聖書の探求(130) 申命記1章 1章の分解、1~8節 申命記の序

1章は申命記の序で、ホレブの山よりカデシュにおける不服従と敗北までのことを記しています。モーセの説教は二度、ホレブとカデシュの間の所と、モアブの平野で語られたものと思われます。

1章の分解

1~3節、申命記についての序、場所と時

4~8節、モーセの律法の解説の始まり-「約束の地を得よ」との主の命令の再述

9~18節、モーセの助け手の要求の再述

理由(1)モーセ一人では重荷を負うことができない。
(2)人々の数が多くなったこと

資格(1)知恵のある人(霊的恵みのある人)
(2)悟りのある人(真理を弁える人)
(3)経験のある人(リーダーとして資質のある人)

種類、千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長

職務(1)部族の中のかしら(官吏)
(2)訴えをよく聞く
(3)正しくさばく

19~25節、カデシュ・バルネアにおける十二人の偵察についての再述

26~33節、民の呟(つぶや)きと不服従の再述

34~40節、主の怒りと誓い

(1)この悪い世代の人々に対して(35節)

あの良い地を見る者は、ひとりもいない。

(2)エフネの子カレブに対して(36節)

それを見ることができる。彼が踏んだ地を、彼とその子孫に与えられる。彼が主に従い通したから。

(3)ヌンの子ヨシュアに対して(38節)

入りなさい。イスラエルを率いてこれを得させよ。

(4)あなたがたの幼子たち(39~40節)

今はまだ善悪のわきまえのないあなたがたの子どもたちが、そこに、はいる。
わたしは彼らにそこを与えよう。彼らはそれを所有するようになる。

41~46節、不服従による敗北の再述


1~3節、申命記についての序、場所と時

1節に、モーセのこの説教が語られた場所の地名が出てきますが、その地名が今は確認できないものもあります。

申1:1 これは、モーセがヨルダンの向こうの地、パランと、トフェル、ラバン、ハツェロテ、ディ・ザハブとの間の、スフの前にあるアラバの荒野で、イスラエルのすべての民に告げたことばである。

「荒野」は広い牧草地のことであり、人の住んでいない地域のことです。「アラバ」は紅海からアカバ湾に及ぶ深いくぼ地で、「パランとトフェル、ラバン」」に続く地は、ホレブからカデシュ・パルネアに至る道筋にあります。モーセはなぜ、これらの地名をここに記したのでしょうか。その一つには、ホレブからカナンの地の境までの道筋を示すためであったと考えられます。これは地理的な意味だけでなく、歴史的、劇的メッセージを含んでいます。

2節で、モーセは、ホレブからカデシュ・バルネアまでの道程は、十一日であると言っています。

申 1:2 ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。

しかしイスラエル人はこの十一日間の旅の道程に四十年を費したのです。信仰を持って真直に歩めば十一日で到着することができる所を、不信仰になれば自分たちは滅んでしまい、その子孫がやっと四十年かかって到着することになったのです。これが信仰と不信仰の違いです。これが潔められたクリスチャンと潔められないクリスチャンの違いです。今日でも、数日で到着できる成長を、何十年もかかっているクリスチャンが少なくないし、途中から滅びの道に脱落して行っている者も少なくありません。これは私たちへの大きな警告ではないでしょうか。モーセはこのことを言いたかったのです。

4~8節、モーセの律法の解説の始まり-「約束の地を得よ」との主の命令の再述

4節では、エモリ人の王シホンとバシャンの王オグを打ち破って勝利を得た後に、この説教が語られたことを示しています。

申 1:3 第四十年の第十一月の一日にモーセは、【主】がイスラエル人のために彼に命じられたことを、ことごとく彼らに告げた。
1:4 モーセが、ヘシュボンに住んでいたエモリ人の王シホン、およびアシュタロテに住んでいたバシャンの王オグをエデレイで打ち破って後のことである。

それ故、モーセにとっては、彼の生涯はこの勝利をもって終わりを告げることになるのですが、神の民の次の時代を後継する者にとっては、これからカナンの地に入って多くの戦いをしなければならない、戦いの日々が待っていることになります。その意味において、このシホンとオグに対する勝利の経験は貴重なものだったのです。

このように、一人の指導者の生涯は勝利のうちに閉じられても、神の民は主の再臨があるまで信仰の戦いは続くので、戦いに耐え得る霊的指導者を養い育てて残しておかなければなりません。できれば、去って行く指導者以上の後継者を残す必要があります。そのために命を注ぐのです。

5節に「モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。」とあります。

申 1:5 ヨルダンの向こうの地、モアブの地で、モーセは、このみおしえを説明し始めて言った。

この「説明する」は「彫り付ける」こと、すなわち明確に詳細に民の心に彫り付けることです。「みおしえ」とは、「定め、おきて、命令」だけでなく、神の啓示全体を含んでいます。神のみことばは、ただ聞くだけであってはなりません。聖日に語られた神のみことばは、その週の内にほとんど忘れられてしまっています。神のみことばは、私たちの魂の奥深くに刻み込んで、心の思いの中に植えつけられなけれ
ばならないのです。

「‥‥心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1:21~25)

6節、イスラエルの民はホレブの山で、長い間とどまっていました。
申 1:6 私たちの神、【主】は、ホレブで私たちに告げて仰せられた。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。

そこで何をしていたのか。ここでは、大きく二つのことが行われました。

第一は、神の律法が与えられ、教えられたこと。
第二は、神の神制国家が組織されたこと。

それまでは群衆として旅をして来ましたが、ここからは神の軍団として組織され、整然とした旅を続けることが命じられました。このことが周囲の異教の人々に恐れとなり、また勝利の鍵となったのです。

私たちの教会においても、組織化すればいいというものではありませんが、キリストにあって、霊的に一致し、神の愛と聖霊の交わりにおいて一つとなり、同じいのちのみことばによって深く養われているキリストの家族となるならば、愛と信仰による霊的秩序は整然とされ、教会の中から争いやネタミや不満は消え去り、愛の交わりだけが輝いて、周囲の未信者の人々に大きなあかしとなっていきます。

「わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:23)

さて、神の律法が与えられる、教えられることと、神制国家が樹立された、この二つのことは、神の約束の地への入国に必要な条件だったのです。ところがイスラエルの民はカデシュ・バルネアで不信仰になり、再び元の迷える群衆になってしまいました。そこで、今一度、モーセは彼らがカナン入国を直前にして、そして自分は彼らから去っていくことを自覚しながら、必死の思いで、神の律法を再び教え直して、神の軍団に再編成して、整然とした組織にしようと考えたのです。

このことは、今日、私たちの教会にも必ず必要なことです。教会がなんとか呟(つぶや)く群衆から、整然とした霊的秩序のある神の軍団にならないものかと、何十年も昼夜、働き続けているのですが、仲々、思ったように、神の軍団に整っていかないのです。教会はキリストのからだと言われていますから、霊的秩序が保たれないとキリストのからだはいのちを失って、死んでしまうことになります。教会がただの寄り集まりの群衆である間は、目的地、天の故郷、神の都に向かって前進することはできないのです。必ず呟(つぶや)きや不満、ネタミによる争いが生じてきます。永遠の目的地に向かって前進するためには、クリスチャン一人一人に神のみことばがよく教えられ、魂の内に神制国家である神の国が形成され、整然とした神の軍団として秩序ある群れとなっていなければなりません。このような姿は、この世の人々に対してあかしとなり、勇姿となって映えるのです。

「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちはみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:11~16)

7~8節、しかし、この二つの準備が整ってきたならば、いつまでもホレブの山にとどまっていてはいけません。それは自己満足に陥ります。

申 1:7 向きを変えて、出発せよ。そしてエモリ人の山地に行き、その近隣のすべての地、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、レバノン、さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け。
1:8 見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、【主】があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。」

聖書を学んで、知識を得るだけで自己満足していてはいけません。また教会の会員が増えてきて、組織化されてくることだけで満足していてはいけません。それらは永遠の目的地、神の都に向かって前進するための準備なのです。7、8節には、「出発せよ」「行け」「その地を所有せよ」という非常に積極的な前進すべき命令のことばが示されています。

長い間、一箇所に坐っていると、いつしか、そこに腰をおろして、前進するのを億劫に思いがちです。クリスチャンは教会出席が出来ればいいという水準で自己満足して、現状維持に腰をおろしたら、終わりです。信仰生活には前進あるのみで、一歩ずつでも目的地に向かって前進していかなければなりません。そうすれば、死の陰の谷を通過するような困難な中を通過することがあっても、必ず、その状況を通り抜けて、明るい地に到着することができます。

「私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。」(詩篇66:12)

「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」(詩篇23:4)

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(ピリピ3:13,14)

第一に、出発すること

前進するには、必ず出発することが必要です。一番、信仰を必要とするのは、出発する時です。未知の世界に向かっての出発ですから、大いなる信仰の選択の決断を必要とします。しかし出発しなければ、その後の前進はあり得ませんから、信仰による勇気と大胆さをもって出発しなければなりません。

「信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。」(ヘブル11:8)

アブラハムの信仰の選択と決断は見上げたものです。アブラハムがカルデヤのウルの地を出発した日の彼の心の中は、いかばかりだったでしょうか。しかしその日なくして、後のアブラハムの祝福された日々はなく、今日彼が神の友と呼ばれる(歴代第二20:7、イザヤ41:8、ヤコブ2:23)ことはなかったでしょう。

Ⅱ歴代 20:7 私たちの神よ。あなたはこの地の住民をあなたの民イスラエルの前から追い払い、これをとこしえにあなたの友アブラハムのすえに賜ったのではありませんか。

イザ 41:8 しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。

ヤコブ 2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。

あなたの将来がどのように導かれるかは、今は分かりません。しかし天の故郷を目指して行動の出発をしてください。出発なしに前進は一歩もないのです。出発すれば、すぐに目の前に紅海が立ちはだかり、後からはパロの軍隊が迫ってくるでしょう。しかし恐れてはいけません。紅海には道が開かれ、パロの軍隊は鉛の如く紅海の底に沈んだのです。主に全く信頼して、安心して出発して下さい。

「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」(ペテロ第一2:6)

第二に、「行け」

(イ)、「エモリ人の山地に行き」

そこには敵対する者、困難が待ち受けています。「エモリ人」は、北方からパレス チナに侵入してきて、丘陵地常に定住していたアルム人で、強力な民族です。「カナン人の地」は平地に住むフェニキヤ系の民族をさしています。これらはみな、強力な敵でしたが、恐れずに、「行け」と命じられています。主がともにいてくだされば、敵がどんなに強くても、勝利が与えられるからです。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

(ロ)、「その近隣のすべての地‥‥‥さらにあの大河ユーフラテス川にまで行け」

これはその前進すべき範囲が広大であることを示しています。南はネゲブ、北はレバノン、東はユーフラテス川、西は地中海。この範囲は理想的な地を意味しています。

パウロは、「私は、キリストが異邦人を従順にならせるため、この私を用いて成し遂げてくださったこと以外に、何かを話そうなどとはしません。キリストは、ことばと行ないにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。その結果、私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。‥‥今は、もうこの地方には私の働くべき所がなくなりましたし、また、イスパニヤに行く場合は、‥‥」(ローマ15:18~20、23)と、彼の働きの範囲の広大さを語っています。

私たちは自分の狭い考えで、前進の範囲を狭めてしまわないように注意しなければなりません。主のご命令は、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)です。

しかし、強力な敵がいるのに、大きな困難、厳しい迫害があるのに、その範囲があまりにも広大すぎるのに、なぜ出て行って働くことができるのでしょうか。それは、8節、「見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。」と約束されているからです。実際には、私たちが戦って取るべき地でありますが、しかし信仰をもって、出て行って戦うなら、主が戦ってくださり、主がその地を与えてくださるという保証つきです。一時、困難に直面しても、迫害があっても、またどんなに広大な地でも、勝利はすでに与えられているのです。

「あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。‥‥‥この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。」(歴代第二20:15、17)

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

あなたが主から離れない限り、どんな困難と妨害に出会っても、勝利はあなたの手に与えられているのです。それが主の約束です。

第三に、「その地を所有せよ」

これは、正しく、神のみこころの通りに、信仰をふさわしく管理、活用することです。

「こういうわけで、私たちをキリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。」(コリント第一4:12)

「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」(マタイ25:21)

イスラエルはカナンの地に定住して、さらに繁栄して、神の栄光を現わすことが求められています。そのために神はその地をアブラハム、イサク、ヤコブに誓って与えられたと約束されたのです。

その地は、私たちが信仰によって受けるために与えられている神の賜物です。

「主は、私へのゆずりの地所、また私への杯です。あなたは、私の受ける分を、聖く保っていてくださいます。測り綱は、私の好む所に落ちた。まことに、私への、すばらしいゆずりの地だ。」(詩篇16:5,6)

主があなたに与えられた才能、富、時間、健康、みことば、すべての恵み、召命のみ声、それらすべては、忠実に正しく、ふさわしく管理活用して主の栄光を現わさなければなりません。主はそのために与えられたのですから。

「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」(マタイ5:16)

「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」(コリント第一6:20)

「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:14)

あなたがイエス様の血によって救われ、潔められたのは何のためであったか、もう一度、点検し直して下さい。それはあなたがご自分の生涯を用いて主の栄光を現わすためではありませんでしたか。すぐに大きなことをしようとせず、信仰を忠実に活用してください。このことを何度もくり返して神の国を拡大し、さらに大きな主の栄光を現わす教会へと発展していくことができるのです。

あ と が き

この「聖書の探求」の小冊子を、あっという間に読んでしまって、そのままにしておられる方もいらっしやるかも知れません。しかし私はこの小冊子をそのように扱ってほしくありません。「なんだ、こんな小冊子」と思われるかも知れませんが、私はこの小冊子の中に十年以上も自分の命を注ぎ込み続けてきたのです。私はこの小冊子をすべてのクリスチャンに読んでいただきたいと思います。現在、私の所に住所をお知らせ下さっている方は千五百人くらいいますが、聖書の探求をお送りしているのは百五十人くらいです。全員にお送りしたいのですが、そのためには費用が毎月十五万円以上かかるので果たせないでいます。しかし私はこの聖書の探求以上のものは、そう多くないのではないかと思っています。私、一代では聖書を完了しませんので、今、後継者のために切に祈っております。ぜひ、この冊子が長く継続できるように、新しい年にもさらなるお祈りとご支援をよろしくお願い申し上げます。

(まなべあきら 1995.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の絵は、アメリカのthe Providence Lithograph Companyによって1907年に出版されたBible cardのイラスト「Moses Pleading with Israel(イスラエルの人々に十戒を守ることを教えるモーセ)」 (Wikimedia Commonsより)


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