聖書の探求(112) 民数記19章 「きよめる水」、新約の霊的意味を予表
19章の「きよめる水」は儀式的ですが、重要な新約の霊的意味を予表しています。
パウロは、「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするため」(エペソ5:26)と言い、「新生と更新の洗いをもって私たちを救ってくださいました。」(テトス3:5)と言っています。
ヘブル人への手紙10章22節では、「・・・私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。」と言っています。
それ故、私たちは、ただ救いの信仰に立っているだけでなく、キリストの血による潔めの信仰にも立つべきです(ヨハネ第一1:7)。
Ⅰヨハ 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
1~10節、きよめる水
民 19:1 【主】はモーセとアロンに告げて仰せられた。
19:2 「【主】が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。
19:3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。
19:4 祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。
19:5 その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。
19:6 祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。
19:7 祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営に入ることができる。しかしその祭司は夕方まで汚れる。
19:8 それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。
19:9 身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。
19:10 この雌牛の灰を集めた者も、その衣服を洗う。彼は夕方まで汚れる。これは、イスラエル人にも、あなたがたの間の在留異国人にも永遠のおきてとなる。
この定めが、どんなに重要であるかということは、
第一に、「主が命じて仰せられたおしえの定め」(2節)であるという言葉によって、最高に重要な律法として位置づけられています。
第二に、その内容が、汚れをきよめるための水を作ることであり(9節)、罪の潔めがその主眼とされているところに、重要性があります。
第三に、これが、イスラエル人にも、イスラエルの間にいる在留異国人にも永遠のおきてとされていることです(10節)。
これは、すべての人に対して神が求めておられることは、潔くあることです。潔くあることは、全人類に求められている神のご要求です。
「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」(ペテロ第一1:16)
この三点から、この定めは極めて重要であることが分かります。
主がここで、この定めを命じられたのは、立て続けに民の間に、呟(つぶや)きと不信仰な行動が起きたことと、ナダブとアビフの罪や、コラ、ダタン、アビラムたちの反抗が起きたためであろうと思われます。イスラエル人は割礼を受けて、神の民となっているだけでは十分でなく、罪と汚れから潔められることが必要であることを、ここに強調されています。
ヨハネの手紙第一1章9節、「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」にも、「罪の赦し」と、「すべての悪からのきよめ」が約束されています。私たちクリスチャンも、罪の赦しを受けているだけでなく、罪の性質、罪の根、罪の腐敗性からも潔められる必要があります。
この当時の実際的な潔めの必要としては、コラとダタンとアビラムたちの反抗の結果、多くの死者が出ましたが、その死体を運ぶために死体に触って、儀式的に汚れた者たちが大勢出たのです。その儀式的な汚れを潔めるために、多量のきよめの水が必要になったのです。この時をとらえて、主はきよめの必要を強調されたのです。それ故、ここには、衛生的な汚れからの潔めと、儀式的な汚れからの潔めと、霊的な汚れからの潔めとの三つが意味されています。しかし霊的汚れからの潔めは、主イエスの時までは、まだぼんやりと隠されていて、先の二つだけが取り扱われています。
「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱せてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕(み)を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイ3:11,12)
イ、衛生的な面は、死者が大勢出た場合、それは社会的な問題になってきます。死体を 衛生的に片づけないと、疫病が民の中に起きる危険があり、それは民全体の滅亡の引き金になってしまいます。
ロ、儀式的な面は、旧約時代において、神の民が律法を習い行うことを身につけるため に、このことは非常に重要なことでした。死体に触れて汚れた者は、そのままでは主を礼拝することも、きよい人々と交わることもできませんでした。
今日においても、信仰に二面性があります。第一は、主の御約束のみことばを受け入れて、瞬時的に主の恵みを受けることです。第二は、その恵みを受けた後、主のみことばを行い続けていくことによって、霊的に成長し、真理を経験して悟っていくようになることです。
これはみことばを習い行うことです。これによってしか身につかない霊的経験が沢山あります。ところが、多くのクリスチャンは、主の約束のみことばを信じて受け入れた後に、主のみことばに従った実際生活を行っていないのです。その結果、強力な神の民として成長していないのです。
ハ、しかし、旧約時代であっても、霊的汚れを潔める必要は、現実的な問題でした。高慢、不信仰、不遜などは、それを示しています。
主は、聖い民をご自分の民とするという根本的な目的を持っておられます。
「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖(あがな)い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)
それ故、この罪の潔めの定めは、聖書全体の中心となり、霊的、道徳的潔めへと導かれていく備えとなったのです。そうですから、ここで作られる「きよめの水」は、イエス・キリストの贖(あがな)いとの関係によって考えなければなりません。
「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」(ヨハネ第一1:7)
この「罪のきよめの水」は8章7節に既に記されており、31章23節にも命じられています。
民 8:7 あなたは次のようにして彼らをきよめなければならない。罪のきよめの水を彼らに振りかける。彼らは全身にかみそりを当て、その衣服を洗い、身をきよめ、
民 31:23 すべて火に耐えるものは、火の中を通し、きよくしなければならない。しかし、それは汚れをきよめる水できよめられなければならない。火に耐えないものはみな、水の中を通さなければならない。
ここではその準備が教えられています。この「罪のきよめの水」は、どんな人の罪のためにも用いられるように予め作っておいて、必要な時に、すぐに用いられるようにしておくように命じられています(9節)。
民 19:9 身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。
イエス・キリストのきよめの血は既に完成しており、いつでも、だれにでも、信仰によって受け取る人に注がれます(ヘブル7:24~28)。
ヘブル 7:24 しかし、キリストは永遠に存在されるのであって、変わることのない祭司の務めを持っておられます。
7:25 したがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。
7:26 また、このようにきよく、悪も汚れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。
7:27 ほかの大祭司たちとは違い、キリストには、まず自分の罪のために、その次に、民の罪のために毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです。
7:28 律法は弱さを持つ人間を大祭司に立てますが、律法のあとから来た誓いのみことばは、永遠に全うされた御子を立てるのです。
さて、この「罪のきよめの水」は、どのようにして作られるのでしょうか。
まず、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛がほふられます。この雌牛は、明らかにイエス・キリストを予表するものです。
「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。」(ペテロ第一1:19)
「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。」(ペテロ第一2:22)
一点の罪も汚れもないお方がいけにえとなられることによってのみ、潔める力があるのです。そのようなお方は、イエス・キリスト以外にありません。この雌牛が「赤」であることは、イエス・キリストが血に染まったお方であられたからです(ヘブル9:14、ペテロ第一1:19、イザヤ63:1)。
ヘブル 9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
Ⅰペテ 1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
イザ 63:1 「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」
この雌牛は、宿営の外でほふられています(3節、ヘブル13:11~13)。
民 19:3 あなたがたはそれを祭司エルアザルに渡せ。彼はそれを宿営の外に引き出し、彼の前でほふれ。
ヘブル 13:11 動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。
13:12 ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。
13:13 ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。
その血は、会見の天幕の正面に向かって、七度振りかけられ(4節)、その雌牛はすべて、火で焼かれています(5節)。ここに、イエス・キリストの十字架のいけにえが予表されています。
民 19:4 祭司エルアザルは指でその血を取り、会見の天幕の正面に向かってこの血を七たび振りかけよ。
19:5 その雌牛は彼の目の前で焼け。その皮、肉、血をその汚物とともに焼かなければならない。
その雌牛が焼けている中に、祭司は象徴的な三つのものを投げ入れています(6節、レビ記14:4)。
民 19:6 祭司は杉の木と、ヒソプと、緋色の糸を取り、それを雌牛の焼けている中に投げ入れる。
レビ 14:4 祭司はそのきよめられる者のために、二羽の生きているきよい小鳥と、杉の木と緋色の撚り糸とヒソプを取り寄せるよう命じる。
①、杉の木。これは芳しい香りのするレバノン杉です。これは神への香りであるとともに、朽ちない永遠性を意味します。
②、ヒソプ。これは旧約時代には、血をつけて潔めるために用いられた草ですから、潔めを意味します(出エジプト記12:22、詩篇51:7、ヘブル9:19)。
出 12:22 ヒソプの一束を取って、鉢の中の血に浸し、その鉢の中の血をかもいと二本の門柱につけなさい。朝まで、だれも家の戸口から外に出てはならない。
詩 51:7 ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。
ヘブル 9:19 モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
③、緋色の糸。この緋色は、罪を示すとともに(イザヤ書1:18)、罪の赦しと潔めをもたらすいけにえの血の両方を意味しているものと思われます。
イザ 1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
これに水を加えて、きよめの水を作ります。それ故、これは衛生的、儀式的であるとともに、非常に霊的意味を含んでいることがわかります。
7~10節、この準備にたずさわる祭司たちは、衣服を水で洗い、からだに水を浴びて、夕方まで汚れると言われています。
民 19:7 祭司は、その衣服を洗い、そのからだに水を浴びよ。その後、宿営に入ることができる。しかしその祭司は夕方まで汚れる。
19:8 それを焼いた者も、その衣服を水で洗い、からだに水を浴びなければならない。しかし彼も夕方まで汚れる。
19:9 身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。
19:10 この雌牛の灰を集めた者も、その衣服を洗う。彼は夕方まで汚れる。これは、イスラエル人にも、あなたがたの間の在留異国人にも永遠のおきてとなる。
9節の「身のきよい人が」は、この準備にたずさわる人は、「身のきよい人」でなけれ
ばならないことを示しています。しかし、これにたずさわることによって、夕方まで汚れた者となります。
イエス・キリストの十字架を見ても、主は私たちの罪を背負われて罪人とみなされたのです。
「彼の墓は悪者どもとともに設けられ、‥‥‥そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、」(イザヤ書53:9、12)
ここにも、キリストの十字架の奥義が秘められています。
こうして、旧約の定めの中に、多くのキリストの十字架の予表を見い出すことができます。これらのことが分かってくると、旧約聖書の中に多くの恵みを味わうことができるようになります。主は、「その聖書が、わたしについて証言しているのです。」(ヨハネ5:39)と言われました。
ヨハ 5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
私たちは聖書に記されている神髄を見い出して、自らの信仰経験を深め、確立していきたいものです。
11~22節、人の死体に触れた者の潔め
ここでは、1~10節で準備した「汚れをきよめる水」をどのようにして使うかを定めています。
民 19:11 どのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。
19:12 その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
19:13 すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、【主】の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。
19:14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。
19:15 ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。
19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
19:17 この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。
19:18 身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。
19:19 身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。
19:20 汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は【主】の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。
19:21 これは彼らに対する永遠のおきてとなる。汚れをきよめる水を振りかけた者は、その衣服を洗わなければならない。汚れをきよめる水に触れた者は夕方まで汚れる。
19:22 汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。」
ここに、「死体に触れる者は汚れる」という概念が記されています。現在でも、異教徒の間では死体に触わると汚れるという考えがありますが、それは先祖崇拝の習慣からか、あるいは、死者の霊が死体を取り巻いているという考えから起きています。しかし聖書でいう「死体に触れる者は汚れる」ことの概念は、異教徒たちのものとは異なります。モーセの律法において、これほどはっきりと、「死体との接触による儀式的な汚れ」が示されているのは、「罪の支払う報酬は死である。」(ローマ6:23)ということを明確に教えるためです。
ロマ 6:23 罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
14~16節を見ると、死体に触れた場合だけでなく、天幕の中で人が死んだ時も、幕に触れた場合など、間接的な接触やその他の場合でも、汚れると言われています。
民 19:14 人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。
19:15 ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。
19:16 また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
これは罪の汚れが、様々な生活面に波及していることを示しています。そこでイエス様の時代の律法学者やパリサイ人など、偽善者たちは、墓を白いペンキで塗って、不意に墓に触っても「ペンキの上からだから汚れない。」という言い訳けができるように考え出したのです。
これに対して、イエス様は「あなたがたは外側は美しく見せているが、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27,28)と言われて、彼らの内的罪の汚れを指摘されました。
マタ 23:27 わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。
23:28 そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。
しかし、この罪の汚れは、全人類に普遍的に波及してしまいました(詩篇51:5、ローマ3:10~23)。
詩 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。
ロマ 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行う人はいない。ひとりもいない。」
3:13 「彼らののどは、開いた墓であり、彼らはその舌で欺く。」「彼らのくちびるの下には、まむしの毒があり、」
3:14 「彼らの口は、のろいと苦さで満ちている。」
3:15 「彼らの足は血を流すのに速く、
3:16 彼らの道には破壊と悲惨がある。
3:17 また、彼らは平和の道を知らない。」
3:18 「彼らの目の前には、神に対する恐れがない。」
3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。
3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
そしてそれは、ついにすべての人に死という絶望的形をとって、外側にまで普遍してしまったのです(ローマ5:12、コリント第一15:21,22)。
ロマ 5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
Ⅰコリ
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
これに対して主は、「汚れをきよめる水」を用意されました。これはすべての人の生活において、キリストの贖(あがな)いが届き、キリストの潔めを受ける人にその効果を表すようにされたのです。
12節、汚れた者は三日目と七日目の二回、この水で潔めなければなりません。
民 19:12 その者は三日目と七日目に、汚れをきよめる水で罪の身をきよめ、きよくならなければならない。三日目と七日目に罪の身をきよめないなら、きよくなることはできない。
これは、罪の赦しと潔めの二重の恵みのみわざを必要としていることを示しています。しかしこの潔めは、ただ儀式的なことで終わっていません。19節では、衣服を洗ったり、水浴をするように命じられています。
民 19:19 身のきよい人が、それを汚れた者に三日目と七日目に振りかければ、その者は七日目に、罪をきよめられる。その者は、衣服を洗い、水を浴びる。その者は夕方にはきよくなる。
これは潔めが個人的で、全員に及ぶものであり、生活的なものにまで及んでいくことを示しています。クリスチャンの潔めは、霊的経験であるとともに、全身的で、全生活的なところにまで及んでいくべき、非常に具体的なものでなければなりません。これが、罪の根から潔められて、石の心が取り除かれて、神の御霊によって満たされた生活であり(エゼキエル36:25~38)、主を愛する内的愛の満たし(申命記6:5、30:6、エペソ3:17~19)による生活です。
エゼ 36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。
36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。
36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。
36:29 わたしはあなたがたをすべての汚れから救い、穀物を呼び寄せてそれをふやし、ききんをあなたがたに送らない。
36:30 わたしは木の実と畑の産物をふやす。それであなたがたは、諸国の民の間で二度とききんのためにそしりを受けることはない。
36:31 あなたがたは、自分たちの悪い行いと、良くなかったわざとを思い出し、自分たちの不義と忌みきらうべきわざをいとうようになる。
36:32 わたしが事を行うのは、あなたがたのためではない。──神である主の御告げ──イスラエルの家よ。あなたがたは知らなければならない。恥じよ。あなたがたの行いによってはずかしめを受けよ。
36:33 神である主はこう仰せられる。わたしが、あなたがたをすべての不義からきよめる日に、わたしは町々を人が住めるようにし、廃墟を建て直す。
36:34 この荒れ果てた地は、通り過ぎるすべての者に荒地とみなされていたが、耕されるようになる。
36:35 このとき、人々はこう言おう。『荒れ果てていたこの国は、エデンの園のようになった。廃墟となり、荒れ果て、くつがえされていた町々も城壁が築かれ、人が住むようになった』と。
36:36 あなたがたの回りに残された諸国の民も、【主】であるわたしが、くつがえされた所を建て直し、荒れ果てていた所に木を植えたことを知るようになる。【主】であるわたしがこれを語り、これを行う。
36:37 神である主はこう仰せられる。わたしはイスラエルの家の願いを聞き入れて、次のことをしよう。わたしは、羊の群れのように人をふやそう。
36:38 ちょうど、聖別された羊の群れのように、例祭のときのエルサレムの羊の群れのように、廃墟であった町々を人の群れで満たそう。このとき、彼らは、わたしが【主】であることを知ろう。」
申 6:5 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、【主】を愛しなさい。
申 30:6 あなたの神、【主】は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、【主】を愛し、それであなたが生きるようにされる。
エペ 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
13節、汚れをきよめる水が用意されているのに、潔める水を受けることをせず、汚れたままでいる人は、主の幕屋を汚すことになります。
民 19:13 すべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、【主】の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。
これは、汚れが信仰者の霊的状態と神との関係に深い関わりがあることを示しています。汚れたままの人は、人格的にも堕落し、神に対しても冷淡になり、無関心になり、遠去かってしまい、みことばにも、霊的恵みにも渇かなくなってしまいます。
20節、聖なる神は、神の子どもたちが、聖さを欠き、汚れたままでいることを我慢できないのです。
民 19:20 汚れた者が、罪の身をきよめなければ、その者は集会の中から断ち切られる。その者は【主】の聖所を汚したからである。汚れをきよめる水がその者に振りかけられなかったので、その者は汚れている。
黙認することができないのです。そこには必ず、神との分離が生じてきます。「潔めの恵み」が約束され、用意されているのに(テサロニケ第一5:23,24)、それを自分のものとして受け取ろうとしない者に対しては、神は厳格な刑罰を加えられ、「集会の中から断ち切られ」ます。
Ⅰテサ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
5:24 あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。
私たちが神との交わりにとどまり、さらに深い交わりに入るためには、いつも恵みから恵みへと進むことに心を留めていなければなりません。
「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」(ヨハネ1:16)
私たちが恵みに向かって前進し、成長することを拒んだり、怠るなら神との交わりは断絶してしまいます。飛んでいる飛行機が途中で飛ぶのを止めたら、墜落するのと同じです。神の恵みは十分であり完全ですが(コリント第二12:9)、罪を潔めるために神が備えられた恵みを拒む者は、永遠に失われてしまうのです。
Ⅱコリ 12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
クリスチャンと自称している人のうちには、平気で神の民の中から離れていく人が少なくありませんが、このような人々は自ら滅亡の道を選んでいるのです。彼らは汚れています。
22節は、一つの事実を描いています。すなわち、汚れた者と接する人は、汚れた者となっていくことです。
民 19:22 汚れた者が触れるものは、何でも汚れる。その者に触れた者も夕方まで汚れる。」
汚れた者がいくら自分の知恵を出して働いても、その人は汚れたことしかできないのです。汚れた者の仲間となる人は、その人もまた汚れた者となっていくのです。パウロが、ローマ12章2節で、「この世と調子を合わせてはいけません。」と言ったのはそのことです。
ロマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
「幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」(詩篇1:1)
パウロは、コリント第一12章31節の終わりで、「さらにまさる道を示してあげましょう。」と言って、13章の神の愛に満たされた生活を教えていますが、私たちはすみやかに潔められ、さらに潔めの道を歩んで成長していき、生活全体の中に神の聖さを反映していきたいものです。
Ⅰコリ 12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。
神はその人を祝福されます。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖(あがな)われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖(あがな)われた者たちがそこを歩む。主に贖(あがな)われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、嘆きと悲しみとは逃げ去る。」(イザヤ書35:8~10)
あとがき
私の所には、ほとんど毎日のように、日本の各地から悩みの訴え、信仰生活のアドバイス、あるいは伝道、教会のアドバイスを求める電話が寄せられてきます。ここに居ながら、日本全国に伝道しているようなものです。本を読んで電話をかけて来られる方も大勢おられます。これは一面、著者として仕方がないことかも知れませんが、私の期待することは、これらの方々が私の所にではなく、自分の所属する教会で、それを解決したり、乗り越えていってくれるようになることです。私も毎週、否、毎日、説教や講義をしている身ですから、それが大変なことは分かりますが、牧師や教師は説教するのがやっとでは十分でないと思います。ひとり一人のクリスチャンをみことばに根を下すようにカウンセリングし、指導していかなければなりません。またそういう働きができる助力者、働き人を教会員の中に育てていくように訓練していかなければなりません。この点の努力が非常に欠けているのではないでしょうか。
(まなべあきら 1993.7.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)
上の絵は、Wikimedia Commonsから引用(Description:A print from the Phillip Medhurst Collection of Bible illustrations in the possession of Revd. Philip De Vere at St. George’s Court, Kidderminster, England.)
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