらの輝かしい衣服は一切脱ぎ捨てられるのです。これは真の大祭司であるイエス・キリストを予表しています(イザヤ書53:2、ピリピ2:6~11)。

イザ 53:2 彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
ピリ 2:6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
2:8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
2:9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

主イエスは私たちの罪のための犠牲としてご自身を十字架につけるためにこの世に来られた時、ご自分を低くされ、神としての栄光を脱ぎ捨てられたのです。主イエスは、地上におられる間、地のチリでつくられた衣(肉体)をまとっておられました。それでも時折、その衣の合間から神の栄光がもれて出たのです(マタイ17:2)。

マタ 17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。

17節、贖いのわざをする時、大祭司アロンはただ一人でいなければならない。

レビ 16:17 彼が贖いをするために聖所に入って、再び出て来るまで、だれも会見の天幕の中にいてはならない。彼は自分と、自分の家族、それにイスラエルの全集会のために贖いをする。

大祭司は贖いをする時、だれにも伴われず、だれの助けも借りることができません。 これは、信じる者の罪のために贖いのみわざを成し遂げられた主イエスの原型です(詩篇22:2、69:20)。

詩 22:2 わが神。昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。

詩 69:20 そしりが私の心を打ち砕き、私は、ひどく病んでいます。私は同情者を待ち望みましたが、ひとりもいません。慰める者を待ち望みましたが、見つけることはできませんでした。

イスラエルの贖いの日に、アロンはただ一人で、だれも助ける者はいなかった。
カルバリの十字架の日、主イエスはただ一人十字架にかかられました。彼を愛する者も、彼の弟子も彼から離れて立ち、父なる神もその悩める御子から御顔を隠されました。主イエスはおひとりで罪の贖いのみわざを成し遂げられたのです(ヘブル1:3)。

ヘブル 1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

それ故、私たちは自分の救いのために、罪のきよめのために、イエス・キリストの十字架のほかに、何か自分の功績をつけ加えてはなりません。「神にささげる功績は沢山あったほうがいい」という考えに陥ってはいけません。罪の贖いのためには、イエス・キリストの十字架だけが有効なのです。それに何もつけ加えてはなりません。

5、この日の献げ物

第一に、祭司の家族の罪のための犠牲(6、7、11)。

レビ 16:6 アロンは自分のための罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。
16:7 二頭のやぎを取り、それを【主】の前、会見の天幕の入口の所に立たせる。

16:11 アロンは自分の罪のためのいけにえの雄牛をささげ、自分と自分の家族のために贖いをする。彼は自分の罪のためのいけにえの雄牛をほふる。

大祭司はこの大いなる贖いの日のわざをするにおいて、彼自身とその家族のために罪のためのいけにえをささげるまでは、何もすることができませんでした(ヘブル5:3、9:7)。

ヘブル 5:3 そしてまた、その弱さのゆえに、民のためだけでなく、自分のためにも、罪のためのささげ物をしなければなりません。

ヘブル 9:7 第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけ入ります。そのとき、血を携えずに入るようなことはありません。その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。

次に、民のために、罪のためのいけにえをささげています。

二頭の雄やぎについて、もう一度整理しておきますと、一頭は「主のため」、他の一頭は「アザゼルのため」(逃れのやぎ)です。

「主のため」のやぎは、ほふられ、「アザゼルのため」のやぎは、会衆の罪を象徴的に負わせられます。「アザゼルのため」とは、「移し去るため」、「全く負い去るため」という意味があり、手をやぎの頭の上に置き、そのやぎを人のいない荒野に連れて行って、そこに放ちます。

この二頭のやぎで一つの犠牲が成立します。
これが罪のためのいけにえによる贖罪と赦しの真理です。主のためにほふられたやぎは、贖罪、すなわち、罪をおおわれること、またアザゼルのためのやぎは、赦罪、すなわち、罪が除き移されることを示しています。罪の刑罰と罪の赦免の二つの真理がこの二頭のやぎによって示されています。

この真理はことごとくイエス・キリストによって成就しました(イザヤ書53:6、12、ヨハネ1:29、コリント第二5:21、ペテロ第一2:24)。

イザ 53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、【主】は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

イザ 53:12 それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。

ヨハ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

Ⅱコリ 5:21 神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

6、大祭司の至聖所入り

この日に三度、大祭司はシェキナの輝く光の中に入りました。

第一に、聖なるかおりの高い香といっばい炭火を盛った火皿を携えて入りました。至聖所の中は香をたく煙がたなびき、香の煙が雲のようになり、大祭司が死ぬことのないために彼と神の臨在との間に薄い幕を作ったのです(12,13節)。

レビ 16:12 【主】の前の祭壇から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。
16:13 その香を【主】の前の火にくべ、香から出る雲があかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死ぬことのないためである。

こうして、たとい大祭司であっても直接、主の臨在に触れないようにされたのです。罪ある人が直接、主の臨在に触れるなら、ただちに死ななければならないからです。これに比べると、今日、罪深い私たちが直接、主に祈り、主の臨在の中で礼拝することができ、主を内に宿すことができるとは、主イエス・キリストの贖いの功績がいかに大きいかを知らされます。

第二に、大祭司自身のいけにえの血を携えて入りました。いけにえの血は贖いのふたの東側と前に七度振りかけました。これによって、大祭司と彼の家族の罪のための贖いがなされ、主の御前より彼の咎がおおわれたのです。聖なる祭司職も、祭司が罪にまとわれ、汚れているために、いけにえの血を流して贖わなければならなかったのです。私たちには、この贖いの血を必要としない大祭司イエス・キリストが与えられていることの故に、感謝しましょう。

第三に、アロンは再び、民の罪のために、ほふられた山羊の血をもって入り、もう一度、贖いのふたの上とその前に振りかけています。この三度目の贖いがなされた時、祭司は聖所に帰り、雄牛の血と山羊の血の両方を隔ての幕に注ぎ、祭壇の角にも塗りつけています(出エジプト記30:10)。

出 30:10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、【主】に対して最も聖なるものである。」

これはすべての、神の政治に対する反逆、その恩寵に抵抗し、不義、不法、道徳的反 逆、知らないで犯した罪、償いを必要とする罪のためです。

贖罪は、至聖所のため、聖所のため、隔ての幕のため、祭壇のため、大庭の銅壇のため、神聖な所にはどこにも血が要求されました。そうでなければ、主の臨在はイスラエルの内にとどまることができないのです(ヘブル9:22)。

ヘブル 9:22 それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

主は潔められた聖なる所にしか内在することができないのです。ですから、新約聖書においてクリスチャンに聖潔が強く要求されているのです(テサロニケ第一4:3)。

Ⅰテサ 4:3 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、

7、罪のためのいけにえの血のほか、どんな血も至聖所の中に入れてはならないのです。

贖罪所に触れてはならないのです。贖いのふたに触れることのできるのは、罪のためのいけにえの血だけです。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(コリント第二5:21)

神はイエス・キリストを罪とされました。ただ、罪のためのいけにえとされただけでなく、罪そのものとされたのです。それ故、御父は御子イエスをお見捨てになり、御子イエスは「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」(マタイ27:46)と叫ばれたのです。
これは明らかに、主イエスが私たちの罪をご自分の内に背負って下さったからです。こうして永遠の贖いが成就し、御子イエスはご自分の血をもって真の天にお入りになったのです(ヘブル9:12、24)。

ヘブル 9:12 また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。

ヘブル 9:24 キリストは、本物の模型にすぎない、手で造った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして、今、私たちのために神の御前に現れてくださるのです。

「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)

このみことばは主イエス・キリストの十字架によって成就したのです。

これらのことからして、私たちが主の臨在に触れることができるのは、主イエスの血を内に持っているときだけであることがわかります。それ故、主イエスの血を内に持った者は神が分かるようになります。

あとがき

この聖書の探求を始めた七年前頃と比べると、私も忙しくなり、一年間に五百~六百回くらい大小様々の集会を行い、そのための準備をし、原稿を書き、自分のための学びもし、その外に、教会活動や将来への計画も立て、それを実行していくので、段々ゆっくりとした時間がとれなくなってしまいました。執筆依頼や、講演依頼、直接会ってカウンセリングを受けたいとかのご依頼をいただきましても、もはや不可能な状態になってきました。
私たちの教会はどこからの援助もなく、ゼロから出発し、私自身、一度もアルバイトをすることなく、ただ主にのみ支えられてここまで進んでくることができました。そしてこの一、二年が開拓期から抜け出して成長期へと移ろうとしている時期ですので、一番大変な時期であるとともに、一番危険な時期でもあります。どうぞ、覚えてお祈りいただければ幸いです。今月は教会活動が多くて、聖書の探求の発送が遅れてしまいましたが、一度も休むことなくお送りできたことを心より感謝致しております。

(まなべあきら 1990.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、イスラエルのティムナ渓谷に造られた幕屋の中にある契約の箱と贖いのふた(実物大模型、2013年の訪問時に撮影)
参考記事:「たけさんのイスラエル紀行(ティムナの幕屋モデル)」


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