聖書の探求(165) 申命記27章 ゲリジム山とエバル山での祝福とのろい

5章から26章のモーセの説教(契約の条項の復唱)は終わったので、次に、民が公式にその契約に応答することが求められた。

上の写真は、現在のナブルス(昔のシェケム)をはさんで立つゲリジム山(左)とエバル山(右)(Wikimedia Commonsよりהר עיבל והר גריזים .jpg)

27章~30章は、その契約批准の儀式であり、その主な特色は、
27章、契約の遵守と違反
28章、それに伴う祝福とのろいの反復
29,30章、誓いの儀式です。

普通、このような契約の儀式は、指導者の死の直前であったり、その後継者の即位の後に行なわれました。ここでは、モーセはまさに地上を去ろうとしていたし、ヨシュアによって、その後が継がれようとしていた。ヨシュアの時の儀式は、ヨシュア記8章30~35節に記されています。

ヨシ 8:30 それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、【主】のために、一つの祭壇を築いた。
8:31 それは、【主】のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、【主】に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。
8:32 その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。
8:33 全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、【主】の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、【主】のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。
8:34 それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。
8:35 モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。

モーセはこの儀式によって、自分がもはや神の民を指導できなくなる将来の時代が来る時も、民が神に服従するようにと命じたのです。

この命令は三重に与えられています。

1節、「モーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。」

モーセの死後、この命令を遂行する責任が長老に負わされています(ヨシュア記8:33)。

9節、「ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。」

さらに、長老だけでなく、祭司にも、律法を教える責任が負わされています。

11節、「その日、モーセは民に命じて言った。」

この契約を守り行なうことは、民全員の責任でした。

こうしてモーセは自分が生きている間に、長老や祭司を自分と同じように働きに立たせて訓練をしています。今日、教会でも、教会員はただ恵みを受けているだけでなく、恵みを分かち与える人に、学ぶだけでなく、教えを受けるだけでなく、教える人に、カウンセリングを受けるだけでなく、他人の悩みを聞き、導くことのできるカウンセラーの働きをすることができるように訓練を受けて、各々の働きに活用したいものです。そうすれば、教会は、よみがえってきます。教会員が全員、牧師にぶらさがっている教会は、牧師を早死にさせ、衰えていきます。

27章は、ゲリジム山とエバル山での祝福とのろいを記しています。

1~10節、戒めの遵守の命令

1~8節、律法を記した石(石灰を塗った石)をエバルに建立

申 27:1 ついでモーセとイスラエルの長老たちとは、民に命じて言った。私が、きょう、あなたがたに命じるすべての命令を守りなさい。
27:2 あなたがたが、あなたの神、【主】が与えようとしておられる地に向かってヨルダンを渡る日には、大きな石を立て、それらに石灰を塗りなさい。
27:3 あなたが渡ってから、それらの上に、このみおしえのすべてのことばを書きしるしなさい。それはあなたの父祖の神、【主】が約束されたとおり、あなたの神、【主】があなたに与えようとしておられる地、乳と蜜の流れる地にあなたが入るためである。
27:4 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。
27:5 そこに、あなたの神、【主】のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。
27:6 自然のままの石で、あなたの神、【主】の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、【主】に全焼のいけにえをささげなさい。
27:7 またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、【主】の前で喜びなさい。
27:8 それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。

9~10節、主の命令とおきての遵守の命令

申 27:9 ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、【主】の民となった。
27:10 あなたの神、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。

11~26節、のろわれるべき者

11節、民への命令

申 27:11 その日、モーセは民に命じて言った。

12~13節、祝福とのろいのための民と場所

申 27:12 あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。
27:13 また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。

祝福-ゲリジム山
. シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン
.   この祝福のグループの部族はレアとラケルの子孫が選ばれている。ただ、長子の権を失った(創世記49:4)ルベンと、レアの末の男の子ゼブルン(創世記30:19,20)
(レアには、ゼブルンの下にディナという女の子が生まれた)が、のろいのグループに加えられています。これは六部族ずつ、等しい数にするためだったと思われます。

創 49:3 ルベンよ。あなたはわが長子。わが力、わが力の初めの実。すぐれた威厳とすぐれた力のある者。
49:4 だが、水のように奔放なので、もはや、あなたは他をしのぐことがない。あなたは父の床に上り、そのとき、あなたは汚したのだ。──彼は私の寝床に上った──

創 30:19 レアがまたみごもり、ヤコブに六番目の男の子を産んだとき、
30:20 レアは言った。「神は私に良い賜物を下さった。今度こそ夫は私を尊ぶだろう。私は彼に六人の子を産んだのだから。」そしてその子をゼブルンと名づけた。
30:21 その後、レアは女の子を産み、その子をディナと名づけた。

のろい-エバル山
. ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ

またこのグループ分けには、各々の居住地の地理的要素も含まれていたと思われます。

第一の祝福のグループは、エスドラエロン平原の南に居住することになる部族であり、第二の、のろいのグループのうち、ルベンとガドはヨルダンの東側に居住し、その他のグループは北に居住する部族であったからだと思われます。

14~26節、のろわれるべき者

申 27:14 レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。
27:15 「職人の手のわざである、【主】の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。
27:16 「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:17 「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:18 「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:19 「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:20 「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:21 「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:22 「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:23 「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:24 「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:25 「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

①15節、偶像を造り、ひそかに安置する者(出エジプト記20:4)

出 20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。

②16節、父母を侮辱する者(出エジプト記20:12、申命記21:18~21)

出 20:12 あなたの父と母を敬え。あなたの神、【主】が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。

申 21:18 かたくなで、逆らう子がおり、父の言うことも、母の言うことも聞かず、父母に懲らしめられても、父母に従わないときは、
21:19 その父と母は、彼を捕らえ、町の門にいる町の長老たちのところへその子を連れて行き、
21:20 町の長老たちに、「私たちのこの息子は、かたくなで、逆らいます。私たちの言うことを聞きません。放蕩して、大酒飲みです」と言いなさい。
21:21 町の人はみな、彼を石で打ちなさい。彼は死ななければならない。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。イスラエルがみな、聞いて恐れるために。

③17節、隣人の地境を移す者(申命記19:14)

申 19:14 あなたの神、【主】があなたに与えて所有させようとしておられる地のうち、あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは、先代の人々の定めた隣人との地境を移してはならない。

④18節、盲人にまちがった道を教える者(レビ記19:14)

レビ 19:14 あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは【主】である。

⑤19節、在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者(申命記24:17)

申 24:17 在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。

⑥20節、父の妻と寝る者(レビ記18:8)

レビ 18:8 あなたの父の妻を犯してはならない。それは、あなたの父をはずかしめることである。

⑦21節、獣と寝る者(多産を願う異教の儀式、レビ記18:23)

レビ 18:23 動物と寝て、動物によって身を汚してはならない。女も動物の前に立って、これと臥してはならない。これは道ならぬことである。

⑧22節、自分の姉妹と寝る者(レビ記18:9)

レビ 18:9 あなたの姉妹は、あなたの父の娘でも、母の娘でも、あるいは、家で生まれた女でも、外で生まれた女でも、犯してはならない。

⑨23節、自分の妻の母と寝る者(レビ記18:6)

レビ 18:6 あなたがたのうち、だれも、自分の肉親の女に近づいて、これを犯してはならない。わたしは【主】である。

⑧24節、ひそかに隣人を打ち殺す者(レビ記24:17)

レビ 24:17 かりそめにも人を打ち殺す者は、必ず殺される。

⑪25節、わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者(出エジプト記23:8、申命記16:19)

出 23:8 わいろを取ってはならない。わいろは聡明な人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

申 16:19 あなたはさばきを曲げてはならない。人をかたよって見てはならない。わいろを取ってはならない。わいろは知恵のある人を盲目にし、正しい人の言い分をゆがめるからである。

⑫26節、この律法を守り行なわない者

27章の主要点は、以上のとおりです。

やがて、カナン全土がイスラエルの民の所有となる時、彼らは大きな石を建てて、これにしっくいを塗り、その表面に律法を記さなければなりませんでした。この律法は、彼らがこの地にあって幸いを得るための条件を示していました。これを正しく守ることだけが長くこの地の所有を保証していました。

さらに、十二部族を二隊に分け、六部族を祝福のためにゲリジム山に立たせ、他の六部族をのろいのためにエバル山に立たせました祝福の内容については、27章には、その記録がありません。ただし、ヨシュア記8章34節の「それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。」によって、祝福も記されていたことが推定されます。

「のろい」は詳細に記されており、しかも十二箇条もあります。その十ニは、イスラエルの十二部族に対応するものと思われます。ここで注意すべきことは、律法とのろいとが共に、同じエバル山上に見られることです。律法とのろいとは相伴うものなのです。

「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」(26節)

「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。『律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。』」(ガラテヤ3:10)

この恐るべき、のろいの目録は、総括的なのろいの言葉をもって結ばれています。ここには、一つの祝福もなく、ただ不従順に対する、ぞっとするような呵責があるだけです。義とされようとしても、律法の下にある者には望みがありません。

「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」(ローマ3:20)

古代世界では、石の上に律法を記すのは普通でした。紀元前一八世紀のバビロニヤの王ハムラビの法典は、約八千語が岩の上に彫られています。ベヒスタンの岩の上に刻まれたペルシャ法典は申命記の約三倍の長さがあります。

ここに記されている書き記す方法は、エジプトで採用されていたものです。それは石の表面に化粧のしっくいを塗り、その上に、彫るというより、むしろ黒色の顔料で書くという方法でした。

この律法はイスラエルの民がカナンの地に入り、新しい地における生活を始める時に、国民として、神とイスラエルとの契約を受け取り、守り行なうことを意味していた。この石は、そのことの証言となるものでした。この儀式は、「その上で、あなたの神、主に全焼のいけにえをささげなさい。」(6節)という命令によって、さらに堅くされています。(いけにえによって契約が堅くされた例、創世紀15:10,17、エレミヤ書34:18)

創 15:8 彼は申し上げた。「神、主よ。それが私の所有であることを、どのようにして知ることができましょうか。」
15:9 すると彼に仰せられた。「わたしのところに、三歳の雌牛と、三歳の雌やぎと、三歳の雄羊と、山鳩とそのひなを持って来なさい。」
15:10 彼はそれら全部を持って来て、それらを真っ二つに切り裂き、その半分を互いに向かい合わせにした。しかし、鳥は切り裂かなかった。
15:11 猛禽がその死体の上に降りて来たので、アブラムはそれらを追い払った。
15:12 日が沈みかかったころ、深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。
15:13 そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、四百年の間、苦しめられよう。
15:14 しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。
15:15 あなた自身は、平安のうちに、あなたの先祖のもとに行き、長寿を全うして葬られよう。
15:16 そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る。それはエモリ人の咎が、そのときまでに満ちることはないからである。」
15:17 さて、日は沈み、暗やみになったとき、そのとき、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、あの切り裂かれたものの間を通り過ぎた。

エレ 34:18 また、わたしの前で結んだ契約のことばを守らず、わたしの契約を破った者たちを、二つに断ち切られた子牛の間を通った者のようにする。

4~7節、その石の祭壇は、エバル山に立てられ、鉄の道具の当てられていない、自然のままの石で築かれなければならなかった。

申 27:4 あなたがたがヨルダンを渡ったなら、私が、きょう、あなたがたに命じるこれらの石をエバル山に立て、それに石灰を塗らなければならない。
27:5 そこに、あなたの神、【主】のために祭壇、石の祭壇を築きなさい。それに鉄の道具を当ててはならない。
27:6 自然のままの石で、あなたの神、【主】の祭壇を築かなければならない。その上で、あなたの神、【主】に全焼のいけにえをささげなさい。
27:7 またそこで和解のいけにえをささげて、それを食べ、あなたの神、【主】の前で喜びなさい。
27:8 それらの石の上に、このみおしえのことばすべてをはっきりと書きしるしなさい。

「自然のまま」と訳されているヘブル語は、「シェレモート」で、シャローム(平和)と同じ語根から出ている言葉です。

こうして契約を結ぶ時、民は主に全焼のいけにえをささげ、また和解のいけにえをささげて、それを食べた。全焼のいけにえは、全き献身を表わし、和解のいけにえは、神との交わりを象徴しています。こうして、神の民となる者は主の前で喜びを経験するのです。

ここで、エバル山に祭壇を築くように命じたことは、12章1~14節の、「ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。」(12:5)と矛盾するのではないか、という議論が出るかも知れませんが、出エジプト記20章24節では、「わたしのために土の祭壇を造り、その上で、羊と牛をあなたの全焼のいけにえとし、和解のいけにえとしてささげなければならない。わたしの名を覚えさせるすべての所で、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福しよう。」と言っています。つまり、イスラエルは将来、中央の神殿で礼拝するようになることを予期しているけれども、また一方では、主が認められた所なら、どこにおいてでも、それが真の神を礼拝するのであるなら、許されることを示唆しているのです。

「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。・・・しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネの福音書4:21,23,24)

9,10節、イスラエルの民は、まだカナンの地に入っていないし、まだこれらの命令に従う機会もなかったのですが、「きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。」と言われています。

申 27:9 ついで、モーセとレビ人の祭司たちとは、すべてのイスラエル人に告げて言った。静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、【主】の民となった。
27:10 あなたの神、【主】の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。

これは国民としてのイスラエルに対して言われているのですが、今日、私たち個人にとっても、同じことが言えます。私たちが救われて、神の約束の子どもとなるのは、主のご命令に従ったからではなく、主イエス・キリストの身代わりの十字架を信じたからです(ヨハネ1:12、ペテロ第一 2:24)。

ヨハ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

Ⅰペテ 2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

主のみことばに従って、実行できるようになるのは、神の子どもとなった後のことです。主の民となったなら、将来、みことばに従うようになるのではなくて、今日からみことばに従う生活を始めてください。そうすれば、主との契約が豊かな実を結んでくることを経験するようになります。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24~27)

「みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1:23~25)

11~13節、祝福とのろい

申 27:11 その日、モーセは民に命じて言った。
27:12 あなたがたがヨルダンを渡ったとき、次の者たちは民を祝福するために、ゲリジム山に立たなければならない。シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフ、ベニヤミン。
27:13 また次の者たちはのろいのために、エバル山に立たなければならない。ルベン、ガド、アシェル、ゼブルン、ダン、ナフタリ。

この部分は、イスラエルが約束の地に入った後の生活における祝福とのろいの契約を結ぶ儀式です。その内容は、28章で扱っています。とにかく、主との契約には、祝福と刑罰の二つの面があることを明確にしています。

14~26節、のろわれるべき者

申 27:14 レビ人はイスラエルのすべての人々に大声で宣言しなさい。
27:15 「職人の手のわざである、【主】の忌みきらわれる彫像や鋳像を造り、これをひそかに安置する者はのろわれる。」民はみな、答えて、アーメンと言いなさい。
27:16 「自分の父や母を侮辱する者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:17 「隣人の地境を移す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:18 「盲人にまちがった道を教える者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:19 「在留異国人、みなしご、やもめの権利を侵す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:20 「父の妻と寝る者は、自分の父の恥をさらすのであるから、のろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:21 「どんな獣とも寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:22 「父の娘であれ、母の娘であれ、自分の姉妹と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:23 「自分の妻の母と寝る者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:24 「ひそかに隣人を打ち殺す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。
27:25 「わいろを受け取り、人を打ち殺して罪のない者の血を流す者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

この部分は、先の11~13節の祝福とのろいの儀式とは別のものと思われます。なぜなら、ここでは、モーセではなく、レビ人がイスラエルのすべての人々に大声で宣言しているからです(14節)。

そして「民はみな、アーメンと言いなさい。」と、命じられています。そして、この儀式は全体が、のろいだけで成り立っています。

マタイの福音書27章25節の、「すると、民衆はみな答えて言った。『その人の血は私たちや子供たちの上にかかってもいい。』」と言った宣言は、民族的なものとして紀元七〇年、ローマの将軍ティトースによって、エルサレムの住民の上に、のろいの刑罰として下ったのです。

この箇所でのろわれている、すべての悪行は、いろいろな所で扱われています。十戒からは、第二戒、第五戒、第六戒が引用されており、残りのものは、正直や純潔の侵害を扱っています。

一戒、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
二戒 偶像礼拝の禁止
三戒 あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。
四戒 安息日の遵守
五戒 父と母を敬え
六戒 殺してはならない
七戒 姦淫してはならない
八戒 盗んではならない
九戒 隣人に対して偽りの証言をしてはならない
十戒 あなたの隣人のものを、欲しがってはならない。

これらの邪悪な事柄の中で、15節と24節に「ひそかに」と記されていることが目立ちます。それは罪を秘密に隠しておこうという魂胆がうかがえます。ひそかなる罪が増えてくると、それは社会の公然とした罪になり人間の正義感を全く破壊してしまいます。これがすでに表面化しているのが、今日の社会ではないでしょうか。これはもはや神をおそれなくなってしまっていることの証拠です。

「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。」(箴言28:13)

外面においても、内面においても、全知の神に知られていない私の部分は、何一つないのです(詩篇139篇)。

詩 139:1 【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。
139:2 あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。
・・・・・

26節、ここで全会衆は、律法全体を遵守(じゅんしゅ)することを、のろいをもって誓いました。

申 27:26 「このみおしえのことばを守ろうとせず、これを実行しない者はのろわれる。」民はみな、アーメンと言いなさい。

この、のろいによる誓いは、ネヘミヤの時にも繰り返されています(ネヘミヤ10:29)。

ネヘ 10:28 このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、
10:29 彼らの親類のすぐれた人々にたより、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、【主】のすべての命令、その定めとおきてを守り行うための、のろいと誓いとに加わった。

それはパウロによって引用されています(ガラテヤ3:10)。

ガラ 3:10 というのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

しかしイエス・キリストは、こののろいを私の代わりにご自分で背負って下さり、私に真の自由を与えてくださったのです。

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖(あがな)い出してくださいました。なぜなら、『木にかけられる者はすべてのろわれたものである』と書いてあるからです。」 (ガラテヤ3:13)

あとがき

日本からキリストの福音が消える日が来るのではないかと、私は恐れています。「そんなことはあり得ない。」と、皆さんはおっしゃるかも知れません。私もそうあってほしいと思います。しかしローマ教会が神のみことばを無視して忘れてしまった時、キリストの福音は世界中で風前の灯となってしまったのです。その小さくなってしまった灯を燃えたたせたのが宗教改革でしたが、それもやがて洗礼や聖餐の方法の儀式論争に終始するようになり、武力闘争へと堕落していったのです。
現代の日本の教会には、キリストの福音が赤々と燃え立っているとは、とても思えません。にぎやかにイベントは行なわれ、世界会議のような議論は百出していますが、ひとり一人のクリスチャンの心の中と生活の中では、イエス様のみことばは生きて働いているでしょうか。教会の中はキリストのいのちで満ちあふれているでしょうか。あなたの教会がそのような教会なら、本当に感謝です。キリストの福音の火は絶対に消してはならないのです。

(まなべあきら 1997.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

 


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発行人 まなべ あきら
発行所 地の塩港南キリスト教会文書伝道部
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