聖書の探求(248,249) 士師記16章 ガザにおけるサムソン、サムソンとデリラ、致命的弱点、サムソンの最後
オランダの画家 Matthias Stom (c.1600 – after 1652) による「Samson and Delilah(サムソンとデリラ)」(Galleria Nazionale d’Arte Antica蔵、Wikimedia Commonsより)
16章は、サムソンの生涯の最後の章であり、サムソンの致命的弱点を示しています。
士師の歴史は、サムソンの死とともに、16章をもって終わっています。それ故、17~21章までは、付録として記されています。
16章の分解
1~3節、ガザにおけるサムソン
4~22節、サムソンとデリラ(サムソンの致命的弱点)
23~27節、辱しめを受けるサムソン
28~31節、サムソンの最期(生涯の終わりを信仰で全うする大切さ)
この章での注目点は、「サムソンを倒す試み」です。これは、サタンが毎日、私たち信仰者をねらっている注目点でもあります。
5節、ペリシテ人の領主たちは、デリラに、
「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか」(サムソンの強い力の源をみつけよ)
「どうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。」(サムソンを苦しめて、勝つ方法を見つけよ)
この二点に注目しています。
もし、デリラがこの二つの点を見つけ出すか、サムソンから聞き出すなら、ペリシテ人の領主たちは、ひとり一人がデリラに銀千百枚を報酬として与えると約束しています。この金額は、デリラが一生かかっても得られない大金です。デリラはこの話を聞くと、自分にも大金持ちになるチャンスが回って来たと思ったでしょう。デリラにとって、男をだますことは、難しいことではなかったでしょう。
デリラの誘惑は四回行なわれています。
一回目、6~9節
デリラの誘惑: 強い力はどこにあるのか。縛って苦しめることができる方法
サムソンの対応: まだ干されていない七本の新しい弓の弦で縛る
その結果: 麻くずの糸が火に触れて切れるように弓の弦を断ち切った。
二回目、10~12節
デリラの誘惑: 私をだましてうそをつきました。どうしたら縛れるのか。
サムソンの対応: 仕事に使ったことのない新しい綱でしっかり縛る。
その結果: 綱を糸のように腕から切り落とした。
三回目、13~14節
デリラの誘惑: 二回目と同じ
サムソンの対応: 機(はた)の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み、機のおさで突き刺しておけば、
その結果: 機おさと機の縦糸を引き抜いた。
四回目、15~20節
デリラの誘惑: あなたの心は私を離れている。どうして「おまえを愛する。」と言えるのか。三回もだました。強い力がどこにあるのか、毎日しきりにせがみ、責め立てた。自分のひざの上でサムソンを眠らせた。
サムソンの対応: 彼は死ぬほどつらかった。自分の心をみな彼女に明かした。頭には、かみそりを当てられたことがない。母の胎内にいるときからナジル人だからだ。私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。
その結果: 髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。主が自分から去られたことを知らなかった(創世記28:16、出エジプト記33:15)。
21節、ペリシテ人は、
・ 彼をつかまえて、
・ その目をえぐり出し、
・ ガザに引き立てて行って、
・ 青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。
・ サムソンは牢の中で臼をひいていた。
1~3節、ガザにおけるサムソン
1節、ガザは、ペリシテ人のおもな五つの町のうち、最も南に位置しています。
士 16:1 サムソンは、ガザへ行ったとき、そこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところに入った。
サムソンは、ガザでひとりの遊女(この時の遊女はデリラと別人であった可能性があります。)を見つけて、彼女の所に入っています。彼は以前のティムナの妻の時より、もっと危険な中に入って行っています。この女は敵のペリシテ人であるばかりでなく、男を手玉に取ってだましてきた遊女でした。
2節、サムソンがガザに来たことは、すぐにガザの町中に知らされ、サムソンが遊女の所にいる間中、サムソンを取り囲んでいたのでしょう。
士 16:2 このとき、「サムソンがここにやって来た」と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。そして、「明け方まで待ち、彼を殺そう」と言いながら、一晩中、鳴りをひそめていた。
ガザは門のある町でしたから、サムソンがその門を通って出て行く時に彼を殺すために、ガザの人々は一晩中、町の門で待ち伏せしていたのです。
サムソンは、遊女の所に入れば、必ずガザの人々がこのようにして彼の命をねらうことが分かっていたと思います。しかし彼は、自分は怪力があることで安心していたのです。
しかし、そのような考えと行動は、神の力の乱用と無謀です。たとい大丈夫であることが分かっていても、信仰を乱用したり、無謀であってはなりません。その時は大丈夫であっても、敢えてそれをすると、神が離れ去られたり、敵のワナにはめられる危険があります。「私には神の恵みがあり、主がお守りくださるから」、あるいは「福音のためだから」と言って、サムソンに似たようなことをする人を見かけます。それはこの世のワナに入って行くことになるのです。一、二度、大丈夫だったとしても、それを続けると、必ず主が離れてしまわれるか、敵の仕掛けた落し穴に陥るのです。
3節、真夜中に起きたサムソンは、町の門のとびらがついたまま、二本の門柱をつかみ、かんぬきごと引き抜いて、ガザからヘブロンに面する山の頂へ運んで行きました。
士 16:3 しかしサムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。
その距離はおよそ32kmはあったと思われます。その重さは、通常、力があると思われる大男でも、とても持てる重さではありません。しかしこの怪力の自信がサムソンの命取りとなったのです。主はすべての人に何らかの賜物を与えておられます。それを霊的に健全に使うなら、豊かな恵みをもたらします。サムソンの場合、神の民の敵ペリシテを打ち負かすために向けられていますが、それは主ご自身のご計画であって、サムソン自身は自信過剰に陥り、主の栄光を現わすために、主から与えられた力を用いているようには見えません。
サムソンに与えられていた力は、肉体的なものだけで、霊的な聖潔の力ではありませんでした。
士師記の中で、主の霊を受けた人すべてが、霊的にすぐれた善良な人ではありませんでした。またサウル王のように、神よりも、家来の声に従い、自分の知恵に頼り、高慢になり、滅んだ人もいます。また主はイスラエルの偶像礼拝を罰するために、異教の民アッシリヤやバビロンの王と軍隊を、ご自分の道具として用いられたのです。ヨナのような片寄った愛国心と自分中心な人を預言者として用いたこともありました。
サムソンの場合、神が離れられ、神の力が失われたことさえ気づかず、彼の最後の行動は自殺に近い行動だったのです。今も、自分に与えられた賜物や才能を誇る人がいますが、この危険に気づいて、先ず霊的恵みを求めていただき、その霊的恵みの中で、主の栄光を現わすために、へりくだってその才能や力を用いていただきたいものです。
4~22節、サムソンとデリラ(サムソンの致命的弱点)
①4~9節、七本の新しい弓の弦で縛られる
士 16:4 その後、サムソンはソレクの谷にいるひとりの女を愛した。彼女の名はデリラといった。
4節、「その後」は、1節の遊女とデリラが別人であることを暗示しているように思われます。また一部に「遊女」とありますので、デリラも遊女であったと思う人もいますが、デリラが遊女であったかどうかは定かではありません。ただ、「デリラ」という言葉は、アラビア語で「妖婦」とか、「誘惑する女」という意味があるとの説があり、アッカド語では「イシュタルの賛美、威光」という偶像と関わる意味を持っており、他にも「贅沢好み」という意味があるという説もあります。どの意味を採用しても、デリラには良い意味が見つかりません。
またある人は「デリラはペリシテ人と思われる」と言い、他の人は「彼女はペリシテ人とは述べられていない。」と言っています。後者の論拠は、「デリラ」の名前のもう一つの意味によっているのです。ユダヤ教では「デリラ」という名は、ヘブル語の「ダーラル(弱くする)」という動詞から作られたもので、デリラはその名の通りに、サムソンを弱くしたと言う説によっています。デリラはヘブル系の名前をつけているので、ペリシテ人ではないのではないか、という思惑が働いているのです。
「ソレクの谷」のヘブル語の意味は、「選りすぐったぶどうの木のある、水の枯れた谷」です。それは多分、今の「サラルの枯れた谷」であると思われます。そこには、優れたぶどうが実り(民数記13:23、エシュコルの谷のぶどう)、ぶどう酒が作られていました。サムソンがデリラの家に行ったのはそのためであったかも知れません。もしそうなら、彼はナジル人に禁じられていた「ぶどう酒や、強い酒も飲んではならない。」(士師記13:14)に違反していたことになります。
5節、ペリシテ人の領主たちは、サムソンがデリラの所に来たことを聞きつけると、すぐにデリラを尋ねて、彼女に非常に魅力的な申し入れをしました。
士 16:5 すると、ペリシテ人の領主たちが彼女のところに来て、彼女に言った。「サムソンをくどいて、彼の強い力がどこにあるのか、またどうしたら私たちが彼に勝ち、彼を縛り上げて苦しめることができるかを見つけなさい。私たちはひとりひとり、あなたに銀千百枚をあげよう。」
それは、サムソンの強い力の秘密がどこにあるのか、そしてどうすれば彼を縛り上げて、苦しめることができるのか、サムソンをくどいて聞き出すか、見つけ出してくれるなら、ペリシテ人の領主たち一人一人がデリラに銀千百枚を与えるという約束でした。ペリシテ人の領主は五人(サムエル記第一 6:4)でしたから、デリラが受け取る銀は五千五百枚になります。その額は彼女が一生働いても手にすることができない金額でした。彼女には二度と来ることのない、魅力的なチャンスに思えたでしょう。彼女の心が引かれないはずがありません。デリラはすぐに承諾して、サムソンに対して、恋人を装って、サムソンからその力の秘密を聞き出そうと始めました。
士 16:6 そこで、デリラはサムソンに言った。「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうすればあなたを縛って苦しめることができるのでしょう。どうか私に教えてください。」
デリラが突然、彼の力の秘密を聞き出そうと始めた時、サムソンはデリラのすることに疑問を抱いたはずです。しかしサムソンはズルズルとデリラの魅惑に引きずられて、口を切っています。彼の答えた内容は、秘密からかけ離れていますが、誘惑に引きずられて答えていることは、非常に危険なことをしているのです。それを繰り返すことによって、少しずつ秘密に近づいていくことをサタンは知っているのです。そしてついに信仰者を奈落の底に陥れることができることを知っているのです。
エバも、エデンの園でサタンの問いかけに対して曖昧な返事を繰り返していて、ついに主の命令を破り、堕落してしまったのです。
誘惑に会ったら、どうすべきでしょうか。「本当のことを言っていないんだから、いいんだ。」と言って、誘惑に答えていてはいけないのです。サムソンで言えば、直ちにデリラのもとを立ち去るべきだったのです。そうすれば、主の命令を十分に果たし、主の栄光を現わすことができたのです。
7節、サムソンは「まだ干されていない七本の新しい弓の弦(つる)で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」と答えています。
士 16:7 サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない七本の新しい弓の弦で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」
「まだ干されていない七本の新しい弓の弦」は、「まだ干されていない七本の緑の小枝」と訳することもできます。これは、弓と言っても、飛び道具の弓ではなくて、天幕をくいに固定するために使われていた縄のことだと思われます。この縄は生木の枝の皮をよって作られていたのです。ですから、干されていない生木の皮で作られた縄が強いのです。この強い縄でサムソンを縛るなら、彼は普通の人くらいの力になると、言ったのです。
この知らせを聞いたペリシテ人の領主たちは、すぐに干されていない七本の新しい縄を作ってデリラの所に持ってきたので、デリラはサムソンが眠っている間に縛ったのでしょう。
士 16:8 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干されていない七本の新しい弓の弦を彼女のところに持って来たので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。
16:9 彼女は、奥の部屋に待ち伏せしている者をおいていた。そこで彼女は、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言った。しかし、サムソンはちょうど麻くずの糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力のもとは知られなかった。
デリラは奥の部屋にペリシテ人を待ち伏せさせておいて、サムソンに「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」と言っています。しかし本当に襲ったのはペリシテ人だけでなく、デリラ自身だったのですが、デリラは自分の仕わざは隠して、偽っていたのです。しかしサムソンはデリラの仕わざに気づいていたはずですが、自分の力を信じていたので問題にしなかったのです。しかし小さいことを侮る者は、小さいことの故に滅びるのです。
サムソンは、その強い縄を麻のくず糸が火に触れて燃え落ちるように、断ち切ってしまったのです。サムソンの力の秘密は知られることはなかったのですが、危険へ一歩、近づいてしまったのです。
②10~12節、新しい綱で縛られる
士 16:10 デリラはサムソンに言った。「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度は、どうしたらあなたを縛れるか、教えてください。」
10節、デリラは恋人を装って、「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。」と言って、サムソンを責めたのです。本当にだましていたのは銀に目がくらんでいたデリラ自身だったのに、デリラは良心が焼き金で焼かれていたので、平気で、サムソンが自分をだまし、うそをついていると、責めたのです。
これに対して、サムソンは、またも拒否せず、答えてしまっています。
11節、「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」
士 16:11 すると、サムソンは彼女に言った。「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」
この時も、サムソンを縛ったのはデリラ自身です。そして前回と同じように、奥の部屋にペリシテ人を待ち伏せさせています。今回も、サムソンはデリラのしていることを全部知っていたと思われます。しかし彼は、その綱を糸のように腕から切り落としたのです。
士 16:12 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛り、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言った。奥の部屋には待ち伏せしている者がいた。しかし、サムソンはその綱を糸のように腕から切り落とした。
力のある人、才能のある人は、「自分はだまされない。自分は負けない。自分は大丈夫。」という自分を自負する自信があります。これが危険なのです。「これは危ないな」と危険を感じて、すぐに避けて遠ざかることが必要なのです。サムソンがそうしなかったのは、もう一つの理由として、デリラの女としての誘惑にひっかかっていたからでしょう。この点で、サムソンは、すでに敗北していたのです。
③13~14、機(はた)に、サムソンの髪の毛を織り込む
士 16:13 デリラはまた、サムソンに言った。「今まで、あなたは私をだまして、うそをつきました。どうしたらあなたを縛れるか、私に教えてください。」サムソンは彼女に言った。「もしあなたが機の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み、機のおさで突き刺しておけば、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」
13節、これで三回目になるのですが、デリラには、先の優しい声色はなくなり、憤慨して、怒鳴り散らして、「今まで、あなたは私をだまして、うそをつきました。どうしたらあなたを縛れるか、私に教えてください。」と、つっけんどんに言っています。本当に怒らなければならないのは、サムソンなのに。
サムソンの答えは、「もしあなたが機(はた)の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み」と言って、中断されています。サムソンは、この文章を最後まで言わなかったのです。旧約聖書のギリシャ語の七十人訳聖書は、その後を付け加えて、「くぎで壁に打ち込みなさい。そうすれば、並みの人のように私は弱くなろう。」と記しています。
14節、デリラはおそらく、サムソンを自分のひざの上にのせて深く眠らせ、長く伸びていたサムソンの七ふさの髪の毛を機の縦糸といっしょに織り込み、それを木製の機のおさをくぎ代わりにして織物に突き刺したのです。サムソンの髪の毛は織機の一部となってしまったのです。
士 16:14 彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。
こうしておいた上で、デリラはサムソンを呼び起こしました。「サムソン。ペリシテ人があなたを襲って来ます。」サムソンは目覚めると、機のおさのくぎと、機の縦糸とを引き抜いてしまったのです。
ここでサムソンが彼の髪の毛のことを言い、髪の毛を機に織り込ませたことは、ナジル人として髪を切ってはならないという、彼の力の秘密に大きく近づいています。彼の心に大きなスキができ、重大な危険を犯しつつあったのです。こうして誘惑に答え続けていると、必ず、重大な危険に急接近してしまうのです。力ある戦士のサムソンは、ペリシテの兵士には勝っても、裏切り者の女のなまめかしい哀願に倒れてしまったのです。
④15~17節、サムソンの愚かな告白
デリラは偽りの甘い言葉を並べて、サムソンの愚かな心を攻め立てたのです。頑強に見える心や信念も、甘い泣き言に崩され、毎日続く小言に打ち砕かれてしまうことが多いのです。
ですから信仰の大盾を取り、主によって守られていなければなりません。主が私とともにいる時だけ、だれも私に敵対することができないのです(ローマ8:31)。「雨垂れ(雨滴)石をうがつ。」です。これが信仰によって用いられれば、良い実を結びますが、肉の欲のために用いると滅びをもたらします。
「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」(ルカ18:7)
主を愛して、信仰を持って、主を呼び求め続ける人には、主は必ず、みわざを行なってくださいます。主のみ手を動かすことができるのです。
しかしデリラは自分の肉の欲のために執拗に小言を使って、自分中心の頑固さに迫り、打ち砕いてしまったのです。デリラは強いサムソンの弱い点をよく知っていました。それは彼の好む女性に向かう欲求です。デリラはサムソンの強さの秘訣は分かりませんでしたが、彼の弱い点はよく知っておりました。そこを手玉にとって、サムソンを陥れたのです。
デリラは、「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する。』と言えるでしょう。」(15節)と、サムソンの弱さに命中する言葉を使って迫っています。
士 16:15 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
「あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」
デリラはサムソンの肉的欲望をつかんでいたので、「本当に、私を愛して、私を求めているのなら、あなたの強さの秘密を教えてください。」と迫ったのです。デリラには自信があったのです。サムソンは自分の魅力の手の中にあることを知っていたのです。
16節を見ると、そのことが明らかになっています。
士 16:16 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。
「こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼(の魂)は死ぬほどつらかった。」
サムソンは、自分の力を女に費やしてしまったのです。
「あなたの力を女に費やすな。」(箴言31:3)
17節、「それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。」
士 16:17 それで、ついにサムソンは、自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから、神へのナジル人だからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」
デリラのひっきりなしの攻めによって、サムソンの神経は疲れ果ててしまい、ついに彼の力の秘密を明かしてしまったのです。彼は一つの重大なことをしなかったのです。それはデリラから完全に離れてしまうことでした。デリラとともにいながら、デリラの誘惑の攻めから解放されることはありません。
私たちは、自分の力の秘密である内なるキリストをあかしすることは、幸いなことです。
「私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。」(コリント第二 4:7)
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
これについて、ペテロは次のように言っています。
「むしろ、心の中でキリストを主とあがめなさい。そして、あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでもいつでも弁明できる用意をしていなさい。」(ペテロ第一 3:15)
サムソンは人の力をはるかに超えた巨大な力を持っている人でしたが、両親の忠告も聞き入れず、ペリシテ人の娘をめとったり、遊女の所に入ったり、明らかに不真実な女デリラの所にとどまり続けている愚かな頑なな心をも持ち合わせている人でした。そして彼の愚かな欲が、主が彼に与えられた力を失わせてしまったのです。ここには聖霊によって潔められていないクリスチャンの危険を示しています。
⑤18~22節、売られたサムソン
士 16:18 デリラは、サムソンが自分の心をみな明かしたことがわかったので、人をやって、ペリシテ人の領主たちを呼んで言った。「今度は上って来てください。サムソンは彼の心をみな私に明かしました。」ペリシテ人の領主たちは、彼女のところに上って来た。そのとき、彼らはその手に銀を持って上って来た。
デリラはサムソンから超人的力の秘密を聞き出した時、今度は本当だと直感したのです。彼女は大金が入ることに胸を踊らせて、ペリシテ人の領主たちを呼び寄せたのです。「彼らはその手に銀を持って上って来た。」とありますから、デリラの言葉から、今度は本当だと思ったのです。
19節、デリラは自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、サムソンの七ふさの髪の毛をそり落とさせています。主がナジル人として禁じておられたことを、敵の手で破らせてしまったのです。
士 16:19 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、ひとりの人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。
イギリスのイラストレーター Harold Copping (1863 – 1932)による「Delilah illustration from Women of the Bible(デリラ、聖書の中の女性たちより)」(Wikimedia Commonsより)
こうして神から与えられた力は、サムソンから去ってしまったのです。サムソンは神から与えられていた力を、自分の持ち前の力だと錯覚していたのでしょう。だから、その力が本当に失われるものであることに警戒しなかったのです。
私たちは霊の真理を知識として知っていることと、体験として知ることとは、全く別のことだと十分に認識しなければなりません。罪がいのちと力を奪う、恐るべきものであることは、罪を犯して後に知るのです。人が滅びについて、それほど恐れていないのは、罪の自覚がないからです。罪の自覚を持つ時、「罪の支払う報酬が死である。」(ローマ6:23)という恐ろしい事実を悟るのです。
20節、デリラは、いつものセリフ「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます。」を使って、サムソンを目覚めさせています。
士 16:20 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は【主】が自分から去られたことを知らなかった。
サムソンは「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう。」と、自信たっぷりに言っています。ヘブル語聖書では、「出て行って、ひと叫びしてやろう。」と訳することができます。しかし聖書は、その次に悲しい言葉を記しています。「彼は主が自分から去られたことを知らなかった。」と。主の戒めを破り、罪を犯すと、主が去って行ってしまわれることを、現実のこととして分かっていなかったのです。
今日でも、高慢になり、罪を犯しても、それまでと何ら変わっていないと思っている人がいます。しかし主はその人を去ってしまわれ、自分でどんなに努力しても、主はその人を用いなくなってしまわれるのです。「主が去られる。」それが滅亡の最大の原因なのです。
エゼキエル書9~11章には、イスラエルの偶像礼拝と堕落の故に、神の栄光がエルサレムの神殿から去っていく姿が描かれています。これがエルサレム滅亡の最大の原因なのです。私たちの内に住まわれる主が去っていかれるなら、私たちは滅びる者となってしまうのです。なぜなら、私たちは内に聖霊を宿す神の宮だからです(コリント第一 3:16~17、同6:19,20)。
21節、ペリシテ人はサムソンを捕えて、彼の両眼をえぐり出し、ガザに連れて行って、青銅の足かせをかけて、牢の中で臼をひかせました。
士 16:21 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて、その目をえぐり出し、彼をガザに引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。
ユダヤ人のイラストレーター Ephraim Moses Lilien (1874–1925) による「Simson in Gefängnis(牢獄の中のサムソン)」(Wikimedia Commonsより)
ペリシテ人は、神のナジル人であった、力ある勝利者に最大の屈辱を与えたのです。
サムソンはイスラエル人をペリシテ人の圧迫から解放するために召された人でしたが、彼は自らの霊魂を守ることを怠り、肉の欲の誘惑を弄(もてあそ)び、頑固にそれから離れなかったために、自らペリシテ人の手にかかって滅びることになったのです。もし彼が、信仰深い両親の忠告を受け入れて、神の民の娘を妻としていれば、こういうことにはならなかったでしょう。信仰ある人の忠告を受け入れる人は幸いなのです。信仰ある人の忠告を拒み、自分の考えや欲を押し通す人は、愚かで、自ら滅びの道を選んでいくのです。
22節、「サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。」
士 16:22 しかし、サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。
この言葉は実に、暗示深い言葉です。だれでも、この言葉を読むと、サムソンの力は再び回復し始めていたのか、という思いを抱くでしょう。それは30節で、ペリシテ人の宮の二本の中柱を引き倒したことによって証明されています。
主はサムソンをあわれまれたのか、あるいはペリシテを懲らしめるためだったのか、サムソンに再び力を与えられています。どちらであったにせよ、主に背いた人がもう一度、主のあわれみを受けるチャンスが与えられたことを示しています。三度、主を否定したペテロにも、主は「あなたはわたしを愛しますか。」と問われて、回復のチャンスを与えられたのです。主を裏切ったイスカリオテのユダにも、「友よ。何のために来たのですか。」(マタイ26:50)と言われて、回復するチャンスを与えられたのですが、ユダは主を拒み続けて滅んだのです。罪を犯したら、すぐに悔い改めて、主の十字架の贖いを信じなければなりません。
「・・・・ もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。」(ヨハネ第一 2:1)
23~27節、辱しめを受けるサムソン
士 16:23 さて、ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」
23節、「ペリシテ人の領主たちは、自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、」
ペリシテ人の敵サムソンを自分たちの手で捕えたので、ペリシテの神ダゴンをほめたたえ、サムソンを戯れさせて見世物にして嘲笑って楽しもうと集まって来たのです。
「ダゴン」はヘブル語では、「小さい魚」を意味します。ダゴンは、元々、BC25世紀の初め頃、メソポタミヤで穀物を支配する神として礼拝されていました。それが士師記の時代にはペリシテ人の間に持ち込まれ、メソポタミヤと違って、ペリシテ人の領地は地中海に面していたので、ダゴンの像の頭と腕と上半身は、人の形をしており(サムエル記第一 5:4)、下半身は魚の尾ひれの形をしていました。ペリシテ人はこのダゴンを、フェニキヤ地方の偶像のバアルの父であると信じて、ペリシテの国の守護神としていました。
士 16:24 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡してくださった。」
24節、こうしてみると、偶像がいかに根拠のないものであるかが分かりますが、主の民が罪を犯し、主から離れると、異教の人々に主をさげすむ機会を与え、偶像をほめたたえさせてしまうのです。
25節、この、いけにえをささげる儀式は、ペリシテ人にとって、勝利の祭りでした。集まったのはペリシテ人の領主だけでなく、27節を見ると、約三千人の男女が集まっており、盛大でした。
士16:27 宮は、男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。
彼らはおそらく、ぶどう酒か酒を飲み、心が陽気になり、この祭りの見世物に、両眼がくじり取られたサムソンを牢から呼び出して、ダゴンの神殿の中庭で踊らせたのです。
士 16:25 彼らは、心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い。私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、
ここで、「戯れた」と訳されているヘブル語は、出エジプト記32章6節でも使われています。これはモーセがシナイ山に登って、主とお会いしている間に、シナイ山のふもとでイスラエル人が金の子牛の偶像を作って、それをほめたたえ、金の子牛の前で飲み食いし、狂気じみて踊って騒いでいた様子を言っています。
サムソンが戯れた後、集まった群集がよく見えるようにサムソンを、ダゴンの神殿を支えている二本の柱の間に立たせました。群集は、次にどんなショーが始まるのか、サムソンを見ていたのです。ダゴンの宮は、このショーを見る人々であふれていたのです。屋上はその観覧席になっていたのです。
士 16:26 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」
26節、サムソンの手は、彼が暴れ出さないように若者によって堅く握られていました。サムソンはこの若者に、「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」と頼んでいます。サムソンは、力を出して踊って疲れたので、柱にもたれて休ませてもらいたいという雰囲気で頼んだのでしょう。
28~31節、サムソンの最期(生涯の終わりを信仰で全うする大切さ)
ここまで来てしまったサムソンが、自分の最期をいかにして迎えるかは、非常に難しいものがあります。またサムソンがとった最後の選択をどう評価するかも、非常に難しいことです。これは人間が評価しないことが、最もよいと思います。それよりも、このような事態に至らないような信仰の選択をすることのほうが大切です。
サムソンの最後の選択は、ペリシテ人に対する最後の復讐をすることでした。
士 16:28 サムソンは【主】に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めてください。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」
28節の「私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」は、ヘブル語では「二つの目のうち一つのためでも、ペリシテ人に復讐したいのです。」と読むこともできます。
そのためには、神からの新しい力に満たされる必要があることを、サムソンは覚えて、「神(ヤ―ウェ)、主よ。」「ああ、神よ。」と熱心に主に呼ばわっています。彼がもっと早く、この熱心な信仰の祈りを主にささげていれば、どんなによかったことでしょうか。しかしなお、この祈りには、「主の御名と栄光のために」という言葉はなく、むしろ自分が受けた屈辱のための復讐心が見られます。
主はサムソンに再び超人的な力を与えられました。それはサムソンの叫びに答えられてなのか、それともサムソンの祈りには関係なく、ペリシテ人に刑罰を加えられるためであったのか、聖書はこの点について沈黙を守っていますから、私たちはこれ以上、詮索してはなりません。
士 16:29 そして、サムソンは、宮をささえている二本の中柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。
16:30 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力をこめて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。
30節、サムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう。」と言って、力を込めて、二本の中柱を引いています。これは通常の自殺ではないにしても、自分の愚かな肉の欲に従ったことが招いた結果です。
パウロは、
「自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取」る(ガラテヤ6:8)
と警告しています。
フランス人の画家 Gustave Doré (1832–1883)による「Samson in Dagon Temple(ダゴンの宮でのサムソン)」(Wikimedia Commonsより)
聖書が、「サムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。」と記していることは、サムソンの功績をたたえているのでもなく、また慰めを与えて、幾分かでも痛みや悲しみを軽減させようとしているのでもありません。ただ、その結果を記しているにすぎません。この言葉によって、サムソンが両親の忠告を振り切り、肉欲に従ってペリシテの女性を選んでいき、主の戒めを破ったことを、幾分かでも肯定的にさせることはできません。彼は主の恵みの外に出てしまい、勇士のようではありましたが、望みのない戦いを一人で戦い、死んでいったのです。
31節、サムソンの身内の者や父の家族の者たちは、サムソンの無慚な死を聞きつけて、彼の死体を引き取りに来たのですが、どんなに悲しく、無念だったことでしょうか。
士 16:31 そこで、彼の身内の者や父の家族の者たちがみな下って来て、彼を引き取り、ツォルアとエシュタオルとの間にある父マノアの墓に彼を運んで行って葬った。サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。
この時、サムソンの死体を彼の父マノアの墓に葬ったことが記されています。このことは、サムソンがペリシテの地で死んだ時、彼の父はすでに死んでいたことを表わしていますが、彼の母は生存していたかも知れません。もし彼の母が生きていれば、どんなに悲しんだことでしょうか。
「サムソンは二十年間、イスラエルをさばいた。」は、サムソンの記録がここで終了することを示しています。
サムソンの生涯は、才能や力があっても、それだけで主の働きをするのは危険であることを示しています。主が私たちとともにいて、私たちが主に忠実に従い、主が私たちの味方であってくださる時にだけ、だれも私たちに敵対できる者はありません。
「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)
「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。」(詩篇117:6,7)
あとがき
旧約聖書には、戒めや規定が沢山記されています。それらは主なる神に近づく道を予表しています。それとともに、人がそれを守ろうとしても(形の上では守っていても)、霊的実質においては、守る力がないことを悟らせて、イエス・キリストの救いの恵みに導くためのものです。それ故、これを「旧約」と呼んだのです。
新約に至って、私たちはイエス様の十字架の贖いと、みことばの約束と聖霊の内住(これらを真理と呼ぶことができますが)によって、罪の支配からも、律法に縛られることからも、解放されて、自由を経験しているのです。
互いに赦し合うことも、自分と同じように隣人を愛することにおいても、水を得た魚の如く、美しく生きるのです。
今年は、台風、大地震と大災害が続き、その上、寒さが早いように思われます。厳しい一年でした。
こういう時、私たちは何を土台にして生きていけばいいのかを再認識させられます。生活の安定も大切ですが、心が不安と恐れで揺れ動いているなら、生きる希望も失ってしまいます。状況は厳しくても、心がしっかり主に根をおろしているなら、必ず、恵みと力を受けることができます。
「だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。」(マタイ7:24,25)
(まなべあきら 2004.12.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)
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