聖書の探求(131) 申命記1章 9節~25節 ホレブにて・・・首長の任命

上の図は、エジプトを出て約束の地を目ざす旅の経路図。(引用元:バイブルガイド‐目で見てわかる聖書、マイク・ボーモント著、いのちのことば社刊) ジェベル・ムーサ(シナイ山) は、ホレブ山とも呼ばれる。

9~15節、神の祝福に伴う重荷とそれを支えるりーダーたち

人として必ずしなけれはならないことは、神のみことばを知ることと、それに忠実に従うことです。このことに失敗したのが、イスラエル人の実例です。

特に、私たちクリスチャンは、先ず、神のみことばを正確、かつ、十分に知ることにつとめなければなりません。そして神のみことばの権威を受け入れ、それに忠実に従うようにしなければ、神の国を獲得することができません。私たちは神のみことばをなおざりにすることによって、大変大きな損失をしているのです。モーセを初め、多くの神の聖徒たちが、聖徒であり続けた秘訣は何かというと、それはだれにでもできることであり、それは神のみことばを執拗に忠実に守り行なったということだけです。それが彼らをして偉大な聖徒に育て上げたのです。

申 1:9 私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。
1:10 あなたがたの神、【主】が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。
1:11 ──どうかあなたがたの父祖の神、【主】が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように──
1:12 私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。

神はアブラハム、イサク、ヤコブたちに約束されたとおり、イスラエルを祝福されました。しかしその祝福は新しい重荷となって、モーセの肩にのしかかってきたのです。そしてそれは、もはやモーセひとりでは負い切れなくなってきていたのです。

教会の働きが拡大していき、救われるものが増えてくることは、大いなる喜びであり、祝福です。しかしそれは教会にとって新しい重荷となってくるのです。それらの増し加わってくる人々の霊魂をだれが、どのようにして養い育て、訓練していくのか。天の御国まで、だれが責任を持って指導するのか。だれがよき羊飼いとなる牧師や教師やリーダーを育てるのか。今日、教会において、これらの重要な課題について、ほとんど手がつけられないままに放置されているのです。それ故、教会はすぐれた後継者を生み出すことができず、霊的力を失っているのです。

祝福を祈り求めることは容易です。しかし無責任に祝福を祈り求めてはなりません。それは新しい別の大きな重荷を生むことになるからです。祝福を祈り求める者は、その祝福から生まれてくる新しい別の重い荷物を責任をもって背負っていく覚悟を準備していなければなりません。神から幻を受けて前進していくことは、外側から見ていると、気持ちがいいほどすばらしいものです。しかし、その中心で責任を持って導いている者にとっては、「たれかこの任に耐えんや」(文語コリント第二2:16)という状況の中にあるのです。

Ⅱコリ 2:16 ある人たちにとっては、死から出て死に至らせるかおりであり、ある人たちにとっては、いのちから出ていのちに至らせるかおりです。このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。

初代教会において、急速にクリスチャンの人数が増えてきた時、ヘブライストのクリスチャンとへレニストのクリスチャンの間に、施しのパンのことで不満が生じました。しかしその時、教会はこの重荷を背負うことのできる七人の執事をすぐに選び出すことができました(使従6:1~7)。

使 6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。
6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」
6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

さらにクリスチャンが増加することによって、ユダヤ主義者たちの迫害が起こり、更にローマ皇帝による三百年にわたる長い迫害時代へと引き継がれていきましたが、教会はそれらの過酷な重荷を負い続けるリーダーを出し続けることができたのです。

私たちの教会が、これから祝福を受けて大きく発展していくことを祈り求めることは、すなわち新しい大きな重荷が数多く生まれてくることを祈り求めていることになるのです。この重荷を自分で背負う覚悟がなければ、祝福、拡大、発展を祈り求めるべきではありません。とかく無責任な祈りが多すぎると思います。救われた人をしっかりと天の御国にまで導く備えがないのに、救われる人が起こされることを祈り求めていないでしょうか。主の群れがこれから先、どれくらい発展拡大して、主に用いられるかは、実際に重荷を負って働くことのできる牧師、教師、リーダーがどれくらい育ってくるかにかかっているのです。

11節、モーセは「あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくだざるように。」と祈っています。

申 1:9 私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。
1:10 あなたがたの神、【主】が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。
1:11 ──どうかあなたがたの父祖の神、【主】が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように──

これは神の約束であり、祝福です。しかしそれは何を意味しているのでしょうか。それは今の千倍の新しい重荷が生まれてくることです。この千倍の重荷を背負うリーダーが起こされてこなければ、神の民はその祝福がもたらす千倍の重荷の故に押しつぶされて滅びてしまうのです。

私たちは今、百教会開拓の幻をいただいて前進していますが、それは何を意味しているのでしょうか。それは「百倍の重荷を私たちに与えて下さい。」と祈っているのと同じです。その責任を背負って立ち続け、群れを指導し続ける覚悟ができているのでしょうか。現実に、多くの教会において、献身して重荷を背負うリーダーが生まれてこないために、教会が霊的に破滅状態に陥っているのです。

人がクリスチャンになったからといって、ひとりで信仰に成長しているわけではありません。集会に出席しているだけで、それだけで霊的に成長するのではありません。手間のかかる指導と世話が必要なのです。また具体的に、結婚、子育て、葬儀、あらゆる生活面の指導と世話が必要になります。そればかりでなく、争いやもめごとなども沢山持ち込まれるのです。

12節で、モーセは、もはや私ひとりでは背負い切れないと告白しています。

申 1:12 私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。

これは弱音ではありません。いかにすぐれた指導者にも限界があるという真実を物語っています。このことを無視して、一人の指導者に過酷な仕事を続けさせるから、早死してしまうのです。
それ故、さらにこれから神の民が祝福されることを祈り求めるのなら、それらの重荷をしっかりと背負うことのできるように訓練して備えておかなければなりません。いたずらに祝福だけを祈り求めるのは危険ですし、無責任ですし、自殺行為だといってもいいのです。

13節は、かしらとなる者の資格が三つ記されています。

申 1:13 あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」

第一は、知恵がある者、すなわち、神を畏れ、神の知恵、新約聖書ではキリストに満たされている者のことです(コリント第一1:30)。

Ⅰコリ 1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

第二は、悟りがある者、すなわち、みことばの真理をよく悟り、また人間の問題の根本をよく知り尽くしている人のことです。神のみこころ、みことば、そして人の罪の根本をよく理解している者のことです(詩篇119:130、ヘブル4:12)。

詩 119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

ヘブル 4:12 神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。

第三は、経験のある人々、すなわち、人々にみことばを教え、信仰生活の実際を十分に指導できる人、よく訓練を受けて熟達している人のことです(テモテ第二2:15)。

Ⅱテモ 2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

モーセはこのような人を千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、すなわちりーダーとして立てました。

申 1:13 あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。」
1:14 すると、あなたがたは私に答えて、「あなたが、しようと言われることは良い」と言った。
1:15 そこで私は、あなたがたの部族のかしらで、知恵があり、経験のある者たちを取り、彼らをあなたがたの上に置き、かしらとした。千人の長、百人の長、五十人の長、十人の長、また、あなたがたの部族のつかさである。

しかし彼らはカデシュ・バルネアで不信仰な報告をして、イスラエルを滅亡に陥れました。これらのリーダーたちの不信仰な態度は民全体に広がり、四十年の目的のない放浪生活とその旅の途中で滅んでいくという恐ろしい惨事を引き起こしたことを、私たちは決して忘れてはなりません。

神の働きにたずさわるのに最も危険で、重要なことは、神の人の人選です。リーダーを選ぶには十分な上にさらに十分な点検と訓練を加え、慎重な上にさらに慎重を重ねて、はっきり潔められ、不信仰と肉の性質が完全に取り除かれている必要があります。預言者サムエルですら、エリアブの姿を見て、「確かに、主の前で油をそそがれる者だ」と思い違いをしたのです(サムエル第一、16:6)。

Ⅰサム 16:6 彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「確かに、【主】の前で油をそそがれる者だ」と思った。

学問の有無や、外側の熱心さ、才能、容貌などに惑わされてはいけません。神が召されているのは最も小さい子どもであったり、一番目立たない人であったりします。その信仰と霊的性質を十分に調べて下さい。何かができるといって高慢にならず、何もできないといって不信仰にならず、カレブやヨシュアのように、ひとりでも献身と信仰をもって、この世を捨てて、神のために戦うことのできる人でなければなりません(テモテ第二2:21)。

Ⅱテモ 2:22 それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。

神の祝福には必ず新しい重荷が生じます。この重荷を背負うリーダーが起こされ、育てられなかったなら、教会は祝福を受けることによって破滅してしまいます。信仰の堅固なりーダーが次々と起きることこそ、教会の生命線です。祝福を祈り求めるなら、自らその責任を負う者とならなければなりません。

16~25節、リーダーたちへの命令

16,17節、さばきつかさたちへの命令

申 1:16 またそのとき、私はあなたがたのさばきつかさたちに命じて言った。「あなたがたの身内の者たちの間の事をよく聞きなさい。ある人と身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。
1:17 さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。人を恐れてはならない。さばきは神のものである。あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」

ここには、人を指導する者の心得がいくつか記されています。

第一は、訴えを「よく聞く」こと。

指導者は教える前に人々の訴えや問題点や必要をよく知る必要があります。「よく聞く」とは、相手の話をよく聞くだけでなく、よく調査することも含まれています。

「彼女は家族の様子をよく見張り」(箴言31:27)

「あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。」(使徒20:28)

指導者となるべき第一の訓練は、人の霊的必要をよく知ることです。そのためには「よく聞く」ことが必要です。そうしないと、ひとり合点や独善になりやすいのです。またよく聞くためには、心の奥底まですべて十分に話させる必要があります。これもなかなか難しいことです。

第二の命令は、三つあります。

「身内の者たちとの間、また在留異国人との間を正しくさばきなさい。」
「さばきをするとき、人をかたよって見てはならない。」
「身分の低い人にも高い人にもみな、同じように聞かなければならない。」

この三つの命令は、同じことを教えています。すなわち、
・自己中心になって、こびへつらったりしないこと。
・すべての人は神の前で同じ資格で取り扱われなければならないこと。
・その人の身分や財産や学歴や個人的関係とは関係なく、真実に指摘され、指導されなければなりません。

モーセは実兄のアロンが金の子牛をつくった時、アロンを叱責しました。
実姉のミリヤムがモーセを非難した時、主はモーセの姉であっても、怒りを発せられました。
肉的な個人関係は、何ら考慮されなかったのです。
血筋や肉親にこだわり、それらが自分を支えるかのように思っている人は、悲惨な運命に出会うことになります。
真の神の家族のみ、互いに支え合うことができるのです。

第三の命令は、「人を恐れてはならないこと」です(21節)

申 1:21 見よ。あなたの神、【主】は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」

「人を恐れるとわなにかかります。」(箴言29:25)

私たちは、この世の地位や権力のある人を恐れやすい。金持ちにこびへつらったり、この世の勢力を恐れたりしやすい。この世の人と異なった生き方をすることを恐れやすい。また、ねたみや嫉妬のワナにも陥りやすい。

霊的リ-ダーとなる人には、人を恐れない確信と人格的力とが必要です。それは主に全く信頼し、信仰に成長することによってしか、身につかないのです。

「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」(テモテ第二1:7)

第四の命令は、自分で処理できない難しい問題は、無理に自分で解決しようとしないで、モーセの所に持っていって解決してもらうことです。

申 1:17 ・・・・・ あなたがたにとってむずかしすぎる事は、私のところに持って来なさい。私がそれを聞こう。」

自分の手に負えないものを無理に自分の能力で処理しようとすることは、高慢であり、複雑な関係や問題を引き起こします。
リーダーはいつでも自分の力量の限界や自分に委ねられている範囲を弁えて、へりくだっている必要があります。

「私たちは、限度を越えて語りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。私たちは、あなたがたのところまでは行かないのに無理に手を伸ばしているのではありません。事実、私たちは、キリストの福音を携えてあなたがたのところにまで行ったのです。私たちは、自分の限度を越えてほかの人の働きを語ることはしません。ただ、あなたがたの信仰が成長し、あなたがたによって、私たちの領域内で私たちの働きが広げられることを望んでいます。それは、私たちがあなたがたの向こうの地域にまで福音を宣べ伝えるためであって、決して他の人の領域でなされた働きを誇るためではないのです。誇る者は、主にあって誇りなさい。」(コリント第二10:13~17)

第五の命令は、「さばきは神のものである。」(17節)

さばきつかさは、自分が神の権威を帯びた働きにたずさわっていることを十分に自覚して、自分の知恵や考えによって判断せず、神を畏れて責任を果たさなければなりません。すべての主の働き人は、自分が神のお仕事に任じられ、たずさわっているのだという厳粛な敬虔な自覚を持たなければなりません。この自覚を失う時、高慢になり、世俗的になり、自分の知恵と力に頼るようになり、滅びる者となります。サウル王、ソロモン王、ウジヤ王などの実例を思い起こして、慎み深くあってほしい。いかなる小さい働きでも、神の働きにたずさわっているという自覚を忘れたら、神の人としてとどまることはできません。
「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」(マタイ25:40)

18~25節は、実行すべき命令です。
19節、シナイ半島はしはしばイスラエルとアラブの戦争の場となってきました。

申 1:18 私はまた、そのとき、あなたがたのなすべきすべてのことを命じた。
1:19 私たちの神、【主】が、私たちに命じられたとおりに、私たちはホレブを旅立ち、あなたがたが見た、あの大きな恐ろしい荒野を、エモリ人の山地への道をとって進み、カデシュ・バルネアまで来た。

この恐るべき荒野、それは神の恵みがなければ死を意味する地です。イスラエルはこの地を争いと死の墓場としたこともありましたが、モーセの時代には、乳と蜜の流れる神の約束の地を目指している旅路でした。恐ろしい荒野も、はっきり神の国と神の義を目指していれば、そこは恵みの地と変わるのです。

「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心の中にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。初めの雨もまたそこを祝福でおおいます。彼らは力からカヘと進み、シオンにおいて、神の御前に現われます。」(詩篇84:5~7)

イスラエル人はカデシュ・バルネアまで、すなわち、神の目的地を目の前にする境界線にまで来ていたのです。99%信仰を果たしていました。あと1%の不信仰のために、神の目的地に到達することができなかったのです。私たちが主を愛することは99%では十分でないのです。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」(ルカ101:27)でなけれはなりません。

「あなたがたは、私たちの神、主が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。見よ。あなたの神、主は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、主があなたに告げられたとおりに。」(20,21節)

申 1:20 そのとき、私はあなたがたに言った。「あなたがたは、私たちの神、【主】が私たちに与えようとされるエモリ人の山地に来た。
1:21 見よ。あなたの神、【主】は、この地をあなたの手に渡されている。上れ。占領せよ。あなたの父祖の神、【主】があなたに告げられたとおりに。恐れてはならない。おののいてはならない。」

約束の地は目の前にあった。あとはイスラエルが信仰の手をもって、それを受け取るだけでした。この「占領せよ」(ヤラーシュ)は、征服であっても、相続であっても、また前の所有者を追い出したり、とって代わるなりして、その土地や財産を所有することを意味しています。これが信仰の行為です、この「ヤラーシュ」は申命記中、五十二回以上出てきます。これは信仰による前進と占領が必要であることを示しています。これを妨げるものは、不信仰になって敵を恐れ戦(おのの)くことだけです。私たちは「その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、内なる人を強くして」(エペソ3:16)いただいている必要があります。
「その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)

22節は、私たちに新しい示唆を与えてくれます。

申 1:22 すると、あなたがた全部が、私に近寄って来て、「私たちより先に人を遣わし、私たちのために、その地を探らせよう。私たちの上って行く道や、入って行く町々について、報告を持ち帰らせよう」と言った。

民数記13章1,2節では、神がモーセにその地を探るために人々を派遣することを命じておられるように記しています。

民 13:1 【主】はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

しかしここでは、民のほうがモーセに偵察隊を送るように要求したことが記されています。
それ故、神はセカンド・ベストとして「民がそうしたいなら、そうさせなさい。」という意味で許可を与えたものと思われます。しかしセカンド・ベストはベストではありません。神が与えると約束されたものを、あえて偵察して調べる必要はない。調べることは悪いことではない。しかしそこに人間の知恵が入ってきたり、この世的判断や恐れが侵入してきて、不信仰、不服従になる危険があります。

主は疑い深いトマスに、「見ずに信じる者は幸いです。」(ヨハネ20:29)と言われました。

ヨハ 20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

これは向こう見ずになれ、ということではありません。慎重に調査研究することは大事なことです。しかしそれはそれとして、神の約束とご命令があるなら、どんな状況であっても、信じて従うことだけが求められているのです。しかしここでは、不安に思っている者がいて、偵察を求めたので、主は、「それもよかろう。」と言われたのであって、主こ自身のほうから積極的に喜んで、偵察を命じられたのではありません。

23節には、モーセ自身の判断が記されています。

申 1:23 私にとってこのことは良いと思われたので、私は各部族からひとりずつ、十二人をあなたがたの中から取った。

これはモーセ個人の人間的判断であって、神から与えられたものではありません。

こうして各部族から十二人のリーダーが選ばれて、彼らはリーダーとしての最初のテストを受けることになりました。

25節、彼らは主が与えようとしておられる地が良い地であると報告し、神の約束に間違いのないことを確信しました。

申 1:24 彼らは山地に向かって登って行き、エシュコルの谷まで行き、そこを探り、
1:25 また、その地のくだものを手に入れ、私たちのもとに持って下って来た。そして報告をもたらし、「私たちの神、【主】が、私たちに与えようとしておられる地は良い地です」と言った。

しかし、その後、彼らはその地の人々にならって不信仰になって、最初のテストから不合格になってしまいました。

申 1:26 しかし、あなたがたは登って行こうとせず、あなたがたの神、【主】の命令に逆らった。

約束の地は良い地でした。それは間違いのない事実でしたが、乗り越えるべき課題に心が奪われて、不信仰になり、つまずいてしまいました。堅固な信仰、不動の信仰がいかに必要であるかを、思い知らされます。

「志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。」(イザヤ26:3)

「バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。」(マタイ11:12)

これらのみことばは、ただ教えられ、励まされているだけでなく、あなた自身がしっかりと実行すべきみことばなのです。忍耐によって患難を乗り越え、ついに天の勝利を獲得できるのです。日頃、信仰、信仰と言っている人が意外と患難、試練に弱く、信仰がくずれ去って、この世の人に助けを求めている人が多いのです。患難や試練によって訓練されない信仰はないのです。「最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ24:13)

あ と が き

今年にはいって、はや二週間が過ぎてしまいました。今年も時をむだにせず、みことばに取り組んでおります。みことばは主の約束です。約束が成立していない、約束を握っていない祈りに、主はお応えになる必要も責任もないのです。みことばをしっかり握っていない祈りをいかに多く聞くことでしょうか。これらの祈りは神との契約の根拠のない祈りです。契約をつかんでいない人の祈りに主はお応えになる必要はないのです。契約を結んでいてそれにお応えにならないと、契約違反になり、不真実ということになってしまいます。主は真実なお方ですから、必ずみことばの約束を守って下さいます。救いの恵みでも、聖潔の恵みでも、約束のみことばをはっきり握っていない人を多くみかけます。これでは救いや聖潔の経験が明確になるはずがありません。はっきりした契約の根拠を持たないからです。主のみことばの約束は天地が過ぎ去っても過ぎ去らない、私たちにとって唯一の重要な根拠なのです。

(まなべあきら 1995.1.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


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