聖書の探求(284) サムエル記第一 14章1~15節、ペリシテの先陣との戦い、ヨナタンの信仰と勇気ある行為

1896年発刊の「The art Bible, comprising the Old and new Testaments : with numerous illustrations」のイラストの一枚「And Jonathan Climbing up upon his hands and upon his feet ・・・・」(Princeton Theological Seminary Library蔵、Wikimedia Commonsより)

この章は、ヨナタンの先行的勝利とサウルの不当な要求を記しています。

14章の分解

1~15節、ヨナタンの信仰と勇気ある行為
16~23節、サウルの出陣とイスラエル人の追撃
24~30節、サウルの無理な命令(戦いが終わるまで食事を禁じた)
31~35節、民は血のまま肉を食べ、主に罪を犯した
36~44節、サウルがヨナタンに死を求める
45~46節、民はヨナタンを弁護する
47~48節、サウルの連続的勝利とサウルの敵のリスト
49~52節、サウルの家族とサウルの一生の概括

1~15節、ヨナタンの信仰と勇気ある行為

《ヨナタンの信仰と勇気》

1、父サウルの援護を求めず、先頭を切ったこと(1節)
2、人数によらず、主に信頼した(6節、ローマ8:31)
3、敵の前に自分の身を現わす積極的な勇気(8節)
4、信仰的慎重さ(9,10節)
5、迅速な判断(11,12節)
6、大勝利の発端となる小さな勝利を獲得(13~15節)

1節、「ある日のこと」とは、ペリシテ人がジリジリと攻め始めていたのですが、まだにらみ合いの状況がしばらくの間続いていたことを示しています。

Ⅰサム14:1 ある日のこと、サウルの子ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、この向こう側のペリシテ人の先陣のところへ渡って行こう。」ヨナタンは、このことを父に知らせなかった。

その時、サウルの子ヨナタンは先手を打って出ることを決断したのです。待っていれば踏み潰されるだけであることは明白でした。そこで彼は自分の計画を父のサウルにも、だれにも知らせずに、自分の武器を持つ道具持ちの若者だけを連れて、サウルの陣から約5Km先にあるペリシテの陣に、谷を渡って行ったのです。こういう時は勇気のある少数の者が行くほうが敵に目立ちにくいし、また足手まといになる不信仰な者もいないので、勝利につながりやすいのです。

2節、再度、サウルとともにいた民は、「約六百人であった」と記されています。

Ⅰサム 14:2 サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。彼とともにいた民は、約六百人であった。

彼はなす術もなく失意のうちにとどまっていたのです。「サウルはギブアのはずれの、ミグロンにある、ざくろの木の下にとどまっていた。」と、非常に詳細にサウルの居所を記しています。ミグロンは「険しい所」という意味で、ミクマスの南西1.5Km、エルサレムの北12.3Kmにある、現在のテル・ミルヤムと考える人もいますが、確定はできません。しかしサウルの居所をこれほど詳しく記すことが出来た人は、当時の出来事を目撃していた人以外にいません。

3節、残っていた六百人のサウルの軍隊の中に、エリのひ孫(エリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子である)アヒヤが大祭司が身に着けるエポデを持っていたことが記されています。

Ⅰサム 14:3 シロで主の祭司であったエリの子ピネハスの子イ・カボデの兄弟アヒトブの子であるアヒヤが、エポデを持っていた。民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。

ここでアヒヤのことを記しているのは、14章18節のことが後にあったからだと思われます。

Ⅰサム 14:18 サウルはアヒヤに言った。「神の箱を持って来なさい。」神の箱は、その日、イスラエル人の間にあったからである。

このアヒヤは22章9~20節でサウルの命令によって殺された「アヒトブの子アヒメレク」と同一人物であったと考える人もいます。アヒヤも「アヒトブの子」と呼ばれているからです。

六百人の「民はヨナタンが出て行ったことを知らなかった。」とは、イスラエルはすでに戦意がなかったことを示しています。ヨナタンはサウルとともに自分たちの司令官なのに、その司令官がいなくなっていることに、だれも気づかないとは、もはや六百人の心が不安と恐怖に震えおののいていたことを表わしています。

4,5節、ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行った渡し場の地形を記しています。

Ⅰサム 14:4 ヨナタンがペリシテ人の先陣に渡って行こうとする渡し場の両側には、こちら側にも、向かい側にも、切り立った岩があり、片側の名はボツェツ、他の側の名はセネであった。 14:5 片側の切り立った岩はミクマスに面して北側に、他の側の切り立った岩はゲバに面して南側にそそり立っていた。

これを記したのは、そこが際立った地形だったからです。そこには両側に向かい合って切り立った岩があり、ミクマスに面した北側をボツェツ(おそらく「輝く」という意味)、ゲバに面している南側をセネ(「茨のやぶ」という意味)と呼ばれていました。ヨナタンはこの両側から鋭く突き出た岩の間を進んで、ペリシテ人の先陣に近づいて行ったのです。ですから、敵に気づかれなかったのです。それからずっと後、第一次世界大戦中、アレンビー将軍は、この岩の間に一個大隊を送り込み、トルコの守備隊を急襲し、捕虜にしています。戦いにおいて、地形をよく知って、その特徴を活かすことは、非常に重要だったのです。

6節、「あの割礼を受けていない者ども」とはペリシテ人のことです。

Ⅰサム 14:6 ヨナタンは、道具持ちの若者に言った。「さあ、あの割礼を受けていない者どもの先陣のところへ渡って行こう。たぶん、主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」

ペリシテ人は西のカフトル(クレテ島)から地中海を渡って来た民族で、セム系の民族が行なっていた割礼を受けていませんでした。このヨナタンの言葉は、神の民ではなく、神に敵対する民という意味で、軽蔑の言葉です。

「主がわれわれに味方してくださるであろう。」これは、詩篇118篇6,7節の「主は私の味方。私は恐れない。人は、私に何ができよう。主は、私を助けてくださる私の味方。私は、私を憎む者をものともしない。」という信仰と同じです。パウロもこれと同じ信仰を持って奉仕しておられました。

「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

主はご自分に忠実な者のために、ともに働き、ともに戦ってくださる神なのです。

「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」(マルコ16:20)

「また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)

ヨナタンの勝利の秘訣は、彼のこの信仰にあったのです。主はヨシュアにも同じ約束をしておられます。

「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア記1:5)

サウル王の敗北は、自分の考えと自分の熱心さ、自分の力に頼って戦ったからです。主がともに働いて下さるなら、どんな弱い、力のない人でも、またわずかな人数でも、豊かな勝利を与えて下さいます。

私たちは、どんな証しの仕方をすれば、家族や友人はイエス様の救いを受けるようになるのかとか、どうすれば目の前の困難な山を乗り越えられるのかと、方法や手段のことに考えを向けやすいのですが、それは自己中心で、神をないがしろにする高慢です。サウルと同じことをしようとしているのです。

私たちに勝利を与えて下さるのは、方法や手段ではなく、主ご自身なのです。ですから、いつも主とともにいる生活をすること、これ以外に勝利を得る秘訣はありません。

私たちのすべきことは、ただ一つです。いつも主とともにいることだけです。このことに信仰の心を用いさせていただきましょう。ヨナタンはこの信仰の奥義を心得ていて、活用したのです。

モーセはイスラエル人を連れてエジプトを立ち去る時、目に見えない神を、あたかも目に見えているかのように信仰でとらえて、神に従って進んだのです。

「信仰によって、彼は、王の怒りを恐れないで、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見るようにして、忍び通したからです。」(ヘブル11:27)

この世の力とサタンに対して、私たちの知恵と力で立ち向かっても勝ち目はありません。しかし、信仰によって見えない神を見えるかのようにとらえて、主とともに歩み、働くなら、勝ち目がないと思われていた戦いに勝利を得るのです。

「大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」兵士の数が多いと勝つと考えるのは、人の考えです。人数が多い方を強者と考え、少ない方を弱者と考えるのが人の常です。

しかし主がイスラエルをご自分の民とされたのは、彼らの人数が多かったからではありません。数はどの民よりも最も少なかったのです。それなのに主がイスラエルを選ばれたのは、主が愛されたからです。アブラハムたちと結ばれた契約を守られたからです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地の面のすべての国々の民のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたがたを恋い慕って、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」(申命記7:6~8)

人は大勢の人がいる所を好みますが、主はむしろ、わずかな忠実な信仰者たちを愛されています。

「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(マタイ18:20)

「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見い出す者はまれです。」(マタイ7:13,14)

人が大勢集まる方に加わる人は、しばしば道を誤ってしまうのです。主は人数ではなく、主と心を一つにする人に御力を現わしてくださるのです。

「主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。」(歴代誌第二 16:9)

「主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」主は、私たちの側の人数や功績によってお救いくださるのではありません。私たちの側の条件は、信仰と忠実な服従だけです。この条件を守り行なっていけば、神にとって制限や妨害になるものは何一つないのです。

ですから、私たちがどんなに弱くても、ただ一人であっても、不信仰にならず、主を信じて、忠実に日々の生活を乗り越えさせていただきましょう。そうすれば、主は必ず、勝利を与えてくださいます。

7節の道具持ちの若者の言葉を聞いてください。

Ⅰサム 14:7 すると道具持ちが言った。「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」

「何でも、あなたのお心のままにしてください。さあ、お進みください。私もいっしょにまいります。お心のままに。」この言葉以上に、主人に対する全き献身と信頼を表わしている言葉はないでしょう。

私たちも主イエス様に対して、このような素直で従順な全き献身と信頼の態度と生活をさせていただきましょう。何かあると、自己主張を繰り返す人からは恵みが失われていくのです。

8~10節、ヨナタンは、自分たちが敵の前に身を現わした時、敵の口から出る言葉によって主のみこころを確信しようとしています。

Ⅰサム 14:8 ヨナタンは言った。「今われわれは、あの者どものところに渡って行って、彼らの前に身を現すのだ。 14:9 もしも彼らが、『おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ』と言ったら、われわれはその場に立ちとどまり、彼らのところに上って行くまい。 14:10 もし彼らが、『おれたちのところに上って来い』と言えば、われわれは上って行こう。主が彼らを、われわれの手に渡されたのだから。これがわれわれへのしるしである。」

通常、敵の前に突然、姿を現わした時、挑戦を受けた方が「おれたちのところに上って来い。」とは言わないものです。「とどまれ。おれたちがおまえらのところに行くまで、じっとしていろ。」と言う場合がほとんどです。ヨナタンはペリシテ人の先陣の者が、どちらの言葉を言うかによって、主の導きを確信することにしたのです。すなわち、主が敵にどのような言葉を語らせるかによって、主のみこころを知ることができるとしたのです。

反対者の言葉を聞かなければならない時は、その反論のことばかりを考えて、反対者の言葉を聞くことに不注意になってはいけません。反対者の言葉を集中して、注意深く聞きましょう。その言葉の中に反対者の運命が表わされていたり、主の導きやみこころが表わされていることが多いからです。このことをしないと、ただの水掛論の言い争いに終わってしまいます。

11節、ヨナタンと若者がペリシテ人の前に身を現わした時、ペリシテ人は「やあ、ヘブル人が隠れていた穴から出て来るぞ。」と言っています。

Ⅰサム 14:11 こうして、このふたりはペリシテ人の先陣に身を現した。するとペリシテ人が言った。「やあ、ヘブル人が、隠れていた穴から出て来るぞ。」

彼らはヨナタンたちをサウル王のもとから脱走して穴に隠れていた兵士だと思ったのです。

12節、そしてペリシテ人の先陣の者たちは、ヨナタンに呼びかけて、「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」と自信たっぷりに言ったのです。

Ⅰサム 14:12 先陣の者たちは、ヨナタンと道具持ちとに呼びかけて言った。「おれたちのところに上って来い。思い知らせてやる。」ヨナタンは、道具持ちに言った。「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」

ヨナタンはこの言葉で主のみこころを確信したのです。ヨナタンは道具持ちの若者に、「私について上って来なさい。主がイスラエルの手に彼らを渡されたのだ。」と言っています。

13節、ヨナタンと若者は、高慢になり、油断しているペリシテの兵の所に急いで登って行って、不意討ちにペリシテの兵を倒しています。

Ⅰサム 14:13 ヨナタンは手足を使ってよじのぼり、道具持ちもあとに続いた。ペリシテ人はヨナタンの前に倒れ、道具持ちがそのあとから彼らを打ち殺した。

14節、二人が最初に倒したペリシテ兵は約二十人です。

Ⅰサム 14:14 ヨナタンと道具持ちが最初に殺したのは約二十人で、それも一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行われた。

これは、あっという間の出来事で、すぐにペリシテの守備隊を圧倒してしまいました。14節後半は、ヨナタンが戦った場所の広さを示しています。それは「一くびきの牛が一日で耕す畑のおおよそ半分の場所で行なわれた。」実に狭い範囲で行なわれたのです。ですから、六百人全員の兵士より、二人のほうが戦いやすかったのです。この部分のヘブル語本文は、非常に難解で、訳本はその意味を伝えているのです。しかしヨナタンと若者だけの二人の、しかも狭い場所での戦いの中に、主の導きと摂理が見られます。私たちも、見えない神を見るように信仰でとらえて、毎日の働きをさせていただきましょう。

15節、ヨナタンたちが勇敢な挑戦を行なった時、ペリシテの陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こるほどの激しい地震が起きました。

Ⅰサム 14:15 こうして陣営にも、野外にも、また民全体のうちにも恐れが起こった。先陣の者、略奪隊さえ恐れおののいた。地は震え、非常な恐れとなった。

「非常な恐れとなった。」は、文字通りでは「神からのおののきと恐れとなった。」です。ヘブル語では、この地震はただの普通の自然現象の地震ではなく、神が、敵を恐れさせるために起こされた地震であることを明らかにしています。その恐れは、一般民衆を襲っただけでなく、先陣の者、略奪隊(侵略者)たち、すなわち、よく訓練され、鍛えられていた兵士たちさえも、恐れおののかせています。

イスラエルとペリシテ人の対峙の状況は、ヨナタンたちにとって最悪の状態でしたが、主なる神は、状況よりも偉大な神だったのです。その神はヨナタンの信仰のことば、「主がわれわれに味方してくださるであろう。大人数によるのであっても、小人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。」(6節)に答えてくださったのです。

ここで私たちが学ぶべきことは、

1、失望させられる状況の中でも(4,5節)
2、信仰をますます増強させ(6節)
3、勇敢な信仰の仲間とともに(7節)
4、明確な神の導きを確信し(8~12節)
5、大勝利が与えられるのです(13,14節)。

あとがき

イエス様は、「…わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ15:7)と言われました。
「私は自分で納得するものしか信じません。」と言う人がいますが、もしそうなら、その人はイエス様を信じているのではなくして、自分の知恵で納得している自分を信じているのです。それは聖書が言う信仰ではありません。
イエス様の真理には私たちの知性では納得も理解もできないものがあります。しかし、私たちは自分の心の中で主のみことばを信じて、従うことができます。こうすることによってのみ、人知を越えた神の愛を知るのです。

(まなべあきら 2007.11.1)
(聖書箇所は【新改訳改訂第3版】より)


「聖書の探求」の目次