聖書の探求(167) 申命記29章 モアブでの契約、歴史に基く祝福、契約の祝福と懲罰の勧告

29節の内容

この29章からモーセは新しい説教を始めており、それは30章まで続いています。

29章、契約の導入(捕囚の預言28節)
30章、条件的祝福(回復の預言「再び」という言葉に注目)

モーセは、ホレブで結んだ契約をここで民に更新することを求めています。そして、神の民イスラエルが民族的に堕落し、懲罰を受けることの預言と、最後には、神の恵みによって、悔い改めと罪の赦しの道が開かれることを預言しています。それ故、29~30章の主題は、契約の誓いを民が厳粛に守り行なうことであり、これを明確にするために、契約の中心的なことが簡潔に繰り返されています。おそらくモーセは申命記の終わりに近づくに当たって、契約の全体を総括しておこうと考えたのでしょう。それで、

29:1~9は、1:6~4:49の歴史的部分に対応し、
29:16~29は、28章全体の祝福と懲罰の規定に対応し、
30:1~14は、5章~26章の契約の条項に対応し、
30:15~20は、それまでには述べられていない部分で、民に誓いをうながし、契約の保証を示しています。

申命記全体が強い勧告の調子を持っているように、この章も単なる法的契約ではなくて、契約を公的に勧告し、宣言している要素が含まれています。

1節、モアブの地での契約であること
2~9節、歴史に基づいた勧告(エジプト脱出の事件から二部族半の産業の分配まで)
10~15節、契約を結ぶ人たち
16~29節、契約の祝福と懲罰の勧告

1節、モアブの地での契約であること

申29:1 これは、モアブの地で、【主】がモーセに命じて、イスラエル人と結ばせた契約のことばである。ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。

「モアブの地」(1:5)は、エモリ人の王に占領されていたが、以前はモアブ人の領地だったので、「モアブの地」と呼ばれていた。

この契約は、「ホレブで彼らと結ばれた契約とは別である。」と区別されています。

この「契約」という言葉は、申命記中、二七回出てくる重要なテーマですが、それらはすべて、条件付の契約として使われています。すなわち、両方の当事者、この場合、主と民の間で結ばれ、民が条件を果たす時、この契約が確立することを示しています。

ホレブでの契約では、主の恵みによって、イスラエルを主ご自身の宝の民とされ、イスラエルは主を自分たちの神としたのです(出エジプト記19:5,6,8)。

出 19:5 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
19:6 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」
19:7 モーセは行って、民の長老たちを呼び寄せ、【主】が命じられたこれらのことばをみな、彼らの前に述べた。
19:8 すると民はみな口をそろえて答えた。「私たちは【主】が仰せられたことを、みな行います。」それでモーセは民のことばを【主】に持って帰った。

さらに主は彼らに契約の十戒(出エジプト記34:28)と「定めやおきて」を与えられました。

出 34:28 モーセはそこに、四十日四十夜、【主】とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、彼は石の板に契約のことば、十のことばを書きしるした。

イスラエルの民がそれを守ると主に約束をしたのは、すでにこれらの契約が与えられていたからです。このようにして、律法が与えられる前に、すでに契約が与えられていたのです。

「先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。(ガラテヤ3:17)

しかしホレブで結ばれた最初の契約は、すぐにイスラエルの民によって破られてしまいました。そこでモーセは自分の生涯の終わりに臨んで、真の福音的精神を持って、もう一度、契約を結び直して、神の民として再出発するように勧告しているのです。この勧告が律法ののろいで終わっていないということは、イスラエル人の目の前に、神の約束の地が備えられていることによっても明らかです。主は、律法ののろいのもとに滅ぼそうとする民の前に、約束の地を備えたりするでしょうか。

それ故、主が、「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたもおらせるためです。(ヨハネ14:2,3)と約束された言葉を思い出しましょう。律法ののろいで滅ぼす者のために、主は場所を備えたりするでしょうか。

「神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。」(ヘブル11:16)

ですから、私たちも、死に至るまで主を愛し、主に信頼し、主に忠実に従って歩ませていただきましょう。失敗が多くても、たとい誘惑に負けて罪に陥ることがあっても、「私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)

後に、預言者エレミヤは、新しい契約について預言しています。

「見よ。その日が来る。-主の御告げ-。その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。-主の御告げ-。彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。-主の御告げ-。わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ書31:31~33)

「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」(ルカ22:20)

2~9節、歴史に基づいた勧告

モーセはイスラエルの民の信仰を呼び覚ますために、かつて主から受けた三つの祝福を思い出させています。

第一は、エジプトの奴隷状態からの解放(2,3節)

申 29:2 モーセは、イスラエルのすべてを呼び寄せて言った。あなたがたは、エジプトの地で、パロと、そのすべての家臣たちと、その全土とに対して、【主】があなたがたの目の前でなさった事を、ことごとく見た。
29:3 あなたが、自分の目で見たあの大きな試み、それは大きなしるしと不思議であった。

第二は、シナイの荒野での、すべての必要な物の奇跡的な供給(5,6節)

申 29:5 私は、四十年の間、あなたがたに荒野を行かせたが、あなたがたが身に着けている着物はすり切れず、その足のくつもすり切れなかった。
29:6 あなたがたはパンも食べず、また、ぶどう酒も強い酒も飲まなかった。それは、「わたしが、あなたがたの神、【主】である」と、あなたがたが知るためであった。

第三は、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグに対する勝利(7,8節、2:30~3:1)

申 29:7 あなたがたが、この所に来たとき、ヘシュボンの王シホンとバシャンの王オグが出て来て、私たちを迎えて戦ったが、私たちは彼らを打ち破った。
29:8 私たちは、彼らの国を取り、これを相続地としてルベン人と、ガド人と、マナセ人の半部族とに、分け与えた。

そして彼らはその時、シホンとオグの地を占領し、ルベン人とガド人とマナセの半部族に分け与えていたのです。

このような主の超自然的みわざを経験していたにもかかわらず、イスラエル人は主に全く信頼して従おうとはしなかったのです。

4節でモーセは「しかし、主は今日に至るまで、あなたがたに、悟る心と、見る目と、聞く耳を、下さらなかった。」と言っています。

これは、イスラエル人の霊的鈍さが主によるものであると言っているように見えますが、これは旧約聖書の中でしばしば使われている様式で、これはすべてのことの究極的根源が主にあることを言う言いまわしであって、その責任が各々、各個人にあることに変わりはありません。

9節を見れば、各々が栄えるためには、各々の責任において、契約のことばを守り、行なうことが必要であることが分かります。

申 29:9 あなたがたは、この契約のことばを守り、行いなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。

こうしてシナイの荒野での訓練は、イスラエルの民が、主との契約を守り行なうかどうかを試すためであり、これによって恵みとまことに満ちた主を知るためであったのです。

10~15節、契約を結ぶ人たち

10節、「あなたがたはみな」。

申 29:10 きょう、あなたがたはみな、あなたがたの神、【主】の前に立っている。すなわち、あなたがたの部族のかしらたち、長老たち、つかさたち、イスラエルのすべての人々、

恵みの契約は、部族のかしらたちや、長老たちや、つかさたちだけでなく、小さい子供たち、妻たち、在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者、しもべにいたるまで含まれていました(11,12節)。

申 29:11 あなたがたの子どもたち、妻たち、宿営のうちにいる在留異国人、たきぎを割る者から水を汲む者に至るまで。
29:12 あなたが、あなたの神、【主】の契約と、あなたの神、【主】が、きょう、あなたと結ばれるのろいの誓いとに、入るためである。

申 29:13 さきに主が、あなたに約束されたように、またあなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたように、きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。
29:14 しかし、私は、ただあなたがたとだけ、この契約とのろいの誓いとを結ぶのではない。

それだけでなく、「きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。」(15節)

申 29:15 きょう、ここで、私たちの神、【主】の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

すなわち、まだ生まれていない子孫たちをも含まれていたのです。

「わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。」(ヨハネ17:20)

「神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。、すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。・・・しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。」(使徒2:17,18,21)

これは、キリストの救いが、目の前の限定された人々だけでなく、人種を越え、時代を越えて、普遍的であることを示しています。それ故に、私たちは子孫たちにも、キリストの福音を純粋な状態でバトンタッチしていかなければならない責任と使命を持っているのです。

22節、「きょう、あなたを立ててご自分の民とし、またご自身があなたの神となられるためである。」

主は恵みとあわれみによって、先ずイスラエルの民をご自分の民として下さいました。この恵みに応えて、今度は、民が主を彼らの神として愛して従っていくことが必要なのです。こうして主と神の民との交わりが始まるのです。このことは、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約においても明らかにされていました。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」(ヨハネ15:16)

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」(ヨハネ第一 4:10,11)

イスラエルの民が先祖のアブラハムやイサク、ヤコブの信仰の契約を継承したように、私たちも健全な信仰の契約を受け継ぎ、そして互いに愛し合い、喜びも、悲しみも、苦しみも互いに分かち合うことができるようになり、さらに、この恵みを後の子孫にも継承していくことができるのです。

16~29節、契約の祝福と懲罰の勧告

この契約は、先祖たちに示された祝福の約束を受けるためだけでなく、ここでは、不服従になって恐るべき懲罰を受けないためにも、守り行なわなければならなかった。

ここでのおもな問題点は、彼らが長い間、住んでいたエジプトや、通過してきた旅の途中で見てきた異邦人たちの偶像礼拝が、イスラエルの民の中に持ち込まれるようになることでした。

申 29:16 事実、あなたがたは、私たちがエジプトの地に住んでいたこと、また、私たちが異邦の民の中を通って来たことを知っている。
29:17 また、あなたがたは、彼らのところにある忌むべきもの、木や石や銀や金の偶像を見た。

「万が一にも、あなたがたのうちに、きょう、その心が私たちの神、主を離れて、これらの異邦の民の神々に行って、仕えるような、男や女、氏族や部族があってはならない。あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。」(18節)

この部分は、ニ重の警告で始まっており、16節と18節の初めのところに、「気をつけなさい。」という言葉が、補われなければなりません。

主を礼拝することは、その幕屋が象徴しているように、外見は獣の皮でおおわれて見映えはないけれども、至聖所は主の栄光で満ちていたように、外観は華々しく飾り立てていないので、人々の目には魅力的に見えないけれども、内的経験は主の栄光と、喜びに満ちたものです。しかし、偶像礼拝は外見がいかにも魅力的で、快楽に満ちているように見えますから、ここに誘惑されて落ちていくのです。しかしその結果は、いかに苦々しく、悲惨なものとなることでしょうか。

ヘブル12章15節の「苦い根が芽を出して悩ましたり」は、申命記29章18節の七十人訳のアレキサンドリア版を暗示しているように思われます。

19節、このような、のろいの誓われた契約を聞いても、これを深く心に留めない者がいます。

申 29:19 こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある」と心の中で自分を祝福する者があるなら、

「潤ったものも、渇いたものも滅ぼし尽くされるのなら」というのは、全ての人が滅びるという一般的な破滅を示すことわざです。これは、だれも破滅を回避することは不可能だということを意味しているようです。だから、「私は自分のかたくなな心に従って歩いても大丈夫だろう。」と心の中で自分を祝福する者が出てくるのです。

偶像礼拝者は、自分が主に逆らっていることを知っており、のろいの契約も知っているのに、罪を犯しても、主の特別な刑罰はない。みんな同じなんだと考えているのです。主を信じている者も、信じていない者も、みんな同じように死ぬのだ。同じなんだと思っているのです。

申 29:20 【主】はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、【主】の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、【主】は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。
29:21 【主】は、このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろいの誓いにしたがい、その者をイスラエルの全部族からより分けて、わざわいを下される。

21節の 「このみおしえの書にしるされている契約のすべてののろい」は、ただの警告ではなく、神のみことばを侮(あなど)る者の上に確実に下される主の審判のあかしとして記録されているのです。

「もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮(あなど)る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。」(ヘブル10:26~29)

18~21節では、不真実な個人の、特に偶像礼拝の行為が、神の民全体に及ぼす影響が付随的に述べられていました。

しかし、22~29節では、不真実な一人の人が、神の民全体に伝染する源となるとみなされており、それまでの警告から、主の激しい怒りが下ることが預言として語られています。語られる調子が変わってきているのが分かります。

この主の怒りがどんなに激しいものであるか、そのわざわいがどんなに恐ろしいものであるかは、ソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイム(これらは平野の都市で、偶像礼拝を行なっていた町々です)の破滅が、主の審判の実例として挙げられています。それは徹底したものであり、全土が硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなってしまっています。

申 29:22 後の世代、あなたがたの後に起こるあなたがたの子孫や、遠くの地から来る外国人は、この地の災害と【主】がこの地に起こされた病気を見て、言うであろう。
29:23 ──その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、【主】が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである──
29:24 すべての国々は言おう。「なぜ、【主】はこの地に、このようなことをしたのか。この激しい燃える怒りは、なぜなのだ。」

この預言は、イスラエルの歴史の中で実現してしまいました。イスラエルの偶像礼拝の故に、アッシリヤとバビロンに捕囚されてしまい、イスラエル全土は廃墟と化し、民は奴隷としてアッシリヤとバビロンに連れて行かれてしまったのです。そして、後の世代のイスラエルの子孫も、外国からの来訪者たちも、主の恐ろしい審判を受けたイスラエルを見て、

「それは彼らの父祖の神、主が彼らをエジプトの地から連れ出して、彼らと結ばれた契約を、彼らが捨て、彼らの知らぬ、また彼らに当てたのでもない、ほかの神々に行って仕え、それを拝んだからである。」(25,26節)

こうして異教徒たちですら、イスラエルがこの悲惨な目に会った理由を正確に理解するようになるのです。異教の人々の目には、イスラエル人が自分たちの神を捨てたために、自分たち(異教の人々)の神々にイスラエル人が縛られたように感じたのでしょう。不信仰になったイスラエル人は、異教の人ですら、しないような不真実な態度を取ったのです。

申 29:27 それで、【主】の怒りは、この地に向かって燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいが、この地にもたらされた。
29:28 【主】は、怒りと、憤激と、激怒とをもって、彼らをこの地から根こぎにし、ほかの地に投げ捨てた。今日あるとおりに。」

28節は、神の約束の地からの追放とアッシリヤとバビロン捕囚を預言しています。しかしそのことはまだ、イスラエル人には隠されていました。

申 29:29 隠されていることは、私たちの神、【主】のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

将来の隠されていることは、神のみこころの中だけにあるのです。神の民がしなければならないことは、今、現わされていること、今、教えられていること、今、知っている主の「このみおしえのすべてのことばを行なうことです。」これは、「永遠に、私たちと私たちの子孫のもので」す。

現代の私たちクリスチャンも、主のみことばを信じて受け入れ、みことばを活用し、行なう生活をしていくことが求められています。それが祝福の条件なのです。

「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」(マタイ7:24~27)

「また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはなりません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。」(ヤコブ1:22~25)

あとがき

「信仰の戦いを勇敢に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。」(Ⅰテモテ 6:12)
信仰の戦いを覚えなくなっている時、この世と調子を合わせる生活になってしまっていないでしょうか。本当に主を喜ぶことができずに、また互いに重荷や痛みを分ち合うことが家庭でも、教会でもできないと、主よりもこの世の楽しみを好んで求めるようになっていきます。
教会で同じようにお弁当を食べていても、互いに主の愛を分ち合い、霊的交わりをすることもできるし、ただ、互いにおかずの評価で終わってしまうこともあるのです。なぜこの違いが生じるのか。それは各々が内に持っている信仰の性質によるのです。
私たちが塩けを失えば、何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。

(まなべあきら 1998.2.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】を引用。)

上のエッチング画は、1747年頃に、イギリスのCharles Mosleyによって描かれた「Moses speaks to his people in the land of the Moab, in the fortieth year of Exodus.(出エジプトの40年後に、モーゼはモアブの土地でイスラエルの民に話す。)」(Wellcome Collection(https://wellcomecollection.org/)より)


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