聖書の探求(166) 申命記28章 ゲリジム山での祝福とエバル山でののろいの条件と内容

28章は、27章のゲリジム山での祝福とエバル山でののろいの誓約の条件とその内容を記しています。

上の写真は、現在のナブルス(昔のシェケム)をはさんで立つゲリジム山(左)とエバル山(右)(Wikimedia Commonsよりהר עיבל והר גריזים .jpg)

この章は、「祝福」という言葉と、「のろわれる」という言葉をマークし、その各々の条件にしるしをつけてみると、明暗がはっきりしてきます。

この記事は、被造物である人間の意志に対する、神の挑戦であると言えるでしょう。

モーセは、主の御声に従順な者には祝福を、不従順な者にはのろいを宣言しています(ルカ6:20~26、同11:42~52)。

ルカ 6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。
6:22 人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
6:24 しかし、あなたがた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは哀れです。やがて飢えるようになるから。いま笑うあなたがたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
6:26 みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。

ルカ 11:42 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。
11:43 わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは会堂の上席や、市場であいさつされることが好きです。
11:44 わざわいだ。おまえたちは人目につかぬ墓のようで、その上を歩く人々も気がつかない。」
11:45 すると、ある律法の専門家が、答えて言った。「先生。そのようなことを言われることは、私たちをも侮辱することです。」
11:46 しかし、イエスは言われた。「おまえたちもわざわいだ。律法の専門家たち。人々には負いきれない荷物を負わせるが、自分は、その荷物に指一本さわろうとはしない。
11:47 わざわいだ。おまえたちは預言者たちの墓を建てている。しかし、おまえたちの父祖たちが彼らを殺しました。
11:48 したがって、おまえたちは父祖たちがしたことの証人となり、同意しているのです。彼らが預言者たちを殺し、おまえたちが墓を建てているのだから。
11:49 だから、神の知恵もこう言いました。『わたしは預言者たちや使徒たちを彼らに遣わすが、彼らは、そのうちのある者を殺し、ある者を迫害する。
11:50 51 それは、アベルの血から、祭壇と神の家との間で殺されたザカリヤの血に至るまでの、世の初めから流されたすべての預言者の血の責任を、この時代が問われるためである。そうだ。わたしは言う。この時代はその責任を問われる。』
11:52 わざわいだ。律法の専門家たち。おまえたちは知識のかぎを持ち去り、自分も入らず、入ろうとする人々をも妨げたのです。」

レビ記26章にも、祝福と刑罰の警告が記されていますが、そこでは、イスラエルが将来、堕落するであろうことを予見しています。彼らが、神の道からはずれる度に、新しい刑罰が追加され、最後に回復の約束の言葉で結んでいるのです。

「それにもかかわらず、彼らがその敵の国にいるときに、わたしは彼らを退けず、忌みきらって彼らを立ち滅ぼさず、彼らとのわたしの契約を破ることはない。わたしは彼らの神、主である。わたしは彼らのために、彼らの先祖たちとの契約を思い起こそう。わたしは彼らと、異邦の民の目の前で、彼らの神となるために、エジプトの地から連れ出した。わたしは主である。」(レビ記26:44,45)

モーセの口を通して語られた、神のこれらの言葉は、恵みの故の警告でした。再び、罪に陥っても、真実に神に立ち帰るなら、主の回復の約束は変わっていません。しかし信仰によって神の知恵を受けた者は、そう何度も罪をもてあそぶことはしないものです。恵みの警告を心でしっかりと受け止めて、光の道を歩むはずです。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。・・・わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなくいのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:11,12)

「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)

もし、これらの警告をイスラエル人が従順に受け入れて、従っていたなら、イスラエルの歴史の中で押し寄せてきた、多くの悲惨な破滅から救われていたでしょうに。ですから私たちは、神のみことばが厳し過ぎると言わないで、主を愛して、信頼して従って行きたいものです。現代までのイスラエルの歴史を見れば、神の警告の意味を深く悟ることができるでしょう。主はあなたをこのような破滅から救い出すために、はっきりとした警告を与えておられるのです。

この警告は、その内容からして、26章の終わりと、27章9,10節に続くものと思われます。

この警告の特色は、契約の条項に服従するか、しないかによって、祝福か、のろいかどちらかを受けなければならないことを、再び民の心の中に打ち込むことにありました。これらの祝福とのろいは、契約の持つ唯一の賞罰であるとともに、これは、民が祝福を受けるか、のろいを受けるかは、民が神に直接答える態度によって決めることができるものだということを、今日の私たちにも、はっきりと示しています。

さらに、古代の他の契約では、のろいが先に記されていて、祝福が後に記されているものが多いのに、この28章では祝福が先になっています。これは旧約聖書の特色です。すなわち、神はまず、祝福のために来られるということを示しています。主イエスの初臨は私たちを救うために来られました。それ故、多くの苦しみを耐え忍んで受けてくださり、私たちの罪の身代わりとなって、十字架の死までも成し遂げて下さったのです。しかし再臨においては、そうではありません。さばきのために来られるのです。不法な者とそれに従う不従順な者たちを滅ぼすために来られるのです。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そしてすべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。
・・こうして、この人たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです。」(マタイ25:31~33、46)

「その時になると、不法の人が現われますが、主は御□の息をもって彼を殺し、来臨の輝きをもって滅ぼしてしまわれます。不法の人の到来は、サタンの働きによるのであってあらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行なわれます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。」(テサロニケ第二 2:8~10)

もう一つの特色は、前の特色と反対ですが、その警告の重さが、祝福(1~14節)よりも、のろい(15~68節)のほうに置かれているということです。これはイスラエルが神の道からはずれやすく、堕落する傾向性が強かったことで説明がつけられるでしょう。

このイスラエルが神に反逆する性質は、出エジプト後のシナイの荒野の旅路で、すでにしばしば現われていたことなのです。

1~14節、条件付きの祝福

(条件)主の御声によく聞き従うこと
.   主のすべての命令を守り行なうこと

(祝福)

①地のすべての国々の上に高く上げられる

②次のすべての祝福が臨む
-a.町にても、野にても祝福
-b.生まれる者、地の産物、家畜の祝福
-C.かども、こね鉢も祝福
-d.入るときにも、出て行くときにも祝福

③敵に対する勝利

④穀物倉、手のわざ、与えられる地での祝福

⑤神の聖なる民としてくださること

⑥地上のすべての国々の民が、主の名をつけている民をおそれるようになる。

⑦生まれる者、家畜の産むもの、地の産物を豊かに恵んでくださる

⑧恵みの倉である天を開き、すべての手のわざを祝福される。

⑨多くの国々に貸す。借りることはない。

⑬かしらとならせ、尾とはならせない。上におらせ、下へは下されない。

15~68節、条件付きののろい

. 15~19節、祝福の裏返しののろい

. 20~24節、疫病と荒廃による滅亡

. 25~35節、敵による敗北

. 36~46節、他国に捕囚となる

. 47~57節、敵の攻撃による滅亡

. 58~68節、わざわいと、疫病とエジプ卜に捕囚

1~14節、条件付きの祝福

条件と祝福については、前に記したとおりです。

申 28:1 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、【主】は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。
28:2 あなたがあなたの神、【主】の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。
28:3 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。
28:4 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。

5節の 「かごとこね鉢」。

申 28:5 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。

「かご」は、貯えるための器であり、「こね鉢」は、こねるための桶で、穀物の生産物を食べることができるように、調理するために使われました。すなわち、貯えることにおいても、食生活においても祝福され、繁栄することが約束されています。

6節の「はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。」とは、毎日の仕事が始めから終わりまで祝福されることです。

申 28:6 あなたは、入るときも祝福され、出て行くときにも祝福される。

「主は、あなたを行くにも帰るにも、今よりとこしえまでも守られる。」(詩篇121:8)

7節、もし、神の民が主に服従するなら、敵対者たちが一丸となって激しく、力をもって立ち向かって攻撃してきても、ちりぢりに敗北させられます。

申 28:7 【主】は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。

8節の「穀物倉」の祝福は、物質的繁栄であり、「手のわざ」とは、人間の働きのことです。

申 28:8 【主】は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。

「その人は、何をしても栄える」(詩篇1:3)

「私たちの神、主のご慈愛が私たちの上にありますように。そして、私たちの手のわざを確かなものにしてください。どうか、私たちの手のわざを確かなものにして下さい。」(詩篇90:17)

「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」(コリント第一 15:58)

9節、主は、主の命令を守り、主の道を歩んでいる者を、「ご自身の聖なる民として立ててくださる。」と言われています。

申 28:9 あなたが、あなたの神、【主】の命令を守り、主の道を歩むなら、【主】はあなたに誓われたとおり、あなたを、ご自身の聖なる民として立ててくださる。

この「立てて」という言葉は、イエス様がヤイロの娘を立たせた時に使われたのと同じ言葉(クミ、cumi)(マルコ5:41)です。これは新しく、永続性のあるものを設けることを意味しています。

10節の「あなたに主の名がつけられているのを見て」は、主の所有となり、主の民となり、主の保護のもとにあることを意味しています。

申 28:10 地上のすべての国々の民は、あなたに【主】の名がつけられているのを見て、あなたを恐れよう。

「主の名は堅固なやぐら、正しい者はその中に走って行って安全である。」(箴言18:10)

主の名は聖所に置かれ(12:5)、民は主の名によって誓い(6:13)、預言した(18:15)。

申12:5 ただあなたがたの神、【主】がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

申 6:13 あなたの神、【主】を恐れなければならない。主に仕えなければならない。御名によって誓わなければならない。

申 18:15 あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。

11,12節は、物質的繁栄の約束です。

申 28:11 【主】が、あなたに与えるとあなたの先祖たちに誓われたその地で、【主】は、あなたの身から生まれる者や家畜の産むものや地の産物を、豊かに恵んでくださる。
28:12 【主】は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。

12節の「主の恵みの倉」は「時にかなった雨」と同じです。

13節は、主の祝福によって、主の民は力を増し、その影響力が期待されています。

申 28:13 私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、【主】の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、【主】はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。

そして、全体を通して、すべての祝福が主に従順に従うことにかかっていることを強調しています。

「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(サムエル第一 15:22)

15~68節、条件付きののろい

①15~19節、祝福の裏返しののろい

服従は祝福をもたらすが、不服従は、すべてののろいをもたらします。

申 28:15 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。
28:16 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。
28:17 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。
28:18 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。
28:19 あなたは、入るときものろわれ、出て行くときにものろわれる。

この部分は、先に約束されている祝福と全く反対であるために、より鮮明に表現されています。15節は1節と対応し、16~19節は少し異なるところがあっても、3~6節に対応しています

②20~24節、疫病と荒廃による滅亡

ここでは、肉体的、物質的な領域におけるのろいを記しています。

申 28:20 【主】は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行ったからである。
28:21 【主】は、疫病をあなたの身にまといつかせ、ついには、あなたが、入って行って、所有しようとしている地から、あなたを絶滅される。

人は疫病によって苦しみ、自然は災害と日照りによって、ともに根絶やしにされてしまいます。

22節の「立ち枯れ」は、砂漠から吹きつけてくる灼熱の東風によって、草木が枯れてしまうことを言っています。

申 28:22 【主】は、肺病と熱病と高熱病と悪性熱病と、水枯れと、立ち枯れと、黒穂病とで、あなたを打たれる。これらのものは、あなたが滅びうせるまで、あなたを追いかける。

23節の「頭の上の天は青銅となり」は、雨がとどめられてしまうことを言っています。天は雲一つなく、青銅のように照り輝くことを言っているのです。

申 28:23 またあなたの頭の上の天は青銅となり、あなたの下の地は鉄となる。

「地は鉄となる」は、水気を失った地は乾き切って、固くなることです。
降ってくるものと言えば、砂漠から持ってくるホコリぐらいのものです。

申 28:24 【主】は、あなたの地の雨をほこりとされる。それで砂ほこりが天から降って来て、ついにはあなたは根絶やしにされる。

③25~35節、敵による敗北

25~26節は、軍事的荒廃です。25節は7節の反対です。

申 28:25 【主】は、あなたを敵の前で敗走させる。あなたは一つの道から攻撃するが、その前から七つの道に逃げ去ろう。あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる。

「あなたのことは、地上のすべての王国のおののきとなる」は、「それなのに、わたしの民はわたしを忘れ、むなしいものに香をたく。それらは、彼らをその道、いにしえの道でつまずかせ、小道に、まだ築かれていない道に行かせ、彼らの国を恐怖とし、永久にあざけりとする。そこを通り過ぎる者はみな色を失い、頭を振る。東風のように、わたしは彼らを敵の前で散らす。彼らの災難の日に、わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。」(エレミヤ書18:15~17)と同じ思想です。

戦いにおける敗北は、国民的崩壊につながるものです。

26節、最大の屈辱は、人は鳥や獣の被造物を治めるために造られたのに(創世記1:26)、かえって彼らのえじきになってしまうことです。

申 28:26 あなたの死体は、空のすべての鳥と、地の獣とのえじきとなり、これをおどかして追い払う者もいない。

こうなると、もうこれらの鳥や獣を追い払う者もいなくなってしまいます。

27~35節はおもに人へののろいが記されています。この部分ののろいは、病気、狂気、苦悩、挫折であり、これらの四つののろいによって、神は民を拒否されるのです。

27節、のろいは、人に肉体的影響を与えます。

申 28:27 【主】は、エジプトの腫物と、はれものと、湿疹と、かいせんとをもって、あなたを打ち、あなたはいやされることができない。

28節、のろいはまた、人に精神的打撃を与え、悲惨な狂気(混乱)を生じさせます。

申 28:28 【主】はあなたを打って気を狂わせ、盲目にし、気を錯乱させる。

バビロンの王ネブカデネザルはこのことを経験しました(ダニエル書4:28~37)。

ダニ 4:28 このことがみな、ネブカデネザル王の身に起こった。
4:29 十二か月の後、彼がバビロンの王の宮殿の屋上を歩いていたとき、
4:30 王はこう言っていた。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」
4:31 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。「ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。
4:32 あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」
4:33 このことばは、ただちにネブカデネザルの上に成就した。彼は人間の中から追い出され、牛のように草を食べ、そのからだは天の露にぬれて、ついに、彼の髪の毛は鷲の羽のようになり、爪は鳥の爪のようになった。
4:34 その期間が終わったとき、私、ネブカデネザルは目を上げて天を見た。すると私に理性が戻って来た。それで、私はいと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえた。その主権は永遠の主権。その国は代々限りなく続く。
4:35 地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか」と言う者もいない。
4:36 私が理性を取り戻したとき、私の王国の光栄のために、私の威光も輝きも私に戻って来た。私の顧問も貴人たちも私を迎えたので、私は王位を確立し、以前にもまして大いなる者となった。
4:37 今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる。

29節後半、「いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。」

申 28:29 あなたは、盲人が暗やみで手さぐりするように、真昼に手さぐりするようになる。あなたは自分のやることで繁栄することがなく、いつまでも、しいたげられ、略奪されるだけである。あなたを救う者はいない。

異邦人の侵略者は神の審判の執行者とされています。戦いはいつまでも続き、生活は混乱し、挫折が容赦なくやってきます。しかしだれも救う者はいないのです。人間の社会全体がいつも混乱状態になり、平和と幸福を求めても、挫折感だけが、容赦なく襲ってくるようになるのです。

申 28:30 あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。
28:31 あなたの牛が目の前でほふられても、あなたはそれを食べることができない。あなたのろばが目の前から略奪されても、それはあなたに返されない。あなたの羊が敵の手に渡されても、あなたを救う者はいない。
28:32 あなたの息子と娘があなたの見ているうちに他国の人に渡され、あなたの目は絶えず彼らを慕って衰えるが、あなたはどうすることもできない。

結婚も、家を建てることも、農作物の収穫も、家畜も、すべての財産が、略奪者たちの半丁に渡されてしまい、息子や娘たちは親が無気力状態で見ている前で、奴隷に売り飛ばされていくのです。

33~35節は、同じ内容のことが逆の順序で繰り返されています。

申 28:33 地の産物およびあなたの勤労の実はみな、あなたの知らない民が食べるであろう。あなたはいつまでも、しいたげられ、踏みにじられるだけである。
28:34 あなたは、目に見ることで気を狂わされる。
28:35 【主】は、あなたのひざとももとを悪性の不治の腫物で打たれる。足の裏から頭の頂まで。

36~46節、他国に捕囚となること

申 28:36 【主】は、あなたと、あなたが自分の上に立てた王とを、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった国に行かせよう。あなたは、そこで木や石のほかの神々に仕えよう。
28:37 【主】があなたを追い入れるすべての国々の民の中で、あなたは恐怖となり、物笑いの種となり、なぶりものとなろう。

不服従に対する主ののろいの絶頂は、国民的捕囚と木石の偶像礼拝を始めることによって象徴されています。これは主がご自分の民を拒否されて、神の民であった者を異教の民と同じように扱っておられることによって表わされています。主がご自分の民であった者を嫌悪しておられることを示しているのです。

主が、ご自分の民が、この世の異教の人々と同じような生活をすることをなすがままにしておられることは、一見、人が神を捨てたかのように見えますが、実は、神がご自分の民を拒否しておられることのしるしなのです。神が拒否していなければ、次々と預言者を起こして、警告のメッセージを語らせるのです。

ですから、今日、クリスチャンが心の内に、「クリスチャンと教会が、今の世俗化した状態ではいけないんだ」という、強い警戒感を抱いて、警告を発し続けているなら、神はまだ、ご自分の民を見捨てていないと言えるでしょう。しかしだれも警告を発しなくなり、みんな世俗化された状態を楽しんでいるようになれば、それは異教の捕囚となり、偶像礼拝に渡されてしまって、神に拒否されている証拠です。今の教会の現状はどうでしょうか。

信仰を明確に語ると、厳し過ぎるとか、非難が出てくるような状態で、だれも、神のことばをもって強い警告を発する者がいなくなってしまっています。今やキリスト教は死んだ抜け殻の状態になっているのではありませんか。この世の悩める人々に、いのちと希望を与えるものとなっていますか。クリスチャンはこの世と戦わず、むしろ、この世と歩調を合わせ、この世の友となっているのではありませんか。

「この世と調子を合わせては行けません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2)

「貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。」(ヤコブ4:4)

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5:13)

38~44節は、物質的のろいが記されていますが、その基本的主題は、いなごや、こおろぎの害という形における神の裁きによって、神の民が貧しくなって、衰えていくというものです。

申 28:38 畑に多くの種を持って出ても、あなたは少ししか収穫できない。いなごが食い尽くすからである。
28:39 ぶどう畑を作り、耕しても、あなたはそのぶどう酒を飲むことも、集めることもできない。虫がそれを食べるからである。
28:40 あなたの領土の至る所にオリーブの木があっても、あなたは身に油を塗ることができない。オリーブの実が落ちてしまうからである。

41節は、軍事的敗北によって、息子や娘が捕虜となってしまうことが言われています。

申 28:41 息子や娘が生まれても、あなたのものとはならない。彼らは捕らえられて行くからである。
28:42 こおろぎは、あなたのすべての木と、地の産物とを取り上げてしまう。

このことは、今日、クリスチャン・ホームと言われている家庭の息子や娘が、この世に捕えられ、サタンの捕虜になっているのを見ても分かることです。そして繁栄しているかに見えていた日本の社会も、バブル経済の崩壊後、物質的、経済的にも急速に衰えてきており、霊的にはもっと深刻な状態がずっと長い間、続いているのです。

43~44節は、12~13節と全く反対で、神の民の力は霊的にだけでなく、経済的にも急速に衰えて、ついに、今まで使用人として支配してきた在留異国人から借金しなければならなくなり、彼らが神の民を支配するようになるのです。

申 28:43 あなたのうちの在留異国人は、あなたの上にますます高く上って行き、あなたはますます低く下って行く。
28:44 彼はあなたに貸すが、あなたは彼に貸すことができない。彼はかしらとなり、あなたは尾となる。

このことはすでに起きています。今日、日本の教会は経済的に弱体で初期の頃から今でもなお、外国の宣教団体の援助を受けているものもあります。大きな教会堂を建てていても、銀行から多額の借金をして、その返済に苦しんでいる始末です。

そればかりではなく、日本の教会は自ら、主の働き人を育てようとせず、外国の神学大学を卒業すれば、立派な牧師になれるが如き錯覚に陥っています。これは日本の教会自体にすぐれた霊的指導者を育てる力がないことを認めているのと同じです。これは知識や技術の問題ではなくて、霊的力の問題なのです。日本の教会は、この百年の間、霊的な面においても、経済的な面においても、何ら努力も、準備もしてこなかった。全部、外国に頼り放しだったということになります。今や、日本は経済的にも、政治的にも、アメリカの支配下に完全に入ろうとしています。それは戦後間もなくの状態に帰ることです。しかし教会は、ずっと以前から、霊的にも、知識的にも、経済的にも、アメリカの支配下に居続けているのです。自立できないでいるのです。私はアメリカが悪いと言っているのではありません。自分で霊的にも、知的にも、経済的にも自立しようとしてこなかった日本の教会が、今日の腑甲斐無い姿をさらしているのだと言いたいのです。これらの点を改めて、忍耐強い努力と備えをしていかない限り、どんなにリバイバルを叫んでみても、大型イベントをやってみても、すべてが空振りに終わります。事実、何回、国際大会と銘打ったものをやってみても、何一つ変えることができなかったことで明らかです。主は力のない者が三万二千人集まっても、戦うことができないことを知っておられたのです。それよりも力ある精兵三百人をもって勝利を治められたのです。

今からでも、遅くないと思います。お互いこのことに目覚めましょう。ひとり一人のクリスチャンが力あるキリストの弟子になるのでなければ、キリスト教はこの世に勝てないのです。

45節は、現状の神の民が行き着く所がどこかを明示しています。

申 28:45 これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたを根絶やしにする。あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らないからである。

「これらすべてののろいが、あなたに臨み、あなたを追いかけ、あなたに追いつき、ついには、あなたも根絶やしにする。」
その理由は、「あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、主が命じられた命令とおきてとを守らなかったからである。」

主に対する不信仰、不服従は必ず、主がその人を拒否するという形で現われてきます。その様々な実際的な出来事がここに記されているのです。

47~57節、敵の攻撃による滅亡

申 28:47 あなたがすべてのものに豊かになっても、あなたの神、【主】に、心から喜び楽しんで仕えようとしないので、
28:48 あなたは、飢えて渇き、裸となって、あらゆるものに欠乏して、【主】があなたに差し向ける敵に仕えることになる。主は、あなたの首に鉄のくびきを置き、ついには、あなたを根絶やしにされる。
28:49 【主】は、遠く地の果てから、鷲が飛びかかるように、一つの国民にあなたを襲わせる。その話すことばがあなたにはわからない国民である。
28:50 その国民は横柄で、老人を顧みず、幼い者をあわれまず、
28:51 あなたの家畜の産むものや、地の産物を食い尽くし、ついには、あなたを根絶やしにする。彼らは、穀物も、新しいぶどう酒も、油も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も、あなたには少しも残さず、ついに、あなたを滅ぼしてしまう。
28:52 その国民は、あなたの国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲し、ついには、あなたが頼みとする高く堅固な城壁を打ち倒す。彼らが、あなたの神、【主】の与えられた国中のすべての町囲みの中にあなたを包囲するとき、
28:53 あなたは、包囲と、敵がもたらす窮乏とのために、あなたの身から生まれた者、あなたの神、【主】が与えてくださった息子や娘の肉を食べるようになる。
28:54 あなたのうちの最も優しく、上品な男が、自分の兄弟や、自分の愛する妻や、まだ残っている子どもたちに対してさえ物惜しみをし、
28:55 自分が食べている子どもの肉を、全然、だれにも分け与えようとはしないであろう。あなたのすべての町囲みのうちには、包囲と、敵がもたらした窮乏とのために、何も残されてはいないからである。
28:56 あなたがたのうちの、優しく、上品な女で、あまりにも上品で優しいために足の裏を地面につけようともしない者が、自分の愛する夫や、息子や、娘に、物惜しみをし、
28:57 自分の足の間から出た後産や、自分が産んだ子どもさえ、何もかも欠乏しているので、ひそかに、それを食べるであろう。あなたの町囲みのうちは、包囲と、敵がもたらした窮乏との中にあるからである。

この部分ののろいは、のろいの中でも、最も恐ろしいものです。なぜなら、神を非難したことに対するのろいの中で、国民的崩壊よりも大きいものはないからです。ユダヤ人は主イエス様を十字架につける時、「その人の血は、私たちや子どもたちの上にかかってもいい。」(マタイ27:25)と叫びました。

その叫びは神に覚えられ、AD70年、ローマの将軍ティトゥスの襲撃によって実現したのです。エルサレムの町は火の海となり、神殿は焼かれ、エルサレムには無数の十字架が立てられ、ユダヤ人がかけられ、さらに十字架を立てる場所がないほどだったと、歴史家のヨセフスは言っています。ヨセフスはそれを目撃していたのです。

今日、クリスチャンたちは、主がラオデキヤの教会に言われたことを、本気にしていないようです。

「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」(ヨハネの黙示録3:15,16)

のろいにつきまとう恐怖も、のろいそのものと同じように、忌まわしいものです。内には飢えと渇きと裸の恐怖、外側からは話す言葉も分からない強暴な敵の侵略がやってくるのです。これは人類が戦争でたえず味わってきた恐怖ではありませんか。

彼らは横暴で、あわれみの心を全く持っていません。彼らはわし(はげたか)が獲物に襲いかかるように、神の民に襲いかかるのです。町々は包囲され、家畜や産物は食い尽くされ、最後の頼みとしていた高く堅固な城壁さえも打ち壊されてしまい、次々と滅ぼされてしまいます。こうして窮地に押し込まれたイスラエル人は、神が与えて下さった息子や娘の肉を食べるようになるという恐ろしい事態になります。最も優しく、上品な男でさえ、自分が今食べている自分の子供の肉を自分の妻や、まだ残っている子供にすら分け与えることを惜しむほどになると言われています。母性本能さえ、そのような厳しい窮乏には耐えることができない。足の裏を地面につけようともしない、あまりにも上品な高貴な女性でさえ、自分の産んだ子供をひそかに食べて、自分の夫や弱っている子供たちに与えることを惜しむようになるのです。

現代は、親子、兄弟、友人、知り合い同士が殺し合う時代ですが、その行き着くところは、最も恐ろしい食事となるのです。聖書は人間がどこまで恐ろしいところまで行くかを記しております。これは、人間が神のみことばから離れてしまった結果です。アダムとエバの堕落の時以来、人間は互いに殺し合い、噛み食い合う恐るべき破滅の運命をたどってきたのです。そこから救い出される道は、イエス・キリストの十字架の救いしかありません。

58~68節、わざわいと、疫病とエジプトに捕囚

ここから、最後ののろいのシリーズが始まるのですが、58節で再び、「もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、主を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行なわないなら」と、15節と同じ内容の条件が繰り返さ
れています。

申 28:15 もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。

申 28:58 もし、あなたが、この光栄ある恐るべき御名、あなたの神、【主】を恐れて、この書物に書かれてあるこのみおしえのすべてのことばを守り行わないなら、
28:59 【主】は、あなたへの災害、あなたの子孫への災害を下される。大きな長く続く災害、長く続く悪性の病気である。
28:60 主は、あなたが恐れたエジプトのあらゆる病気をあなたにもたらされる。それはあなたにまといつこう。

このことは、これらののろいの悲惨な結果は、決して避けられない、必然的な運命などではなくて、主のみことばに忠実に従っていくなら、会わなくてすむ。むしろ祝福にすら変わるものであることをイスラエル人に思い起こさせようとしているものです。そののろいは主のみことばに不服従になることによってのみ、起きるものなのです。

この部分に記されているのろいは、大体において15~19節と同じで、契約の祝福を逆にしたものです。

この部分の特長は、アブラハムに与えられた最初の契約の祝福(創世記12:2)が、のろわれていることです(63節)。

創 11:2 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。

申 28:63 かつて【主】があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、【主】は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたが入って行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。

イスラエルが主のご命令に従順に服従した時には、エジプトの奴隷状態から奇跡的に救出されることによって、契約は堅く祝福が真実であることが証明されました。それとは対照的に、彼らが不服従になった時、エジプトに下されたあらゆる災いがイスラエルの上に下されるだけでなく、契約に記されていないあらゆる病気と災害がもたらされ、遂に神の民は滅亡すると警告されています(61節)

申 28:61 【主】は、このみおしえの書にしるされていない、あらゆる病気、あらゆる災害をもあなたの上に臨ませ、ついにはあなたは根絶やしにされる。

民が主に服従した時、イスラエル人がエジプト政府の圧制の下にあっても、祝福が増し加わっていったのなら(出エジプト記1:12)、神は、民の不服従によって、大繁栄の中にある民をも衰えさせ、滅亡させることができるのです(62節)。

出 1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

申 28:62 あなたがたは空の星のように多かったが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わなかったので、少人数しか残されない。

服従によって、イスラエル人は神の約束の地に入ることができたのですが、彼らの不服従は彼らをその他から引き抜いてしまわれるでしょう(63節)。

申 28:63 かつて【主】があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、【主】は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたが入って行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。

そして彼らは異教の国々の中に散らされて、再び奴隷とされて、異教の苦役のもとに苦しめられることになる。(64節)

申 28:64 【主】は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。

これはイスラエル民族がその歴史を通して何度も経験してきたことです。彼らは、異教の民に支配され、休息することができない。
「足の裏を休めることもできない」とは、過重な労働を休むことなく続けさせられることを言っています(65節)。

申 28:65 これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。【主】は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。

その肉体的疲労と、精神的恐怖とによって、心身共に弱り、衰え果てて、生きることさえおばつかなくなるのです。なぜ、こうなったのか。それは神の民が神のご命令に不服従な態度をとったからです。

このことを、今日のクリスチャンは本気で受け止めていないのではないでしょうか。今日、過労で死ぬ人、精神的に立ち直れないほど弱ってしまっている人、肉的快楽と放縦の生活に溺れてしまっている人を、まわりに沢山見る時、主のこの警告が好い加減なものでないことを知らなければなりません。

67節は、一日、生きることの苦しみを嘆いている人の嘆きです。

申 28:67 あなたは、朝には、「ああ夕方であればよいのに」と言い、夕方には、「ああ朝であればよいのに」と言う。あなたの心が恐れる恐れと、あなたの目が見る光景とのためである。

毎日、危険、疑い、恐怖にさらされて生きることの苦しみを表しています。互いに分かち合い、肋け合って生きる喜びは、どこに行ってしまったのでしょうか。主から離れ、主のみことばに逆らい、不服従になった時、その喜びは全く失われてしまったのです。その代わりに、恐怖の奴隷となってしまったのです。今日、生きることより、死ぬことを願っている人がどんなに沢山いるでしょうか。死は永遠の救いではないのに、なぜ、死を願うのか。それは恐怖と不安の中で生き続けるより、死のほうがラクだと思うからです。しかしこの計算は明確な根拠があるものではありません。キリストの救いを持たない人の死は、決してラクになるものではなく、さらに苦しい永速の苦しみに入ることになるのです。

68節、イスラエル人は出エジプトの時、「あなたはもう二度とこれを見ないだろう。」と言われていたエジプトに、奴隷商人の舟で移されることになり、彼らの先祖たちが受けていた苦しみの束縛よりも、もっとひどい束縛につながれてしまうことになると言われています。

申 28:68 私がかつて「あなたはもう二度とこれを見ないだろう」と言った道を通って、【主】は、あなたを舟で、再びエジプトに帰らせる。あなたがたは、そこで自分を男奴隷や女奴隷として、敵に身売りしようとしても、だれも買う者はいまい。

彼らは男奴隷や女奴隷よりも、もっと価値のないものとして扱われ、さらにひどい辱しめを受けることになるのです。

この章は、申命記の中心的な教えの一つ、すなわち、服従は繁栄をもたらし、不服従は滅びをもたらすことを、強調しています。イスラエルの運命は、礼拝や生活において、神に真実であり、純粋である場合は、祝福が約束されており、不服従の堕落には災害とのろいがもたらされます。

しかし新約聖書の観点から見ると、この申命記の教えは、真理の半面を語っていると思われます。なぜなら、多くの場合、主に対して真実な態度をもって忠実に従っていくと、困難や迫害に出会うことがあるからです。申命記の記者モーセも、このことを否定しないでしょう。彼も主なる神の召命に従った時、無数の苦難を受けることになったからです。

しかしイスラエル人たちに対して求められた強調点は、カナンの地に入ろうとする時、不服従は災害とのろいをもたらすということでした。そのために主はシナイの荒野を旅している間に、様々な試練を通して信仰の訓練をされたのです。

すべての苦難が信仰の訓練だとは言えませんが、そういう意味を持つ場合もあり、重要な部分を占めています。もし全宇宙が神によって創造され、人間も神によって創造されたのなら、たとえ、堕落していても、宇宙は神によって支えられ、支配されており、人間も神の創造のかたちを幾分かとどめているはずです。それ故、神のご性質を反映することが可能なはずです。

このことから、真に従順で素直な生涯は、神のみこころにかなっている生涯です。逆に不服従で不従順な生き方は、生命の性質に反する生涯であり、神から与えられた生命に反抗することになります。それは、争い、憎しみ、怒り、憤り、ネタミに至る道であり、平和と幸福と繁栄に至る道ではありません。このことはマタイの福音書6章33節で、主イエス様が語られたみことばによって明確になっています。

「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6:33)

このような状況のもとで、この申命記28章は、人間の生活における祝福と裁きののろいを教えています。

① 神の第一のみこころは、人を祝福することです。それはのろいの前に祝福が置かれていることで分かります。当時の異教の人々の契約では、違反した場合ののろいが先に記されているのとは、順序が逆になっています。
ある人々は、新約の神は愛とあわれみの神であるのに対して、旧約の神はさばきの神であるという誤った解釈をしていますが、聖書はそれとは全く反対で、旧約でも愛とあわれみの神を記しています。

「エフライムよ。わたしはどうしてあなたを引き渡すことができようか。イスラエルよ。どうしてあなたを見捨てることができようか。どうしてわたしはあなたをアデマのように引き渡すことができようか。どうしてあなたをツェボイムのようにすることができようか。わたしの心はわたしのうちで沸(わ)き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」(ホセア書21:8,9)

「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。『あなたの真実は力強い。主こそ、私の受ける分です。』と私のたましいは言う。それゆえ私は主を待ち望む。主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。主の救いを黙って待つのは良い。人が若い時に、くびきを負うのは良い。それを負わされたなら、ひとり黙ってすわっているがよい。口をちりにつけよ。もしや希望があるかもしれない。自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ。主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その愚かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。」(哀歌3:22~33)

「神が御子を世に遺わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子を信じなかったので、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:17,18)

「だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。わたしを拒み、わたしの言うことな受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」(ヨハネ12:47,48)

旧約も、新約も、同じ御声で語られています。

② 祝福への道は、従順な信仰の服従です。

③ 不服従に対する刑罰は、さばきとのろいです。

申命記はこの原理を現世の領域におけるものとして示していますが、これは永遠的領域においても適用できるものです。イエス・キリストを救い主として受け入れようとしない者たちは、永遠の審判者としてのイエス・キリストに会うことになるのです。

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。・・・御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」(ヨハネ3:18,36)

あとがき

降誕の主を讃美申し上げます。今年も読者の皆様のあついお祈りとご支援によって、乗り越えることができ、感謝申し上げます。
私は、神のみことばによるリバイバルを信じています。神のみことばを失った教会は消滅してしまうことは、歴史が証明しています。
聖書を翻訳することを禁じ、信者が聖書を読むことを禁じていたローマ教会は、霊的いのちを失い、ついに宗教改革を招いたのです。
今日、プロテスタントだとか、福音的とか言いつつも、実際に神のことばを信じて、生活に適用しているクリスチャンは極くわずかになっています。エレミヤの時代も、パウロの時代も、宗教改革の時代も、みことばのいのちの再発見と、実際的適用が、リバイバルへとつながっていったのです。今日も・・・。
(まなべあきら 1997.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)


 

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