聖書の探求(113) 民数記20章 メリバの水、エドム通過の拒否、ミリヤムとアロンの死

 20~21章は、イスラエル人のシナイの荒野の旅路における呟(つぶや)きと戦い、そして指導者だったミリヤムとアロンの死を告げています。

1~8節、メリバの反抗

民 20:1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。

 1節前半、イスラエル人は再び、問題の地カデシュにやって来て、そこにとどまっています。カデシュは13章で10人の偵察員と全会衆が不信仰を起こして、神の審判を受けて、放浪の旅を始めた所でした。そしておよそ、それから三八年後、再び、この問題の地に帰って来たのです。

 私たちは目の前の問題を避けて通ったように思っていても、必ず乗り越えなければならない課題には、神は何度でも、私たちが乗り越えるまで、同じ問題の前に連れて来られるのです。逃避しても、それより先には進めないのだと、悟る必要があります。しかしそれは、また神のあわれみ深い恵みの時でもあります。神はもう一度、神の約束の地に入るという神のご計画を実行するためにチャンスを与えてくださったのです。

 申命記1章46節によると、この時、イスラエル人はかなり長い間、おそらく三、四か月はカデシュにとどまったようです。

申 1:46 こうしてあなたがたは、あなたがたがとどまった期間だけの長い間カデシュにとどまった。

 その間に、彼らは三つのことをしました。すなわち、イスラエル人を再集合させたこと。新しい世代のイスラエルの子らに宿営の整備をさせたこと。そしてミリヤムを葬ったことです。

 1節後半、ミリヤムはここで地上の生涯を閉じました。

 ここで神の指導者の一人が地上を去ったのです。ミリヤムは一時、嫉妬のために反逆の態度を取りましたが、それでも彼女はイスラエル人のエジプト脱出に大きな影響を与えて、モーセとアロンを支え、また出エジプト記15章20~21節の勝利の讃美の指導は、イスラエル人の信仰を大いに力づけたものと思われます。

出 15:20 アロンの姉、女預言者ミリヤムはタンバリンを手に取り、女たちもみなタンバリンを持って、踊りながら彼女について出て来た。
15:21 ミリヤムは人々に応えて歌った。「【主】に向かって歌え。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれた。」

 それ故、ミリヤムはイスラエル人の間で、偉大なリーダーの一人とみなされていたことでしょう。しかし彼女が死んでも、神の働きは続けられます。

 神は偉大な人間よりも、さらに偉大なのです。この二千年間、偉大な指導者たちも次々と去っていきましたが、神の働きは続けられてきました。このことを覚えて、私たちも奉仕に励みたいものです。そのためには、私たち自身の希望や計画よりも、神が何を望み、何を計画しておられるのかをよく悟って、働きを進めなければなりません。あせることも、怠慢もあってはなりません。神の働きは神ご自身が進められるのであって、私たちは各々に与えられた期間(生涯)内に、与えられた任務を全うさせていただくだけなのです。

 2~8節、民は水がなかったために、再びモーセとアロンに逆らいました。

民 20:2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。
20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。
20:4 なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。
20:5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」

 このことは、彼らが三八年間、神の民として生活してきたのに、それを信仰によって歩んで来なかったことを示しています。この長い期間、一歩一歩、信仰によって歩んで来ていたのなら、水のことで反逆したりはしなかったでしょう。

 見えることで、騒いだり、逆らったりするのは、その人のそれまでの生活の中に信仰が生きていなかったことを示しています。放浪の生活は信仰生活ではありません。クリスチャンを自称している人の中には、信仰生活ではなく、放浪生活をしている人が多くいます。放浪は、はっきりした目的を持っておらず、定まった道もなく、みことばと聖霊に従っていく信仰が見られません。このような生活は、呟(つぶや)きが多く、背信、不信仰が多いのです。

 彼らの不満は、水の不足から穀物などの食糧にまで及び、「私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。」(4節)とまで言い出しました。コラやダタン、アビラムたちの反逆の時に、主のさばきを受けて兄弟たちが死んだ時に、自分たちも死んでいたらよかったのに、と言っています。彼らは神のさばきを恐れていないのです。信仰を捨てて背教する人は、神のさばきの恐ろしさを知らない最も愚かな人です。この呟(つぶや)きのパターンは、以前と少しも変わっていません。

 5節で、彼らはエジプトのことを言っていますが、彼らのうちのほとんどの者である若い世代の人々は、荒野の旅路の間に生まれ、育ってきた者たちであって、エジプトの生活を経験していない者たちです。ですから、これらの不満と呟(つぶや)きの口実は、不信仰な親や大人たちから聞いた話だけなのです。

 私たちは教会でも、家庭でも、不信仰な話はしないようにしなければなりません。それを聞く者を不信仰に陥れる材料をばらまくことになるからです。しかし、こうして見ると、人の罪の性質は全く変わっていません。むしろ、ますます世の終わりに近づくに従って、悪くなっていくようです。罪の性質が残っているなら、少しの不満で反逆が吹き出すのです。

 6節、モーセとアロンは、この問題を主のもとに持っていきました。

民 20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。

 この態度もいつも変わっていません。いつでも信仰が動転せず、神に対して不動の堅実な態度を取り続けることは、強い信仰を必要とします。これに対して、真実な主は、栄光を現わされました。
 「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(ヨハネ11:40)

 8節で、主がモーセに命じられたことは四つあります。

民 20:7 【主】はモーセに告げて仰せられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

 第一は、杖を取れ。

 これはミデヤンでの羊飼い時代からモーセがずっと持っていた杖です。しかしそれはもはや、ただの羊飼いの杖ではなく、神の杖となっています。
 私たちは、今までに自分に与えられていた才能、能力、財産などを自分のものとしてとどめておかず、聖霊に満たされて神のために用いることによって、神の杖とすることができます。それは、偉大な力を発揮するのです。今日、クリスチャンが献身的にこのことを実行し始めたなら、大リバイバルが起きます。リバイバルは待っていて起きるものではありません。ひとり一人がみことばの信仰に立って、自分の杖を神の杖としていく時に起きるのです。これは聖霊がクリスチャンひとり一人の内に働かれる時、自己中心の欲から解き放たれ、神のためにささげて働くようになる時に起きるのです。

 第二は、会衆を集めよ。

 彼らの前で主をあかしする必要があったからです。呟(つぶや)いている者たちに、主を示さなければなりません。クリスチャンと教会は、もっと力強く、この世の人々に主をあかしする必要があります。

 第三は、岩に命じる。

 神のみわざは天地の創造の時以来、みことばによって「命じる」ことによって行われてきました。そうですから、モーセにも岩に命じるように命じられました。
 聖書全体のメッセージは、神のみことばを信じて従うことでした。しかし今日の私たちのみことばに対する態度は十分でしょうか。神のみことばを全面的に信じて、従っているでしょうか。みことばに自分の考えを混入したり、みことばよりも自分の考えに従ったりしていないでしょうか。

 残念ながら、モーセもその危険に陥ってしまいました。モーセは11節で、「手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。」つまり、モーセは神の命令に忠実に従わなかったのです。モーセはこの一つの罪のために、カナンの地に入ることが許されず、ピスガの頂上から神のみもとに取り去られてしまいました。彼は民が神の約束の地に入る最後まで奉仕する栄光を失ったのです。

 第四は、会衆と家畜に飲ませよ。

 民は「水がない。」と言って反逆しました。そこで、主は民に水を飲ませることができないお方ではないことを明らかに示されました。ここで水が不足したことは、民に対する信仰のテストであったものと思われます。
 私たちも毎日、信仰のテストを受けているのですから、主への信頼を具体的に表しましょう。

9~13節、モーセの罪

民 20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
20:13 これがメリバの水、イスラエル人が【主】と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

 この箇所の出来事を、モーセの失敗と呼ぼうとモーセの過失と呼ぼうと、神のご命令とモーセのしたことが一致しなかったことは事実であり、モーセが神のご命令に忠実に従わなかったことは事実であり、モーセの民に対する怒りは神から出たものではなく、モーセ自身の感情的な怒りであり、神の聖なることを現わさなかったことも事実であり、このことの故に、モーセが神の約束の地に入ることが出来なかったことも事実です。これらのことから判断するなら、ここでモーセがしたことを罪と呼ぶのが正当であると思われます。
 私たちはしばしば、とてもいい人だとか、偉大な指導者だからと言って、人間的同情で、事実を曲げてしまう危険があります。

 また、モーセが最も温順な者の一人であり、彼が主と顔と顔を合わせて交わったほど、きよい人であったことも事実です。それ故このモーセの罪は、潔められた聖徒も罪を犯し得る危険性があることを示しています。

 また、モーセほど神のために働いた人であっても、ただこの一回の罪によって神の約束の地に入ることが拒まれたのですから、不服従の罪がいかに恐ろしいかを示しています。そうですから、私たちは当然、神の国に入れていただくにふさわしくない、不適切な者ではありますが、イエス・キリストのあがないの恵みの故に、罪深い私たちをも天の御国に入れてくださるイエス・キリストの恵みの大きさを思わないではいられません。

 9節、まずモーセは8節で、「杖を取れ」と命じられたとおり、主の前から杖を取りました。

民 20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。

 この行為についてだけ、「主が彼に命じられたとおりに」と記されています。出エジプト記にはこの言葉がしばしば出てきました。しかし10節以後のモーセの行動には、この言葉がつけられていません。つまり、このあとのモーセは、主が命じられたとおりにしなかったからです。

 10節、ここでモーセたちは、「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」と言いました。

民 20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 モーセとアロンは神を代理する者ですから、当然、神を現わし、「神があなたがたのために水を出される。」と言うべきであったのに、彼らは自分たちが自分の力で水を出すかのように語って、罪を犯しました。

 私たちはしばしば恵みに成長してくると、本当はへりくだらなければならないはずなのに、何でも自分の力で出来るかのように思い上がりやすいのです。私たちにはいつもこの危険がついてまわっていることを十分に自覚しておかなければなりません。

 パウロは次のように言っています。
 「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」(コリント第一15:10)

 私たちはいつも神の恵みがあってこそ、今の自分があることを忘れてはなりません。

 12節、主は、「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」と、モーセとアロンをとがめられました。

民 20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

 主は、主が命じられたこと、また主の聖なるご性質を人に示すように要求なさっておられるのです。

 「主が仰せになったことは、こういうことだ。『わたしに近づく者によって、わたしは自分の聖を現わし、すべての民の前でわたしは自分の栄光を現わす。』」(レビ記10:3)

 これは、アロンの子ナダブとアビフが異なった火を主の前にささげて、焼き尽くされたときにモーセが語ったことですが、今度は、モーセ自身が自分が語ったことを自分で犯してしまったのです。

 こうして神のみことばを語り続けている私自身も、このことは十分に慎んでおかなければならないと、自戒させられます。すべて、神のことばを語る者は、自分が語っているそのことばによって、自らがさばかれていることを知らなければなりません。勿論、主のあわれみと、主の十字架の恵みがありますから、赦しと潔めを受けることができますので、そう固くなる必要はありませんが、少なくとも自分が語った神のみことばは、先ず自分が率先して行っていくべきです。厳しいようでも、説教者はこの姿勢を失ってはいけません。

 「われらの神、主をあがめよ。その足台のもとにひれ伏せ。主は聖である。・・・われらの神、主をあがめよ。その聖なる山に向かって、ひれ伏せ。われらの神、主は聖である。」(詩篇99:5、9)

 私たちはいつでも、神の聖き栄光を現わすために生き、働きたいものです。

 モーセとアロンが霊的リーダーとして、主の聖を表さずに、自分の力を表そうとしたことは、霊的リーダーとして最も本質的で根本的な罪を犯してしまったのです。

 主が「岩に命じる」ように言われたのに、モーセは岩を打ちました。これは明らかに主のご命令に忠実ではありませんでした。出エジプト記17章6節で、「あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。」と言われたことがあったので、モーセはその時のことを思い出して不用意に岩を打ったのかもしれません。

出17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。

 神に従う時には、「以前にこうだったから今回もこう」と考えるのは止めなければなりません。毎回、神のご命令を注意深く聞き、それを信じて、忠実に従うことが大切です。同じことをするのにも、主のご命令が異なることがあります。今回は「岩を打つ」ことから「岩に命じる」ように変わっています。

 時には、主は伏兵を設けるように命じられたりしています。ダビデの勝利は、彼が毎回、主に尋ねて、戦いを進めていったからです。「前回もこうだったから今回もこう」と思って、主に問わず、主のご命令を無視して行うことは危険です。あなたの毎日の生活で、主に問うことを毎回実行してください。そうすれば、その意味が分かってきます。

 ここでは、主はみことばで命じることによってみわざを行われ、主のみことばの権威を示そうとされたのです。

 「イエスは彼に言われた。『行って、直してあげよう。』しかし、百人隊長は答えて言った。『主よ。あなたを私の屋根の下にお人れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。
 イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。』」(マタイ8:7~10)

 これは主のみことばの権威を絶対的に信じた百人隊長の信仰をほめられたのです。

 12節で、「あなたがたはわたしを信ぜず、」と、みことばの権威を信じようとしなかった不信仰の罪が責められています。

民 20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

 モーセは10節で、民を「逆らう者たち。」と言いましたが、その時、自分の心の中にも神に対する不服従があったことに気づいていません。

民 20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 一瞬の心のスキとは言え、モーセは神のみこころに不忠実でした。

 11節、モーセは岩を二度打ちました。

民 20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

このことは、モーセの心が自制力を失い、怒りの感情に支配されていたことを示しています。彼は忍耐力を失っていました。モーセはその生涯において、柔和と忍耐が、すぐれた特質でした(民数記12:3)。

民 12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

 そのモーセをして、感情的に怒らせた民の不服従は、大きな罪ですが、信仰から少しでもはずれていると、モーセのように神と深い交わりをし、訓練をよく積んで十分に成長したすぐれた人物でも、怒りの落し穴に陥るのです。このことを私たちは十分注意する必要があります。

 主は、民の呟(つぶや)きに対して怒られていても、「会衆とその家畜に飲ませよ。」と言われて、あわれみを示されました。しかしモーセは、民を「逆らう者よ。さあ、聞け。」と言って、民をことばで打ち据えてしまい、モーセ自身がさばき主となってしまいました。そして、「会衆も、その家畜も飲んだ。」とは記されていますが、「飲ませた。」とは記されていません。おそらく民が勝手に飲んだのであって、モーセのあわれみ深い態度は示されなかったものと思われます。

 モーセとアロンはここで、霊的リーダーとして、不信仰、不忠実、不服従、自己高揚という最も本質的で根本的な、霊的な罪を犯してしまったのです。もし彼らが一般会衆の一員であったなら、こういう罪を犯すことはなかったでしょう。それ故、霊的リーダーは十分に慎重でなければなりません。また、だれでもが軽々しくリーダーになることを求めるべきではありませんし、また軽々しく任命すべきでもないのです。

 「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は格別きびしいさばきを受けるのです。」(ヤコブ3:1)

 こうしてモーセとアロンは、地上生涯の間に、神の約束の地に入るという特権を失ってしまいました。

 このことを、私たちは、自分の信仰を最後まで全うせよという大切な教訓として受けなければなりません。

 モーセとアロンによって表されなかった主の聖は、主ご自身によって表されました。人が主をあかししないなら、主はご自分でご自身をあかしされるのです。しかし私たちは聖霊を受けて、主のあかし人とならせていただきたいものです(使徒1:8)。

使 1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

(モーセとアロンの罪)

 ヨブの忍耐はつぶれ、アブラハムの信仰は動揺し、モーセの謙遜と柔和は破れました。
 神のしもべモーセとアロンが神の約束の地に入ることができなかった理由は、一見、ごくささいなことのように見えます。しかしそこには大きな罪がありました。

一、感情的な怒りをひき起こした短気が、その罪の一要素です。

 「彼らはさらにメリバの水のほとりで主を怒らせた。それで、モーセは彼らのためにわざわいをこうむった。彼らが主の心に逆らったとき、彼が軽率なことを口にしたからである。」(詩篇106:32,33)

 この感情的な怒りが、モーセの長年の経歴で、その生涯に異彩を放っていた忍耐と謙遜が突然くずれ、モーセはその唇によって、神に対して申し分けない言葉を発してしまった。

二、不従順がもう一つの罪の要素です。

 神はモーセに、岩に「命ぜよ」と命じられたのに、モーセは杖で二度岩を打ったのです。

三、不信仰もまた罪の要素です。

 モーセは民を「逆らう者たちよ。」と言った時、彼自ら、その瞬間、逆らう者の中に数えられてしまいました。

 「あなたがたがわたしの命令に逆らい、その水のほとりで、彼らの目の前に、わたしを聖なる者としなかったからである。」(民数記27:14)とは、神の宣告です。

 「この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」の言葉は、モーセの困惑と怒りとが、不信仰と罪にまで彼を引き落したことを示しています。まして岩はキリストの型でした(コリント第一10:4)。

Ⅰコリ 10:4 みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 かつて一度、神の命令によって打たれたことがあり(出エジプト記17:6,7)、再びこれを打つことは、このキリストの型を破壊するものです。

出17:6 さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。
17:7 それで、彼はその所をマサ、またはメリバと名づけた。それは、イスラエル人が争ったからであり、また彼らが、「【主】は私たちの中におられるのか、おられないのか」と言って、【主】を試みたからである。

 キリストは一度だけ死なれ、死は重ねて、彼に対して力を持っていないのです(ヘブル7:27)。

ヘブル 7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。

14~21節、エドムの王への嘆願と拒否

民 20:14 さて、モーセはカデシュからエドムの王のもとに使者たちを送った。「あなたの兄弟、イスラエルはこう申します。あなたは私たちに降りかかったすべての困難をご存じです。
20:15 私たちの先祖たちはエジプトに下り、私たちはエジプトに長年住んでいました。しかしエジプトは私たちや先祖たちを、虐待しました。
20:16 そこで、私たちが【主】に叫ぶと、主は私たちの声を聞いて、ひとりの御使いを遣わし、私たちをエジプトから連れ出されました。今、私たちはあなたの領土の境にある町、カデシュにおります。
20:17 どうか、あなたの国を通らせてください。私たちは、畑もぶどう畑も通りません。井戸の水も飲みません。私たちは王の道を行き、あなたの領土を通過するまでは右にも左にも曲がりません。」
20:18 しかし、エドムはモーセに言った。「私のところを通ってはならない。さもないと、私は剣をもっておまえを迎え撃とう。」
20:19 イスラエル人は彼に言った。「私たちは公道を上って行きます。私たちと私たちの家畜があなたの水を飲むことがあれば、その代価を払います。ただ、歩いて通り過ぎるだけです。」
20:20 しかし、エドムは、「通ってはならない」と言って、強力な大軍勢を率いて彼らを迎え撃つために出て来た。
20:21 こうして、エドムはイスラエルにその領土を通らせようとしなかったので、イスラエルは彼の所から方向を変えて去った。

 14節、モーセは14章45節で、約束の地に入るのに、山地のルートをとってアマレク人とカナン人によって打ち負かされ、追い散らされた経験があったので、東へのルート、すなわち、エドムの地を通過するのが安全であり、最短距離であると考えたようです。

民 14:45 山地に住んでいたアマレク人とカナン人は、下って来て、彼らを打ち、ホルマまで彼らを追い散らした。

 そこでエドムの王の許可を求めて、使者を送りました。14節でモーセがエドム人に対して、「あなたの兄弟、イスラエル」と、親しい言い方をしているのは、エドム人がヤコブの兄のエサウの子孫であったからですが、それとともに、イスラエルはエドム人と争うつもりが全くないことを示すためでした。14節後半から15節では、モーセは非常に下手に出て、「自分たちは困難の中にいるので、ぜひ好意を賜わりたい。」と言うような言い方をしています。「あなたの兄弟であるイスラエルが、エジプトから出て来て、今、主の約束の地の手前のカデシュにいるのです。どうかエドムの道を通らせてください。」と嘆願しているのです。

 17節で、モーセは、決してエドムの財産を侵害しないことを約束しました。

畑も、ぶどう畑も荒らさず、井戸の水も飲まないと約束しました。「王の道」とは、王様専用の道路というより、隊商が通る主要道路のことで、19節では「公道」となっています。

ここは、だれもが通っている道です。そこからそれて、エドムの町に入っていかないことを約束しました。19節ではまた、人や家畜が飲料水を飲むことがあれば、必ず代価を払うことを約束しました。モーセはずい分細かいところまで気を使っていることが分かります。

 18、20節、しかしエドムは、モーセとイスラエルがエドムの地を通過することを拒否しました。

 それはモーセの約束を信用しなかったというよりも、神の民イスラエルに対して、不信仰な民が敵意を示したのです。彼らの先祖エサウとヤコブのことを思い出してのことだったのかどうかは分かりませんが、彼らが親戚同志であるにも関わらず、困難の中にある兄弟を助けず、かえって強力な国境守備軍の大軍を送って、攻撃しようとしたのです。このエドムのとった態度は、後々、エドムとイスラエルの間に深い溝をつくることになってしまいました。旧約の預言書はエドムに対して、厳しい非難を繰り返しています(イザヤ34:1~17、エレミヤ49:7~22、エゼキエル25:12~14、35:1~15)。

イザ 34:5 天ではわたしの剣に血がしみ込んでいる。見よ。これがエドムの上に下り、わたしが聖絶すると定めた民の上に下るからだ。
34:6 【主】の剣は血で満ち、脂肪で肥えている。子羊ややぎの血と、雄羊の腎臓の脂肪で肥えている。【主】がボツラでいけにえをほふり、エドムの地で大虐殺をされるからだ。

エレ 49:7 エドムについて。万軍の【主】はこう仰せられた。「テマンには、もう知恵がないのか。賢い者から分別が消えうせ、彼らの知恵は朽ちたのか。
49:8 デダンの住民よ。逃げよ、のがれよ。深く潜め。わたしがエサウの災難をもたらすからだ。彼を罰する時だ。

エゼ 25:12 神である主はこう仰せられる。エドムはユダの家に復讐を企て、罪を犯し続け、復讐をした。
25:13 それゆえ、神である主はこう仰せられる。わたしはエドムに手を伸ばし、そこから人も獣も断ち滅ぼし、そこを廃墟にする。テマンからデダンに至るまで人々は剣で倒される。
25:14 わたしは、わたしの民イスラエルの手によってエドムに復讐する。わたしの怒りと憤りのままに彼らがエドムに事を行うとき、エドムは、わたしが復讐するということを知る。──神である主の御告げ──

エゼ 35:13 おまえたちは、わたしに向かって高慢なことばを吐いたが、わたしはそれを聞いている。
35:14 神である主はこう仰せられる。わたしはおまえを荒れ果てさせて、全土を喜ばせよう。
35:15 おまえは、イスラエルの家の相続地が荒れ果てたのを喜んだが、わたしはおまえに同じようにしよう。セイルの山よ。おまえは荒れ果て、エドム全体もそうなる。人々は、わたしが【主】であることを知ろう。

 エドムはイスラエルの宿敵となってしまい、それは主に対しての敵対となり、エドム人はついに滅んでしまうことになるのです。

エドムはサタンの側についてしまったのです。この世は、神の民に好意を示すことによって祝福への道が開けますが、神の民に敵対することは、自ら神に敵対する者となることを覚悟しなければなりません。また、助けを求める者にあわれみの心を閉じる者も、神のさばきを受けることを覚悟しなければなりません。箴言19章17節は、「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる。」と言っています。

 士師記11章13~22節では、モアブ人も、エモリ人の王シホンも、モーセの嘆願を拒絶して通らせなかったばかりか、シホンはヤハツに陣を敷いて、イスラエルと戦ったことを記しています。

士11:13 すると、アモン人の王はエフタの使者たちに答えた。「イスラエルがエジプトから上って来たとき、アルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの私の国を取ったからだ。だから、今、これらの地を穏やかに返してくれ。」
11:14 そこで、エフタは再びアモン人の王に使者たちを送って、
11:15 彼に、エフタはこう言うと言わせた。「イスラエルはモアブの地も、アモン人の地も取らなかった。
11:16 イスラエルは、エジプトから上って来たとき、荒野を通って葦の海まで行き、それからカデシュに来た。
11:17 そこで、イスラエルはエドムの王に使者たちを送って、言った。『どうぞ、あなたの国を通らせてください。』ところが、エドムの王は聞き入れなかった。イスラエルはモアブの王にも使者たちを送ったが、彼も好まなかった。それでイスラエルはカデシュにとどまった。
11:18 それから、彼らは荒野を行き、エドムの地とモアブの地を回って、モアブの地の東に来て、アルノン川の向こう側に宿営した。しかし、モアブの領土には入らなかった。アルノンはモアブの領土だったから。
11:19 そこでイスラエルは、ヘシュボンの王で、エモリ人の王シホンに使者たちを送って、彼に言った。『どうぞ、あなたの国を通らせて、私の目的地に行かせてください。』
11:20 シホンはイスラエルを信用せず、その領土を通らせなかったばかりか、シホンは民をみな集めてヤハツに陣を敷き、イスラエルと戦った。
11:21 しかし、イスラエルの神、【主】が、シホンとそのすべての民をイスラエルの手に渡されたので、イスラエルは彼らを打った。こうしてイスラエルはその地方に住んでいたエモリ人の全地を占領した。
11:22 こうして彼らは、アルノン川からヤボク川までと、荒野からヨルダン川までのエモリ人の全領土を占領した。

 アモン人はその時、イスラエルがアルノン川からヤボク川、それにヨルダン川に至るまでの国を取ったのだから、返却するようにと、エフタに求めています。しかしこの地域はイスラエルがエモリ人の王シホンの攻撃と戦って、占領したエモリ人の地域です。どちらにしても、エドム人も、モアブ人も、エモリ人も、イスラエルの通過を拒んだのです。

 神に敵意を抱くサタンの側につくこの世の人々は、神の民が存在すること、そのものを嫌がるのです。このことを私たちはよく悟って、慎重にこの世の人々と付き合わなければなりません。

 こうして、イスラエルがカナンの地に入っても、近隣諸国は絶えずイスラエルを脅かしました。申命記2章29節では、エドム人やモアブ人が好意的であったように記されていますが、実際は、モーセたちはエドム人やモアブ人の地を通過できなかったのです。

申 2:29 セイルに住んでいるエサウの子孫や、アルに住んでいるモアブ人が、私にしたようにしてください。そうすれば、私はヨルダンを渡って、私たちの神、【主】が私たちに与えようとしておられる地に行けるのです。」
2:30 しかし、ヘシュボンの王シホンは、私たちをどうしても通らせようとはしなかった。それは今日見るとおり、彼をあなたの手に渡すために、あなたの神、【主】が、彼を強気にし、その心をかたくなにされたからである。

 イスラエルはエドムやモアブの領地の国境線に沿って、ずっと遠回りをして長い砂漠地帯を歩かなければならなかったのです。

 申命記2章4~9節をみると、モーセたちはエドム人やモアブ人と争いを起こさないようにと、非常に注意して歩んでいたことが伺えます。

申 2:4 民に命じてこう言え。あなたがたは、セイルに住んでいるエサウの子孫、あなたがたの同族の領土内を通ろうとしている。彼らはあなたがたを恐れるであろう。あなたがたは、十分に注意せよ。
2:5 彼らに争いをしかけてはならない。わたしは彼らの地を、足の裏で踏むほども、あなたがたには与えない。わたしはエサウにセイル山を彼の所有地として与えたからである。
2:6 食物は、彼らから金で買って食べ、水もまた、彼らから金で買って飲まなければならない。
2:7 事実、あなたの神、【主】は、あなたのしたすべてのことを祝福し、あなたの、この広大な荒野の旅を見守ってくださったのだ。あなたの神、【主】は、この四十年の間あなたとともにおられ、あなたは、何一つ欠けたものはなかった。」
2:8 それで私たちは、セイルに住むエサウの子孫である私たちの同族から離れ、アラバへの道から離れ、エラテからも、またエツヨン・ゲベルからも離れて進んで行った。そして、私たちはモアブの荒野への道を進んで行った。
2:9 【主】は私に仰せられた。「モアブに敵対してはならない。彼らに戦いをしかけてはならない。あなたには、その土地を所有地としては与えない。わたしはロトの子孫にアルを所有地として与えたからである。

 しかしこのような中でも、この国境地域に住む人の中には、神の民に好意的な人々もいて、代価を払えば、水や食物を売ってくれる人々がいたのです。申命記2章29節で言っているのは、この人たちのことであると思われます。事実、こういう人がいなければ、砂漠地帯を長く旅を続けることは不可能であったでしょう。こうして、大勢の者が敵意を抱く中で、わずかであっても、神の民に好意を示す者がいることは事実です。このような人には必ず、主の報いが与えられます。主もまた、「わたしの弟子だというので、この小さい者たちのひとりに、水一杯でも飲ませるなら、まことに、あなたがたに告げます。その人は決して報いに漏れることはありません。」(マタイ10:42)と約束されました。

 私たちの場合でも、信仰をもって前進しようとすると、邪魔者が多く出てきて、敵意を抱いて妨害する者も出てきます。問題も次々と起きてきて、仲々、前進できないことがよくあります。それ故、私たちは何事においても注意深く慎重でなければなりませんが、神に導かれて行くなら、必ず目的地に到達することができます。敵意を抱く者を恐れてはいけません。主は必ず、好意をもって助ける伏兵を起こしてくださいます。

22~29節、アロンの死とエルアザルの大祭司継承

民 20:22 こうしてイスラエル人の全会衆は、カデシュから旅立ってホル山に着いた。
20:23 【主】は、エドムの国の領土にあるホル山で、モーセとアロンに告げて仰せられた。
20:24 「アロンは民に加えられる。しかし彼は、わたしがイスラエル人に与えた地に入ることはできない。それはメリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。
20:25 あなたはアロンと、その子エルアザルを連れてホル山に登れ。
20:26 アロンにその衣服を脱がせ、これをその子エルアザルに着せよ。アロンは先祖の民に加えられ、そこで死ぬ。」
20:27 モーセは、【主】が命じられたとおりに行った。全会衆の見ている前で、彼らはホル山に登って行った。
20:28 モーセはアロンにその衣服を脱がせ、それをその子エルアザルに着せた。そしてアロンはその山の頂で死んだ。モーセとエルアザルが山から降りて来たとき、
20:29 全会衆はアロンが息絶えたのを知った。そのためイスラエルの全家は三十日の間、アロンのために泣き悲しんだ。

 明らかに世代の交代の色が濃くなってきています。エジプト脱出を経験してきた初代の人々は地上を去っていき、二代目の人々がリーダーの地位につき始めていることが分かります。先に姉のミリヤムが死に、今ここで大祭司アロンが死に、そしてモーセの死も近づいています。リーダーの交代が行われ始めているのです。

 私が信仰を持った初めの頃、何も分からず、ただひたすら従っていくだけでしたが、それから二十六年後、今では日本全国から私の所に多くの相談が持ちかけられるようになりました。今、若い人も、二十年後にはリーダーとなるのです。その二十年間に何をしておくかが重要なことなのです。何も分からず「ついて行けばいい。」「従って行けばいい。」と思っているところから、しっかりと自分で責任を負って指導して行かなければならなくなる時が来るのです。

 大祭司アロンの後継者は、アロンの長子ナダブのはずでしたが、ナダブは主の前に異なった火をささげて滅んでしまい(レビ記10:1,2、民数記3:2~4)、大祭司の継承は順調に進まず、悲劇を見た後に、アロンの第三子エルアザルが継承することになりました。

レビ 10:1 さて、アロンの子ナダブとアビフは、おのおの自分の火皿を取り、その中に火を入れ、その上に香を盛り、主が彼らに命じなかった異なった火を【主】の前にささげた。
10:2 すると、【主】の前から火が出て、彼らを焼き尽くし、彼らは【主】の前で死んだ。

民 3:2 アロンの子らの名は長子ナダブと、アビフと、エルアザルと、イタマルであった。
3:3 これらはアロンの子らの名であって、彼らは油そそがれて祭司の職に任じられた祭司であった。
3:4 しかしナダブとアビフは、シナイの荒野で【主】の前に異なった火をささげたとき、【主】の前で死んだ。彼らには子どもがなかった。そこでエルアザルとイタマルは父アロンの生存中から祭司として仕えた。

 また政治的、軍事的リーダーとしてはヨシュアがモーセの後継者として選ばれました。しかしヨシュアには、モーセほどの霊的リーダーシップはなく、神のみことばを教える面では全く働いていません。彼はただ軍事的、政治的な働きをするにとどまりました。そして戦いに明け暮れて、神のみことばをしっかりと教えられなかったイスラエルの民は、ヨシュアの死後、たちまち士師記に見られるように、堕落と敗北を重ねていったのです。

 これらを見ても、今日の私たちがどんなに神のことば聖書に真剣に取り組んでいかなければならないかが、よく分かります。みことばに養われていなければ、他の面でどんなにすぐれていても霊魂は高慢になり、堕落し、敗北を繰り返すようになるのです。そのためには、教会の中にどのような質の牧師を迎えるか、どのような教師、リーダーを育てるかが、非常に重要な課題となってきます。世代交代と後継者の育成は教会にとって、最も重要な課題であると言っていいでしょう。

 主は、カナンの地を目前にするホル山に着いた時、アロンを大祭司の職から解任しました。その理由は、「メリバの水のことで、あなたがたがわたしの命令に逆らったからである。」(24節)と言われています。「あなたがたが」と言われていますから、11節で岩を二度打ったのはモーセだけのように記されていますが、アロンも関与していたことが分かります。

 霊的リーダーとなり、神のしもべとなって、主に用いられるためには、自己中心の自我が砕かれていなければなりません。神のみこころを行って、神の教会を導いていくためには、自分の好き、嫌いや、言いやすいこと、言いにくいことで判断したり、私情、人情によって左右してはなりません。そういうことを乗り越えて、神のみこころを貫徹できる人でなければなりません。モーセはそういう人でありましたが、メリバの水の事件で、一度だけ失敗をしました。しかしアロンは金の子牛の事件にも見られるように、私情、人情によって左右されやすい人でした。こういう人は霊的リーダーとしてはふさわしくありません。アロンは最初、モーセの代弁者として任命されたのですが、その後、モーセを悩ませることを行ったのです。リーダーの人選ほど、重要かつ、難しいものはありません。霊的リーダーであっても、罪を犯すことによって、その霊的力を急速に失ってしまうのです。イザヤは、「身をきよめよ。主の器をになう者たち。」(イザヤ52:11)と言っています。

 潔められた人でなければ、真に、神に用いられる人になることはできません。

 アロンは出エジプト後、四十年目の五月一日に、ホル山で死にました。その時、アロンは百二十三才でした(民数記33:38,39)。

民 33:38 祭司アロンは【主】の命令によってホル山に登り、そこで死んだ。それはイスラエル人がエジプトの国を出てから四十年目の第五月の一日であった。
33:39 アロンはホル山で死んだとき、百二十三歳であった。

 彼の生涯もまた波瀾に満ちたものでした。彼の生涯の最初の三分の二は、エジプトの奴隷生活であり、残りの三分の一は、民のリーダーであり、大祭司としての荒野の生活でした。彼の全生涯には、非常に厳しいものがあったに違いありません。アロンは多くの欠点を持つ人であり、また罪も犯しましたが、その弱さに満ちていた彼が、とにもかくにも、その厳しい生活に耐えて、主からの任務を終えたことは、実に主のあわれみによるものです。

 だれでも、真剣に主に従っていくなら、たとい弱く、つまずきやすい者でも、主イエスはあわれみを与えて、主の任務を全うさせてくださいます。

 アロンが死んだホル山はどこか?その正確な場所は決定できませんが、昔の伝統的な説はベトロスに近い所でしたが、最近の学問的証拠によりますと、「エベル・マドゥラ」と同じ位置であるとしています。この場所は「エドムの境界」にありますので、聖書(23節)に一致しますが、ベトロスよりも、よりカナンに近づいています。

 この大祭司の継承は、ホル山でモーセがアロンの大祭司の衣服を脱がせて、その衣服をアロンの子エルアザルに着せることによって行われました(26、28節)。大祭司の衣服は、神から委ねられた権威を意味するものです。それ故、大祭司の衣服を継承することによって、大祭司の権威の継承を示したのです。預言者エリヤは自分の外套を弟子のエリシャに落とすことによって、霊的継承を行いました(列王記第二2:13,14)。

Ⅱ列王 2:13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。
2:14 彼はエリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、【主】はどこにおられるのですか」と言った。彼も水を打つと、水が両側に分かれたので、エリシャは渡った。

 主イエスは、天の御国のたとえの中で、婚礼の礼服を着ていない者は、手足を縛られ、外の暗やみに放り出され、泣いて歯ぎしりすることを話しておられます(マタイ22:11~13)。

マタ 22:11 ところで、王が客を見ようとして入って来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここに入って来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ』と言った。

 パウロは、「主イエス・キリストを着なさい。」(ローマ13:14)と言っています。

ロマ 13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

 またヨハネの黙示録7章9、13~17節では、「白い衣を着た聖徒」について語っています。

黙 7:9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

黙 7:13 長老のひとりが私に話しかけて、「白い衣を着ているこの人たちは、いったいだれですか。どこから来たのですか」と言った。
7:14 そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存じです」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。
7:15 だから彼らは神の御座の前にいて、聖所で昼も夜も、神に仕えているのです。そして、御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られるのです。
7:16 彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。
7:17 なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。」

 これらはみな、霊的意味を持っています。

 今日、私たちは儀式的継承をしても、真の霊的継承をしていないのではないでしょうか。アロンの継承者としては、アロンの子、肉親のエルアザルが選ばれたのは、大祭司職はアロンの子らに引き継がれることに定められていたからです。しかし国の運営をしていくモーセの継承者は、モーセ自身の子どもではなく、長い間、モーセの従者として従っていたヨシュアでした。エルアザルも肉親であったからというよりも、ヨシュアと同じようにモーセの忠実な従者の一人であったようです。そのことは、その後のエルアザルの行動にも見られます。霊的リーダーの継承は、その霊的実質において決めなければなりません。後継者は必ず、忠実な従者であり、霊的実力を受け継いでいる者でなければなりません。

 民は、エルアザルが大祭司の衣服を着て、ホル山から降りて来て、その姿を現わした時、アロンが死んだことを知ったのです。そしてイスラエルの会衆は三十日間、アロンのために泣き悲しみました。彼らは親しいリーダーの一人を失ったことを悲しんだのです。しかし、新しいリーダーが任命されたことをも尊ぶべきではないでしょうか。私たちの群れにも、地位や学歴や財産がある者が現われるよりも、次々と霊的にすぐれた後継者となる者が現われてきて欲しいものです。

あとがき

 ある人々は、この聖書の探求が冊子なので、あちこちから出版されている小さなディボーショナルな冊子の一つのように思っておられるかも知れません。しかしどの注解書とも比べて読んでごらんなさい。著者である私がこう書くのは高慢に聞こえるかもしれませんが、決して劣るものでないことが分かってくるでしょう。ですから、各書ごとに綴じておかれると、最も分かりやすい注解書になるでしょう。説教される方には、説教の種は山ほど含まれているはずです。十分に活用していただきたいものです。この一回分の原稿を書くのに約一日かかります。あなたはそれを何分で読み終わっていますか。聖書の深みに届く信仰者になってください。ベタニヤのマリヤの如く、主のもとにとどまって、みことばに聞き入る人になって下さい(ルカ10:39)。
 また、聖書を知りたいと思っている方がいらっしゃいましたら、ぜひこの聖書の探求をご紹介いただければ幸いです。みことばのリバイバルを切に祈ります。

(まなべあきら 1993.8.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、Juan Antonio de Frías y Escalante (1633–1669)による「Moisés y el agua de la roca(アロンの杖に花が咲く)」(スペインのプラド美術館蔵、Wikimedia Commonsより)

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