聖書の探求(146) 申命記11章1~15節 すべての命令を守りなさい(祝福の条件)

この章は、主の戒めを守る者への祝福が記されており、主の祝福は主のご命令を守るという条件付きで与えられることが繰り返されています。これは、主のご命令に不忠実でありつつ、いくら祝福を祈り求めても、また宗教的儀式や働きをしても、主のさばきを受けるだけであることを強調しています(マタイ7:21~27)。

マタ 7:21 わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。
7:22 その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』
7:23 しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」

これはまた、申命記中に繰り返されている中心メッセージでもあります。それ故、この章には、命令形がしばしば使われており、また「もし」という条件を表わす言葉もよく用いられています。

11章の分解

1~7節、主の命令を守るべき者
8~15節、すべての命令を守りなさい(祝福の条件)
16~25節、みことばに従う生活
26~32節、祝福か、のろいの選択

1~7節、主の命令を守るべき者

1節でモーセは、基調となる二つのメッセージを語っています。

申 11:1 あなたはあなたの神、【主】を愛し、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令とを守りなさい。

第一は、あなたの神、主を愛すること、
第二は、いつも、主の戒めと、おきてと、定めと、命令を守ることです。

主を愛することと、主のご命令を守ることとは、結び合わされているものです。主を愛しつつ、主のご命令に逆らうということはあり得ないし、また主を愛することなしに、主のご命令に心から喜んで従うこともできません。この二つのことは、同じ真理の二面性を示しています。

「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:10)

「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」(ヨハネ第一5:3)

しかもここでは、主のみことばを、戒め、おきて、定め、命令と、信仰生活のあらゆる分野に及ぶように配慮して教えられています。私たちには、主を愛しなくてもできる生活の分野、主に従わなくてもよい生活の分野は存在しないのです。

さらに、「いつも‥‥‥守りなさい。」と、その継続的実行を命じられています。今日、私たちがこのことを守りさえするなら、主の祝福は途絶えることがありません。信仰は現在形で更新されて、継続的に行なわれてこそ、実を結ぶことができるのです。

 2節、この命令が与えられた対象者は、これから成長してきたり、生まれたりするイスラエルの子孫にではありません。

申 11:2 きょう、知りなさい。私が語るのは、あなたがたの子どもたちにではない。彼らはあなたがたの神、【主】の訓練、主の偉大さ、その力強い御手、伸べられた腕、そのしるしとみわざを経験も、目撃もしなかった。

勿論、彼らも含まれていますが、その前に、現在、成人している「あなたがた」親たちに命じられています(7,8節)。

申 11:7 これら【主】がなされた偉大なみわざのすべてをその目で見たのは、あなたがたである。
11:8 あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、

それは親たちが、子孫に信仰のよき模範を示す責任があるからです。よき模範以上に効果のある教育と訓練はありません。よき模範のない指導、悪い模範のある指導ほど、意味のないものはありません。

特に、クリスチャンの大人は、教会の中でも、家庭でも、職場でも、よき模範を示して、主をあかししたいものです。

「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(ヨハネ13:15)

「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」(コリント第一11:1)

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。」(ペテロ第一2:21)

「むしろ群れの模範となりなさい。」(ペテロ第一5:3)

また、イスラエルの二世たちは、出エジプトの出来事以来のことを目撃して、育ってきた者たちであり、それを教訓として信仰生活を正していくことができる者たちであるからです。クリスチャンはいつまでも幼稚な状態にとどまっておらず、積極的に信仰の教訓や訓練を生かして大人のクリスチャンとして、よき模範を示す者とならなければなりません。みことばの中に、信仰生活の中に、あらゆる出来事の中に、主の訓練、主の偉大さ、主の力強い御手、主の伸べられた腕、そのしるしとみわざの経験を悟る者とならなければなりません。みことばの中に主の御声を聞かず、生活の中に主の御手を見ることができなければ、その人は幼子であって、主の訓練に耐えることができません。

「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じていません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル5:12~6:1)

3~6節でモーセは、主が懲罰として行なわれたみわざを、三つに分けて語っていますが、

二番目のものは、「荒野であなたがたのためになさったこと」(5節)とだけ言って、具体的なことは示していません。それは沢山あったからだと思われます。しかし他の二つには、具体的な出来事が記されています。

申 11:3 これらはエジプトで、エジプトの王パロとその全土に対してなさったこと、
11:4 また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。──彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、【主】はこれを滅ぼして、今日に至っている──
11:5 また、あなたがたがこの所に来るまで、荒野であなたがたのためになさったこと、
11:6 また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。

一つは、エジプトの王パロと、その全土、そしてその軍勢に対してなされたみわざです。これは外敵の攻撃に対する主のみわざです。
もう一つは、ルベンの子、エリアブの子、ダタンとアビラムの反逆が取り上げられています。こちらはイスラエル内部の反逆です。

この外部の敵に対する戦いと、内部の敵に対する戦いは、クリスチャンの信仰の戦いをよく表わしています。外部の敵は、サタンやこの世の攻撃や困難であり、内部の敵は自己中心の性質です。

「悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの挌闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(エペソ6:11,12)

「私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。」(ローマ7:23)

私たちは霊魂が潔められない状態でいると、外部の敵と内部の敵の両方から同時に攻撃を受けて、たいていのクリスチャンが信仰から脱落していくのです。潔められることは成熟した大人のクリスチャンになって成長していくために不可欠な条件であり、その出発点になるのです。イスラエルの例を見ても、イスラエルが外部の攻撃に対して敗北したのは、彼ら自身が不信仰、不服従になり、偶像礼拝をした時以外には、一度もありません。人が滅んでいくのは、いつでも内部の罪によるのです。多くのクリスチャンが、実質上、イエス・キリストから離れているのは、内部の自己中心による不信仰によるのです。エジプト脱出の大勝利を経験したイスラエルも、内部の偶像礼拝によって、アッシリヤとバビロンに捕囚にされてしまったのです。

主のさばきは決定的で、完全です。
エジプトに対しては(4節後半)、エジプトの軍隊は、葦の海の中に滅ぼされました。

申 11:4 また、エジプトの軍勢とその馬と戦車とに対してなさったことである。──彼らがあなたがたのあとを追って来たとき、葦の海の水を彼らの上にあふれさせ、【主】はこれを滅ぼして、今日に至っている──

ダタンとアビラムは(6節)、その家族も天幕も、すべてが地の中に呑み込まれてしま
いました。

申 11:6 また、ルベンの子エリアブの子であるダタンとアビラムに対してなさったことである。イスラエルのすべての人々のただ中で、地はその口をあけ、彼らとその家族、その天幕、また彼らにつくすべての生き物をのみこんだ。

これらの大きなさばきは、信仰生活において大切な教訓となるはずです。高慢、不信仰、自己中心は、いつでも主のさばきの対象であり、これらの主に逆らう性質が、人の心の中にある間は、主を全く愛することも、主に全く信頼することも、いつも主のご命令に従順に従うこともできません。それは動機の上で主に逆らっているので、不可能なのです。

8~15節、すべての命令を守りなさい。

(祝福の条件)

8~32節は、主の民が祝福を選ぶか、のろいを選ぶか、その条件を明確に示しています。これは単なる教えではなく、私たちにとっても、現実にその道に進むことになる、重要な警告です。神を観念論的に信じようとする人は、これらを単なる思想的教えとしてしまって、自分の実際の生き方の上で実行しようとしないのです。そのような人もみな、のろいを受けることになります。主を現実のお方として信じる者だけが、自らの生き方を実際に主のご命令に従わせるのです。これは申命記の中心テーマです。

その中でも、8~15節は、祝福の部分が記されています。

祝福を受けるための命令は、はっきりしています。

8節、「あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、」

主のご命令を聞き、知り、記憶していることは、信仰の始まりであり、大切なことですが、それだけでは十分ではありません。それを守り行なうことによって祝福は与えられるのです。しかもそれは、中途半端に、部分的に守るのではなく、「すべての命令」と言われています。すなわち、全く主に信頼し、全く主に明け渡して、みこころにかなった生活を続けることです。

主は、「死にまで従い、実に十字架の死にまでも従」ってくださいました。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」(ピリピ2:8,9)

全き愛による服従は、祝福をもたらします。しかし不服従、不従順がのろいをもたらすことも事実です(28節)。

申 11:28 もし、あなたがたの神、【主】の命令に聞き従わず、私が、きょう、あなたがたに命じる道から離れ、あなたがたの知らなかったほかの神々に従って行くなら、のろいを与える。

この条件を果たした時の祝福は、どんなものでしょうか。

申 11:8 あなたがたは、私が、きょう、あなたに命じるすべての命令を守りなさい。そうすれば、あなたがたは、強くなり、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地を所有することができ、

(1)、8節、「強くなり」

これは、イスラエルがカナンを占領した出来事を見れば、分かります。また、主に従順であった時のイスラエルの繁栄ぶりは目を見張らせるものがあります。また、教会時代においても、クリスチャンと教会が主に忠実であった時代はいつでも輝しい、栄光に満ちた時代でした。人々の心は恵みに満たされ、いかなる代価を払っても、主の福音がドンドン進んでいった時代でした。強くなりたいなら、力を求めて祈るだけでは駄目です。先ず、主のご命令を守ることから始めなければなりません。クリスチャンが力を得て、この世に対して力強いあかしをして福音宣教の勝利を得たいなら、まず自ら、みことばを活用し、みことばに忠実な生活をすることから始めなければなりません。

(2)、8節、「渡って行って」

春の雪解けの水がいっぱい流れているヨルダン川を渡って行くことができるのです。これは奴隷だったエジプト時代の生活を出発して、その後の四十年間の放浪の旅路に終止符をうって乳と蜜の流れる恵みに満ちた、主の約束の地力ナンでの生活が始まることが意味されています。
これは私たちの霊的な経験で言うなら、全き愛、全き平安を持った潔めの生涯に入っていくことです。これには全き献身による心の明け渡しと、全き信仰による服従が必要です。

(3)、8節、「所有しようとしている地を所有することができる。」

主が約束してくださっていても、私たちが信仰をもって従うまでは、その約束は私のものとはなりません。主の約束は信仰の服従によって、自分のものとすることができるのです。

「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカ24:49)

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。」(使徒1:4)

(4)、9節、「乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。」

申 11:9 また、【主】があなたがたの先祖たちに誓って、彼らとその子孫に与えると言われた地、乳と蜜の流れる国で、長生きすることができる。

主に心から喜んで従っている人は、患難の時にも、病いの中でも、豊かな恵みに満ちた信仰生活を送ることができます。今日の人々は、豊かな物に囲まれていながら、むなしさや乏しさを経験しており、飽き足らない心の状態の中にいます。本当の豊かさを経験していないのです。

愛と信頼を失い、不安、争い、ねたみ、憎しみ、孤独、殺し合いなど、心は荒れすさんだ生活をしているのが現実です。主が、「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)と言われたことは、本当です。自分の欲に従って生きると、必ず主の道からはずれ、祝福を失い、のろいを受けることになるのです。

「私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」(エペソ2:3)

10~21節は、なぜ、このことが起きるのか、その理由を記しています。
10節、第一に、主の約束の地は、エジプトの地のようではありません。

申 11:10 なぜなら、あなたが、入って行って、所有しようとしている地は、あなたがたが出て来たエジプトの地のようではないからである。あそこでは、野菜畑のように、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければならなかった。

エジプトの地は奴隷の地であり、自分で種を蒔き、自分の力で水をやらなければ収穫が得られません。エジプトは乾燥した地で、自分の足で用水路を作らなければなりません。おそらく、水車のようなものを足で踏んだものであろうと思われます。エジプトの地の生活は、主の恵みのない、のろわれた生活、己れの力だけに頼った生活でした。それは実に真面目で、一所懸命な働きを伴ったものでしたが、その生活には、のろいと苦しみとがあるだけで、わずかの収穫を得るために、多くの苦しみを経験しなければならなかったのです。

「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地はあなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」(創世記3:17~19)

11節、第二に、主の民が所有する地は、山あり、谷ありの地で、天の雨で潤っている地です。

申 11:11 しかし、あなたがたが、渡って行って、所有しようとしている地は、山と谷の地であり、天の雨で潤っている。

カナンの地では、種蒔きのあと、すぐに10~11月に先の雨が降り、収穫前の3~4月に後の雨が降って穀物を太らせます。
これは自分の力で水をやらなければならないエジプトの地とは全く異なります。主の恵みがあふれている地です。すべての産物は主の恵みによって与えられるのです。

私たちが本当に神の国と神の義とを第一に求めるなら、すべての必要は、主の恵みによって与えられることは、現実の事実です。主はこのことを実際の生活において、経験させたいのです。

12節、第三に、そこは、「主が求められる地」、聖別された地です。

申 11:12 そこはあなたの神、【主】が求められる地で、年の初めから年の終わりまで、あなたの神、【主】が、絶えずその上に目を留めておられる地である。

その地は一年中、いつも主が目を留めておられる地、主の保護と祝福が注がれ続けている地です。毎日、主の臨在を覚える生活ができることは、なんと幸いなことでしょうか。いつも主のまなざしの中で生活できることは、なんと幸いなことでしょう。

13~15節は、これらの原則に基づいて、再び、約束が繰り返されています。
13節、これまで何度も繰り返されてきた祝福のための条件です。

申 11:13 もし、私が、きょう、あなたがたに命じる命令に、あなたがたがよく聞き従って、あなたがたの神、【主】を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えるなら、

それは、主のご命令によく聞き従い、主を愛し、心を尽くし、精神を尽くして仕えることです。旧約聖書だからと言って、信仰のレベルが低いわけではありません。旧約聖書は、儀式的律法や定めを取り扱っていながら、一方では新約聖書にそのまま引用されている多くの霊的に重要な真理を教えています。旧約に欠けているのは、主イエスの十字架の恵みと、聖霊の内住だけです。すなわち、旧約では、主のみことばを守るための恵みと動力が欠けていただけで、教えの水準は新約と変わらないものが沢山あります。今や、私たちは主の恵みと聖霊の動力をいただいているのですから、ますます、主の栄光を現わす道を歩みたいものです。

14,15節は祝福の約束です。

申 11:14 「わたしは季節にしたがって、あなたがたの地に雨、先の雨と後の雨を与えよう。あなたは、あなたの穀物と新しいぶどう酒と油を集めよう。
11:15 また、わたしは、あなたの家畜のため野に草を与えよう。あなたは食べて満ち足りよう。」

収穫のための雨が与えられ、多くの収穫を得ることができます。家畜も草を得て、多くなり、民は満ち足りて繁栄します。真実にみことばに従う生活をしているなら、必ず祝福を受けます。ただ、一所懸命で、熱心であればいいというものではありません。主のご命令に忠実であることが不可欠なのです。熱心であっても、その動機が自己中心なら、のろわれたものになります。自分の内も外も、全生涯において、主に忠実であることこそ、主が求めておられることであり、祝福はその結果なのです。

(まなべあきら 1996.5.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上の写真は、ヨルダンのネボ山から西方のイスラエル方面を望む風景、ヨルダン川の向こう側が約束の地カナンである。(2016年の訪問時に撮影)


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