聖書の探求(105) 民数記 14章1~10節 イスラエルの会衆全体が主に反逆

14章は、13章の十人の不信仰な偵察員の報告に対して、イスラエルの会衆全体が暴徒のようになって主に反逆した姿を記しています。

これに対する神の態度は、

1、モーセに対して(12節)- モーセから大いなる強い国民をつくる。

民 14:12 わたしは疫病で彼らを打って滅ぼしてしまい、あなたを彼らよりも大いなる強い国民にしよう。」

これに対しては13節以後のモーセの執り成しがあります。

2、民の滅亡(27~35節)

・・・
14:29 この荒野であなたがたは死体となって倒れる。わたしにつぶやいた者で、二十歳以上の登録され数えられた者たちはみな倒れて死ぬ。
・・・

3、悪く言いふらした十人の偵察員の滅亡(36節)

民 14:36 モーセがかの地を探らせるために遣わした者で、帰って来て、その地について悪く言いふらし、全会衆をモーセにつぶやかせた者たちも。」

4、カレブとヨシュアに対する約束(30節)

民 14:30 ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせるとわたしが誓った地に、だれも決して入ることはできない。

神の判決は全員が同じではなく、一人一人の信仰によって異なっていることに注目したい。

イスラエルの会衆がカデシュに到着したのは、出エジプト後の二年目で、この不信仰な反逆のあとは三八年間、カデシュを中心にしてさまよい続けて、滅んでいったものと思われます(申命記2:14)。

申 2:14 カデシュ・バルネアを出てからゼレデ川を渡るまでの期間は三十八年であった。それまでに、その世代の戦士たちはみな、宿営のうちから絶えてしまった。【主】が彼らについて誓われたとおりであった。

1~4節、イスラエルの全会衆の反逆

民 14:1 全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。
14:2 イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。
14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」
14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

どんなに大勢の信者がいても、罪の性質を持ったままの信者は恐ろしい。いつ反逆に転じるか分からないからです。イエス・キリストを信じて救われた人のうちになお、主に反逆し、指導者に反抗し、ののしり、わめき散らす性質が残っていることは事実ですし、また私はそれを何回も見、聞きしてきました。

これが主の聖名を汚し、ついには自らの滅びを招くのです。イスラエル人のしたことは、そのほんの一例であって、私たちはこのことから深く悟って、すみやかに罪の性質を潔めていただかなければなりません。人はことばや行動に表されたものよりも、その背後にある罪の性質そのものが恐ろしいのです。表面的なことばや行動を何度、改めると決意しても、その罪の性質が潔められない限り、決して本人は変わることがないのです。

イスラエルの全会衆は十人の不信仰な報告をした族長たちと同じ罪の性質を持っていました。この状態は、今日のクリスチャンにおいても、ほとんど変わっていません。潔められないクリスチャンばかりであれば、このイスラエルと同じように、わずかの人々の不信仰な発言が引き金となって、教会は混乱してしまう危険があります。イスラエルの場合、わずか十人の不信仰な発言が、あっという間に男子の成人だけで約六十万人の人の中に反抗的な暴動を巻き起こしたのです。

1節、「全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。」ことは、自己中心の反逆の現われ以外の何ものでもありません。このような態度がクリスチャンの内側から取り除かれなければ、決して勝利は得られません。

2節、この反逆はまず、目に見える指導者モーセとアロンに対して向けられました。
「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。」は、明らかに、民を神の約束の地に導き入れようとするモーセたちへのののしりであり、モーセとアロンをひどく傷つけるものです。彼らのこのののしりの言葉は、彼ら自身の上にその通りに降りかかってしまいました。彼らの言葉通り、彼らはその後、約三八年間、荒野でさまよっている間に、荒野で死んでしまいました。彼らの望みどおりになりました。

クリスチャンは神が立てられた指導者をののしることの恐ろしさに気づいていないようですが、これを悟る必要があります。むしろ、
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。・・・あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。」(ヘブル13:7、17)
とあるように、指導者たちの信仰にならうべきことを、聖書は教えています。

3節、次に、その反逆は主に向けられています。

民 14:3 なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

3節の会衆の反逆の言葉は、主を怒らせました。主のみこころを疑い、主が民をわざわいに合わせるためにエジプトから導いて来られたなどという考えは、どこから生まれたのでしょうか。確かに、この言葉の中には、主に対して反逆する心頑な性質が見られます。

しかしクリスチャンの中にも、主に全面的に従うと苦しくなるとか、損をするといった考えが横行しています。主はそういう考えや思いを、お怒りになります。主をそのように思うことは、イスラエル人と同じように主に対する反逆です。主は私たちを訓練するために困難に合わせ、また懲らしめることはあっても、それは私たちを幸いな人にするためであり、決してわざわいに合わせて、苦しめることが目的ではありません。サタンは、人の肉欲を満足させるように誘惑しますが、その結果はわざわいと苦しみだけを与えます。しかし、しばしばクリスチャンであっても、主をサタンと同じような動機を持っている方と考えていることは、恐ろしいことです。

イスラエルが考えたわざわいは、すべて根拠のない偽りの空想でしかありません。「剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。」と思うのはそれです。私たちが全く主に献げて従おうとする時も、同じような根拠のない仮定のわざわいを考え出して、全く献身することを躊躇(ちゅうちょ)しがちです。仕事がうまくいかなくならないか。経済的に行き詰まらないか、人がなんと言うか、などです。

その次に、この不信仰な人々が考えたことは何でしょうか。「エジプトに帰ろう。」です。今も不信仰なクリスチャンは、何かあるとすぐに、教会から離れて、罪人の生活に舞い戻っています。これはアダムとエバが堕落して以来、ずっと不信仰な人が取り続けてきた道です。彼らは神の御国に入ることよりも、地獄に行くことをよしとしたのです。これが不信仰なクリスチャンが選ぶ最後の結論です。ですから、潔められていなければ、天の御国に入ることは不可能です。

4節、最後に取った彼らの反抗は、別の指導者を立てて、エジプトに帰ろうとしたことでした。

民 14:4 そして互いに言った。「さあ、私たちは、ひとりのかしらを立ててエジプトに帰ろう。」

イスラエルの王国時代を見ても、教会の歴史をみても、しばしば不信仰な神の民は、神がお立てになった霊的指導者を捨てて、自分たちの好む、肉的、世俗的リーダーを立てました。その結果はいつも堕落であり、滅亡でした。神が立てた霊的リーダーを捨てることは、神を捨てることに等しいのです。その結果はいつも滅亡を意味しています。しかし、神はいつの世にも、この地上に幾人かの霊的リーダーを起こして、真実な神の民を養われるのです。不信仰な者はそのリーダーを捨てますが、真実な信仰者は霊的リーダーから神の真理を学ばうと集まってくるのです。

5~10節、忠実な神のしもべたち

不信仰な十人の族長とそれに引き込まれていった全会衆の泣き叫ぶ騒ぎに対して、忠実な四人の神のしもべたちがとった態度は、今日の私たちに多くのことを教えています。それは今日、教会の中に起きている様々な問題を解決するために最も必要な方法でもあります。

5節、まず、モーセもアロンも、不信仰な者たちと争おうとせず、民が見ている所で、神の前にひれ伏しました。

民 14:5 そこで、モーセとアロンは、イスラエル人の会衆の全集会の集まっている前でひれ伏した。

この場合、これですぐに問題が好転したというわけではありませんが、問題を自分の人間的な知恵と考えで処理しようとせず、ひれ伏し、へりくだって神の前に持ち出したことは、よいことでした。

自分の考えで反論すれば、必ず高慢になり、自己主張に陥り、自らも神のさばきを受けることになります。モーセは問題が起きる度に、それを神の前に持ち出しています。このことはぜひ、私たちも見習わせていただきたい。これが潔められた者の解決法です。ぜひ、十分に自分のものとしてください。

6~9節は、ヨシュアとカレブがとった態度を記しています。

6節、まず二人は自分たちの着物を引き裂きました。

民 14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、

これは不信仰な者たちがとった態度に対して深い憂慮を表すことでしたが、それとともに、旧約時代では衣を引き裂くことは、深い悔い改めを表しています。ヨシュアとカレブは、不信仰な者たちがとった態度が神を怒らせることをすぐに感じとったのです。
それ故、二人は自分たちの衣を引き裂いて、悔い改めの態度をとったものと思われます。今回の不信仰はヨシュアとカレブによるものではありませんでしたが、彼らの仲間たちが犯した罪であり、それが民全体の上に神の怒りを招くことを知っていた二人は、自分の罪の如くに悔い改めの態度をとったものと思われます。

次に、7,8節で、ヨシュアとカレブの二人は、神の約束の地は「すばらしく良い地だった。」「あの地には、乳と蜜とが流れている。」と強調しています。

民 14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14:8 もし、私たちが【主】の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。

これは不信仰な他の十人の偵察員の報告23:27)と同じですが、ここでは、二人はそこに住む住民が巨人のアナク人であることや、町が城壁で囲まれていることについては触れていません。主に対する全き信仰がある者には、それらの障害や困難は問題にならなかったからです。

戦いのない信仰に、勝利はあり得ないのです。不信仰な者は戦いがないことを求めますが、信仰のある者は戦う力を主に求めるのです。戦いのないことを求める不信仰な者に勝利がないのは勿論ですが、彼らは怠惰で何もしない者になってしまうのです。今、私たちは周囲に多くの滅びつつある者がいても、怠惰で何もしていない者になっていないでしょうか。この世に対して何かをすれば、すぐに戦いが起きてくるでしょう。それを恐れて何もしないでいるとしたら、私たちは不信仰な者となってしまいます。この世と戦うには勇敢な信仰が必要なのです。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二4:7,8)

私たちも、置かれた所で信仰の戦いをしましょう。小さい戦いから始めるので結構です。戦えば、勝利は与えられます。しかし戦わなければ、不信仰と怠惰になるだけです。

8節、「もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。」

神の民が神の約束の地に入ることができるかどうかは、そこに巨人が住んでいるかどうか、町が城壁に囲まれているかどうかによって決まるのではありません。強い信仰の持ち主はこの問題をどのように考えたのでしょうか。二人は、その地に入ることができるかどうかは、相手の側の状況にあるのではなく、「私たちが主の御心にかなっているかどうか」によると言っています。勝敗を決めるのは、相手の問題ではなく、すべて自分の側にあるのです。

このことは教会の課題についても言えることです。本当の課題は外側の問題にはなく、私たち教会員ひとり一人が神の御心にかなう信者になっているかどうかにかかっているのです。

第三に、ヨシュアとカレブは、9節で二つの警告をしています。

民 14:9 ただ、【主】にそむいてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちのえじきとなるからだ。彼らの守りは、彼らから取り去られている。しかし【主】が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」

第一に、主にそむいてはならないこと。
第二は、その地の人々を恐れてはならないことです。

この二つのことを守るなら、主は私たちに勝たせて下さいます。「彼らは私たちのえじきとなるからだ。」「彼らの守りは、彼らから取り去られている。」

勝敗を決めるのは、人の大きさや力によるのではなくて、主がだれとともにおられて、だれを守られるかによって決まるのです。主がともにいてくださった時、ヨシュアとカレブには、巨人のアナク人も弱い者に見え、城壁はすでにくずれているものに見えていたのです。

私たちの信仰の目は、私たちの前にある課題をすでにくずされているものとして見ているでしょうか。私たちが主とともにいて、主の御心にかなう者となっているなら、そのように見ることができます。しかし主から離れていて、目の前の課題に心が奪われているなら、その課題は大山のようにふくらんできて、私たちの上におおいかぶさってくるのです。

次に、不信仰な会衆の反応は、どうだったでしょうか。彼らはこの神のしもべたちを石で打ち殺そうとしました(10節)。

民 14:10 しかし全会衆は、彼らを石で打ち殺そうと言い出した。そのとき、【主】の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現れた。

しかしその時、主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエル人に現われて、神のしもべたちを守られました。忠実な信仰者は、不信仰な者によって危険に会わされても、必ず守られますから、主に信頼して、いつでも大胆に勇敢に信仰の戦いをしたいものです。いつの時代にも、忠実な神のしもべは迫害に会ったり、多くの危険や困難を通過しますが、必ず主の栄光の臨在によって守られます。

不信仰、反抗、恐れ、躊躇(ちゅうちょ)、不従順、争い、騒ぎは、敗北をもたらし、大胆な信仰と服従と勇気は、勝利をもたらします。これは不変の原則ですから、ぜひ、私たちもこれを自分のものとして体験させていただきたい。

(14章 続く)

あとがき

私たちが真にリバイバルを願うなら、次のことはぜひ、覚えておかなければならないことです。それは、サタンも、パリサイ人も、主イエスが語られたことを理解し、主のみわざも認めていましたが故に、主に反抗し、主を殺そうとしたのです。彼らは主の話を理解し、主のみわざも認めたのですが、主を神として、救い主として受け入れ、主に従おうとしなかったのです。私たちは彼らと同じ意味ではないにしても、主のみことばと、みわざを理解しても、主に全面的に信頼して、実際に従わないなら、なお不従順が残っていると言わなければなりません。主は隣人を愛することを教えられた後に、「あなたも行って同じようにしなさい。」(ルカ10:37)と言われました。私たちは主の隣人愛の教えについて理解しているだけではリバイバルは起きない。あなたの周囲の人にそれを行うことによって、リバイバルは起きるのです。リバイバルは御霊の先導によるものですが、私たちの実際的信仰が必要なのです。

(まなべあきら 1992.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、1873年頃に出版されたThe story of the Bible from Genesis to Revelationの挿絵「The return of the spies (偵察隊の帰還)」(Wikimedia Commonsより)


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